https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12561663048.html?fbclid=IwAR1d1Jo5woh9qsGHHxy5B0Y62io4JADw0Pw1ydZAUToRzqPBDQbTiPv0Q8s 【秀吉の朝鮮出兵の目的はイエズス会の野心撲滅だった!】より
豊臣秀吉は、文禄の役(1592〜1593)、慶長の役(1597〜1598)の二度にわたって約16万の大軍を朝鮮半島に送りました。
これに関しては、「秀吉は晩年、痴呆になって明国征服のための無謀な朝鮮出兵を行った」というのが通説ですがこれは全くの誤りです。そもそも、本気で明国を征服する気があったら、「倭寇」で鳴らした当時の日本の水軍力をもって、いきなり支那の沿岸部を攻撃したはずですが、そういう計画はありませんでした。
朝鮮出兵の理由は、この時代、世界の8割はスペインの植民地で、スペインはフィリピンのルソンに東アジア地域全体の戦略統合本郡を置いていました。そして当時、スペインによってまだ征服されていなかったのは、アジアでは明国と日本だけで、朝鮮半島は明の一地方である弱小国にすぎませんでした。
そして、天文18(1549)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルらが、布教を建前にして日本へ偵察にやってきます。スペインは当初、中南米で行ったような武力による日本征服を考えていました。が、宣教師たちは、それが難しいことを痛感させられます。
スペインが日本の武力制圧を断念したのは、これに先立つ1542〜3年頃、ポルトガル人が種子島にやってきて「鉄砲」を伝えところ、日本人はたちまちこれをコピーした上で量産してしまい、日本は世界にある鉄砲の半数を保有、強力な軍事力を保持していたからです。
このため、スペインは日本でのキリスト教の布教活動に注力し、一方で明国の征服を狙います。明国は鉄砲の保有数は少なかったのですが、とにかく広く、人も多いため手間がかかります。そこで、明国と日本の中間地点である朝鮮半島に狙いを定め、触手を伸ばします。
ところで、時代は前後しますが、西洋文化に毒された織田信長はキリスト教の布教活動を認めます。が、慶長元(1596)年、スペインの貨物船サン・フェリペ号が遭難し土佐の浦戸に漂着します。そこで秀吉の五奉行・増田長盛が、救助した船員たちを取り調べた結果、驚愕します。
サン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、「スペイン国王はまず宣教師を派遣しキリシタンが増えると、次は軍隊を送って信者に内応させ、その伝道地の国土を征服したためスペインは世界中にわたって領土を占領できた」と証言。これにより秀吉はキリスト教禁教令を出します。
加えて、日本側はすでに、護良親王が欧州に派遣して地盤を確立していた"南朝皇統の情報筋"から、スペインの誇る「無敵艦隊」が英国に破れ、海軍力を大幅に低下させているという情報を得ていました。
もちろん、当初、秀吉は、スペインと政治的交渉を行うため、天正18(1591)年9月、フィリピンのルソンにあるスペインの総督府に原田孫七郎を派遣し国書を手渡します。大帝国のスペインに対し、「頭を下げて臣下の礼をとれ。それが嫌ならマニラに攻めこむぞ」と、口喧嘩をふっかけたのです。
そして、文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門が滞在していたマニラで、同じくスペインの意図を見抜いた明国から派遣されていた正規兵2千人が一斉蜂起してスペインの総督府を襲う事件が起こります。スペイン兵は歯が立たず、原田喜右衛門が手勢を率いてまたたく間に明軍を全滅させてしまいます。
日本軍の強さを思い知らされたゴメス総督は、原田喜右衛門に感謝をするとともに、この勢いで日本が朝鮮、明国を征服するのは時間の問題。そうなれば日本がアジアの盟主となるのは明らかで、"モンゴル帝国の再来"となって欧州にとって脅威となるのは必定と考えました。
ちなみに、韓国では、李舜臣が日本を敗北させた英雄とされていますが、李舜臣は文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑みますがあっさり敗退。そして慶長3(1598)年11月18日の露梁海戦のときにあえなく討死しています。
一方、日本側はスペインが当時すでに傾きかけていた明国を征服すると、如何に多くの鉄砲を持っているとはいえ、スペイン配下の明の大軍が数で日本に攻め込んできて元寇の再来となりかねないと考え、スペインの野望を挫くため秀吉は朝鮮出兵を行います。
仮に明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことが日本の国防上有益で、「白村江の戦い」などの古代の歴史や、ロシアの南進を防ぐために明治政府が行なった「日韓併合」と共通の"満鮮計略"に基づいたものです。
が、日本が撤退したのは、護良親王が欧州に作った"南朝皇統の筋"からの情報に基づき、「無敵艦隊」の壊滅以来、スペインは国力が疲弊してアジアから撤退する方針に変わりつつあったこと、明に代わって女真族の「清」が勢いを増しつつあったことを知っており、脅威は去ったと判断したからです。
また、もう一つの朝鮮出兵の目的は、諸大名に金を使わせ力を削ぐことで戦国の世を終わらせることでした。事実何一つ恩賞を得られなかった諸大名の不満は秀吉の死後爆発。
その後の関ヶ原の合戦ではトドメを刺すように、小西行長ら西国のキリシタン大名は徳川家康により一掃されますが、いずれも、「神はキリストだけ」として天皇の存在を否定し、國體の破壊を目論む一神教勢力イエズス会の野望打ち砕くための朝廷(國體)の指示によるものだったのです。
https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12561662822.html?fbclid=IwAR1d1Jo5woh9qsGHHxy5B0Y62io4JADw0Pw1ydZAUToRzqPBDQbTiPv0Q8s 【日本人女性を性奴隷として売り飛ばしていたキリシタン大名とイエズス会!】より
15世紀以降の大航海時代になると、黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていた。
そんな中、フランシスコ・ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込みむ交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
そして、日本でもポルトガル人が日本人女性を奴隷として買い付け、イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書いた日記によると、ポルトガル人は多数の日本人少女を買い取り、性的な目的でポルトガルに連れ帰ったばかりか、ポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫、さらにはポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人奴隷の性奴隷にされたという。
また、豊臣秀吉の朝鮮出兵時の従軍記者の見聞録によると、『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』と記されている。
例えば、大友宗麟は、Γ火薬製造に欠くことのできない硝石を手に入れ、輸入するためであれば、彼にとって豊の国の寺院を破壊したり、若き娘たちを売り払うことは何でもないことであった」と。
また、有馬晴信は、宣教師ジョアン・ロドリーゲスの要求により、南蛮人の蛮行を見るを見まねて、領民から進物即ち少年少女達を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送った。このため「近所の日本人が子を売り親を売り妻子を売る」という状況となり、「有馬の地全土が苦悩におおわれ、錯乱した人々は子供たちをつれてしげみに逃れた。」といわれている。
この結果、キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団としてローマ法王のもとに行った際の報告書を見ると、『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
このように、ポルトガル人が「神の愛」を説きながらキリスト教の布教をおこなう一方で、南蛮貿易において多数の日本人を安く仕入れ、奴隷として船に連行し、海外に売り飛ばす事実を知った豊臣秀吉は激怒、その言葉を伝える「九州御動座記」によれば、イエズス会宣教師に対して、「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」と警告した。
が、事態の改善が見られなかったことから、イエズス会の野望を喝破した豊臣秀吉は天正15年(1587年)6月18日、宣教師追放令を発布し、イエズス会の一掃を断行したのである。
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