「君が代」考

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1918/  【「君が代」考】より   土屋北彦 (新俳句人連盟名誉会員・日本民話の会会員)

はじめに 

  ただいま、ご紹介いただきましたように、私は、俳句のかたわら民話収集という仕事を、50年以上も続けております。その研究をしておりますと、古い文献を目にする機会があります。そのなかで”ああ面白いな”と思ったのが、本日お話し致します「君が代」のことです。「君が代」のことで、多分皆さんがご存じないだろう、と言うようなお話を中心に、今からお話ししたいと思います。

 子どもに、「『君が代』と言う歌を知っていますか」と尋ねると、「ああ、知っているよ、オリンピックの歌だ」「大相撲の歌だ」「プロ野球の歌だ」という答えが返ってきたということであります。勿論冗句で、現在の小学校の音楽の教科書には、もうずうっと「君が代」の歌詞が掲載されております。先生が教えるか、教えないか、と言う違いはありますが、最近の子どもたちは「君が代」の歌詞や音符は知っています。

 私自身の、子どもの頃を振り返ってみますと、非道な軍国主義教育の許に育ちました。祝日、入学式、卒業式そういった場合には必ず「君が代」が歌われ、「君が代」によって基礎教育を受けてきた、と言う苦々しい歴史があるわけです。それに私は、日本に海軍に一年間入隊致しました。その海軍での生活では「君が代」というのは、教育の根幹に拘わる重大な歌でありました。海軍では、歴史を「忠死の学」(忠義の為死ぬ学問)として、天皇という一個人に、命を捧げることが最高の美徳というように教わりました。海軍には、軍歌演習というものが有り、毎日軍歌の歌詞を頭上に差し上げて歌うのですが、その初めには必ず「君が代」を唱和したのであります。そのように、・きみがよはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで の歌詞は、我々にとっては、あたかも軍国主義のブラスバンドに似た効果を持っておったと考えられます。

戦後になりまして、学校の先生方の中には、この歌を否定的に考える人が非常に多くなりました。学校の祝日、入学式、卒業式、そう言う時に「君が代」を唱和しよう、と言っても拒否して歌わない。校長や教頭だけが歌うという時代がありました。ところがご存じのように、「君が代」は非常に早く、明治時代から国歌として運用されまして、法案成立以後でも、最近の二月でしたか、生徒と共に「君が代」の斉唱を拒否した先生が訴えられる。そう言う時代に又戻ってきた様な感があります。 「君が代」という歌はですね、約千年昔から日本に存在した歌であります。今私が申しました日本の歴史上、戦争のブラスバンドになった「君が代」というのは、明治以後の約百年です。ですから「君が代」はもっと歴史的に遡って考えてみなければいけないんじゃないかと、そう考える訳です。そこで今から本論に入らせて頂きます。

「君が代」の歴史

・君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで

 この歌詞が初めて文献に登場しますのは、『古今和歌集』です。『古今和歌集』は延喜五年(905)に作られた20巻の勅撰集で、紀友則・貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑等の撰に成ります。その第7巻「賀歌の部」に「題知らず」「よみ人知らず」とあって、      

・我君はちよにやちよにさゞれいしの巌と成りて苔のむすまで

・渡津海の浜のまさごをかぞへつゝ君が千とせのありかずにせむ

・しほの山さしでのいそにすむ千鳥君がみよをばやちよとぞなく

・我よはひ君がやちよに取そへてとゞめをきてはおもいでにせよ

 という4つの歌が載せてあります。これで解るように、この歌は「賀歌」です。

「賀歌」というのはどういう歌かというと、「年寿」を祝う歌、と言う意味です。

「年寿」とはどういう意味かというと、孔子が言ったと言われる『論語』に、

「子曰我十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」

 と書かれています。これを見ても解りますように、40,50,60,70というのがそれぞれの年寿。ですからこの『古今和歌集』の歌は、自分の知人に対して、貴方が何時までも健康で楽しく暮らせますように、と言う祈りを篭めた贈答歌です。

「君が代」は庶民の年寿を祝う歌

 これですぐ解ることは、今の「君が代」と冒頭が違っていますね。「我が君は」となっています。最も当時は、印刷技術が発達していませんので、殆どが写本という形で今日まで残っております。いろいろな写本があって、この時代より後に出た『和漢朗詠集』(1356年)ですが、この本の中には冒頭の部分を「我君」ではなく「君が代」と書いたものが有ります。そして「千代に八千代に」という部分をひらがなで「ちよにやちよに」と書かれたものや、「千代」という字を「千世」と書いたものもあります。今の歌詞であります「千代」は少ないようです。

 この『古今和歌集』の序文、紀貫之が書いた仮名序を見ますと、 「……さゞれいしにたとへ、つくば山にかけて、きみをねがひ、よろこび身にすぎ、たのしひ心にあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、(中略)浜のまさごのかずおほくつもりぬれば、いまは、あすか河のせになるうらみもきこえず、さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき」

と書かれておりますので、この『古今和歌集』よりずっと以前から「君が代」の歌は流布されていた、と言うことが解ると思います。そこで『古今和歌集』の905 年を遡って、古い文献を当たってみますと、和銅5年の有名な『古事記』(712年)に、

・大君の 心をゆらみ 臣の子の 八重の芝垣 入り立たずあり

・さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

 という歌があります。

 少し時代が下がって「万葉集」宝亀2年頃(771頃) 4516首の中に、

・君が代も我が代も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな

・わが君はわけをば死ねと思へかもあふ夜あはぬ夜二走るらむ

・わが君にわけは恋ふらし給りたる茅はなを喫めどいや痩せに痩す

・わが大君ものな思ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾無けなくに

・やすみししわご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎

・大君は神にしませば雨雲の雷の上に庵せるかも

・今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は

 それから、これは短歌ではありませんが、巻18の長歌の中に、大友家持が作った

・海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ

  これは私が軍隊時代に、よく歌わされておりました「守るも攻むるも黒鉄の浮べる城ぞたのみなる」という「軍艦マーチ」の一節が終わった時に、

・海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ温(のど)には死なじ

  と歌いました。「温には死なじ」は、温和の意で、陸上での穏やかな死より、我々は海の上でこそ死ぬべきであるという、海軍軍人としての使命感を歌ったのであろうと思います。

  さて『古今和歌集』にありました「我君は」の歌は、同じく紀貫之が撰したと言われる『新撰和歌集』(930年)の中にも見られます。

・我が君は千世にやちよにさゝれ石の巌となりて苔のむすまて

 

  この場合、「千代」という字が、先ほど言いました「千世」と書いてあります。また『和歌體十種』という本も出されてあり、

・わかきみはちよにましませさゝれいしのいはほとなりてこけのむすまて

  全部平仮名で書かれています。

  後白河上皇が撰して、全国に流布された『梁塵秘抄』(1169年)には564首が掲載されていて、

・君が代は千代も住みなん稲荷山祈る験のあらんかぎりは

・君が代はかぎりもあらじ三笠山峰に朝日のささむかぎりは

・君が代は万代までにさしてけり三笠の山の神の心に

・君が代は予てぞ著き春日山二葉の松の神さぶるまで

・君が代は松吹く風の音高く難波のことも住吉の松

・わかきみはちよにや千代にさゝれいしのいはほとなりてこけの無数左右

  などの歌が見つかりました。この『梁塵秘抄』には、童歌の原型と言われる 「遊びをせんとや生まれけむ」「烏は見るに色黒し」「居よ居よ蜻蛉よ」などの民間の歌が載っています。

 それから、嘉禎元年(1235年)に藤原定家が『百人一首』を編纂しています。この中に、君という言葉を使ったのは次の2首です。

・君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

 これは、光孝天皇が作った歌で、この「君」というのは、相手に対する尊称であります。

・君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな

 これは、藤原義孝という人の歌です。この場合の「君」は明らかに恋人の女性を指しています。

 続いて『和漢朗詠集註』(1356年)という本の中に、巧みに「君が代」の歌についての要約があります。

・君が代はちよにやちよにさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで、古今の賀の歌には、わがきみはちよにと有り、古今六帖には、我がきみはちよにましませさゞれ石のとあり、堯惠云く、千代にや千代と重詞也、八千代にあらず、宗祇云ふに、やはてには也、榮雅云く、君は千世に千世をかさね、さゞれいしの岩保となるまで、久しくましませとなり、千代にとよみきりて、八千代とよむといふ説もあり、さゞれ石は小石細石とも云ふ、苔のおふるをむすとよめり、巌となるばかりにては、巌のたよりなければ苔のむすとそへたり

 と解釈されています。このように「君が代はちよにやちよに」は、千代の上に更に千代を重ねるという言い方で、千代に「や」は弓偏の「弥=いよいよ」ですね。その意味は君が代は最初は八千代ではない。八千代というのはこれよりすーつと時代が下がって「千代に八千代に」と歌われるようになったものと思われます。その証拠に、『古今』以前の『万葉』とか、各地の『風土記』に載せられております「君が代」の歌を見ますと、「千代」に対応するものは「万代」(よろずよ)です。

「君が代」は恋の歌

  同じく永正5年(1518年)に『閑吟集』と言って、民間の歌を集めた本があります。作者はよく解っておりませんが、室町時代の巷間に歌われた小唄を集めたものです。この中に、

・めでたやな松の下 千代もひくちよ 千世千世と

 やっぱりこれも「八千代」とは言っていません。千世を重ねて「千世千世」とあります。

 それから『隆達唱歌』天正18年(1590年)という本が出ました。この「隆達」という人は、泉州境の商家に生まれ、後に日蓮宗顕本寺の僧侶になった人であります。この人が、慶長年間に流行った歌を集めたり、自分でも作ったりして本にしています。その冒頭に「君が代」が出てきます。

・君が代は 千代にやちよに さゞれ石の 岩ほと成て 苔のむすまで

 この次が面白いのですが、

・思ひ切れとは 身のまゝか 誰かは切らん 恋のみち

  という歌が並べて書いてありまして、「君が代」というのは、恋の歌であることが明らかになると思います。ですから「君が代」は、天皇を礼賛する歌ではなくて、庶民があなたの生涯が幸福であるように、という願いを篭めて歌った歌だと言うことが明白で、その証拠を更に追求すると、『恨之介』慶長年間(1600頃)という本が出ました。仮名草子の自作で、作者はよくは解りませんが、内容は、旗本と禁裏の女房との密通事件を取材して採り上げております。その中にこういう文章、

・当世はやりけるりゅうたつぶしと思しくて ぎんじ玉ひけるは「君が代はちよにや千世をかさねつゝ岩ほと成りて苔のむすまで」

  ここでも明らかに「ちよにや」千世を重ねてとあります。

  同じく慶長年間に、若狭の小浜藩士伴信友という人が『古詠考』(1830年頃)を著しました。これをめくっていましたら、大変面白いことを書いています。

・若狭の風俗に、春の初めまた節供などいふ日に、盲女のものもらひにありくが、門に立て、「君が代は千世に八千代にさゝれ石の岩ほとなりてこけのむすまて」の歌をうたふが、大かた彼御詠歌のふしと異ならねど、をりからのほぎ歌なれば、うたふ声も、きくこころもあはれににぎはゝし。老人の云、むかしは今よりもみやびてきこえたりといへり。おのれがいとわかゝりし頃聞たりしと今はまたいやしく童歌のかたにちかくなりたり。

  と述べておりまして、ものもらいの女が門付けで「君が代」を詠っておった。そして、この歌は時代が経つに連れて、子どもの歌みたいに幼稚な詠いかたになってしまった、と言うところまで付け加えてあります。

  寛永9年(1632)に 安楽庵策伝という美濃の出身の人が、非常に面白い文章を沢山書いております。その『醒睡笑』に、

・青豆を煎豆につけたる菓子、太閤の御前へ出したれば、幽齋法印に向はせたまひ、何となんととありし時、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の巌となりて苔のむす豆」

最後は「まで」を「豆」ともじって、細川幽齋が秀吉を笑わせた、ということです。この本は現在でも沢山の落語のネタとして採用されています。そして更に、「君が代」が恋の歌であるという証拠を示すのが、次の歌です。

『狂言歌謡』 寛永19年(1642年)に発行されました、能楽や狂言の作謡を集めた本に、

・君は千代千代 われはいちご はなれやるまひやるまひなふ にへにかわにても つけた身じゃ物

  という歌があります。あなたの寿命の何時までも続くことを祈り、同時に私の一生の変わらぬことを願います。そして二人の仲は「煮えた膠でくっつけたように永遠に離れることはありません」と詠っていて、恋の歌の最たるものであります。

『吾吟集』慶安2年(1649年)には、

・苔のむすめ子りゅうたつを吟じ、つくば山の七つ石にかけてひょうしをとり、「君が代はちよにやちよにさゞれ石のいはほとなりて苔のむすまで」

  これを流行歌みたいにあらゆる庶民が歌っていたことが記録されています。

『落葉集』元禄7年(1694年)は『松の葉』に洩れた歌などを、大木扇徳という人が集めたもので、

・君千歳山それは昔のさゞれ石巌に生ふる苔の色はとにかくに、君と我が仲よも尽きじ。

  と、明らかに「君が代」が恋の歌であることが解ります。

『山家鳥虫歌』明和8年(1771)に出た本は、「やまがとりむしうた」と読むのかも知れませんが、長常南山が農山村や街で庶民の間に流行した多くの歌謡を集めたもので、後に後水尾天皇によって『諸国盆踊唱歌』として再発行され、たいへん評判を得たそうであります。

・千歳に余るしるしとて君が代を経る春の松が枝

・千世も長かれ此の君のろうぼくの松は栄えゆく

・千世にやちよにみよをさまりてなみもしつかに四つの海

・うすよ回れよどんどと落ちよ君が代うすは何時までも

  このように「君が代」に関連する多くの歌が見られます。

  次に俳句の方を見ることに致しましょう。俳句と言いますと、有名な文人井原西鶴が、「俳諧大矢数」として、一日に二万三千五百句を作り、自分のことを二万翁と称して威張ったそうで、この句の中には「君が代」をテーマにした句も相当有るはずですが、残念ながら調べる機会がありませんで、(発句以外は現存せずとも言う)飛ばしまして、

『俳諧大句数』 

・けつまつく二条通の細少石

・しつかによめやれ君が代の歌

『物種集』

・なけかねをしてわたる君が代

・唐網のいはほと成てさゝれ石

『麦林集』

・君が代や猶も永字の筆はじめ

『七部集』

・我春の若水汲みに昼起きて

・餅を食ひつゝ祝ふ君が代

  などの句が見られます。これも庶民の間に如何に「君が代」の歌が流行っていたかということの証左でしょう。

『江戸古謡』に、 

・君と寝ようか五千石取ろうか何の五千石君と寝る

・君と別れて松原行けば松の露やら涙やら

  このように「君」というのは明らかに相手の女性を意味していますし、恋人との別れの淋しさを詠っているのです。

『古今集遠鏡』本居宣長著(1797)は『古今和歌集』口語文注釈書で、

・コマカイ石ガ大キナ岩ホニナッテ苔ノハエルマデ千年モ万年モ御繁昌デオイデナサレコチノ君ハ

  と、賀歌としての「君が代」を解釈しております。

「亥の子搗き歌」と言うのがありまして、これは関西以西で、陰暦十月の亥の日に猪の害を、土を叩いて固めるという民間の行事でありますが、この時のかけ声を子どもたちが唱和して各家庭を廻ります。

・これの屋敷は良い屋敷 南下がりの北上がり 東方朔は八千代 浦島太郎は九千代 先年も万年も生くるように サンヨウサンヨウ

  この文句の中に「東方朔は八千代」と詠う、この東方朔とは何であろうかと疑問に思って調べてみましたところ、これは中国の前漢時代の有名な学者の名前で、大変皇帝に愛された滑稽文学の雄だと言うことです。彼は西王母の桃を盗んで長命を得、八千代も長生きをしたそうです。こいう人名がどうして亥の子歌の中に紛れ込んだのかは解りませんが、このように「八千代」は「やちよ」ではなく「九千代」に対応する言葉です。

  以上、沢山の例を挙げて「君が代」の「君」が天皇ではないと言うことを証明してきました。まだまだ沢山の記録がありますが、いちいち挙げるときりがないので題名だけでも挙げておきますと、

『栄華物語』『松の葉』『曽我物語』『義経記』「謡曲老松」「同弓八幡」 「浮かれ草」「謡曲養老」「同春栄」「箏曲鶴の巣篭」「同難波獅子」「薩摩獅子」「長唄駿河名所」 「常磐津子宝三番叟」「琵琶歌蓬莱山」『千代田城大奥』『深秘徳川大奥』

「君」という言葉の分析

『話の大辞典』日置正一著を要約しますと、 ・710年4月に陸奥の蝦夷らが「君」の姓を賜りて国民籍に編入された。よって765年「君」の字を付ける者は悉く「公」という字に換えられた。そのくらい「君」というのは価値のある言葉でした。大分の方でも、大分の君「えさか」恵むという字に寸法の尺で「惠尺」。これは『日本書紀』に出ています。ところが、そのように大事にされてきた「君」という言葉は、歴史を見ますと平安朝には「君」は遊女の呼称にまで下落して「辻君」「遊君」などにも用いられた。そして武家時代には「国君」「わが君」「主君」などの尊称として復活。そこで、これに関連しますが、高杉晋作が1863年奇兵隊組織の時、いろんな人が全国から集まったんですが、「きみ」という言葉が非常にまちまちなんですね。「そなた」「そっか」「なんじ」「おまえ」「そのじん」「あなた」「あんた」「きこう」「きでん」「きでん」「われ」「おめい」「そこもと」「なれ」という風に、いろんな言葉を使って相手を表現しておりましたもので、会話が出来ない。そこで晋作が呼び名を統一するためあなたは「君」自分は「僕」を使うように奇兵隊の連中に命じて統一用語として用いることに決めたと言うことです。

 それにしても「辻君」にまで成り下がった「君」が、「主君」に再び格上げされた歴史は面白いと思います。

天皇の代名詞は「大君(おほきみ)」です。「額田王(ぬかたのおほきみ)鏡王女(かがみのおほきみ)長田王(ながたのおほきみ)」等は固有名詞です。

「君が代」の制定

 さて、「君が代」という歌が明治になって日本の国歌として使われるようになった。詳しく言えば一応軍隊で国歌のように扱われたのですが、法律的には一度も国歌として公布されたことはないのです。その経緯を申しますと、

「官報」明治26年8月12日、文部省告示第3号「小学校に於いて祝日・大祭日の儀式を行うの際唱歌用に供する歌詞並びに楽譜別冊の通り撰定す」

明治2年 作曲依頼

明治3年 薩摩軍楽隊がフエントン作曲の「君が代」を天皇御前演奏

明治13年 林広守・エッケルトの楽譜完成 (奥好義の作曲したものを補作)

明治21年 「大日本礼式」として通達

昭和6年 「大日本帝国国旗法案」衆議院通過、貴族院で審査未了廃案 昭和33年 「儀式などを行う場合には、国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」(学習指導要領)

昭和64年 「入学式や卒業式などに於いては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導する」

平成11年 「国旗国歌法」(国歌)第1条 国旗は、日章旗とする。日章旗の制式は、別記第1の通りとする。君が代の歌詞および楽曲は、別記第2の通りとする。 (別記略)7月22日衆議院通過

「君が代」成立の経緯

 薩摩出身の陸軍元帥大山巌の「談話」に、

・頃は明治三年の末、若しくは四年の始めなりしならん。薩長その他より御親兵を出した後未だ久しからざる時であった。自分は薩摩から出た砲兵の隊長を務めていた時の事である。(中略)当時御親兵の大隊長は野津鎮雄で、薩藩より東上していた少参事に大迫某という人が居たが、此の江川与五郎の来た時、偶々野津、大迫両人が来合わせていて共に其の話を聞き、成る程我が国にはまだ国歌というものが無い、遺憾な事だが、是は新たに作るよりも古歌から選び出すべきで有ると言った。その時自分が言うには、英国の国歌、God Save The King と言う歌がある。我が国の国歌としては宜しく宝祚の隆盛天壌無窮ならむことを祈れる歌を選ぶべきであると言いて、平素愛唱する『君が代』の歌を提出した。之を聞いた野津も大迫も、実に然りと早速同意したから、之を江川に授けて其の師事する英国楽長に示した。自分の記憶するところの事は右の通りである。その後如何なる手続きを経て国歌を御制定になりしか、其の辺の事は承知して居らぬ。

『日本勃興秘史』を書いた三角寛は、山窩の研究で知られた人です。その『秘史』の中に、次の記事があります。

・明治5年の夏、天皇陛下が竜驤艦に召されて九州地方に御巡洋遊ばされた時、供奉せる仏国の艦隊から、我が海軍省に、御乗艦の際に奉奏すべき礼楽として国歌を示されんことを申し込んで来たが、当時はまだ我が国に国歌がなかったので、海軍大輔河村純義はこれを海軍教授近藤真琴に相談した。そこで近藤氏は数首の歌を選んで、それを軍楽隊の教師フェントンに見せたが、いづれも面白くないものであった。そこで河村大輔は古歌から「君が代」の一首を選び、これを宮内省の雅楽部に呈示して、一等伶人林広守がこれを作曲し、遂にこれを以て国歌と制定するに至ったのだという。

  と書いてありますが、これは間違いで、国歌には決まってないのです。只外国人が来た時の手前、天皇を祝福して演奏するというものでした。このことについて作家のなかのしげはるが痛烈に批判しています。

「君が代」のこと。

・我が日本で「君が代」が法律上国歌であった事は一度もない。つまり「君が代」は法律上は日本の国歌でははじめからなかったのだった。それだから「君が代」を国歌として法律上「復活させる」ということはありえない。それは法律の問題ではなくて政治の問題になる。

と、政治の上で間違ったことが罷り通っていた実体を暴いていますが、現在では国会を通過して正式に『国歌』となってしまったのは残念なことです。さらに

『君が代の歴史』山田孝雄著で、「君が代」の曲成立のいきさつが述べてあります。

・薩摩藩の軍隊から始まり、海軍に伝わった「君が代」の曲は、ラッパの譜もしくは広くしても器楽に留まっていたのであるが、明治13年11 月3日、唱歌の譜を選び、後和声を施して器楽としたものである。海軍では御雇い教師独逸人フランツ・エッケルト氏を中心として一々これを調査し、一等伶人林広守の名によって作曲提出せられた。林広守は天保2年大坂生、慶応元年従五位明治2年雅楽部副長、29年歿,65歳。エッケルトは明治12年御雇教師、20年宮内省楽部課兼雇,32年帰国。

「ちよにやちよに」

 用例として「ちよにやちよに」「千世にやちよに」「千世に八千世に」「千代に八千代に」「千代にましませ」「千代にや千代に」(千代に対応するのは万代)「弥千代」などいろんな形で「君が代」の歌詞は書かれています。これについて、 『古今餘材抄』で釈契沖が次のように書いています。

・発句、朗詠には君が代はと有、第二句、六帖には千代にましませと有、顕注にも千代にましませと有、定家卿蜜勘に無不審とのみあれば同じか、(中略)千年に八千年にになり、やもじことばなりと言説あれど、六帖に我ならぬ人にや人になどいふやこそあれ、ちよにやちよにといふことわりたしかならず、拾遺集に能宣朝臣の長歌に、すべらぎのちよもやいよとつかへむとよまれたるにても准へて知るへし。

工藤高治は物集高世の甥に当たる人ですが、次の歌を残しています。

・君が代は千代にや千代にをいつのよに誰か誤りて八千代とぞ言ふ

・君が代は千代にや千代を八千代にと誤りたれど心通へり

・君が代は千代にや千代にを誤りて八千代とかきし後の世の人

  前にも述べましたが、「千代」に対応するものは「八千代」ではなく「万代」なんですね。それは『万葉集』を見ても、

・万代に語り継げとしこの嶽に領布振りけらし松浦佐用比売

・万代に今し給ひて天の下まをし給はね朝廷去らずて

・千万の戦ならねどことあげせずとりて来ぬべき男とぞ思ふ

・妹之名者千代爾将流姫島之子松之末爾菰生萬代爾

(いもがなはちよにながれむひめしまのこまつがうれにこけむすまでに)

・たちばなのとをのたちばな弥つ代にも我は忘れじこのたちばなを

 (やちよ・やつよ=弥千代・弥津代)

などで明らかです。

 今再び「君が代」の「君」を「大君」として、天皇礼賛を復活させようとする動きがあり、大変危険です。

・「君が代」の「君」は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇を指す」(政府見解)

  それでは外国の国歌はどうなのかと、興味を持って調べました。

世界の国歌

○アメリカ 1931 制定 アメリカ国歌は、南北戦争の憎しみの連鎖修復がその背景にあるようですが、曲はいいですね。

・見よや 朝の薄明かりに たそがれゆく 美空に浮かぶ われらが旗 星条旗を 弾丸降る 戦いの庭に 頭上高く ひるがえる 堂々たる 星条旗よ おお われらが旗のあるところ 自由と勇気共にあり

○中国 1949 を見ますと、作詞は田漢、作曲は聶耳。アメリカ以上にいい曲ですね。これを作曲した聶耳のエピソードがあります。この曲を作ってすぐ、日本に来ていたらしく、逗子の海岸で溺れて死んだそうです。中国昆明市の中央に彼の像が建っています。

・起て! 奴隷となるのを望まぬ人々よ われらの血と肉で新たな長城を築こう 中華民族の最も危険な時が来た 誰もが追いつめられ最後の叫びを上げる 起て! 起て! 起ち上がれ! 我々民族は心を一つに 敵の砲火をものともせず進もう!  ものともせず 進め! 進め! 前進だ!

○ロシヤ 2000 ロシア国歌は、ソビエト崩壊後すぐ作られ、更にプーチンによって改訂されました。

・鍛えられし我がつわもの 攻め来る敵うち破り 断固と守る尊き国 我が祖国に栄えあれ

○イギリス 1743 イギリス国歌は、ジョージ二世の戴冠式の時に歌った歌が元になっています。その後エリザベス女王になって歌詞も女王に置き換えられました。男王の時は、女王を王と替えるそうです。

・神よ 我らの慈悲深き女王を守り給え 

我らの気高き女王 万歳 神よ女王を守り給え

女王を勝者たらしめ給え 幸福たらしめ給え

永く我らを治めよ 神よ 女王を守らせ給え

○フランス 1839 フランス国歌は、民衆がバスチーユ監獄を襲撃した後共和国が成立して出来たものです。

・行け祖国の国民 時こそ至れり 正義の我らに 旗は翻る 旗は翻る

聞かずや 野や山に敵の叫ぶを 悪魔の如く敵は血に飢えたり 

起て国民 いざ矛をとれ 進め進め 仇なす敵を葬らん

○インド 1950 インドはノーベル賞受賞者の詩人タゴールの作詞です。彼はパキスタンの国歌も作りました。

・そなたはすべての民の心を支配する そなたはインドの運命を支配する

そなたの名はパンジャブ人 インド人 シンド人 ゲジャラート人 マサラ人

そしてドラビタ人 オリッサ人 ベンガルの心を奮起させる(後略)

そなたはインドの運命を分配する 勝利 勝利 そなたに勝利を

  他にも沢山の国がありますので、これ以上は挙げませんが、今挙げた全てが戦争礼賛の歌です。それに比べて日本の国歌は、決して戦争賛歌ではなくて、二人の仲が何時までも続きますようにと言う念願、年寿の歌、賀の歌であるというのが本当の意味の「君が代」の歌詞であった、それを資料に基づいて検証したのですが、明治以後の日本の教育、特に軍がこの歌の「君」を「大君」に置き換えてしまった。しかし、歌詞の文言では決して「大君」と言ってない、「君が代」と言っている。「君が代」というのは「天皇の治める世の中」と言うことではなく、「民衆であるあなた、わたし」の年寿に拘わって、祈りを篭めて長生きを祈念する歌であったというのが「君が代」の本当の意味でありますので、「君が代」を今こそ元の意味に捉え直す必要があるのではないか。そうしますと、100年くらい使われなかった「君」という言葉の意味が甦ってくる。そう言うふうに考える訳です。

  以上で私の話は終わりますが、日本の国旗「日の丸」についてちょっとお話ししておこうと準備しておりますので、こちらはただ読むだけにしておきます。

「日の丸」の歴史

「続日本紀」文武天皇大宝元年正月乙亥朔、天皇御大極殿受朝、其儀於正門樹鳥形幡、左日像、青龍、朱雀幡、右月像、玄武幡云々

「太平記」元弘の始帝笠置に幸ありし時、錦の御旗を建てられ、その後此の旗に日月像を金銀にて打ち着けて賜る。

「梅松論」足利尊氏の時、明院殿の院宣を申請ひ筑紫より上りし時、錦の御旗に日章を金にて打ち着けて上る。

「集古十種」後醍醐天皇の御旗、四幅に布の旗に日章を描く。弘安四年(1281)蒙古襲来の際、征夷大将軍惟康親王が日蓮に命じて、八代竜王が旭日を囲んだ旗を筑前今津に建てた。

「源平盛衰記」義経が鷲尾義春に皆紅に日の出の軍扇を与えた。

「平家物語」那須与一が、平家の舟にかざした「皆紅に日を出したる扇」を射落とした。

「太平記」錦の御旗に、日月を金銀にて打ち着けたるが、白日に輝きて光り渡る。(後醍醐帝笠置行幸)

「長篠合戦屏風」「関ヶ原合戦屏風」

○川中島の合戦の時、上杉謙信・武田信玄の両軍とも日の丸の旗印を用いた。

○朱印船の旗印

○伊達家の大馬印

○文禄元年、小西行長朝鮮出兵の馬印

○寛永11年幕府有司が相計って日の丸を公儀の徽章とした。

○文化8年朝鮮通信使聘礼のため幕府対馬に出張の時、白地に赤の日章旗を用いた。

○元和年間、山田長政が、シャム国王の女婿となり、軍艦に日の丸の旗を掲げた。

○嘉永6年、島津斉彬が昌平丸・大玄丸に日の丸の標識を用いた。

○安政元年幕府布告「大船製造については異国船に紛れざるやうに日本総船印は白地日の丸を相用い候よう仰せ出され候」

○明治3年太政官布告により日の丸を国旗に制定。

  このような記録があります。かなり面白い歴史を辿ってきている、と言うことが解ります。この「日の丸」はデザインとしても優れております。「日の丸」を明治時代に用いたところ、いち早くこれを聞きつけた某大国が、大金(五百万円)で譲ってくれと申し込んできたことが、『日本勃興秘史』の中に記してあります。

  以上長々と『君が代』について考えて参りましたが、これで終わります。ありがとうございました。

(テープ起こし 堀八重子)





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