Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
■草場一壽陶彩画展 龍と復活の女神たち
展示作品紹介『イワナガヒメ』より
●イワナガヒメは、「いのち」の象徴
神話によると、コノハナサクヤヒメの美しさに魅せられたニニギノミコトは、すぐに求婚し、許されるのですが、父であるオオヤマズミノカミは、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは、美しいコノハナサクヤヒメだけでよいと、醜いイワナガヒメを追い返してしまいます。
オオヤマズミノカミは怒り、ニニギノミコトにこう告げます。
「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄し、イワナガヒメを妻にすれば、命は岩のように永遠のものとなると誓約を立てたからだ。コノハナサクヤヒメだけを妻にするならば、命は木の花のようにはかなくなるだろう」。
コノハナサクヤヒメは、木の花のような一代の栄華。見える世界の(有限の)いのち(カタチ)の象徴です。一方でイワナガヒメはいのち「そのもの」であって、循環・再生という永遠のいのち(大生命)の象徴です。
33周年の記念すべき作品のテーマを「大生命」と考えたとき選んだのが、この、大いなるいのちの象徴である「イワナガヒメ」でした。
●桃の神話
イワナガヒメを題材にした作品を「桃華の姫」と名付けました。
桃は古代より、特別な力(霊力)があるとされています。
中国では、桃は崑崙山の主人である女仙・西王母が持つ果実で、3000年に一度実を結ぶ長寿の仙果。古代より生命力のシンボルとされ、病魔も邪気も払って、生命の躍動を助けるものと信じられてきました。
日本でもふるく古事記や日本書紀にも登場しています。
古事記によると、イザナギノミコトが死んだイザナミノミコトを連れ戻そうと黄泉の国に赴いたとき、鬼に追いかけられてしまいます。イザナギが地上の世界(生)と黄泉の世界(死)の境目である「黄泉つ比良坂(よもつひらさか)」までたどり着き、麓に生えていた桃の木から3つの実をとって投げたところ、鬼は一目散に逃げ出したとあります。その功績で、桃の実は「オオカムズミノミコト」と名をいただく神にもなりました。
また、2009年、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、祭祀(さいし)に用いたとみられる、2800個もの大量の桃の種が見つかっています。祭事や信仰、呪術の対象として古くから珍重されてきたことがわかります。
中国にも日本にも、「桃信仰」と言えるようなものがあり、どちらも、いのち=再生をテーマにしています。
●桃太郎伝説
日本人にとって、「桃」で最もなじみの深いのは、桃太郎と桃の節句でしょうか。
桃太郎のおはなしは、前述のイザナギノミコトの神話を起源にしたものとも言われています。室町時代の末期頃までに口承の昔話として成立し、江戸時代になって文字化され、明治期には国定教科書に採用されました。古い、古いお話です。
こうしていくつもの時代を経ていますから、「鬼」というものの概念、見方も時代によって変遷してきたと思います。
そのはじまりは、まず端的に「恐ろしいもの」でしょう。恐ろしいは畏れるに通じ、つまりは、人間の力の及ばないものかもしれません。
そして、鬼は異形のもの(先住民や渡来人、漂着民)ともなりました。支配者から排除される存在です。
それが、「悪事をはたらくもの」にもなっていきます。勝者の歴史の中では、鬼は「退治されるもの」となったのです。退治する側(こちら側)と退治される側(あちら側)という相対的な概念が生み出した「鬼」というわけです。
●いのちは平たい。いのちに美醜はない。
どのいのちも、大いなるいのちから生まれ、大いなるいのちに還っていきます。
大きな、巨きな循環の中で、過去のいのちも未来のいのちも手をとりあって結ばれているのです。高低もなければ上下もなく、是非もなければ善悪もない、「大生命」の世界です。
しかし、相対的な概念にとらわれたために、コノハナサクヤヒメもイワナガヒメも「絶対的」ないのちの存在にも関わらず、美醜と言う「相対的」なものにされ、本来の「いのち」を見えなくしてしまいました。
鬼の存在を考えることは、そうした視点を再考する契機になるかも知れません。昔話を背景に、そんなことを思います。
●桃の節句
もうひとつ33の数字にちなんで・・・桃と言えば3月3日の「桃の節句(=節供)」。桃の読みが「百歳=ももとせ」に通じることから、健康や長寿への祈りが込められています。また、冬の気(陰)と春の気(陽)がせめぎあうこの季節に、いのちの実である桃が生命の躍動と再生の役目を果たすと考えられてきたのです。
桃はまた実がたくさん実ることから、子宝に恵まれる、から女の子の健やかな成長を願うという意味も込められています。
桃の種は婦人病を治す生薬でもあり、血流をよくするといった効能もうたわれているようです。
●桃華の姫に託す思い
目に見えるものを価値とする土の時代から、心や魂を基調にする風の時代へと移ったと言われています。
時代を変えるのは、さてなんでしょう?
土の時代、時代を変えるのは「文明」という信仰がありました。なぜなら、「豊かさ」こそが、求めるものだったからです。
その豊かさとは、目で見えるモノ、得にお金で勘定できるものでした。言い換えれば、消費できるものでした。消費者として、豊かさを追いかけてきたのです。
いのちも(自然や人間も)また同様に、消費の対象となりました。選抜されたり、差別されたり、その基準は、「出来る・出来ない」「役にたつ・役にたたない」「優れている・劣っている」といった、傲慢で相対的な価値観です。
美醜といった目に見えるだけの違いや、それの違いを鬼にしてしまう勝者の視線、排除の構造もまた、そんな相対的な価値観によるものだと思います。
時代は大きく揺れて、次のステージに移ったようです。
いまあることの奇跡を、その喜びをかみしめながら、いのちの華を咲かせていきましょう。みな桃華の姫のごとくに、美しいいのちの花です。
永遠なるかな、わがいのち。わがこころは、大宇宙にして、ふるさとは・・・大生命。あなたの存在こそが大生命の願いであり、また祈りでもあります。
いのちの重さ
「昆虫葬」というのがあり、それが静かなブームなのだとか。子どもたちが飼っていた昆虫(カブトムシやクワガタムシなど)が主だそうですが、死んだあとにゴミと一緒に捨てるのは抵抗がある、死を考える契機になるというのが理由の」ようです。
最近は子どもたちから死を遠ざけるために、子どもを葬儀や法要に連れていかないという親もいるそうですし、一方ではゲームでのバーチャルな死にいやほど接してもいます。
死を悼むとか、喪失という感情を「学ぶ」機会が希薄になって、「いのち」の重さをはかりにくくしているように思います。いえ、いのちの重さははかれないということを実感できない、でしょうか。
子どもたちをとりまく環境が厳しい上に、いま大人の世界では、政治的な嗜好や正義感(のようなもの)での分断や拒絶が目に見えるようになってきました。よりよい世界や未来。生きやすい社会。当たり前をとりもどす生活。みな目指すところは同じはずなのに、なにか大きな罠?にはまってしまったような・・・そんな気がして仕方ありません。モヤモヤが続いています。
私たちがいまをどう生きるか。それが未来を決めるのですね。他者は拒む対象ではなく、手を取り合う仲間。そんなところから見えてくる「いのち」のかたち、いのちの重さもあります。
Facebook澤江 昌範さん投稿記事
【 宇宙の法則より〜 】<その2>不干渉の法則( 自由意志の尊重 )
宇宙の法則のもっとも重要な柱の一つは、「 不干渉の法則(自由意志の尊重)」です。
魂がより高い世界へ精神的進化を遂げるために必須なものです。
不干渉とは、各個人の自由のためにあるスピリチュアルな法則です。
この世界に同じ人間はひとりもいません。
考え方、感じ方、反応のしかた、そして心の傾向や視点は個人によって異なり、精神の開花の度合いもそれぞれ違っています。
一人ひとりが持っている自分独自の私的な世界を尊重すべきであるというのがスピリチュアルな法則です。
このことが地球では認識も理解も十分されておらず、今日の多くの問題、とりわけ争乱などの根底要因となっているのです。
もし人々が自分自身の人生を主導する自由を認め合えるよになれば、世界中の問題はもっと少なくなることでしょう。
人が他の人々の人生に干渉すればするほど、その人の人生も他の人たちに干渉されることになるのです。
これがカルマの法則( 原因と結果の法則 )のはたらきです。
では、そもそも「 自由 」とはなんでしょうか?
自由とは、自分で決められることです。
自分の思いに素直に従い、なおかつ周りに束縛されず、理性と良心のもとで決めることです。
しかし、現実には、世間体や社会規範、よく見せたい見栄や、誰かの顔色をうかがって決めていることは、ほんとうの自由ではありません。
そして、もちろん自由はわがまま放題、周りに迷惑をかけることでもありません。
他者の自由を侵害したり、束縛したりする「 自由 」はありません。
自由は神から与えられた恩寵ですが、自分が自由でありたいと思うなら、他者の自由も認めなければなりません。
すべての人の自由意志に介入することが出来ません。
他者の人生に介入しようとするから人間関係もギクシャクします。
うるさい、放っといてくれってなりますね。
あいつは正しい、あいつは間違っていると、自分の価値判断基準で相手を判断( ジャッジ )して、こうしろ、ああしろと他者にお節介ばかり焼きがちですが、これが干渉です。
すべての人がそれぞれの思いのなかで生きているだけであって、それぞれの生き方に本来正しいも間違いもないのです。
他の人たちの個性を受け入れ、それぞれの人がそのレベルに応じて自分に必要なレッスンを受けている魂の存在であると認識することです。
相手がそうしてほしいと心から望み、許可したことをアドバイスしたり手助けすることは干渉にはあたりません。
「 干渉 」と「 必要な援助 」「 隣人への助け 」の違いを知ってください。
例えば目の前で事故に遭い傷ついて苦しんでいる人がいるとしたら、言葉による許可などはとらずに「 隣人への助け 」と判断して行動するのはポジティブなことです。
大切なことは、常に、相手を認め、許すことです。
愛とは相手の自由意志を尊重することです。
謙虚で他者を思いやり、尊敬して赦し認められる生き方にこそ真の自由があります。
これが宇宙の愛の姿です。
宇宙人が地球人を救済したくてもしないのは、不干渉の法則が不可侵の宇宙の法であるからです。
なぜなら違う文明へのカルマへの干渉になるからです。
カルマの解消はほんらいは原因と結果の法則による自己責任なのです。
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