八十村路通

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm 【八十村路通】より

やそむら ろつう

(~元文3年(1738年) ?、享年90歳)

年表/Who'sWho/basho

 八十村氏。露通とも。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。  貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。元禄2年の 『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた (路通では品行が悪いからという説と、曾良が越後村上に元主人の墓参をしたいという願望があってそれを実現させてやるための2説がある)。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。

 路通は、素行が悪く、 いわゆる茶入れ事件やら、芭蕉の著作権に係る問題*やらを出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は「草枕まことの華見しても来よ」と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。 芭蕉の死んだ元禄7年ごろにはすでに芭蕉の勘気は解けたとされている。

『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。

* 芭蕉が、加賀の門人からの依頼で書いた付け合い17体を後になって反故にした。これを路通が勝手に使用して公開してしまった。これで芭蕉の勘気をこうむった 。芭蕉初七日法要には路通の姿があった。

路通の代表作

火桶抱ておとがい臍をかくしけり

我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)

はつ雪や先草履にて隣まで (『あら野』)

元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)

水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)

ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)

鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)

芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)

蜘の巣の是も散行秋のいほ (『あら野』)

きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)

いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)

鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)

芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』)

つみすてゝ蹈付がたき若な哉 (『猿蓑』)

彼岸まへさむさも一夜二夜哉 (『猿蓑』)


https://mujin.at.webry.info/201210/article_2.html 【路通】より

旅 俳諧 路通

 前回ブログ「余呉湖の雪」で斎部路通(いんべろつう)のことに触れた。路通は慶安二年(1649)の生まれ、一説によると三井寺の寺内で生れたともいわれる。「寺内生れ」には、その言葉自体に薄倖な生い立ちを感じるし、路通の境涯をすでに暗示しているようにも思う。

 いちおう三井寺で修行僧として青年時代を過ごしたらしいが、『蕉門名家句選』の路通の項には「俗念多く、また奔放にして驕慢な言動が同門の不評・反感を買う」とあるので、どうもまともに精進していたとは思えない。

 名は伊紀、通称は与次衛門と呼ばれていたとのこと。その驕慢な言動が災いしたか、一時、師である芭蕉に勘当されていたとも言われている。そういう生来の気儘さが功を奏したか、記録によると九十歳という当時では破格の長寿を全うしている。

 最初は八十村(はそむら)路通として文献等に紹介されていた。ところが、近年(2008年)発見された路通に関する書簡には、斎部路通とありその「斎部」に「いんべ」とルビが付されてあった。このため現在は斎部(いんべ)路通と記載されることが多くなってきた。斎部姓は大和時代まで遡る名族で、物部氏と同様神職に関わった一族と言われている。一筋縄では解せぬ路通のこと、あるいは自らの権威づけのため、古代の名族姓を拝借した可能性は否定できない。三井寺で何年間修行したのかは定かではないが、その後僧侶姿に身をやつし諸国を放浪したようである。

 後に蕉門に入り師の『奥のほそ道』を訪ねて奥州路遍歴もしている。放浪が終われば湖南の膳所辺りを本拠地にしていたようである。芭蕉との邂逅(貞享二年)も膳所であった。当時、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途中であった。路通の蕉門入門はその折とも、またその後江戸に下り芭蕉に直接入門を請うたとも伝えられている。芭蕉の曲翠宛て書簡(有名な「風雅三等の文」)には、路通が還俗(げんぞく)し周囲を呆れさせたとの記載が見える。僧俗奔放、その気儘さと傍若無人な態度は蕉門俳人達からも相当に嫌われていたらしい。しかし同じ蕉門の俳人でも菅沼曲翠とは、すこぶる仲が良かったようである。曲翠は膳所藩の重臣で、乞食坊主路通とは天と地ほども境涯に差がある。通常では考えられぬ厚誼が芽生えるのは、やはり風狂の世界(俳諧)だからであろうか。そしてそれを好ましく見守る芭蕉も実に懐が深い。

     いねいねと人にいはれつ年の暮    路通

 この句は、後に俳諧の『古今集』と呼ばれた『猿蓑』に収載されている路通の代表的な一句である。「いね」は「去る」の命令形で「去れ」、平たく言えば「あっちへいけ」と人に厭われて今年も暮れようとしている、という自分の境涯を客観視した句であろう。

 蕉門には武士や元武士だった俳人、商人でも大商人と呼ばれる俳人が多かった。その中で路通は、ひと際異端であった。定職も持たず僧に身をやつし、約束も守らず傍若無人で驕慢な態度は、たしかに眉をひそめるような存在だったのだろう。しかし私はこの路通の面影は、どことなく江戸から明治前半にかけて恵那谷を放浪した俳人井上井月と重なる。路通は自分を理解してくれる芭蕉・曲翠を愛し、自分を蔑視する人にはあからさまに嫌がる行動を取ったが、井月はそれをしなかっただけである様に思う。井月も子供達から「いねいね」と石を投げられ、泥田に押し倒されたが、ただ怒らなかっただけのことであろう。

 芭蕉の『奥のほそ道』出立の際、随行者は当初路通だったという説がある。しかも、そもそも奥州行脚を勧めたのは路通ではないかと思わせるような芭蕉書簡があるという。郷里の俳人に宛てたものと言われるこの書簡には、ただ「僧」とだけあり路通とは特定されていない。路通はこの随行を承知していたが直前になって消息を絶ったという。このため急遽曾良が随行することになるが、行脚の終盤、山中温泉から曾良が急に芭蕉と別れ伊勢に旅立っている。入れ代わるように路通が敦賀で芭蕉を待ちけて大垣まで随行している。従って、この間の約十日間は、いわゆる『曾良旅日記』の記載がない。このため小松以降の芭蕉の正確な行脚経路や宿泊地は不詳なのである。曾良が去り路通が迎えるこの経過は、芭蕉・路通の間に格別な意思の疎通があったことを意味していると私は思っている。

 路通は蕉門における自分の地位・位置関係を十分知っており、また芭蕉の行脚の目的を知るにおよび、自分がその任にそぐわないことを自覚したと思う。その上行脚の途中、各地で開かれる歌仙の座で会席する地方大人との応接は、自分の性癖を考えると暗澹たるものがあったであろう。結果として自分は芭蕉の随行者に全く相応しくないことを悟る。そして無言で消息を絶つ、という最も路通らしい断り方で芭蕉から去ったのではないかと思われる。たぶん、そのこと、つまり路通の心を、芭蕉には先刻承知であったと思う。これは私の勝手な推測であるが、曾良が去ってから(あるいは去る前に)路通に連絡を取ったのは芭蕉ではないかと思う。山中温泉から一端小松に帰り敦賀に至る約七日間は路通と会うための調整期間ではなかったかとさえ思っている。そうすることで路通の面目を立ててやったのではないか。それを一番よく知っていたのは当の路通自身ではなかったかと思う。

 路通にとっては、敦賀から大垣までの約五日間こそ、路通が当初想定していた随行だったのであろう。つまり、この間は土地の大人と歌仙を巻くこともなく、のちほど芭蕉が『奥のほそ道』に記載する大仰な何事もない、ただ好きな芭蕉と俳諧のことを話しながら気ままに馬の紐を引く旅だったからである。

 芭蕉もそれを知っていたし、芭蕉も旅の最後にそれを望んでいたように思えて仕方がない。

 山本健吉は、路通が余呉の湖で詠んだ句は、この時生まれたと大胆に予想している。

 私も、この句は芭蕉が経巡ってきた今回の旅に奇妙に通じる、そう言った「ほそみ」ある句であると思う。

 路通は、そういう句を作れる男だったし、芭蕉もそう見ていたように思う。

        鳥共も寝入てゐるか余吾の海    路通


http://ooikomon.blogspot.com/2018/03/blog-post_14.html 【路通「はづかしき散際見せん遅ざくら」(『乞食路通』より)・・】より

 正津勉『乞食路通ー風狂の俳諧師』(作品社)、路通は、付録資料1「芭蕉路通関係年表」によると元文3年(1738)7月14日、90歳にて没している。姓は八十村(やそむら)、江戸中期の俳人で芭蕉に師事し、芭蕉の没後も四十数年を生きる。

愚生は、不明にして路通に関する本をまともに読んだことがない。正津勉の本著がはじめてだが、著者曰く、路通伝が一本になったのは、本書が初めてだろうというのだから、これまで、芭蕉と同時代に、かつ親密に生きながら、放擲されてきた様子がよくわかる。

 圧巻は本書の第三章「火中止め」のあたりだろうか。水上勉との対話にも、証拠は無いものの、俳聖芭蕉と乞食路通の「世に男女の仲よりも修道の契りの方が深いとか」と記してもいる。それらが芭蕉と路通の句にも相対して表れているのだ。

  うかうかと後(きぬぎぬ)の朝うちふして(勧進牒)

  うつり香も黒き衣装はめにたゝぬ

評判の悪い路通について、芭蕉は遺言のように、

  なからん後路通が怠(ヲコタ)り努(ユメユメ)うらみなし。かならずしたしみ給へ(『行状記』)

と言い残す。弟子たちへの芭蕉の最後の願いだったとも記されているから、蕉門における路通の扱いは余程のことであったのだ。その著者「あとがき」にいう。

 路通。最底辺たる宿命にいささかなりとも屈することがなかった天晴な俳諧師。いつどこで野垂れ死にしていても、おかしくない薦被り者なのである。いまふうにいえば格差社会、ネグレクトのはてのホームレス、漂流棄民とでもいえようか。

 路通句作は、心底の発露だ。そこにはいまこそ聴くべき、呻きや、嗤い、沈黙、号泣、憤り、呟きや、ひめた声がいきづいてる。心底の発露だ。路通の句作は。

 いくつかの路通の句を本書よりいくつか挙げておこう。

  残菊はまことの菊の終りかな     路通   肌のよき石に眠らん花の山

  母におうとき三井寺の小法師          鳥共も寝入つてゐるか余吾の海

  いねいねと人にいはれつ年の暮         芭蕉葉は何になれとや秋の風

  白山の雪はなだれて桜麻            身やかくて孑孑むしの尻かしら

  しぐれ気のなふて一日小春かな         あかがりよをのれが口もむさぼるか 

 そういえば、思い出したことがある。愚生がかつて吉祥寺駅ビルの弘栄堂書店に書店員をしていた頃、正津勉はよく店に来ていたこと。もう40年も前のことだ。

正津勉(しょうづ・べん)、1945年、福井県生まれ。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498737395.html 【年の暮(としのくれ) 路通】より

いねいねとひとにいはれつ年の暮   路通(いねいねと ひとにいわれつ としのくれ)

路通と言えば、鳥共も寝入てゐるか余呉の海(とりどもも ねいっているか よごのうみ)

を思い出す。

路通も、師の芭蕉と同じ、漂泊の俳人だったが、芭蕉が各地で歓待を受け、パトロンである豪商や豪農の家に寝泊りしていたことが多いのに対し、路通は乞食行脚のような旅、漂泊というよりは、放浪の旅であった。

この句も、琵琶湖の上の小さな湖、余呉湖の旅愁を詠ったもの。

自分も渡り鳥のような人生なのだ、という自嘲のなかで、余呉湖の渡り鳥達に、お前たちもももう寝入っているだろうか、と呼びかけているのだ。

最近僕は、其角や去来よりも、路通の句に思いを馳せることが多い。

やはり路通の句には旅愁があるのだ。素行が悪く、芭蕉や弟子仲間にずいぶん迷惑をかけたようだ。弟子達が芭蕉に、路通を破門するよう懇願したこともあったらしいが、芭蕉はうなづかなかった。路通の天分を愛していたのだろう。

僕のなかでは、路通の句は若山牧水と響きあうところがあるように思える。

掲句。さびしい光景だ。

おそらく托鉢僧のように民家から、お米やお金の施しを受けようとしているのだろう。

しかし、町は師走の忙しいさなかだ。

お前なんかにやる米はない!さっさと出て行け、「去ね去ね(いねいね)!」と追い払われているのだ。

自分は俳句の道を追い求める、放浪の身。

もとより庶民の幸せなどを望んでいるわけではないが、忙しそうに、しかし、幸せそうに活気づいている師走の巷を眺めていると、ふと、庶民の小さな暮らしのなかに生きていた頃を、なつかしく思い出すのではないか。

今の俳句に、こういう放浪のさびしさを詠った俳句はない。

それはそれで幸せなことなのだが、あらゆる境遇を詠うのが俳句だとしたら、こういう世界がもうない、ということもさびしいことではある。

この句には、しんそこ哀歓がある。人生の重みを乗せた言葉には、どうしても勝てない。


https://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/da3a4f9b5f8d02caf26b49b4fad849c5 【路通という俳人】より

 芭蕉の「奥の細道」紀行の随伴者は、よく知られているように曽良であったが、実は当初に予定されていたのは路通であった。路通と曽良が入れ替わったのである。

 この路通には謎が多い。まず出身地に定説がない。美濃、京都、筑紫と諸説ある。本名は八十村与次右衛門とされているが、齋部(忌部)姓だともいう。いずれにせよ教養があって、三井寺育ちだったという説もある。

 元禄2年12月5日付で、芭蕉が大津の医者で俳人の尚白に宛てた手紙で、路通の俳句を紹介している。

  火桶抱(い)て をとがい臍(ほぞ)をかくしけり

 そして芭蕉は、「此作者は松もとにてつれづれ読みたる狂隠者。今我隣庵に有。俳作妙を得たり」と書きつけている。

「松もと」というのは現大津市の松本のことらしい。大津で徒然草の講義をしている狂隠者が路通だった。

 注目されるのは今は路通は江戸に出て、深川の芭蕉の隣に住んでいるという事実だ。

 芭蕉と路通の関係に、ただならぬものがあるように思われる。

 その路通を、なぜ奥の細道への同行者からはずしたのか、よくわからない。わからないことだらけだが、路通にかまけていると、私の小説『芭蕉の妻』執筆が先に進まない。ひとまず路通のことは棚上げしておこうと思う。けれども、あとで微妙に路通がからんできそうな予感がしている。


http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2016/12/post-46c3.html 【正津勉■乞食路通――風狂の俳諧師】より

はづかしき散際見せん遅ざくら

それにつけ素晴らしい、さすが路通なるなり。ここにいたって「はづかしき散際」との自嘲はどうであろう。いやほんとなんとも見事な挨拶というものでないか。〔…〕

 もうその刻が迫っている。路通は、このときぼそぼそと呟くようにしていた。それはなにかと陀羅尼経だったろうか。そのさき翁の塚にひれ伏して唱えた経である。そうしてやや、ひとりひっそりと息を引きとっていたのでは、ないだろうか。

■乞食路通――風狂の俳諧師|正津勉|作品社|2016年8月|ISBN: 9784861825880|○

 路通は、芭蕉が生涯かばい続けた不肖の弟子である。奥の細道むすびの地大垣で登場し、芭蕉を出迎える。じつはこの奥の細道の旅に随行するはずだった弟子である。

 その大垣で芭蕉が路通を連れて大垣藩次席家老の戸田如水を訪ねる(「如水日記抄」)。これはその日記に芭蕉のことを「心底計り難けれども、浮世を安く見なし、諂(へつら)わず奢らざる有様也」と書いてあることで有名。

 いまでいえば文化人顔した大垣市役所の戸田副市長が、多くの幹部職員を門弟にしている著名人を招いた図である。芭蕉はやむなく訪問。井本農一「芭蕉入門」によれば、「如水の『浮世を安くみなし』云々という口調には、芭蕉に対する多少の軽蔑と、また多少の羨望の気持がまじり合っている」という。

 この日記に「路通と申す法師、〔…〕是は西国の生れ、近年は伊豆蛭島に遁世の躰にて住める由、且又文字の才等これ有りと云々。白き木綿の小袖。数珠を手に掛くる」と記されている。

 ――路通。八十村氏。湖南を乞食中に芭蕉に対面。初め同伴者に予定されていた。一時勘気を蒙り臨終の際許される。(萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」岩波文庫)

いねいねと人にいはれつ年の暮

 乞食坊主路通は、「帰れ帰れ」と嫌われ続け、それを逆手に取ったこの句が有名(猿蓑に収録されている)。慢心、放縦、金銭にだらしない、後年は芭蕉の偽筆を書いて売ったともいわれている。

 路通37歳、芭蕉41歳のときふたりは出会った。芭蕉は50歳で亡くなったが路通は90歳まで生きたという。路通の13回忌に出された文集に、松助という門弟の一文が残されている。

――師翁路通、齢九十の春も過て、初秋の十四日、浪花江の芦間に見失ひ侍けるも、十とせ余り三とせなるらん。……。そのかみ翁の

はづかしき散際見せん遅ざくら

と八十余歳の筆をふるはれしも、なつかしきまゝ、門人渓渉が写しおける一軸の像にむかひて、文月某日袂をうるほす。(松助「路通十三回忌序」)

 ほとんど資料がなく、不分明な路通の生涯を、水上勉の談話や多田裕計の小説などを引用しながら、とまどい、行きつ戻りつ、その生涯をたどったのが本書である。著者は最後にこう書く。

 ――路通。最底辺たる宿命にいささかなりも屈することがなかった天晴れな俳諧師。いつどこで野垂れ死にしていても、おかしくない薦被り者なのである。〔…〕

路通の句作は、心底の発露だ。そこにはいまこそ聴くべき、呻きや、嗤い、沈黙、号泣、憤り、呟きや、ひめた声がいきづいている。(本書)

火桶抱いておとがひ臍をかくしける 路通

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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