星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産 ③

https://slib.net/2343  【星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産】より

仙台市博物館所蔵 著作権あり

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今では全国的に有名になった「仙台味噌」ですが、ルーツは政宗公にたどり着きます。仙台藩の味噌は、朝鮮出兵のときに大活躍しました。各藩が持ち寄った地元の味噌は長期間の滞陣で変質してしまったのに対し、政宗の味噌は持ちが良くそのうえ美味だったことから、兵糧としての完全品質を他藩からも認められました。米と塩に恵まれた仙台の味噌は贅沢な作りで美味しく、そのウワサはたちまち江戸庶民にも広まり、江戸藩邸内にも味噌蔵が作られブームになりました。政宗公は’実業家’としても大活躍していたわけです。

 片倉家の飛び地(密造船のところ、すぐ近所には鮎川金山)では、塩が作られていました。それを城内に運ぶときフリーパスでしたから、塩の中に金塊仕込んで、そのまんまおえんそぐらに運べたわけです。上の絵図見てください。広瀬川から下ろしてすぐに蔵直行です。

 幕府に献上する金塊は別として、隠し金塊があったでしょう。幕府の金山奉行大久保長安は密かに政宗公とタイアップしたがってたようですから。おえんそぐらは、絶好の’一時保管金庫’でもあったわけです。どんどん運び込まれる金塊の山、どこかに移すでしょう、人が寄り付かないところです。広瀬川使えば、らい病のウワサを流した愛子に、黒はばきが運んだ。と言っても、金ピカののべ棒が山から出てくるわけじゃないですから、錬金術を要するのです。アマルガム法という最新技術はキリシタンからもたらされました。鉱石に水銀を流して含有金銀を抽出し、後から水銀を蒸発させて取り除く(水銀流し)。しかし水銀は毒性を発揮する。もしもこの金の精製が愛子で密かに行われていたとしたらどうだろう。

『愛子百軒、ドス(らい病)九十九軒、残る1軒駐在所』 

隠れキリシタンをかくまうために人を寄せ付けない手段として「らい病」をでっちあげた。。。でも、らい病は水銀中毒患者のことだったかもしれない。当時は水銀ガスの危険性が知られていなかったでしょうから、作業員は原因不明の奇病扱いで亡くなっていたのではないでしょうか。恐ろしい流行病の村にはだれも近づかない。愛子は ’隠れる’’隠す’には、はからずも格好の条件がそろっていた。

愛子のN地区には昔、造成の際に大量の人骨が発掘された事実があります。時代的には数百年前のものとして新聞記事に上がったようですが、その後の調査はなされておらず(?)近くの寺に供養されたようです。この場所は大昔処刑場跡だったとされますが、罪人は藩の『機密事業』に駆り出され口封じのために消されたのかもしれません。

●いだて政宗

 茨城の豪族中村氏が、源頼朝にしたがって奥州藤原攻めをして手柄を立てたとき、その褒美として伊達の領地を与えられ、そこから中村名を「伊達」に変えました。福島県には安達(あだち)と言う地名があります。すると伊達は(いだち)と読むのが正しいのでしょう。時とともに変化したか、(いだち)が気に入らずに(いだて)としたかは定かではないのですが、伊達政宗は「いだてまさむね」と呼ぶのが正式です。現在、伊達は「だて」と読んでいますが、本当は「いだて」です。

 青葉神社の片倉宮司が祝詞をあげるときには「いだてと読め」、とお父さんから教えられたそうです。常長がローマに行った時の書状にもローマ字で IDATE と書いてありました。いつごろから「だて」と呼ぶようになったかは片倉宮司もわからないそうです。

 2010年をもって伊達は「いだて」と呼ぶことにしましょう。

『和解の時代、そして新しい伊達(いだて)政宗の夜明けです。』 by片倉宮司

 先日、陰陽師親方が青葉神社に行って’愛子があやしい件’を報告したところ、「そういえば・・・」と片倉さんが語った内容です。

-あの土地(黒船作った雄勝)を小十郎の領地にしたのは、もし敵が仙台に攻めてきたときには、まず松島の瑞巌寺に逃げて船に乗り、北上川を遡上して行くという逃避ルートを考えていたためだ。それと、以前から気になっていることがある・・・「蔵王」の別名は「不忘山」というのだが、小学校の校歌では「わすれじのやま」とでてきて、何かを忘れてはならないという意味で付けられたのではないか、と思っていた。

 蔵王(奥羽山脈の一部蔵王連峰)は蔵王権現のことだが、徳島の剣山にも蔵王権現が祭られている。剣山には財宝が埋められていてそれを守るために蔵王権現を祭ったという話からすると、小十郎が白石を与えられたのも不忘山を守るためではなかったか。。。。

 白石はアクセントのない話し方をするが、これは全国でも2?3箇所だけらしい。自分が大学生の時、友人から’アクセントがない’と指摘されてからずっと気になって、調べたことがある。言葉を真似てもアクセントが必ず出てしまうものだが、つまり白石では’よそ者’が紛れ込んできてもすぐにわかるということだ。今でも白石の人たちは排他的だといわれているが、きっとそのような土壌のせいではないか、それだけ守らねばならないものが、不忘山に隠されているのかもしれない-

●かごめと埋蔵金

 日本の埋蔵金ネタには必ずといっていいほどに、「かごめかごめ」のナゾの歌詞がささやかれるのです。古代イスラエルを支配した巨万の富を誇った貿易王ソロモンの財宝が、四国の剣山に!?「レイダース 失われたアーク」なる映画にも出てくるらしいですが、ユダヤの秘宝ですよ、モーゼの財宝?え?そんなスケールのでかい話・・・。「赤城山 徳川埋蔵金」のときもかごめの歌がその場所を示しているのではと、研究されていたようです。いずれにしても財宝のありか説には、どれもこれも非常に複雑な解釈がなされているようです。

かごめかごめ 

籠の中の鳥は

いついつでやる

夜明けの晩に

鶴と亀がすべった

うしろの正面だれ

こむずかしいことが苦手な私としては、どうもこの歌がもっとこう 遊び心で作られただけのような気がするのです。この歌詞は、’ある一定のルール’の下にそれを知る者だけが簡単に解ける暗号(その場のノリで作った遊びの歌)、のような気がします。

 いだて政宗公は天下の大芸人でした。あるときは死に装束をまとって秀吉の前に参上し、あるときは大名達の前で砂金の入った袋をわざと畳にこぼし、畳の目に砂金が残っても平気なそぶりで大金持ち気取り。またあるときは舞いを披露するという秀吉の前にツツミをかってでるのだが、もし一つでも打ち間違えば首が飛ぶ、そこを見事なまでに演奏してしまうのです。朝鮮出兵ではド派手な衣装で他を圧倒し、本陣により近い配置を狙い、このとき仙台味噌も評判を得ます。茶道・能・書・詩歌・料理、あらゆる方面に才能を発揮した政宗公は千両役者でした。

 そんなことをツラツラ考えていたら、この歌ってやっぱり仙台発祥なんじゃ?って思えてくるんです。「夜明けの晩」が七夕に繋がったことも大きな要因です。

 

 政宗公が400年もの年月を隠し通した六芒星を、陰陽師親方が発見しちゃったことによってその’一定のルール’のようなものが見えてきた。六芒星と四神、それだけだったらここまで話は発展していません。グランドクロスの存在、これは呪術ではない。じゃぁなんなのかってところから様々な疑問と好奇心が生まれました。

 人工的に配置されたものたちの位置関係は、あきらかに『こじつけ』の域を超えています。当時ソレを知る者は、ホラあの栗生屋敷(のちの西舘)に集まってドンチャンやった13人 + 政宗公、計14人。その中に五郎八がいます、たぶん。

藩の重臣たちがわざわざ愛子の栗生屋敷に集合し、軍事機密の密会をやっていた。

『さて皆のもの。ここらでひとつ歌を詠み競うことにしようじゃないかい。‘この件’について、最もおもしろい出来のものに褒美をつかわそうじゃないかい』とか言って、政宗は目の前に金銀を積み上げました。藩の存亡を賭けた重大会議に緊張する13人が、とたんに色めき立ちます。いろはは、遠く離れた恋しい忠輝のことも想いながら、詠みました。

かごめ(籠目-仙台)かごめ(籠女-いろは)

籠の中の鳥は(仙台城下のお宝は)

いついつ出やる(いつ出すべきかしら)

夜明けの晩に(織姫と彦星が出会う七夕の夜に)

鶴と亀がすべった(忠輝と五郎八が統べった-キリシタンを統一する)

うしろの正面だれ(バックには奥州の王政宗がついている)

政宗に気に入られたのはいろはの詠んだ歌でした。ひとつの歌に’ふたつの意味’が込められているとはさすがオレの娘♪いろはよ、おぬしなかなかやるのぉ?褒美じゃ好きにせい!ハッハッハ byマサ

♪金ゲッツ!やりぃ? byイロハ

 実際に茂庭家記録には「寛永8年(1631)正月25日に愛子村御屋敷において夢相ひろめの御連歌あり」と記載されています。愛子村御屋敷とあるようにそのときはまだ綱元の屋敷でした。ここでは、その「夢想之連歌」は政宗公の直筆として

代ヲ長クタモツ心ハマサム子ノ

セカイシツカニ住ヨシノ松

とあります。

この栗生屋敷で重大な密会が何度か行われたかもしれません。このとき1631年は、政宗公が亡くなる5年前です。

密議メンバー(茂庭家記録より)

1.政宗

2.忠宗・二代藩主

3.綱元・茂庭ツナモト

4.実雅・龍宝寺住職

5.宥尊・?

6.良綱・綱元の子

7.貞成・?

8.似春?

9.祥景?

10.元直?

11.松恵?

12.重純?

13.重則?

14、久巴・?

ハテナマークの方々は調査中です。お寺のお坊さんか、武将の親子か・・・ここに五郎八の名はありませんが、キリシタンゆえ記録に残されなかったもしくは特別ゲストでしょうか。

 

●新史実発見

 宮城県立図書館郷土資料室で発見した、伊達家の研究においては第一人者といわれる土生慶子(はぶけいこ)先生の著作本「いろは姫」に驚くべき史実が書かれていました。

 

 五郎八姫は子供を産んでいたのです。忠輝と離縁させられた直後妊娠発覚。江戸の仙台屋敷で男子を出産。出生は極秘にされ、その子はのちに僧侶となります。それから、忠輝は家康の六男であるという通説ですが、七男です。忠輝は双子でした。記録では双子の兄は幼少時死んだことになっていますが、のちに忠輝の影武者として生きたのでは・・・。

 土生先生が研究された伊達文庫は「江戸時代には仙台城に秘蔵され、一般人には見せず、伊達家臣でも見たことは親、兄弟にもらせず、写しも禁じられて起請文を書いてみることができた・・・」といいます。 歴史に’絶対’は無い。でも、限りなく信頼できる資料にめぐり合うことは可能です。通説をくつがえす新発見、それが土生先生の本との出会いでした。

●双子

 昔々その昔、双子が生まれると、「鬼っ子」と呼ばれ忌み嫌われたようです。双子以上を宿すと獣腹といって’不吉’という迷信がはびこっていた時代があったのです。そういえば、歴史上の名だたる人物に双子がいるという話を聞いたことがないと思いませんか。双子は、そのどちらかの存在を記録から’消されて’いました。歴史上は、忠輝が誕生したときに醜い顔立ちだったことから、実父の家康が「捨てよ」と言ったそうです。生まれたての赤ちゃんてクシャクシャである意味’醜い’ですよね、、、忠輝の前に5人くらい生ませているのだから、家康さんだってそのくらいのことわかっているはずです。しかも男子なんだし、オギャーと生まれた直後に容貌に絶望するほどの理由がわかりません。

 忠輝はそれ以来「鬼っ子」と呼ばれながら孤独な幼少期を過ごし養子に出されました。しかし、史料の肖像画を見る限りイケメンです。五郎八姫も美女でしたから、イケてるカップルだったと思われます。醜いから嫌ったというのは世間に対してのカモフラージュで、実のところは双子だったから。将軍の息子に双子が生まれたことを世間に知られないようにトップシークレットで隠し通したのでしょう。

 史料には忠輝七男とあったから、双子の兄貴のほうが捨てられた。捨てるといってもたぶん俗世から離された(出家)。農民の子なら生まれてすぐに死なせたでしょうが、地位の高い家柄では’死んだ’ことにして寺などに預けて縁を切ったようです。

 忠輝が幕府の陰謀で改易されあっちこっちへ流された先に、たしか政宗公と仲良しの城主がいたっけ、、、忠輝と、影武者の兄貴がすり替わることなどそう難しくもなかったと思われます。。。

 忠輝(辰千代)の双子の兄(松千代)は、生まれてすぐに跡継ぎのいなくなった松平家に養子に出され8歳で亡くなったことになっています。そして入れ替わりに弟の辰千代(忠輝)が養子に入り、同時にいろはと婚約。15歳で結婚し、19歳で福島城主(新潟)となります。23歳で福島城を廃城し高田城を築きますが、築城には12藩の参加が命ぜられ、仙台藩政宗公が陣頭指揮をとっています。外堀に囲まれた城域は不等辺六角をなしている。

 政宗公は城に隠し部屋を作り、死んだフリ(出家)してた双子の兄貴松千代を呼び寄せて住まわせた。このとき影武者教育がなされたのではないだろうか。大久保長安が忠輝の付家老だったことから容易に計画は進められた。いろはと忠輝がこの城でラブラブ生活を過ごしたのはわずか2年だ。すぐに改易で離縁となる。

 家康に双子が生まれたとき、家康側はドヨ?ンだったけど、こさい和尚からへそ曲がり教育を受けた政宗にとっては目がキラ?ンと輝くような出来事でした。世間的には不吉な双生児でも、政宗から見れば天からの贈り物、希少な人材(戦力)に思えたのです。しかも家康の子ときたもんだ、鬼っ子が天使に見えたっちゃ?。殺してしまえという家康をなだめて養子をすすめ、死んだと思わせ出家に出し、弟辰千代を娘と結婚させ、城築時に兄松千代を密かに呼び寄せかくまった。

 やがてナニカを感じ取った幕府が、アセって忠輝(辰千代)を改易し、いろはと縁を切らせた。しかし政宗の内心は’シメシメ・・・ニヤリ ’ 双子の存在が、天下取り計画に大いに貢献するシナリオをメラメラと考えていたんじゃないでしょうか。

 

 政宗公は、お家騒動を危惧して実弟を殺したということになっています。が、本当のところ、俗世から離したのではないでしょうか。政宗公は武将としては勇猛果敢でしたが、繊細で慈悲深い一面もあったと思われます。弟を殺す芝居はしたでしょうが、実は面倒見てたんじゃないだろか。死んだフリしてた弟もどこかでつながっているように感じます。栗生屋敷の密議メンバーに入ってそうですけど。。。

 いろはに息子が生まれたときも、幕府がらみで極秘にするようはからい、とりあえずはいろはから引き離しどこかのお坊さんに預けました。二代藩主忠宗は実姉いろはと大変仲が良く、いろはを慕い頼っていました。史料を見ると、まるでいろはのおっかけでもしてるみたいに頻繁に会いに行っています。同じ母から生まれた5歳上のキレイなお姉さんですから、、、、それにきっと政宗亡き後の政策の相談もガシガシしていたでしょうね。。。西舘で。

 忠宗がいろはのために建てた松島天麟院の二世である黄河幽清(こうがゆうせい)和尚が、そのいろはの子だとされます。姫は亡くなる前の3年ほどこのお寺で過ごしたそうなので、息子に看取られたのでしょう。お墓もここにあります。

 家康さんは、於万の方(おまんのかた)との間にも双子作っています(秀康)。このときも家康さんはこの母子ともども激しく嫌い、顔が変だの粗暴だのとナンクセつけ、おまけに秀康の武将としての器量を認めながらも後継者であるべき秀康を秀吉に差し出して、弟の秀忠を世子にしています。そこまでして嫌った理由は「双子だから」。忠輝の時とまったく同じ流れなのです。

しかし忠輝は本当に家康から嫌われたのか、といえばそうでもなさそうなのです。「織田信長?豊臣秀吉?徳川家康」と渡り歩いた‘野風の笛’が家康から忠輝へと渡されているのです。この天下人の象徴といわれた笛は現在長野県諏訪市の貞松院に保存されています。

 世相から迫害される双子やキリシタンたちが安心して住める村。神の愛を受けて生きる者たち『愛の子』が住まう桃源郷 『愛子』

●チェンジ

 いろは姫は忠輝と離縁したあと4年間江戸の仙台屋敷で暮らしています。母親の愛姫も一緒です。愛姫はいろはを妊娠する前から幕府の人質にされましたから、いろはにとってのふるさとは仙台ではなく江戸や京都です。仙台は、嫁入り前に1回だけちょこっと顔出した程度(ホラあの仙台城の眺望亭から城下に灯篭の光の十字架見せられたとき)ですがそのいろはが、華やかな江戸を捨てわざわざ東北の城に永住覚悟で引っ越すことになります。愛する夫と別れさせられ、さらに出産後赤ちゃんと引き離され精神的ダメージは強かったようで、鬱にもなりますそりゃ。母親はじめ侍女たちが心配しまくり気をつかいまくったそうです。そうなれば住み慣れた江戸の屋敷で、母親の愛情に守られながら心の傷を癒すのが普通でしょう。甘えたい盛りに嫁に出されたいろはにとってそれ以上の心のよりどころはないはずです。なのに政宗は、いろはを母親と引き離し仙台に呼び寄せました。かといって政宗自身ほとんど仙台にはいなかったのですよ、江戸に居るほうが多かったんですから。

 キリシタンの弾圧強化を危惧した理由ももちろんあるでしょうが、いろはが仙台に住むことを承諾したのは、息子に会うためではないでしょうか。それから、もしや忠輝にも会うことができたのではないでしょうか。つまり、仙台には’いろはの家族’が集合できる条件が整えられていたのです。政宗公の周りには、高名な坊さんがいっぱいいます。いろはの息子を預けようものならコネはいくらでもありました。いろはが仙台入りしたのは1620年です。そして忠輝さんですが、改易後、朝熊(あさま)に2年、飛騨高山の天照寺に1618年から8年幽閉され、1626年から諏訪へ移動します。飛騨高山の藩主金森重頼と政宗公はお友達です。忠輝の件以前から、お互い和歌や茶に精通していたことで金森家との交流は深い。

 1625年 8/15(中秋の名月)月見の連歌会が催されています。連歌といえば、密談でしょう。このときですよ忠輝(辰千代)と兄貴(松千代)がすり替わったの。。。

1616年 忠輝改易、いろは離縁

1617年 いろは出産

1618年 忠輝飛騨高山に幽閉

1620年 いろは仙台入り

1625年 月見の連歌会

1626年 忠輝(入れ替わった兄)諏訪へ移動

月見の連歌 政宗の句

陰シモ 晴ルモ 同じ天ノ原

今宵ノ月ノ 名ヲヤ ナガメン

私にはこれが、双子がチェンジする様を詠った様にしか見えないのですが・・・この歌会の翌年、忠輝は飛騨高山を追い出されて諏訪に移り(この時35歳)、没する92歳までそこで過ごしたという記録です。移動の理由は、伊達家と金森家の特別に親しい間柄を徳川家が疑いだしたから(どうやら両家の交友は非公開だったらしい)。他には、忠輝のやりたい放題(大暴れ)に愛想が尽きて金森さんが預かり拒否したとかなんとか。この時点でふたりは入れ替わっているから、飛騨高山に居る必要が無い。兄松千代の’影武者’としての人生はここからが本番です。

脚本:政宗

演出:金森

主役:兄松千代

エキストラ:黒はばき

兄松千代は、ご乱心の芝居をうってわざと高山を追い出されます(金森さんもグル)。諏訪では監視下ながらも奉公人を100人近くも抱えた小大名のような高待遇で暮らしてます。文献にもありますが、外部との接触は滅多になく幕府の目付けもいたものの内部関係者からはかなり良くしてもらい、ほとんど不自由なく風光明媚な屋敷で茶や能や歌会を楽しみ、芸術作品まで残しています。

 諏訪市文化財に指定されている忠輝直筆俳句画軸の文学性・芸術性は、松尾芭蕉と並ぶほど(それ以上?)とまで評価されているようです。気性が荒く無粋な人物像(=乱暴者)忠輝の作品とはとても思えないということです。つまり兄貴は『繊細で芸術肌』だったんでしょうネ。あまりに居心地がいいもんで、死ぬまで58年間もここにいましたとさ。双子に生まれて不幸どころか、こんな優雅な生活やめられまへんな、ということで長生きしたんじゃないですか、松兄ィ。

 改易後の忠輝といろはの落胆ぶりは、治家記録にも残されるほど大きかったようです。近しい人たちの心配を増大させ「なんとかせねばなるまい」の書状も残されています。とくに忠輝ですが、改易の表向きの理由が取るに足らない内容です。忠輝本人、側近、母親、政宗、その他だれがなんと頼もうとも許されませんでした。若干25歳で新婚で、武将としての素質も充分で、これからファイト一発満々のときにいきなり監視付きの隠居、しかも一生です。自害でもなさるのでは・・・と心配されるほどでした。11歳から世話してくれた大久保長安もこの頃亡くなっています。亡き後に出てきた金銀財宝の山が、不正蓄財だ倒幕資金だと疑われ、ついでに忠輝も危険分子とみなされ、とどめは、やはり義父である政宗の’ローマだキリシタンだ倒幕だ’でしょう。改易離縁の理由が自分のせいにあると、政宗はひどく責任を感じていたことが伺われます。もはや自分の運命がどうにも変えられないことを悟った忠輝は、決心しました。「そーだ!仙台へ行こう」

 この頃五郎八姫は仙台城敷地内の西舘に住み、栗生屋敷は最初山岸修理之助さんて人が住んでいたのですが1621年から綱元さんの屋敷となります(いろはと常長が仙台入りした翌年)。ちなみに山岸さんは伊達氏の家臣で諏訪神社の造営に関係した人のようです。そして政宗公が亡くなる1636年、綱元は洞泉院へ、入れ替わりにいろはが栗生屋敷(西舘)の住人となりました。

 愛子の栗生屋敷はとかく密会の館(隠れ家)として利用されていたようです。もともと隠棲条件バツグンの土地にも増して、カモフラージュのための歌会などを催したりして万全なサポート体制が整っていたのです。

 いろは姫と侍女たちが輪になって「かごめかごめ」で遊びました。

かごめかごめ(籠目-仙台、籠女-いろは)

籠の中の鳥は(自由を奪われた忠輝は)

いついつ出やる(いつ出てこれるの)

夜明けの晩に(年に一度織姫と彦星が会える日-七夕の夜)

鶴と亀がすべった(四神で南と北、忠輝と松兄が入れ替わる)

うしろの正面だぁれ?

いろはが振り向くと 息子を連れた忠輝が立っていました。

 1625年「月見の連歌会」において、飛騨高山の忠輝と、死んだフリして仙台に潜んでいた松兄は完全に入れ替わりました。このとき忠輝34歳、いろは32歳、息子は8歳になっていました。

 忠輝は伊勢朝熊に流された時に坊主頭にしていますが、これは後に大きな武器になりました。また、綱元が栗生屋敷(西舘)に移ったのは、政宗公が本丸から若林城(現宮城刑務所の場所)に引っ越した後の事です(寛永6年)。忠輝と兄の完全すり替えまでの間、のこのこと忠輝が仙台に来たりするのは絶対にないことです。当時に飛騨高山-仙台を往復するということが、どれだけ大衆の目にさらされるかを考えると不可能です。やる時は一発勝負です。

 寛永二年(1625)八月十五日、政宗公は数百人の家臣を伴って金森の城へと向かいました。その中に僧侶も数名付き添っていた事でしょう。当時としては、ご祈祷する事は医者と同じような意味合いを持っていましたから、僧侶がいてもおかしくは無いのです。その坊主の一人が双子忠輝の兄であったのです。頭巾をかぶれば顔などわからないでしょうし、忠輝くらいの人物になれば、下っ端の人間が顔を観る事などできませんから忠輝に似ているなあ、などと疑う余地は皆無です。そして政宗公が詠んだ歌のごとくすり替えが終わって、一行は仙台へと向かいます。僧侶は自分のお寺へと戻りますが、忠輝が向かった愛子栗生には、8歳になる小僧といろはがおりました。感激のご対面です。

 江戸で生まれた子供はすぐにどこかの寺に預けられ、長旅に耐えられる年齢になってから仙台へと移されていたのです。仙台城の中では幕府のお目付け役がいる関係上子供を育てられませんから、お寺に預け(出家させ)育てていました。

・1626年(寛永3年)、

この年 御5男御誕生 次郎兵衛常元と称される。後 五右衛門と改めらる。軽部隠岐殿某の家嗣となりたまう。

綱元78歳で5男をもうける。とありますが、この子は忠輝の子供と思われます。昔は、妻(いろは)が30歳を過ぎると主人(忠輝)の寵愛をお断りする慣わしでした。そのため、若い女性を選んで主人(忠輝)に相手をさせたのでした。そこで子供が出来てしまったため綱元の子として、どこかへ養子に出しました(その後の子供の消息は不明)。戦国時代の恋愛は武将になるほど現代のようなきれいごとではなかったようです。男尊女卑の時代ですから、若い女性をあてがうということは接待の一つでした。それを受けるも丁寧に断るも受け手次第。茂庭家記録でも江戸の徳川家の家老の接待に女中を身の回りの世話役として差し上げたが、丁寧に帰してきた。というような内容の記録が見えます。忠輝に対してもいろはとの再会の喜びとは別に、そばに女性を付けられたのだろうと思います。

・1628年(寛永5年)、

政宗公若林城に引越し。本丸の坂道の上り下りがつらいので、平らなところへ移りたいと’隠居を匂わせる理由’で家光にお願いし許可をもらった。しかし実際の若林城は、まわりをそびえる高さの強固な城壁で囲み、まるで要塞を思わせる建造物でした。政宗公は60を過ぎてもなお、天下取りの夢は持ち続けていたようです。

・1629年(寛永6年)、

政宗公も引っ越したことだし、わし(綱元)も栗生へ引っ越すかなと。これで、忠輝様と五郎八姫は本丸で殿様ごっこできるべ。

・1631年(寛永8年)、

栗生で連歌でもやりながら今後の戦略でもかだっぺ。軍資金も隠したし、キリシタンもいっぺいるし。なあ、忠輝どの。。。おっと今は僧侶の***でしたな、ハハハ・・・

 歴史の記録は結果の記録です。でも人間は結果を出す前に目的があります。それは一点を見るとわからなかったのですが、こうして様々な角度から追求してゆくと真の目的が浮かび上がってきました。栗生屋敷の連歌の席(14人の中)に僧侶のフリした忠輝がいます、きっと。

●常長愛子入り

 支倉常長がフィリピンに2年滞留し、頃合をみはからって日本へ上陸、そして仙台に着いた年が1620年、いろは姫と申し合わせたかのような同じ年の、数ヶ月違いです。キリシタン弾圧激しい中、迎えに行った綱元さんと黒はばきの働きで無事仙台入り、おそらく愛子直行でかくまわれたことでしょう。ツネさんがあっちから持ち帰った『おみやげ』の、現金化しやすそうなものは「島原」へ置いてきたかもしれません(いざというときの足しにせよ.政宗の命により)。しかし、金では買えない、日本では見たことも無いすんぎょいものは、政宗公へ献上したはずです。ちなみに政宗公のお墓から発掘された金のブローチ(ロザリオ)はそのひとつで、常長の偉業を称える意味でも墓に入れるほど大切にしていました。ツネさんの責任ではないにせよ、目的果たせず帰国したふがいなさを、これらのすんぎょいおみやげでカバーできるかもしれん。と思うくらいすんぎょいものを持ち帰ったのではないかツネさん・・?

 ツネさん一行は、行く先々で大歓迎を受けたそうではないですか。どっかの港にはツネさんの銅像まで建っています。生まれて初めて見る東洋人だったでしょうし、彼らがどんだけオシャレしてったことか・・・しかも同じ宗徒でもって、さらに政宗のことですからこっちからもすんばらすいおみやげを持たせたことでしょう。国宝級のアレだのソレだの、だってなにせ黄金の国ジパングですよ、東北地方はザックザクですよ。一緒に日本を乗っ取ろうぜな勢いで行ったんですもの。それなのになんだか日本ではキリシタンの迫害がすさまじい。だから

『悪いけど今のところはご期待にはそえられません。その代わりこれをお持ちなさいな。これはね、すんぎょいものなんだよ。ミスターいだてによろしくね』

と言ってローマ教皇は通訳に日本語で’取り説’を書かせました。あっちからの『おみやげ』の一部は明治になってから発見され、博物館に所蔵された。その一部以外のいっぱいはどこにいってしまったのですか?それに明治になるまでその一部はどこにあったのでしょうか。

 仙台城の崖下の対岸に「花壇」と呼ばれる御屋敷があった(現在も花壇という地名で残る。ちなみにイタコはここに10年住んでいた)。その名のごとく、花畑があったところだが、その屋敷にキリシタン関連の品々を収納していた蔵があった。明治になってその蔵を開けたところ常長が持ち帰った品々の一部が発見され、常長の存在も明るみに出たのである。

 京都祇園祭で繰り出す山鉾に、常長がローマ法王五世からもらってきたタペストリーが使われている。京都以外にも大津や長浜にもタペストリーがあるが、五枚のタペストリーを会津藩主に渡し、会津藩主が二枚を徳川家光にあげた、残りの三枚は会津の天寧寺へ渡ったという流れである。家光に渡った2枚のうちは一枚を江戸芝の増上寺に、残りの一枚を加賀前田家にあげている。前田家の物は現存しているが、増上寺の方は焼失したという。会津天寧寺の3枚は、1800年ごろ京都の商人が買取り、祇園祭の鯉山が買い分割して現在に至っているという。

 いろはとツネさんは、栗生屋敷で夜な夜な語らい合ったことでしょう。本場のキリスト教のこと、教皇様のこと、異人の生活のこと、オシャレのこと、食べ物のこと、あんなことそんなこと、、、そして財宝のこと。いろはは生まれながらの超セレブなお嬢様です。ちょっとやそっとのお宝には驚きゃしません。アラこれはなにかすら?なんだかよっくわかんないけれどもとにかくすんぎょいものみたいよ。日本語の取り説も入ってるわ、親切ね。盗まれないように金庫に預けましょう。by イロハ

金庫=土の中

●若林城

 政宗公が若林城(現宮城刑務所)を隠居の場所とした事は、まさに矛盾だらけです。今の博物館のある場所(青葉山の下)は三の丸の跡でした。山登りがきついのなら三の丸で隠居しても良いはずだし、後にできた二の丸でも場所的には問題なかったはずです。わざわざ若林に城を築いた理由が、忠輝を盟主(主君)と仰ぎキリシタンをまとめて反乱を起こすという考えであれば、若林城は仙台の防衛線としては最高のものになることでしょう。そのために本丸を空けたのだとすれば、つじつまが合います。

 人目につかない愛子には隠れキリシタンたちが集合しています。常長さんが帰国した後隠居した(といわれている)川崎町へは山越えすれば秋保(あきゅう)を抜けて行き来できます。グランドクロスの東西ライン近辺に軍資金の一部を隠しておけば、仙台の表を通らずとも愛子に出入りできますから。忠輝、いろは、ツネさんが、政宗公の下でキリシタンをまとめる重要なポストについていたのです。25歳の若さとその性格からも、忠輝がおとなしく幕府のいいなり隠居するなど考えられません。「政宗パパに一生ついていけばオレの人生に活躍の場ができるゾ!」改易前キリシタン大名だった忠輝は、政宗にとっても強大な戦力であり、双子の兄がいてこその戦略です。そのような計画が着々と進められたにもかかわらず、実行されないままに政宗公が死んでしまいました。

 その悲しみを歌ったのがいろは姫のかごめ歌、なのかもしれません。

かごめかごめ・・・(籠目-仙台)

籠の中の鳥は・・・(仙台にいる忠輝は)

いついつ出やる・・(いつ出陣するの)

夜明けの晩に・・・(神事の行われる時間帯)

鶴と亀がすべった・(忠輝といろはのキリシタン反乱計画がすべった-失敗した))

うしろの正面だれ・(代わりに戦ってくれるのはだれ)

だから、政宗公の亡くなった翌年に(辛抱たまらず!)島原の乱が起きたのかもしれません。

●いろは歌

 五郎八という名前、響きがとても女性らしく政宗公の美的センスが伺われます。でも、漢字は男性的です。第一子に五と八の数字がつく意味はなんでしょうか。五郎八の名前の由来は、どんなに調べても結局は推測二通りしか出てきません。

・男子しか考えていなかった(ゴロハチ)のに女子が生まれたからゴロあわせでイロハと呼ぶことにした。

・女子が生まれたら次に男子が生まれるようにその女子に男子の名前を付ける風習があった。

いろは歌は48音  四八音(よはね) 

ヨハネといえば『新約聖書』に登場する古代ユダヤの宗教家・預言者のヨハネさん。イエスの到来を告げる役割をもっていた・・?

もうひとり、ユダヤのヨハネさんとは別に、新約聖書に登場するイエスの使徒12人の一人。

『イエスの愛しておられた弟子』あるいは『愛する弟子』

このヨハネさんは「黙示録」を書いてますね。終末思想『ヨハネの黙示録』です。

愛子(あやし)に今も残る奇祭ですが、口を利いてはならない、人に見られてはならない、家の主人がお参りから戻るまで家人も同じく無言で隠れるように過ごす。主人にお参りに持たせるお膳には、料理と一緒に12膳の箸(わらで作ったものを糸で結ぶ)を添えるそうです。

つまり12人で召し上がれということですね。キリストの愛した弟子12人へ捧げるためでしょう。そしてこの愛子の奇祭が行われるのは8月15日、マリアが昇天した日とされています。8/15といえば、忠輝と双子の兄が入れ替わったあの日、月見の連歌が行われた夜。偶然でしょうか。。

籠目籠目   (仙台城下の六芒星)

籠の中の鳥は (城下の財宝は)

いついつ出やる(出やる→いやる)

イヤルとは、ユダヤ暦の2月(太陽暦の4?5月)。

愛姫がキリシタンだったことで、待望の第一子は性別に関係なく最初から「いろは-48音」と決めていたのではないでしょうか。男子が生まれても「いろは」と読める文字を考えていた、、、政宗公は、国内のあとは世界征服まで考えていて、そのためにはローマ教皇に気に入られる名前がよかろう、ってことで。

いろは歌-すべてのカナ音を使って作られている手習い歌

いろはにほへと ちりぬるを   色は匂えど散りぬるを

わかよたれそ つねならむ   我が世誰ぞ常ならむ

うゐのおくやま けふこえて   有為の奥山今日越えて

あさきゆめみし ゑひもせす   浅き夢見し酔ひもせず

この中に、イエス・キリストに関係する暗号が隠されているといいます。また「ん」を加えて48音になるのは明治になってからのようですが、当時は47音で通っていました。10世紀頃には48音だったなど、諸説ありますが、政宗公のことですから先見の明で48音-ヨハネを決定していたのかもしれない。

ユダヤ、六芒星、政宗、預言者、ヨハネの黙示録、財宝、いろは歌・・・・・

■伊達な埋蔵金■

 『夜明けの晩に』-神事の行われる時間帯-----深夜2時前後、いわゆる’丑三つ時’です。方向でいえば「鬼門」に当たります。七夕でいうと、七月七日の午前1時?3時、織姫と彦星が年に一度最も近づく時。この歌が暗号として使われたのだと、まことしやかに囁かれ現代までナゾのまま残ったのは、24時間のうちで最も神秘なことが起こるまたは行われる時間帯だからです。それが童謡として幼子の口伝えに広がった(いろはが子供の間で流行らせた?)ことも不気味さを増し、人々の興味をそそったのだろうと思います。

夜明けの晩に 鶴と亀がすべった。

丑三つ時、忠輝と兄が入れ替わった。

丑三つ時、忠輝といろはがキリシタンを統一した(集会をやった)

丑三つ時、***に軍資金を埋めた。

この歌が仙台発祥である証拠はなにもありません。しかし、六芒星や七夕に関係してることから、陰陽師親方の17年にわたる歴史研究の成果と、史実に沿ったイタコの妄想がシンクロし始めました。日本の埋蔵金伝説にはウワサにすらあがったことのない史上初の「 いだて政宗 の埋蔵金 伝説 」が生まれそうです、、、

●経緯

 さてここで、今までの事を整理してみたいと思います。

六芒星と四神の配置は「呪術都市」の裏づけがとれました。グランドクロスの東西のラインは、呪術的観点からいうと東の’誕生’と西の’死’といった、’輪廻’とも解釈する事ができますが、それにしても六芒星の中心をズバリ正確に貫いている事から、もっと大きな意味を持っているのではと考えました。それに諏訪神社の宮司の「夢想の連歌」の件、あとで詳しく説明しますが、宮司が夢で見た歌を綱元に伝え、それを政宗公に報告し、わざわざ連歌会の主題に持ってきています。城でやればいいものを、隠棲地区の愛子で、林に囲まれた小さな屋敷にお偉いさんがゴチャゴチャと集まってドンチャンやっています。しかも近所にある諏訪神社を綱元が新しく建て直しちゃったりなんかして。

 諏訪神社は元々国分氏の一の宮です。愛子地区一帯および、政宗統治以前からの仙台の総鎮守でした。ここの和尚の(たかだか→)夢で見た(←ということになっていますが)歌が、治家記録に残されるほどの大げさなことに発展しているのです。

 建設工事を建前に、ドンチャンをカモフラージュとし軍資金などを隠した(あるいは取り出した)と考えても不思議ではないと思います。それを決定付けたのが忠輝が仙台へ来ていた、という推測です。忠輝が六男ではなく双子の七男であったという発見と、いろはには子供がいたという事実。そして常長の帰仙といろはの仙台入りが同じ年であること。大久保長安が忠輝の付け家老だったこと、死んだ後に軍用金ではないかと疑われるほどの私財を隠し持っていたのが見つかったこと。その事件に忠輝と政宗も関係ありとみなされたこと(これが忠輝が改易された本当の理由)。

 などなど、若林城の件も含めて、キリシタンによる幕府転覆計画があったと結論付けても筋書きが自然に通ります。

そこに「かごめかごめ」と「七夕祭り」が政宗公の発案らしいということも加わって埋蔵金暗号歌説のストーリー展開になりました。

 日本国内の埋蔵金伝説を調べてみたところ、実際に発掘された例も数あれど東北地方(仙台藩)には、いままで一度もささやかれたことすらない(勝ち組だったという理由あり)のだそうです。昔は銀行などありませんから、土の中へ埋めるのは日常的に行われていたでしょう。戦国時代、どの藩でもいざというときの軍資金は当然ながら確保していたはずです。倒幕を企て世界征服まで考えていたであろういだて政宗が、莫大な軍用金をどこへ隠していたのか。当然一箇所ではないでしょう。

 まずグランドクロスの東西のライン上はあやしすぎるほどあやしいあやし(愛子)。この一帯には伊達家関連の神社だのお堂だのがいっぱいあります。仙台藩の密会の館’栗生屋敷’のうしろには蕃山(ばんざん)があります。政宗公没後、この屋敷にいろはが移ったとき、「蕃山も私のものにくださいな」と言ってもらっていることから、何か目的でもあったのかと思われます。蕃山は、伊達家と非常に親しく付き合っていた和尚(雲居禅師うんごぜんじ)が晩年住んだ山です。この雲居さんもかなりナゾな人物、、、

 青葉神社の片倉宮司が気になっているのは、白石蔵王です。白石といえば政宗の片腕であった片倉小十郎景綱。白石城は仙台城の支城として伊達家の重臣片倉氏が代々居城しました。白石蔵王の別名は『不忘山-わすれじのやま』。

●夢想之連歌

寛永8年(1631)の元旦に諏訪神社別当山伏宮之坊が明神の夢相を見たとあります。

寛永8年正月25日に愛子村御屋敷(愛子西舘)において夢相ひろめの御連歌あり。

寛永12年(1635)霜月明神宮(諏訪神社)御造営ありし。

大辞林より

むそう-れんが ―さう― 【夢想連歌】

夢に現れた神仏の暗示により得た句を、発句に据えて巻く連歌

わかりやすくいうと、諏訪神社の宮司が、政宗公が歌を詠んだという初夢を見たんですね。その歌は「世を長く保つ心は政宗の 世界静かに住吉の松」というものです。それが綱元に伝わり、政宗公に報告した。その月の25日に栗生屋敷でその和歌をお披露目する会が行われた。政宗はこの歌をとても気に入り(?)、神社に金3両を奉納した。そして自筆で「代ヲ長クタモツ心ハマサム子ノ セカイシツカニ住ヨシノ松」と書いて残した。その後綱元さんが、人んちの神社なのに再建を申し出て造園などして手を加えてます。

 神木住吉の松は実際神社敷地内にあるようなんですが、現在では、長年の風雨にさらされ、木は枯れているが自然に崩落するまで補強を行い保存していくことが決まっている-そうです。

歌の中に一箇所気になる部分が。

マサム子ノって、ネだけ漢字の子になっているのが気になりましたが、政宗が詠んだ他の歌にも「マサム子」が出てくるそうで、子(ね)は12支の最初(スタート)なので縁起が良いことから、なにかと子にこだわりがあったようです。たしか、仙台城を築城するときも子年を選んでいたような・・・・この歌の解釈ですが、’戦なんかやめてこの松のように静かに末永くいこうよ’なかんじでしょうか。政宗らしくないような気がします。。。

 金三両というと、今の価値で表すとだいたい20?30万くらいでしょうか。てことはこの宮司さんの夢見料が60?90万。埋蔵的には ’ショバ代 ’・・・?この歌の解釈が正しいかどうかはわかりませんが、政宗というよりイロハっぽいですよね。「ったくもうあんたたちいい加減ケンカなんかやめて静かに暮らしなさいよぉ」

アラ? マサムネの子だから マサム子ノ  ?? 

諏訪神社-青葉区で一番古い神社の風格

住吉の松は朽果てわずかに切り株が残っている

この歌会で詠まれたのは66首。創世記からヨハネ黙示録まで聖書66巻。偶然でしょうか。

●千手観音善入院

国分氏の陽雲寺と同じ並びで、すぐそばのこのライン上に、もうひとつ古い神社があります。千手観音善入院。政宗公が好き(?)な子年の守り本尊です。子は始まり(スタート)、東西ラインの東は誕生(生)。

境内に樹齢約200年のイチョウの木があります。毎年春にはウグイスがやってきて、秋にはギンナンがたわわに実ります。御神木の貫禄充分で、天にまっすぐ向かう幹や枝ぶりはみごとです。この神社は江戸中期頃に建てられたようです。二代藩主忠宗の頃でしょうか。。。由来は、白根沢喜兵衛という人が’夢のお告げ’を受けてどこかの山に入り観音像を発見したとあります。しばらく自宅保管していたがこれじゃバチが当たると、どこかの神社に預けたがその後、寺や神社同士の合併があり現在の善入院に落ち着いたそうな。

 この界隈は藩政時代宿場町として栄え、御米蔵もあって年貢米を牛車で運ぶ重要な街道でもありました。松雄芭蕉が多賀城、塩釜へ向かうときにも通ったといわれています。現在は仙台三十三観音の第10番札所に、平成8年には仙台市の登録文化財にも指定されています。

木鼻部分には獅子頭と鶏頭の装飾

正面には鶏頭

獅子は権力や王の象徴であり、西側(仙台城)を向いています。鳥は酉。五行でいうと酉は「金」。(桃太郎もキジを連れていきました)

夜明けの晩に→夜明けの番人→鶏(コケコッコ)

鶴と亀がすべった→鶴亀は長寿の象徴。すべるということは死を意味する。

かごめかごめ(仙台城下)

籠の中の酉は(城下の金-財宝は)

いついつ出やる(いつ出したらいいの)

夜明けのばんに(夜明けの番人←鶏)

鶴と亀がすべった(政宗公が亡くなった)

後ろの正面だれ(政宗の代わりはだれ)

 戦国の世、男の’道具’でしかなかった女たちの『生きた記録』はほとんど残されていない。逆にいえば、藩の機密を託すには好適の戦士。五郎八姫は、政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子。美しく聡明な姫を、政宗公は『影の後継者』として育てた。仙台七夕は、伊達政宗公が婦女に対する文化向上の目的で奨励した祭りである。

 身分の差こそあれ、この時代の’幸せな女性像’というものが浮かんでこない。そのような折、異国からやってきた愛の思想は、女達に一筋の光を与えたのだろう。『キリスト教』-愛を説く宗教は、非情な境遇に置かれた女達にとって人としての存在価値を唯一認めてくれるものとなった。武将達がザビエルを大歓迎したのは、鉄砲という近代武器や治水・鉱山などの日本には無い先進的技術を彼らが携えてきたためである。それに付随してもたらされた‘宗教‘は、それらの技術と同時に受け入れられていく。先進技術は貧しい地域の直接的な助けとなり、理想だけの仏教の教えから、生活の向上という現実的なご利益をもたらした。

 「技術と宗教」は多くの人たちの心をとらえ感動させた。「愛の思想」は、殺戮を繰り返してきた一部の武将達の良心にも光を投げかけ入信するものが後を絶たず、当初は信者の数が70万とも80万人ともいわれた。しかし宣教師の中には純粋な思想の伝達以外に、国家的思想を持ち込む者もいた。

 当時はイスパニアのイエズス会派とオランダのプロテスタントに別れそれぞれに貿易などの利権が絡んでいた。そのためオランダはイギリスと組んで、徳川幕府にイスパニア批判を訴えたのである。それを信じた幕府はキリシタン弾圧を開始した。改宗させるための刑は悲惨を極める。純粋に思想を受け入れた信者達は極刑に処されても信仰を捨てなかった。殉教していく仲間を知るにつれ、日本人気質が逆に信心を固くしていったのだろう。人として、筆舌に尽くせぬ残虐行為が国家の命令で行われていたこの時代、まさしく狂った世の中としか言い様が無い。このような時代に、思惑の反する’キリシタン擁護者’がいた。ひとりは、天下の影の将軍として恐れられていた『奥州の雄 伊達政宗』。そしてもうひとりは、その娘『五郎八姫-いろはひめ』。徳川幕府のキリシタン弾圧が激化する最中、ふたりは領地仙台の城の背後にキリシタンの聖都を築いていたのである。『イエスの愛しておられた弟子』あるいは『愛する弟子』をかくまった村「愛子(あやし)」。いろはが余生を送った地、 隠れキリシタンの里である。

「越後少将様、いろは ただ今到着いたしました。」

久しぶりで会った姫に忠輝は目を細めた。

「長の旅疲れたであろう。しかし、その’越後少将’と呼ぶのは親父殿の入れ知恵だろう」

面を上げた五郎八姫は笑顔を見せながら

「さすがに少将様察しの良い事。父上は会うたびに良き夫をもたれたと言い、少将様の自慢話をされておりました。」

「そうか、親父殿がそのように申して居ったか・・・」

忠輝は姫の先に政宗を映しながらうれしそうに答えた。

五郎八姫6歳時の縁組から16年の歳月を経て、二人は晴れて夫婦となった。

翌年慶長19年には、忠輝のために高田の城を築く事となり、建設のため伊達家並びに各藩から普請のために人が集められた。

「少将様、立派な城を築いて見せますぞ」忠輝に近づきながら政宗が声をかけた。

「これはこれは親父殿、大儀をばおかけしまして・・・姫もまねをしますゆえ’忠輝’と呼んでくださらぬか。」

「いやいや、もったいない。本当は大将様とお呼びしたいところですわ(笑)」

「これ親父殿声が高すぎます。こちらで茶でも進ぜながら四方山話なぞいかがでしょうか。佐渡もおりますゆえ。」

「佐渡?佐渡守殿がおわすとな!?」

佐渡守と呼ぶのは、家康が忠輝につけた勘定奉行大久保長安のことである。

しかし長安は昨年の4月25日に亡くなっている。

死んだ後にとんでもないものが出てきて、子供達7人が死罪となる事件(大久保長安事件)が起きるのである。

その事件の中心人物が実は、政宗と忠輝だったのだ。

茶室に入ると一人の娘がひれ伏して待っていた。

「親父殿、紹介いたしまする。この女は大久保長安の女郎集に紛らしておいた’間者’でございます。」

「多恵と申します。」凛とした声に女の気性が伝わってくる。

「くるしゅうないおもてをあげよ。」

政宗に促されゆっくりと顔をあげた女は、日焼けした肌にきりりと引き締まる黒目と口元が精悍さを感じさせる。

「この女は長安から渡された黄金をある場所に運ぶ役目をしておりました。」

「なんと、この細腕で黄金を運んだとな」驚く政宗に忠輝は

「まさか親父殿、人足に化けた間者の男集が運び出したのです。多恵が指揮をとりました。」

納得顔の政宗は多恵に笑みを向けた。

大久保長安はもと武田家の家臣で、甲州流採鉱技術を学んでいた。しかし、武田家が無くなり浪人していたところを佐渡の金山奉行として家康に抜擢された。採掘された金は幕府と山分けとし、長安はかなりの黄金を蓄財する事ができたという。そのため佐渡の行き帰りには、女郎を引き連れたド派手な大名行列を作り、旅籠では飲めや歌えのどんちゃん騒ぎであったと伝えられている。その度重なる美食が祟ったのか、病気になって亡くなった。

 長安は浪人のころキリシタンの宣教師から南蛮流の鉱山技術を会得しており、高度な技術を持っていた。忠輝の奉行となりキリシタンいろはもからんだことから、長安と政宗はかなり近しい関係となった。徳川幕府に不満を抱いていた長安は密かに「天下を治めるのに相応しいのは政宗公」と考えていた。『イスパニアの軍艦を加えて日本の国をキリシタン王国とする』という筋書きで蜂起すれば日本中のキリシタン達も一丸となって協力するであろうと計画を練っていた。そのとき忠輝は大将軍となり、政宗はキリシタンの国『日本の王』となるのである。

 長安は政宗に、資金面ではいくらでも用立てる事を約束していた。そして、その目的のための連判状をも作っていたのだ。しかし、まさかあっさりと病気で死ぬなど思いもよらず、ましてや女にうつつを抜かして生前に言った言葉が仇になろうとは、草葉の陰で臍をかんでいる事であろう。

「あのばか者が・・・女に死んだら一万両やるなぞと言ったばかりに、女に訴えられて屋敷を調べられる羽目になってしまった、、、」政宗は小さく舌打ちをした。

「たしかに、あの事件で見つかった連判状に親父殿とわしの名前が書かれてあって言い逃れるのに大変な思いをしました。そのうえ、長安が隠し持っていた金銀百万両も取り上げられてしまって・・・・」

「ところで、多恵殿が運んだ黄金はどこに隠したのじゃ。」

「それは、ここでは云えませぬが・・その金額でござる。」

「いったいいくらあるのでしょうかな。。」忠輝と政宗は目を合わせた。

忠輝がおもむろに右手の人差し指をあげた。

「一万か?」

忠輝は首を振る。

「十万、いや百万か?」

口元にうっすらと笑みを浮かべながらまたゆっくりと首を振った。

「なんと・・・! それでは千万か 」

忠輝は静かにうなずくと、「それに近いほどにござる、、」と耳打ちした。

ゆっくり大きくひとつ息をして姿勢を起こすと 政宗は 天井をにらんだ。

五月晴れの日差しが 茶室の障子越しに湯気を白く切り取っていた。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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