星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産 ②

https://slib.net/2343  【星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産】より

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 開府当時の仙台の城下町は、六芒星で囲まれた範囲でした。城下町は伊達家の家臣と町人商人などの住む居住区です。それらの人々を霊的攻撃から守るために六芒星の結界を張りました(図1)。その六芒星の外周を囲むと亀甲(寿)となってそれも結界としてみることもできます。ただこれだけだと本丸が鬼門から守れません(鬼門範囲がズレる)。そのため表向きには、定禅寺を筆頭に鬼門封じの寺社を建てました。(図2)

 当時の人たちはお家の存亡に関わる事に関して「深謀遠慮」という考え方で、幾重にも守りを固める手段をとっていました。六芒星の三角形の角度60度は、鬼門方位の丑寅の角度と同じです。ですからもう一つの鬼門封じの手段として、六芒星を傾け鬼門ポイントに頂点を合わせたのです(図3)。これで六芒星は城下町に住む人々を守り、さらに本丸の城主も守れるという二重防衛ができたのです。さらに、伊達家の永遠の繁栄を願うためにもう一つの呪術を施す事にしました。それが四神です。

 四方位に禽獣の神様がいることで、その中心はあらゆる役害から守られ、永遠の繁栄を招くと考えられていました(図4)。天空の星宿図に習って角度をあわせたことによって、四神であることを隠す事ができた、つまり隠す目的もあって星宿図の角度を採用したのです。

 このように、幾重にも呪術を施したので外部に知られることなく守られてきたわけですが、他にもまだ呪術を重ねようとした形跡があります。

・陰陽道 五芒星と六芒星

 陰陽道は安倍の晴明が有名になり、晴明桔梗紋として五芒星が知られています。晴明の先生である賀茂忠行と息子賀茂保憲の時に、陰陽道の天文道を晴明に、暦道を子の賀茂光栄にと二派に分けられました。賀茂の神様は「賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)」で元伊勢に祭られています。その神社の名は「籠神社(このじんじゃ)」で「籠」は「かご」です。

 世の中には身近なところに星型がけっこう潜んでいます。「カゴメトマトジュース」のマーク、函館の五稜郭は、五芒星と六芒星のミックスで、1ドル札にもよ?く見ればあります。それから、童謡「かごめかごめ」。

かごめ かごめ 

かごの中の鳥は 

いついつ 出やる

夜明けの晩に 

鶴と亀がすべった

うしろの正面 だれ

かごめ→籠目→六芒星→仙台城下…

 陰陽道の「陰」と「陽」は、数字では「偶数」「奇数」になります。「1・2」「3・4」「5・6」という風に奇数と偶数のペアがあり、五芒星と六芒星もペアです。ですから、賀茂保憲(かもやすのり)から二派に分かれた時に光栄は「陰・六芒星」、晴明は「陽・五芒星」になっているはずです。晴明の五芒星は五行の相剋図から来ています。

相剋-そうこく

相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。

木剋土-もっこくど

木は土から養分を吸い上げるので土に勝つ

土剋水-どこくすい

土は水をせき止めるので水に勝つ

水剋火-すいこくか

水は火を消すので火に勝つ

火剋金-かこくごん

火は金を溶かすので金に勝つ

金剋木-ごんこくもく

金は木を切り倒すので木に勝つ

相生-そうしょう

順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。

木生火-もくしょうか

木は燃えて火を生む。

火生土-かしょうど

物が燃えて灰が残り、灰は土に還る。

土生金-どしょうこん

鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ってその金属を得ることができる。

金生水-こんしょうすい

金属の表面には凝結により水が生じる。

水生木-すいしょうもく

木は水のあるところに成長する。

■呪術都市■

 さて、政宗公が城下町を作る際に、様々な呪術を施したのはわかりました。仙台はまさに『呪術都市』なのです。公にされていた鬼門封じのための寺社群などは別にして、親方が発見するまでの約400年もの間、国家機密として守られてきた城下の呪術の謎が少しづつ解明されてきました。

 その一つ、陰陽道のまじないに使われる星型六芒星。陰陽道では陽の星を五芒星、陰の星を六芒星で表し、どちらも様々な霊的攻撃から守るためにつかわれてきました。

 政宗公の兜の前立てには三日月の飾りが使用されています。太陽の「陽」に対して月の「陰」を用いている事から、城下に「陰」の六芒星を用いたものと思われます。六芒星の六角形は亀の形の‘亀甲‘として、めでたい形であるとも言えます。仙台の城下町を上から覆うように配置されている事から、城下に住む伊達家の家臣たちを守るために作られたのでしょう。

 そしてもう一つの風水の呪術『四神』です。四神は東西南北の四方位に獣の神様を配置することで中心を守り、繁栄を促すという思想です。仙台では(天空の)四神を地上の寺社と自然の山で形作りました。京都の地形もこの四神(北の玄武、南の朱雀、東の青竜、西の白虎)にあたり、千年以上もの長きに渡って繁栄をしているわけです。

 仙台城下の六芒星と四神、どちらも幕府には知られないよう、命がけで隠し通したという発見でした。

?六芒星の存在を隠してきたということが、「伊達家は徳川幕府に尻尾を振り振り従っているわけではないのよ、いつでも天下を取るため立ち上がれるのよ」という、城下建設の際の政宗公、そして当時の重臣たちの意気込みの表れでもあるのです。それが六芒星なのです。無形の文化遺産、宝物だと私は思っています? byいなべの晴明

と、ここでこの歴史物語は 終わるはずでした。

しかし、なにかモヤモヤした感じが私の中に残りました。長年仙台に住んでいながら、全く知らずにいたこの街の歴史をずいぶん勉強させてもらったのですが…ずっと気になってしょうがないのが『グランドクロス』です。

この図形が呪術でなければどんな意味を持つのか。(ちなみに私は東西のライン上に17年住んでいましたからなおさら)

異様にキリシタンを擁護していた仙台藩のことを考えると、この十字架に、呪術ではないなにかまだ埋もれた秘密があるような気がして…。

 南北に関しては、北の茂庭綱元の墓の石像が南を向いているという事で、北から城下まで親方がラインを下ろしてみただけで、城下を貫通はしていません。(南に関係性のあるものがないか調査中)

 呪術の観点から考えるとこの東西のラインは意味不明ですし、かといってただの偶然の一致とは思えません。実際に六芒星の中心(定禅寺通りと国分町の交差する地点)に立てばわかりますが、西の方角と言えば道路に沿った亀岡八幡の方を示すでしょう。(星の街仙台P5)

傾いた街中では正確な西を探す事はできません。その先には青葉山があり、愛子(あやし)の方など見通すことはできません。六芒星が傾いてそれに沿った町割を行ったため、方角を惑わす事ができているのです。現代だからまっすぐに西に線をひけますが、当時であれば西といえば亀岡八幡の方角と言ってしまうでしょう。六芒星の存在がわかれば、真の西に線をひく事ができるのです。緯度と経度が一致して、見事に六芒星のど真ん中を通っています。城下中心から北の洞泉院(栗駒)までは、直線距離で63kmもあります。

 東西ライン上の諏訪神社、又はその先の未知なるポイントに呪術的意味合いがあれば納得なのですが、易経の‘東西で生死の輪廻’という説明では弱すぎて、ピンときません。それに、ライン上の途中の愛子(あやし)地区に栗生西舘をおく必要性がなんなのよ…綱元と五郎八と国分氏、この3人皆怪しい。もうひとつ猛烈に気になりだしたのがこの歌。

かごめ かごめ 

かごの中の鳥は 

いついつ 出やる

夜明けの晩に 

鶴と亀がすべった

うしろの正面 だれ

たしか、これって埋蔵金伝説によく取りざたされる暗号めいた歌詞ですよね。

第二章 伊達な埋蔵金伝説~限りなく史実に基づく妄想へつづく

第二章 伊達な埋蔵金伝説~限りなく史実に基づく妄想

 寛永13年(1636)5月24日に江戸で亡くなった政宗公。江戸と京都では七日間、漁、魚売り、鳴り物などの演芸も禁じ、将軍家と天皇家をも喪に服させるほどの人物であったのです。

自らの存在をいかにしてアピールし目立たせるかを、美意識と知性を最大限に活かし実行した裏で、相手に気づかせないどころか予測すらもさせない大胆な戦略をも練っていた。政宗公は『無言実行』の武将で、仕える家臣たちもまた、寡黙に確実に遂行する有能な人材が結集したのです。

■グランドクロスに関わる人物がナゾだらけな件■

★洞泉院(栗駒町文字村)---ツナモト?城下に呪術を配した総監督

★西舘(愛子栗生)---ツナモト・五郎八姫?政宗公の長女、キリシタン

★諏訪神社(北愛子)-国分氏・ツナモト

★陽雲寺(原町)-----国分氏?黒はばき組のボス

・代々熱心な仏教徒であったはずのツナモトさんの位牌に十字の痕跡(墓のある洞泉院-栗駒町文字村)。

・美しく聡明ないろは姫が20代前半でバツイチ後独身を貫き、政宗亡きあと栗生西舘に住んだ。

・諏訪神社はもと国分一ノ宮で(後に綱元が再建)、仙台城はもと国分氏の城があった場所。

・城主から町人になり、仙台藩のスパイになった(と思われる)国分氏。

この3人がグランドクロスの秘密に関わるとすればキリシタンがらみでしょうか。北(栗駒)も西(愛子)も隠れキリシタン伝説あり。

もう一度この年表を見てみます。

1612年 4月 幕府による禁教令

1613年 6月 金山奉行大久保長安死亡

     9月 支倉常長遣欧使節出帆

1616年 4月 徳川家康死亡

     7月 松平忠輝改易、五郎八離縁

1618年 5月 政宗の五男死亡

     6月 綱元高野山へ入道

     8月 横澤将監が支倉常長を迎えに出帆、年内中に常長ルソンに到着

1620年 5月以降綱元高野山を下山し帰仙 

     8月 常長帰仙

9月 五郎八姫帰仙

1621年 ---- 綱元が栗生屋敷を得る

1622年 -----宣教師ルイス・ソテロがマニラから長崎へ密入国

1624年 -----ソテロ捉えられ殉教

 愛子(あやし)は、ライ病(カモフラージュ?))扱いの村だったことと、あの奇祭。それからマリアを思わせる鬼子母神。しかし、愛子が怪しい最大の理由はもうひとつあります。

 ある時期、西舘に政宗公と重臣13人合計14人が集まり、歌を詠んだり宴会したり大騒ぎしたとの記録があります。そんなこと城でやればいいと思うのですが、隠れ住むにふさわしい条件がそろったこの(当時は辺鄙な)村に、わざわざ藩のお偉方が集まって何をしていたんでしょうか。記録に残される(わざと残した?)ほどの大宴会だったようです。そして諏訪神社ですが、人様の神社ですのに綱元さんがわざわざ手を加えています。

 小人事件の時もそうでしたが、綱元さんは藩の機密を守るためには手段を選ばぬクールな一面を持っていました。支倉常長が帰国してからの記録が一切残っていない(歴史から消された?)ことも、綱元さんが深く関わっているようです。

 晩年栗生西舘に住んだ五郎八姫は、家康公の六男に政略結婚で嫁に行ったが、国家の陰謀で離縁させられ仙台へ。この夫婦、政略結婚とはいえ仲が良かったが新婚生活わずか2年、子供はいない(という歴史上の記録)。

 離縁したとき五郎八はまだ20代そこそこで、美貌と教養を兼ね添えていたそうです。さらに政宗の長女とあらば再婚話もひくてあまたに違いないでしょう。キライで別れたわけじゃない五郎八は、傷心だったはず。母の愛姫などが再婚を強く勧めていたとあるが、がんとして断り続け、隠れキリシタンの里らしき愛子の栗生西舘で一生独身を通すのです。しかしこの地へ移ったのは政宗没後だから、このとき五郎八は40歳過ぎた頃。余生を愛子で…てことでしょうか。もしもいろはが、こっそり子供を生んでいたとして、その子も流れとしてはキリシタン。父政宗亡くなって後ろ盾がいなくなったキリシタンいろはの立場はまずい。で、子供と一緒に愛子に引っ込んだ。とも考えられる。栗生西舘の真北に位置するあの鬼子母神は、いろは姫(?)。

 ローマで洗礼を受け完璧なキリシタンとして帰国した常長は、幕府にとって最高の危険分子。ツネさんが長崎港に到着した時すでに仙台藩でも禁教令が出ていたから、高野山で待機していたツナさんがツネさんをこっそり仙台に連れて帰り、ツネさんをかくまうために栗生屋敷を準備した。と考えれば上の年表がピタリとあてはまる。

 ツネさんは2年間フィリピンの山でザクザク掘っていたか(当時日本はフィリピンにコネがあった)、渡航先で持たされたおみやげのレプリカを作っていたと思われる。その間、ツナさんは幕府の目をのがれるために入道のフリして高野山に。そして仙台藩の黒はばき組を高野山周辺、長崎周辺(島原含む)へ配置。黒はばきのボスは国分氏と思われ。禁教令激化の中、ツネさんをいかにして生かして無事に仙台へ連れて帰るか、それはツナさんの任務で政宗公の至上命令だった。

 歴史上では、「常長は通商の目的を果たせず失意のうちに帰国」とありますが、倒幕を計画していた政宗公にとってツネさん(とソテロ)の業績は、幕府には秘密裡の(キリシタン関連の)絶大なる成果を持ち帰ったと思われる。政宗没後翌年に「島原の乱」が勃発したのは、政宗の死が引き金に(?)。

 政宗公はだいぶ前からキリシタンとの親交を深め、国内中のキリシタンを味方につけていました。当然のごとく娘の五郎八はキリシタンたちにとってマリア的存在だったのではないでしょうか。南の天草四郎と北の五郎八姫。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

-フランシスコ会宣教師のルイス・ソテロは1600年、エスパーニャからフィリピンに渡り、マニラ近郊で日本人キリスト教徒の指導に従事し日本語を学んでいる。

1603年(慶長8)、フィリピン総督の書簡を携えて来日し徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した。

1609年(慶長14)には上総国岩和田村(現・御宿町)田尻の浜で座礁難破し、地元の漁民達に助けられた前フィリピン総督ドン・ロドリゴとの通訳や斡旋にあたる。また仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。

1613年(慶長18)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8)、長崎に密入国したが捕らえられる。この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した-

■黒船造船地は月の浦ではなく雄勝かもな件■

 雄勝(おがつ)一帯は片倉家関連の地で、軍事機密の漏洩を防げる条件がそろっていた。政宗はここで密造船を作らせていたのではないだろうか。サン・ファン・バウチスタ号も様々な細工があったと思われるが、この黒船は帰途に寄ったフィリピンで総督に懇願され売却している。総督はこの船を戦艦として欲しがった、それほど日本(仙台藩)の造船技術は高度だったから。

 新たに作った密造船(日本近海用)に黒はばきを乗せて長崎へ、常長を迎えに出した。この船には幕府へ献上する金塊も積まれていた。雄勝から真西に約30kmのところにある涌谷町は、日本最初の産金地である。また、牡鹿半島にも鮎川金鉱、東北最大の北上川を使えば岩手南部の鉱山も思いのままだった。禁教令によりキリシタンから高度な採掘技術を入手できなくなった幕府だが、(影のキリシタンブレーンを持つ)政宗は黄金郷奥州で金の採掘に不自由はしていなかった。迫害から逃れるようにキリシタンたちは奥州の鉱山地帯へ逃げ込んだため、人材には困らない。キリシタンたちにとっても、鉱夫のいでたちは身を隠す格好の変装になり、さらに仕事が与えられるというラッキーな条件となった。

 サン・ファン・バウチスタ号が出帆した1613年は、金山奉行の大久保長安が病死した年でもある。長安が死ぬまでの間、密かに最先端の採掘技術は仙台藩へ受け継がれていた。長安死亡後に見つかった私財(大量の金塊)は、仙台藩からのリベートだったかもしれない。

 

 密造船は(表向きは)運搬用として幕府に許可をもらっているため、あやしまれることなく行き来することができた。万一のことがあっても、幕府の目付けには賄賂で簡単に落とすことができた。政宗公がどれだけ膨大な鉱山を所有していたかは後述しますが、豪傑な政宗公のやることですもの。

 船は江戸から大阪のなんばに寄り、高野山から下りたツナさんを乗せて長崎へ向かいました。仙台藩では、せっせせっせと金塊が仙台城へ運ばれます。雄勝では塩の生産もしていたため、塩に紛らせ大手門をフリーパスで運び込めました。幕府の目付け役も塩の山をかきわけてまでチェックはできなかったし。こうして政宗公は倒幕のための軍事資金を着々と用意していたのです。

 ツネさんの遣欧使節は、政宗公の本来の目的であるスペインの軍事力を借りた倒幕計画を失敗に終わらせたかに見えたが、その代わりスペインの植民地であるフィリピンとの密議で、闇通商と軍事同盟を持ち帰ることとなる。全世界のカトリック協会の最高指導者ローマ教皇に謁見したドン・フィリッポ・フランシスコ常長は、当然マニラでも手厚い歓迎を受けた。マニラには、迫害を逃れたキリシタン(大名を含む)たちが住む3000人の日本人村があった。総督は、日本製西洋型軍艦(バウチスタ号)が太平洋2往復の航海を成功させたことを高く評価し、政宗の力を確信すると同時に船の売却を願い出た。この優れた造船技術の開示と引き換えに、フィリピンの鉱山採掘許可と兵器・兵力の要請に応じる取引をした。そして、弾圧が厳しい日本へ無事ドン・ツネを届ける約束も交わされていた。

 ドン・ツネはルイス・ソテロをマニラに残して先にフィリピンの便船で日本入りし、迎えにきていたツナさんとともに密造船で仙台へ戻った(1620年)。

 その際、黒船の代価として積まれたフィリピン産の鉱石類、武器類などは「黒はばき」により島原の反乱軍へと届けられた。

 ルイス・ソテロは、この4年後(1624年)長崎に密入国したが捕らえられ、政宗公の助命嘆願叶わず処刑されてしまう。頼りにしていたソテロとマニラの兵力を見失った島原の一揆は、ますます激しくなる迫害に直面するも、政宗公の(反乱)GOサインは一旦見送りとなった。長年にわたる厳しい弾圧・重税・飢餓に農民の不満は、政宗の死(1636年)を引き金にして一気に爆発し、乱はまたたく間に島原半島や天草島へと広がっていった。1637年。

そして幕府は鎖国へと向かっていく。

■政宗公が天下取り満々だった件■

 支倉常長をヨーロッパに行かせて、あちらに提示した内容です。もちろん幕府関係者も一緒でしたから、表向きは通商貿易目的でしたでしょうが、

「九ヶ条条約案」によると

『仙台に司教区を新設』(仙台をキリスト教の本拠地にしてもいいですよ)

『最恵国待遇』(一番良い貿易条件を約束しますよ)

『領事裁判権』(在留外国人が起こした事件を本国の「領事」が裁判する権利を認めますよ)

これらが、東北の一大名から世界のキリスト教最高峰に提案するような内容ではないことくらい、私にもわかる。この使節にどんだけ気合入れたか政宗公。そしてドン・ツネのプレッシャーたるやいかばかりか。

さらにヨーロッパ側の史料によれば、ドン・ツネは驚くべき大胆発言をしていたらしい。「教皇とスペイン国王の同意があれば、政宗公は将軍の座を実力で奪うことも考えている」

 そのときの日本は、家康が天下統一をすすめつつある「大阪の陣」の直前だった。だから政宗はヨーロッパの勢力を引きづりこんで、一気に天下取りのチャンスを狙っていた。そのためには軍資金がいる、それだけの経済力(軍事力)を持っていたのだ。秀吉のときに領地を奪われてチッって思ったけど、代わりに与えられた領地から金だの銀だの鉄だのザクザク採れる山があって、超ラッキー♪。それで政宗公(仙台藩)は、金の保有量では全国でも有数の大名に名を連ねていたわけです。それに、幕府の金山奉行大久保さんとも仲良かったし、仙台味噌だのいろいろ事業やってたし。鉄もいっぱい採れたから、めちゃめちゃ鉄砲作って武器の準備も万端だった。第一章に書いた「つるべうち」、アレですよ。幕府に向かって誇示するかのごとく派手にぶっ放したのです。

 政宗公の倒幕計画には、キリシタンの存在は絶対だった。30万人のキリシタンを従えて戦う自信があったのだ、このときまでは間違いなく。そして、ソレをうすうす感じ始めた幕府がこりゃヤバイぞと禁教令を厳しくして、キリシタンの根絶に躍起になった。その迫害の様子はローマにも伝わり、ドン・ツネの一団は交渉不成立のまま帰国させられることになる。最大の戦力キリシタンをことごとくやられてしまった政宗公の計画は一旦暗礁に乗りあげたけれども、政宗公の跡を継ぐかのごとく‘影の先導者’がいた。それが、五郎八姫なのではないかと。

■かごめかごめの謎■

 この歌は、発祥地も年代も作者も不明とされているようです(童謡って大抵そのようですが)。江戸中期にはあったといわれています。歌詞が意味不明で、年代や地域によっても変わったりします(童謡って大抵そのようですが)。

3番くらいまであったりとかしますが、一般的に知られている歌詞は

かごめ かごめ 

かごの中の鳥は 

いついつ 出やる

夜明けの晩に 

鶴と亀がすべった

うしろの正面 だれ

これも『陰陽・五行説』です。

かごの中(陰)と出やる(外で陽)

夜明け(陽)と晩(陰)

鶴(天で陽)と亀(地上で陰)

うしろ(陰)と正面(陽)

かごめは籠目(六芒星)

鳥(酉)は十二支でいうと方角は西。

鶴は四神でいうと南。

亀は四神でいうと北。

六芒星と四神に守られる仙台城下に、この歌が関係ありありな予感がしたので調べまくりました。この神秘的な歌詞には、様々な解釈がなされているようです。遊女説、陰謀説、囚人説、降霊術説、エトセトラ?徳川埋蔵金のありかを示す暗号だという説は有名で、いまだに健在のようです。

いろんな角度から探っていくうちに、まさかの「七夕」に行き着きました。七夕の起源をたどると、氷河期の世界樹(宇宙樹)信仰までさかのぼるようです。

 仙台といえば「仙台七夕まつり」が全国的に有名です。3日間にわたり200万人以上の人出を呼ぶ、国内最大規模の七夕行事で、青森ねぶた、秋田竿灯とともに東北三大祭のひとつです。まつり期間中は、メインとなる繁華街だけにとどまらず、各町内商店街でも素朴な笹飾りがお目見えします。『星の街仙台』だけあって、七夕は星のお祭りですから、気合が入ります。

 かごめかごめの歌詞の中でも、一番不思議で気になる「夜明けの晩に」というフレーズ。

夜明けの番人

朝から晩まで

あの世

日の出前 

など様々な解釈があるようですが、なぜだか私にはどれもピンときませんでした。なんかこう、もっと重たい意味があるような気がして、しつこく探っていたとき、ひょんなところから偶然目に飛び込んできた記述に、トリハダが立ちました。以下は仙台七夕飾りを制作して120余年の、伝統芸を受け継ぐ鳴海屋紙商事株式会社さんのサイトより抜粋。掲載許可要

?殆どの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、七夕祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われます。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもあります?

?各地の「七夕祭り」のうち、戦後に始まったものの多くは仙台七夕をモデルとしていると言われております。仙台では、伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため、藩政時代から武家・町人ともに年中行事として各戸の軒先に笹飾りを出しておりました?

「神事を行う時間帯?七夕の深夜」という意味を持つ「夜明けの晩」。

六芒星 - 四神 - グランドクロス - キリシタン - 星の街 - かごめかごめ - 夜明けの晩 - 七夕 - 政宗公…

この歌と仙台がいきなり繋がりました。

「かごめかごめ」が、もしかしたら仙台発祥の歌だと仮定して、そこにやはり五郎八姫が深くからんでいるような気がしてなりません。年に一度織姫と彦星が会える(7/7)夜明けの晩、まるで離れ離れにさせられた忠輝と五郎八の悲恋を歌ったかのようでもあります。

 桃太郎の物語も「五行説」です。鬼のいでたちが角に虎のパンツの理由、「鬼門」だから丑と寅。桃太郎は、鬼ヶ島へ猿(申)・キジ(酉)、犬(戌)を連れて、鬼退治に出かけました。なぜもっと強そうな動物にしなかったんだろう。虎(寅)とか龍(辰)とかせめてヘビ(巳)とか。桃太郎の目的は、村の平和を守るための鬼退治だった。なのに結局は、鬼をやっつけてさらに鬼たちの宝物を持ち帰っている。

申・酉・戌は方角は西、季節は秋、それから金の方向。

桃太郎は最初から鬼の財宝を奪う魂胆があったのだと思われる。そのために縁起をかつぐ仲間(金)を選んで同行させた。計画(呪術)はまんまと成功して鬼の宝物を奪い持ち帰ったとさ。

■五郎八と忠輝■

 5歳で婚約させられ、12歳で嫁に出された。(ふたりが実際一緒に住んだのは8年後)。家康の六男忠輝と、政略結婚といえどもお互いまんざらでもない相性で、仲が良かったわけです。共通の信仰(キリスト)を持ち、戦のない平和な世の中になることを祈りながら仲むつまじく暮らしていたのも2年で終了。納得いかない忠輝の改易で離縁させられ、キリシタン仲間が次々虐殺されるのを目の当たりにしたわけです。その中にはきっと友人や恩師や身内もいたことでしょう…幕府の非人道的な行為によって奪われた大切な人たちの命、自分も生まれる前から幕府の人質、勝手に結婚させられ別れさせられ…五郎八姫が幕府を恨んでいないわけがない。美貌と若さと知恵、それと父の血を引く気性の激しさも持っていたようです。

 筆まめだった政宗公の直筆の手紙が数多く保管されていますが、その中に姫に当てた手紙があります。「忠宗に口出しするのを慎むように」という内容です。姫は実弟の二代藩主忠宗と大変仲が良く、政宗公亡きあともいろはの住む栗生西舘に、忠宗が足しげく通っているのです。姉弟は、政治についても語り合っていたのでしょう。

 いろはがバツイチ後独身を通した理由に、いつか忠輝と一緒になることを望んでいたからなのではないかと思うのです。いろはは68歳で、忠輝は93歳で亡くなった。それまでふたりは互いにずっと‘いろいろな思い’を共有していたのではないだろうか。

かごめかごめの鶴と亀は、忠輝と五郎八のことでは…。

鶴と亀がすべった

すべるは、統べる。

七夕の深夜、天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる。

夏の大三角は、こと座のα星ベガ、わし座のα星アルタイル、はくちょう座のα星デネブの3つの星を結んで描かれますが、3星のうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における「おりひめ(織姫)」と「ひこぼし(彦星)」です。はくちょう座は十字架型をしているので、北十字ともいい、キリスト教ではこの星座をキリストの磔の十字架と重ねて考えることがあるようです。中国の神話では、はくちょう座は織女星と牽牛星を結びつけるカササギの橋です。

仙台城下の四神は、天空の星を地上に配しました。夏の大三角も地上に配した可能性があります。グランドクロスが「はくちょう座」だとしたら、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)も地図上に存在するはずです。

グランドクロスの謎を解く鍵は、夏の夜空なのかもしれません。

●愛子がアヤシイ件

 仙台市青葉区愛子(あやし)。敬宮(としのみや)愛子様が誕生されたときに、同名の駅がある町として騒がれた時期がありました。青葉山の西側に位置し、仙台中心部から10km、広瀬川に面しています。愛子という地名の由来は諸説あるようですが、どれもこれもむりやりこじつけたようにしか感じられません。いずれも確信に近い文献などは残されておらず、真相はうやむやのままのようです。

 愛子(あやし)がキリシタン五郎八姫と深くかかわりがあることがわかった時点で、ごく単純に政宗の正室→愛姫(めごひめ)の子→愛の子→愛子→五郎八姫

愛子の地名の由来はいろは姫なのでは・・・

グランドクロスの東西のライン上をわずかにはずれますが、諏訪神社の他にも伊達家関連の神社や、いろはが建立した薬師堂などがあります。それからキリスト教会が非常に多い。愛子が隠れキリシタンの里だったこと、明治に日本最初のキリスト教団が認可されたときの大司教(土井辰夫氏)が仙台愛子出身者であったことなども、地元ではほとんど知られていません。

 戦国時代の名高い武将たちは金山銀山を手中におさめていました。政宗公も玉山金山、半田銀山、不動金山、鮎川金山、浪入田金山(網地金山)、高子金山、その他アチコチ。当時彼らが金銀にこだわった理由は、弓や刀にとってかわる最強の戦闘武器「鉄砲」を入手するためでした。鉄砲の値段は、現在の価格にすると1挺(ちょう)36万~160万相当。政宗が行った「つるべ打ち」では、2000挺をブッ放した。ということは7億2千万円~32億円相当の鉄砲持っていた・・・・玉だけでもすごいです。これを年に2回やったんです。愛子(あやし)の遠丁森(とっちょもり)というところで、二代藩主忠宗も「つるべ打ち」をしたそうです。

 信長さんは、武田さんと戦ったときに、3000挺の鉄砲隊で撃破したそうですけど、政宗さんは、戦いじゃなくて試し撃ち(縁起かつぎの催し)ですから。だいたいにして、これだけの鉄砲隊を組織するだけの力があったったことが、幕府が恐れていた理由です。それに輪をかけて30万人のキリシタンが政宗公のうしろに見え隠れしていたわけですから、政宗をヘタに刺激しちゃイカンてことで、五郎八のキリシタンには目をつぶり、でもとりあえず忠輝とは別れさせた。

『黄金を制したものが国を制する。』徳川幕府

『黄金とキリシタンを制したものが国の王となる。』初代仙台藩主・伊達政宗

 政宗公は城内の一角に大規模な味噌工場を建てました。これが日本初登場の「御塩噌蔵おえんそぐら」です。

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