賀茂氏と忌部氏

https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/4c27e53e4020bce78e2d01ed8ec1253e 【まことの花見】より

         路通(ろつう)が陸奥(みちのく)におもむくに

        草枕まことの花見しても来よ     芭 蕉

 弟子の路通へのはなむけの句であるから、路通の人柄を一応心におく必要があろう。

 路通は、乞食の境涯から芭蕉に拾われて、風雅の道に入るようになった。しかし、性格がわがままでしまりがないため、容易に真の風雅を体得できなかったもののようである。そういう路通に対してはなむけした「まことの花見」は何を意味したか、なかなかおもしろいところだ。「しても来よ」の「も」は、含みのある言い方である。

 

 元禄三年四月十日付、此筋・千川宛書簡に、「路通、正月三日立ち別れ、其の後逢ひ申さず候。頃日(けいじつ)は用事之有り、江戸へ下り候よしにて、定めて追つ付け帰り申すべく候」とあるが、『勧進牒』などによれば、路通はそのまま陸奥に下った。前書きは後に付されたものであろう。

 路通は蕉門俳人。斎部(いんべ)氏(忌部とも、また八十村ともいう)、露通・呂通とも書く。漂泊の僧として乞食生活をしていたが、貞享二年ごろ芭蕉に入門、『おくのほそ道』の旅で、芭蕉を敦賀に迎え、以後数ヶ月その身辺にあって親炙に浴した。奇行多く驕慢心があり、しだいに人々の非難を浴び、ついには芭蕉の勘気をも蒙った。『俳諧勧進牒』・『芭蕉行状記』の編著がある。

 「草枕」は、旅または旅寝の意。草を束ねて枕としたことから、もと「旅」の枕詞。

 季語は「花見」で春。やや具象性を欠いた用い方で印象が薄いが、芭蕉の思想をうかがうたよりにはなる。現実体験としての花見ではなく、風雅を象徴する観念的な使い方。

   「遠い陸奥での労苦の多い旅寝の間に、真の花見をして、風雅のまことをぜひ体得して来なさい」

      花冷えのべっ甲眼鏡の男かな     季 己


あらたえ考~大嘗祭を前に(3)調進の中断 戦乱など政情 ...

2019/4/10 -当時、8代将軍徳川吉宗は朝廷の儀式を尊重し、幕府の権威も高めようとしたとされ、祭祀の復活に力を入れた。 とはいえ、江戸時代の大嘗祭では阿波忌部は ...


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40029440V10C19A1962M00/ 【大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん】より

(語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系 徳島の麻文化再興訴え

四国

2019年1月16日 12:00

■阿波忌部(あわいんべ)直系の三木信夫さん(82)が11月に予定されている代替わりの皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」で自身2度目となる「麁服(あらたえ)」調進に向けて準備を進める。古代から続く徳島発祥の伝統文化を発信し、地域の歴史的価値の再評価につなげようと全国で講演活動に飛び回る。

 みき・のぶお 1936年徳島県美馬市で阿波忌部氏直系の三木家に生まれる。関西学院大法学部卒。90年の平成の「大嘗祭」で初めて「麁服」調進の任を果たした。国の重要文化財三木家住宅の管理者。「全国重文民家の集い」の代表幹事を務める。

「新天皇の即位関連儀式である『大嘗祭』において麻の織物『麁服』は欠かすことができない重要な品。調進とは天皇家から依頼を受けて納めることで、古代からこれができるのは阿波忌部である三木家だけだった。室町時代前半の南北朝の動乱でいったんは途絶えてしまうが、大正天皇の儀式で約580年ぶりに復活した。『大嘗祭』は日本の歴史そのものである。古代からの伝統様式をそのまま次の世代につないでいく努力が求められている」

「残念ながら『麁服』調進への関心は地元徳島よりも東京など首都圏の人の方が高い。徳島の人は天皇家の祭祀(さいし)において、この地が重要な役割を担ってきたという歴史文化を自慢してほしい。観光資源として活用するアイデアを地域で出し合うことも大切だと考える」

徳島県で最も古い三木家住宅は国の重要文化財だ

■三木家には1260年の亀山天皇の「大嘗祭」で「麁服」の調進をするように記された古文書が残る。三木家直系は「麁服」を作製し宮中に直接届けられる唯一の「御殿人(みあらかんど)」だ。三木さんは徳島に根付いてきた麻の文化や織物の技術を伝承し、再興することが地域活性化につながると訴える。

「麻を栽培する畑を整地し、春に種をまく。何度も間引きをしながら約100日で成長した麻を収穫し、茎の天日干しから煮沸、皮を剥ぐなどの工程を経て麻の繊維を紡いでいき、『麁服』が完成する。『麁服』にできる麻は気温が平地よりも3~5度低い高地といった限られた場所でしか栽培できない。こうした繊細な技術を確実に継承していくことは今後の課題だ」

「全国でも麻を織る職人は高齢になり数が少なくなっている。徳島の工業系の高校などでこの技術を教える課程を作ってもらえれば若い人に着実に受け継いでもらえると思っている」

「麻は法律で栽培が制限されていることもあり、管理も大変だ。私が担当した前回(の『大嘗祭』)は麻を育てる畑を24時間警備しなければならなかった。こうした人件費を含めて『麁服』調進にかかる費用は数千万円になる。徳島の企業や人に広く寄付を募っており、これが地元の関心が高まるきっかけになればと期待している」

■現在の吉野川市は麻を植える地域に由来する「麻植(おえ)郡」という名称だった。徳島の麻文化再興に向けて「麻植」の地名復活を提唱する。

「2004年に4町村合併で『麻植郡』が消滅した。これを後悔する人たちも増えている。兵庫県の篠山市が丹波篠山市への変更を問う住民投票が賛成多数で成立した例もある。麻農業が誇れる文化だと地域住民に浸透していけば、自然と地名を変えようという動きにつながってくるのではないかと期待している」

《一言メモ》築400年の古民家守る

築400年以上の徳島県最古の民家である三木家は剣山のふもと、木屋平にある。美馬市中心部から細い山道を車で約40分かかってたどり着く。かやぶき屋根の国指定重要文化財の古民家に三木信夫さんは実際に住み維持管理をしている。

近くかやぶき屋根の葺(ふ)き替えを予定しているが、費用は数千万円にもおよぶ。その費用の一部には国や県から補助金が出るものの、三木さんの個人負担も大きいという。

「この地域の歴史と伝統文化を1人でも多くの人に知ってほしい」と麻文化の発信に奔走する三木さんの思いは「麁服」を後世につなぐこと。現在大学生の孫が後継者となる予定だが、併設する資料館への来館者を増やす取り組みなどと合わせ、継続して地域全体で支える仕組みを作る必要性が今後高まりそうだ。

(徳島支局 長谷川岳志)


https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210620-00243844 【【戦国こぼれ話】ここまで知らなかった!3人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の改名事情。】より

織田信長は桓武平氏の流れを汲むというが、間違いだといわれている。(提供:アフロ)

 昔から芸能人でも改名する人が多いが、それは戦国大名でも同じだった。改名には運気を良くするためなど、いろいろな理由がある。今回は、3人の天下人(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の改名事情を探ることにしよう。

■織田信長の名前の秘密

 織田信長の先祖をたどると、越前剣神社(福井県越前町)の神官だったといわれている。本来、織田氏は忌部(いんべ)氏を「氏」としたが、天文18年(1549)と天文23年(1554)に藤原氏を「氏」とした史料を確認することができる。

 「剣神社文書」の明徳4年(1393)の「藤原信昌・同兵庫助弘置文」に署名をした2人が織田氏の先祖であると考えられているが、真偽のほどは不明である。

 のちに信長は平重盛を先祖とし、「桓武平氏」の子孫と称するが、それは今や誤りであると指摘されており、何かの政治的な意味があったと考えられている。

 信長の「信」の字は、父・信秀と同じく織田家の通字である。信長は、上総介、尾張守、弾正忠という官途を自称した。弾正忠は父・信秀、祖父・信定も名乗っているので、織田家で代々名乗られた官途であるのは疑いない。それらの官途は朝廷から与えられたのではなく、あくまで自称したものである。

■豊臣秀吉の名前の秘密

 次に、天下人の座に着いた豊臣秀吉は、最初に木下を苗字とした。これは、母・大政所の夫・木下弥右衛門にちなんだものと考えられている。

 木下から羽柴に改めたのは、元亀4年(1573)頃のことだ。羽柴の名乗りについては、信長の家臣である丹羽長秀と柴田勝家のそれぞれ「羽」と「柴」の一字を組み合わせたといわれてきた。しかし、その説には確固たる裏付けはなく、あくまで俗説に過ぎないと指摘されている。

 最初、秀吉は「平氏」を自称していた。ところが、天正13年(1585)の関白相論に乗じて関白に就任した際、近衛前久(さきひさ)の猶子となり、藤原氏を名乗るようになった。

 翌年、秀吉は正親町天皇から豊臣氏を下賜された。その後、秀吉は「羽柴」「豊臣」を諸大名に下賜し、さらに官職を与えることによって、大名統制を行おうとしたことで知られている。

■徳川家康の名前の秘密

 徳川家康の出自は、賀茂氏であったといわれており、有名な「葵の御紋」がその証左であると指摘されている。のちに名乗る松平は、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市)にちなんでいる。ただし、のちに松平家では、世良田氏を先祖とする清和源氏を自称するようになった。

 家康は幼い頃から今川義元のもとで人質生活を送っており、元服の際に元信と名乗った。つまり、今川家に従属したという意味で、義元から「元」の字を与えられた。

 その後、家康は祖父・松平清康の「康」の字を採り、元康と改名した。永禄5年(1562)、家康は今川氏と手を切ると、義元の「元」の字を嫌って、「家康」と改めたのである。

 永禄9年(1566)、家康は松平から徳川へと苗字を改めた。このとき同時に三河守に任官した。ところが、世良田氏が三河守になった実績がなかったのが災いした。

 そこで、先祖の世良田義季が得川を名乗った実績があること、同時に新田系得川氏も本姓が藤原だったことを根拠とし、家康だけが本姓を藤原に改めた。こうして家康は、三河守に任官した。

 以上が天下人の改名事情であるが、それぞれの事情から何度も改名したことが分かるだろう。教科書に載っているのは、あくまで最後の名前にすぎないのだ。


https://www.bs-asahi.co.jp/kyoto_burari/lineup/prg_029/ 【上賀茂・下鴨神社 葵が語る都の始まり】より

京都に数多くある神社の中でも、最も長い歴史を刻んできたと言われる上賀茂神社と下鴨神社。創建は、どちらも京都に都が移される前だと伝わり、古都のはるかな歩みを見守ってきました。今回はそんな上賀茂神社と下鴨神社を訪ね、神社や都の始まりにまつわる神話やこの地が都となる前からの歴史、都人に愛される葵祭の物語をひも解きます。

まずは上賀茂神社へ。

訪れる人を迎える「二の鳥居」には、この神社と京都御所との関係を示すある秘密がありました。境内を流れる清らかな「ならの小川」では、平安貴族の風流を感じます。そして本殿へ…。祭られている賀茂別雷大神(かもわけいかずちのおおかみ)にまつわる物語は、京の街で古くから行われてきた祭り、「葵祭」の始まりと繋がっているのだとか。現在、平安貴族の姿で練り歩く姿が印象的な葵祭ですが、本来の姿はもっと違っていたといいます。境内で出会った葵祭の意外な本来の姿とは…。

そして鴨川と高瀬川、二つの流れが一つとなる場所に建つ下鴨神社。鳥居をくぐると現れるうっそうとした森には、この地に二つの神社が建てられた理由が秘められていました。そんな森の中に現れる美しい楼門。そこには天皇家とのつながりを示す「菊の御紋」が…。さらに、本殿にはなんと神社の紋章「双葉葵」と並んで、徳川家の家紋「三葉葵」が刻まれていました。上賀茂神社と下鴨神社は、天皇家のみならず、古くから源頼朝、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちの崇敬を集めてきたのです。今回は特別にそんな天下人と神社との繋がりを示す貴重な品を見せて頂きます。

また古くから大いに賑わった神社の門前で、今も続く老舗「下鴨茶寮」や、葵祭に欠かせない銘菓を頂ける「さるや」を訪ね、歴史ある味わいに舌鼓を打ちます。さらに、下鴨神社に務めた神職が暮らした社家(しゃけ)へ。格式高い神社に務める神職の暮らしぶりとは…。

古都のはるかな歴史を見つめてきた上賀茂神社と下鴨神社をめぐり、都の始まりとこの神社が天下人の崇敬を集めた理由をひも解きます。

https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/3aac9b4fa71acd38ddda41ba571b13e3 【金鵄八咫烏】より

京都の上賀茂神社および下鴨神社では、金鵄と八咫烏をまとめて「金鵄八咫烏」と呼び、

賀茂建角身命の化身と捉えているのだそうです。

つまり、これらの賀茂氏の言い伝えは、金鵄が示唆する忌部氏も、八咫烏が示唆する賀茂氏も、同じ氏族であることを示唆しているわけですね。

ちなみに、上賀茂神社の末社である半木(なからぎ)神社には、ご祭神として天太玉命がお祀りされており、養蚕業に携わる賀茂族と秦族との人々が、阿波から勧請したとの由緒が伝わっていました。

恐らく、山城国の上賀茂神社と大和国の葛城山の一帯には、何らかの形で忌部氏が滞在していた可能性も高いのでしょう。

葛城山の土着神である一言主神が、

「土佐」に流されたという伝承も、四国の忌部氏とのつながりを示す、有力な手掛かりとなるのかもしれません。


https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=287453 【日本の祭祀氏族9~賀茂氏と忌部氏~】より

『失われたイエスの12使徒 八咫烏の謎(著:飛鳥昭雄・三神たける) 第5章 神道祭祀氏族の正体とアロン直系レビ族「賀茂氏」』よりご紹介します。忌部氏は斎部氏とも書き、『古語拾遺』を著した斎部広成に繋がる。賀茂氏と忌部氏は同族で、忌部氏のなかでも賀茂氏は、天皇の儀式いっさいを取り仕切る特別な一族であると下鴨神社の関係者はいうとのこと。

-------------------------------8より

●賀茂氏と忌部氏

 裏神道の拠点、賀茂神社。京都の賀茂神社を創建したのほ、『山城国風土記』に出てくる賀茂建角身命である。「賀茂」という名称を冠することからわかるように、彼は「賀茂氏」である。賀茂神社が天皇の儀式を仕切り、神道界の総元締めであるということは、同時にそれは裏神道の中核が賀茂氏であることを意味する。

 賀茂神社が伝えるところによれば、太祖は造化三神。「高御産巣日神(高皇産霊尊)」と「神産巣日神(神皇産霊尊)」で、その間に生まれた「天神玉命」から始まる。造化三神は、みな男神なのに、子供が生まれるというのはおかしな話だが、それは何でもありの神話の世界。人間世界の定規を当てて、惑わされてはいけない。まずは、天神玉命から賀茂建角身命の系図を掲げるとこうなる。

「高皇産霊尊-天神玉命-天櫛玉命-天神魂命-櫛玉命-賀茂建角身命」

 伝承によると、歴代の賀茂氏は天照大神以下、直系の子孫に仕えた。すなわち、天神玉命は天照大神、天櫛玉命はオシホミミ命、天神魂命は天孫ニニギ命、櫛王命は山幸彦ホホホデミ命とその子供ウガヤフキアユズ命、そして賀茂建角身命は初代・神武天皇に仕えたという。もちろん、神々の系図はひとつの象徴である。この始祖伝承がいいたいのは、祖先代々、神代のころより、天皇家の側におり、祭祀儀式を担ってきた。つまり、賀茂氏こそ、天皇の祭祀を仕切る伝統ある一族だという自負である。

 となると、賀茂氏は一般の豪族ではなく、明らかに祭祀氏族である。しかも、神道の頂点である天皇の祭祀を司る最高位の祭祀氏族にはかならない。となれば、当然ながら、天岩戸開き神話に関係してくるはずだ。

 しかし、どうしたわけか、どこをどう見ても、天照大神に仕えたという天神玉命の名前は記紀に登場しない。あえて似た名前を挙げるとすれば、それは忌部氏の祖、天太玉命だろうか。天神玉命と天太玉命、両者は同一神なのだろうか。

 そう思って調べてみると、これがなんとも興味深い事実が浮かんできた。賀茂神社の伝承によると、「高御産巣日神(高皇産霊尊)」と「神産巣日神(神皇産霊尊)」の間に生まれた天神玉命の兄弟に「高皇産霊神」なる神が存在する。おわかりのように、この名前、親の高皇産霊尊と一字違い。親を「高結神」、子供を「高魂尊」ともいうとあるが、これはどう見ても同一神くさい。が、それは置いといて、問題は高皇産霊神の子供である。驚くなかれ、これが天太玉命なのである。

 つまり、天神玉命から見て天太玉命は甥に当たるのだ。ということは、賀茂氏と忌部氏は、もともと近い親戚であったことになる。賀茂神社の伝承以外にも、賀茂氏と忌部氏の系図の中には、共通の「神魂命」の名が登場するが、これも「神産巣日神(神皇産霊尊)」のことだと考えれば、同族意識があったことは間違いないなさそうである。

 そこで、伝家の宝刀「多次元同時存在の法則」をもって先の系図を分析すると、すっきりとした答えが出てくる。もとより、神々の系図は系図であって系図ではない。高皇産霊尊を中心に忌部氏の系図を整理すると、こうなる。

「高皇産霊尊-高皇産霊神-天太玉命-・・・・・・-忌部氏」

 先ほどいったように、「高皇産霊」という特異な名称を冠する神は、「多次元同時存在の法則」から同一神、すなわち「高皇産霊尊=高皇産霊神」と見なしていい。系図上に同一神が現れたら、それは圧縮が可能である。

「高皇産霊尊-天太玉命-・・・・・・-忌部氏」

 これと賀茂氏の系図を比べてみよう。

「高皇産霊神-天神玉命-・・・・・・-賀茂氏」

 ますます似てくる。こうなると、だれしも、賀茂氏は、そもそも忌部氏だったのではないかと思いたくなるだろう。じつは、それでいいのだ。先ほどから何度も引き合いに出させていただいている下鴨神社の関係者によれば、賀茂氏は忌部氏と同族。忌部民の中でも、天皇の儀式いっさいを取り仕切る特別な一族であるというのだ。

------------------------------10続く







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