https://www.touken-world.jp/tips/59181/ 【戦国三英傑と宗教】より
誰もが知っている戦国武将「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」は、愛着や尊敬を込めて「三英傑」と総称されます。三英傑の呼び名は、それぞれが戦国の世を泰平に導こうとしていたことや、3人とも愛知県出身であったことからまとめて呼称するようになりました。天下を目指したことは同じで、戦や政策などでも目覚ましい活躍をしています。けれど、三者三様まったく違う個性を持っていたことから、後世の人々から比較されることも多々ある三英傑の性格と信仰した対象について迫っていきましょう。
織田信長
「織田信長」は、戦国時代の「革命児」とも言うべき革新的人物として、今も高い人気を誇る戦国武将です。
織田信長を革新的だと評している研究者に、「田中義成」(たなかよしなり)という方がいます。
その著書で、1980年(昭和55年)に出版された「織田時代史」では、織田信長について「織田信長の幕府を廃し皇室を奉戴して、海内統一の計画をなせしは、鎌倉以来400年の習慣を打破せる一大革新なりき」と記しているのです。
尾張国(現在の愛知県西部)と美濃国(現在の岐阜県南部)を平定した織田信長は、当時の室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を廃して室町幕府を滅亡させました。そして天皇を擁立し、「天下統一」への事業を推し進めたことが革新的なできごとで、鎌倉時代以来の政治を打破したことだと言うのです。
このように織田信長は、古い伝統や因習にとらわれない、当時の時代にはない先駆けた思想を持っていました。「楽市楽座」の政策や関所の廃止、身分を問わない人材の登用など、挙げればきりがありません。
宗教勢力との対立
比叡山焼き討ちの様子
織田信長の革新的な事柄のなかには、中世から続く仏教の権威的な存在であった「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の焼き討ちを行ったことなどが挙げられます。
1571年(元亀2年)に行われた「比叡山焼き討ち」ですが、このとき越前国(現在の福井県北東部)の朝倉氏と近江国(現在の滋賀県)の浅井氏と対立していた織田信長は、比叡山に向けて「こちらに味方をすれば何もしないが、どちらにも味方できないのならば中立を保って欲しい。これに背いた場合は堂をすべて焼き払う」と申し渡しました。
結果として比叡山側は回答を回避し、朝倉・浅井方に味方をしてしまいました。このことについて「信長公記」では「本来は合戦に口出しをするべきではない僧侶達が、朝倉氏や浅井氏に味方して、織田信長に反抗したからだ」と記されています。
仏教勢力との対立と言うのならば、本願寺教派の僧侶によって組織された「一向一揆」と激しく争った「石山合戦」も挙げられます。
こうしてみると織田信長はすべての神仏勢力と敵対関係にあったようにも見えますが、そうした訳ではなく、自らと敵対しない宗派については保護するなどの活動を行っていました。例えば1573年(天正元年)には、父祖の地でもある「津島神社」(愛知県津島市)の本殿を造営するなどしています。
織田信長は自らの掲げる「天下布武」(てんかふぶ:天下統一事業)を成し遂げるため、「岐阜城」(岐阜県岐阜市)から現在の滋賀県近江八幡市に新たな居城「安土城」を築城しました。
安土城は地下1階地上6階建て、「天主」(てんしゅ:安土城では[天守]をこのように表記)の高さが約32m。安土城以前にはない、独創的な意匠で誰もが圧倒される絢爛豪華な城であったと言われています。
しかし残念なことに、1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」で「明智光秀」が織田信長を討ったのち、明智光秀の家臣らが敗走時に放火し焼失してしまいました。その後は廃城となり、現在は石垣など一部の遺構が残るのみとなっています。
無神論者だと言われる織田信長ですが、城内における内装には神道・仏教・儒教・中国神話の思想について非常によく表れているのです。1579年(天正7年)1月、織田信長の家臣「太田牛一」(おおたぎゅういち)による「安土日記」に安土城の仔細が書かれていました。
まず天主の上から1重目は、「三皇五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢、狩野永徳ニかゝせられ」とあります。
「三皇五帝」(さんこうごてい)…中国神話における理想の君主のこと。
「孔門十哲」(こうもんじってつ)…「孔子」(こうし)の最も優れた弟子の10人。
「商山四晧」(しょうざんしこう)…中国秦代後期の乱世を避けて山に隠れた4人の仙人。
「七賢」(しちけん)…儒教における哲学的講談を行った7人。別名「竹林の七賢」。
それらの絵は安土桃山時代の絵師「狩野永徳」(かのうえいとく)が描きました。
そして上から2重目は、「釈門十大御弟子等かゝせられ、釈尊御説法之所。御縁輪ニハ餓鬼共ニ鬼どもをかゝせられ、御縁輪のはた板ニハしやちほこひれうかゝせられ候」とあり、仏教的世界が描き出されていたことが分かります。こうして安土城の内装を知ると、織田信長が無神論者だったとは考えにくいのです。
しかし、キリスト教宣教師の「ルイス・フロイス」は自著の「日本史」で「彼は良き理解力と明晰な判断力を具え、神及び仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的卜占や迷信的習慣を軽蔑していた」と記しています。
このことから織田信長は、必要以上に信仰するということはなく、合理的に信仰心を使い分けている様子が見えて来るのではないでしょうか。
豊臣秀吉とキリスト教宣教師との関係
日本の歴史上、「豊臣秀吉」ほど人に好かれている人物はあまりいないことでしょう。
大人も子供も関係なく世代を超えて、豊臣秀吉が好きな人は圧倒的に多いのです。
この豊臣秀吉の人気を高くしている理由のひとつに「庶民であったこと」が挙げられます。
一介の農民から織田家に仕え足軽大将になり、織田信長に認められ、天下を統一する成功譚が人々を惹き付けてやまないのではないでしょうか。加えて、「太政大臣」(だいじょうだいじん/だじょうだいじん:朝廷で天皇に次ぐ最高長官)の座に就いてからも、明るく庶民的感覚を失うことはなく、誰に対しても数年来の友人のように接したと言います。
豊臣秀吉のキリスト教弾圧
誰に対しても屈託なく陽気に振る舞う豊臣秀吉でしたが、1587年(天正15年)に突如として「バテレン追放令」(バテレンはキリスト教宣教師のこと)を出しました。これまで豊臣秀吉は、主君だった織田信長がキリスト教を認めていたことから同じ路線を引き継ぎ、キリスト教に対しては寛容な態度を通してきました。
しかし、「九州征伐」を完了させ、九州の玄関口である筑前博多まで凱旋したときのこと。豊臣秀吉は同年6月19日に、「イエズス会」の副管区長「ガスパル・コエリヨ」のもとへ詰問状を送り付け、翌朝、諸大名に向けてバテレン追放令を指示。
その内容は5ヵ条からなり、1条目は「日本国ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授候儀、太以下可然候事」(日本は古の神々に守られた国であるのに、キリスト教の国から邪法を授かるのは、非常にけしからんことである)と書かれているのです。
日本神話である「古事記」には、「伊邪那岐」(イザナギ)と「伊邪那美」(イザナミ)の夫婦神がいます。この内の男神、伊邪那岐が「天沼矛」(あめのぬぼこ:日本書紀では[天之瓊矛]または[天瓊戈]と記される)で、空から日本の国土を混ぜ合わせたとき、多くの神々が生まれた記述があり、豊臣秀吉はこの話を信じていたということが分かります。つまり豊臣秀吉は、神国思想の持ち主だったのです。
そして3条目には、「宣教師は、日本の仏法を破っている。そのため日本にキリスト教の宣教師を置いておくことはできない」と書かれ、追放令が出されてから20日間のうちに、宣教師達は国に帰るようにと指示。このことから豊臣秀吉は、仏教も擁護していたことが分かります。
また、豊臣秀吉はキリスト教自体を禁じた訳ではなく、強制的な改宗を禁じていただけで、自らの意思で信者になることは許可しています。さらに、貿易のためのキリスト教徒による外国人渡航も認めていました。
バテレンを追放する理由
バテレン追放令には、前述した19日付の5ヵ条に加えて、「伊勢神宮」(三重県伊勢市)の神宮文庫から発見された18日付の11ヵ条のバテレン追放令もあります。この11ヵ条の方には、一向一揆に触れた条項がなんと3つも出てくるのです。
一向一揆は浄土真宗の本願寺派の勢力による各地で起きた一揆で、豊臣秀吉は主君・織田信長と共にその制圧に10年以上もの歳月を費やしました。信仰による戦がどれほど手強いのかを知っているからこそ、豊臣秀吉はバテレン達を追放するべきと考えたと言えます。一向一揆の構成員は、農民など身分の低い者が大半でしたが、キリスト教徒にはすでに多数の大名達がいたことから、もしキリスト教徒が一斉蜂起した場合は大変な事態になると懸念していたのです。
また、同時期、ポルトガル商人による日本人の奴隷交易問題が浮上していました。豊臣秀吉は、前述したガスパル・コエリヨにバテレン追放令についてと、奴隷交易を解決するため南蛮貿易禁止についても詰問しています。つまりバテレン追放令は、単なるキリスト教弾圧ではなく外交上の理由も深くかかわっていたのです。
これに対しイエズス会は、すでにポルトガル本国に日本人の奴隷売買を禁止するよう呼びかけていました。しかし、ポルトガル国王「セバスティアン1世」は、あまりに多い奴隷交易がキリスト教改宗の妨げになっていたことを受け、1571年(元亀2年)の時点で日本人の奴隷交易を禁止していたのです。
このことを豊臣秀吉は知らなかった可能性が高いのですが、豊臣秀吉としては計画通りバテレン追放がうまくいくよう注視していました。
徳川家康の江戸整備と陰陽五行説
「徳川家康」は、長かった戦国時代に終止符を打ち、264年にも及ぶ江戸幕府の成立といった偉業を成し遂げた戦国武将です。
幼少期から少年期までは、織田家に次いで今川家の人質として過ごします。
17歳となった1560年(永禄3年)に、織田信長が「桶狭間の戦い」で「今川義元」(いまがわよしもと)を討ち取ったことで、今川家から独立。
織田信長と同盟を結び、織田信長と共に戦を行っていきました。
織田信長が本能寺の変で亡くなって以降は、豊臣秀吉に仕えるようになりますが、豊臣秀吉没後の1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で豊臣家を裏切る形で勝利。1603年(慶長8年)に、「征夷大将軍」となり江戸幕府が開かれました。
徳川家康の、何年も積み重ね、慎重に身の振り方を考えていく姿は、とても用心深く冷静です。この慎重さ用心深さも、幼少期からの人質生活に備わった処世術だったとも言えます。江戸幕府が開かれた江戸の都市整備にも、徳川家康のこうした慎重さが表れている場所が多いのです。徳川家康と江戸の町づくりについて見ていきましょう。
四神相応思想による江戸の町づくり
江戸の町づくりには、徳川家康の側近で天台宗の僧でもある「天海」の助言をもとに作られています。もともと「江戸城」(現在の東京都千代田区)は、1457年(長禄元年)に扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の家臣「太田道灌」(おおたどうかん)が、麹町台地の東端に築いた平山城でした。徳川家康が入府してから約10年をかけて段階的に改修していくのです。
徳川家康は、江戸の町を作るにあたって、まず天海に命じて駿河国(現在の静岡県中部、北東部)から下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部)まで関東の地層を調べさせます。天海が、江戸の地が幕府の本拠地にふさわしいかを古代中国の陰陽五行説である「四神相応」(しじんそうおう)に照らし合わせた結果、作る決断に至りました。
この四神相応とは、東に川が流れ、西に山や道、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は、都として栄えるとされた思想です。江戸は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、四神相応の地として間違いないと天海は考えました。なお、四神相応の都には、中国唐の長安、日本の平城京と平安京などがこの思想に基づいてつくられています。
「鬼門」と「裏鬼門」で守られた町づくり
四神相応に続いて天海は、江戸城の北東と南西の方角にあたる「鬼門」と「裏鬼門」を重視。この鬼門とは、古来より鬼が出入りする方角として忌み嫌われていたのです。裏鬼門は鬼門の反対側の方角になり、鬼門同様に忌み嫌われていましたが、鬼門から入り込んだ鬼が抜けていくための道として重要な意味も持ちました。
また鬼は、絵画などで角が生えた恐ろしい顔付きの妖(あやかし)として描かれますが、実際は流行病や疫病などを指していたと言われています。
天海は、江戸城の北東にあたる鬼門に「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)を築き、自らその守りになるよう住職を務めました。
この寛永寺の寺号は「東叡山」(とうえいざん)と言い、「東の比叡山」を意味します。平安京の鬼門に位置するのは比叡山延暦寺であり、この作りに倣ったのです。さらに「浅草寺」(せんそうじ:東京都台東区)、「神田明神」(東京都千代田区:正式名は[神田神社])も鬼門となります。
裏鬼門は「芝増上寺」(東京都港区)、「日枝神社」(ひえじんじゃ:東京都千代田区)となります。この配置は、江戸城を中心に北東から南西に2本の直線となっており、地形だけで見れば非常に強力な鬼門封じになっているのです。
このことから江戸の「三大祭」である神田神社の「神田祭」、浅草寺の「三社祭」、日枝神社の「山王祭」は、江戸城の鬼門・裏鬼門を浄化する意味もあったという説もあります。
そして、この北東の鬼門封じは、東北の大名達から江戸を守るためでもありました。軍記物「東奥老子夜話」(とうおうろうしやわ)によれば、「伊達政宗」は徳川家康の天下統一後も、自身の天下取りの野望を捨ててなかったと記されています。
実は、占星術や易(えき:古代中国の占い)などの占いを取り入れた都市計画は世界中で見ることができ、それほど珍しいことではありません。これは慎重派の徳川家康が、用心に用心を重ねた結果、陰陽五行説による方角や建物の配置などで気の流れを整える方法を取り入れたに過ぎません。江戸幕府を安泰させたのは、「一国一城令」や「武家諸法度」など政策を進め、堅実な幕藩体制を作り上げた徳川家康の手腕に他ならないのです。
https://christianpress.jp/akechi-mitsuhide-kirin-ga-kuru/ 【NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とキリスト教(1)明智光秀はキリスト教を信じていたか】より
NHK大河ドラマ第59作「麒麟(きりん)がくる」が19日から放送される。織田信長(おだ・のぶなが)を裏切って「本能寺の変」を起こしたことで有名な明智光秀(あけち・みつひで)の生涯を描く作品で、長谷川博己(はせがわ・ひろき)が主役を務める。
意見した明智光秀を打ち据える織田信長の錦絵(新撰太閤記)
その戦国時代のキリスト教伝道をリアルタイムに報告しているのがフロイス『日本史』全12巻(中央公論社)。後世に想像で書かれたものではなく、同時代に生きて直接会っている人が書いている貴重な一次資料なので、真実に近い光秀の姿をそこからうかがい知ることができるのだ。
ところで、いま新刊として手に入れやすいのが『完訳フロイス日本史』全12巻(中公文庫)だが、この記事ではその元となった単行本から引用を行う。文庫と単行本では構成が変えられているため、巻数と頁が一致しないのでご注意願いたい。
まず、光秀のいた時代のキリスト教史を簡単に振り返ると、こうなる。光秀は生年不詳(1516年と28年の2説ある)で、1582年、本能寺の変の直後、「山﨑の戦い」で豊臣秀吉に敗れて亡くなった。その間の49年、ザビエルが日本にキリスト教をもたらし、信長が宣教師やキリシタンを優遇したこともあって、数十年のうちに日本宣教がかなり進んだといわれる。しかし87年、日本を征服されると疑心暗鬼になった秀吉によってバテレン追放令が出され、キリシタン迫害の時代が始まる。
フロイスの日本史
さて、フロイスは光秀について次のように紹介している。「信長を殺した明智(光秀)」(12巻、61頁)、「謀叛(むほん)によって信長を殺害した明智(光秀)」(2巻、185頁)、「(信長)は、丹波、丹後(両)国、および近江の国の三分の一(を形成していた)比叡山の僧侶たちのほとんど全収入を明智(光秀)に与えたが、明智は後に信長を殺す(に至る)」(4巻、126頁)。
何より、その人柄を事細かに伝えているのが5巻(五畿内篇3)だ。
傲慢さと過信において彼(信長)に劣らぬ者になることを欲した明智も、自らの素質を忘れたために、不遇で悲しむべき運命をたどることになった。(175頁)
その才略、深慮、狡猾(こうかつ)さにより、信長の寵愛(ちょうあい)を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。……自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。……彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好(しこう)や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け(ていた。)(143頁)
このように裏切り者のイメージそのままの人物像が綿密につづられている。
それに続いてフロイスは、「本能寺の変」の経緯を詳細に報告する。ここでは割愛するが、興味のある方は実際に『日本史』を読んでほしい。
そんな光秀だが、キリスト教に対してはどういう態度をとっていたのだろうか。
明智は悪魔とその偶像の大いなる友であり、我らに対してはいたって冷淡であるばかりか悪意をさえ抱いており、デウス(神)のことについてなんの愛情も有しない……(149~150頁)
熱心な信仰で知られる細川ガラシャの父親であり、またキリシタンを厚遇した信長の臣下であった光秀だから、キリスト教に対して何らかのつながりがあるように思われるが、まったくそういうことはなかった。むしろ、信長亡きあと、光秀によって自分たちがどうなるかを宣教師らは案じていたようだ。
司祭たちは、信長(の庇護や援助があってこそ今日)あるを得たのであるから、彼が(教会に)放火を命じはしまいか、また教会の道具には(すばらしい品があるという)評判から、兵士たちをして教会を襲撃させる十分な意志がありはしまいかと、司祭たちの憂いは実に大きかった。(150頁)
最後に、「三日天下」に終わった光秀の最期をフロイスがどのように記述しているかを見ておこう。
哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を(居城である)坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎(は)ね……た。しかも、かかる際、彼は異教徒の身分ある者が名誉のために行なう切腹をするための時間すらも持ち得ず、貧しく賤(いや)しい農夫の手にかかり、不名誉きわまる死に方をしたのである。(172~172頁)
フロイスはそう書くことはしなかったけれど、誰もが知っている「裏切り者」を光秀に重ねていたのかもしれない。イスカリオテのユダを。(2に続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202005310045/ 【明智光秀の娘ガラシャ】より
明智光秀の娘ガラシャ 特集/明智一族の謎 江蔵 一成氏(えぞう・いっせい)(大分県会員)『歴史研究』545号・2006・10一部加筆 白州ふるさと文庫
高柳光寿博士の著書『明智光秀』 (吉川弘文館)によれば、明智光秀には少なくとも三人の娘がいたという。その中で最も有名なのが明智玉すなわち細川伽羅奢(ガラシャ)である。
玉は永禄六年(1563)に現在の福井市東大味町で生まれた。
当時光秀が、一乗谷城主朝倉義景に仕えていたからである。その後光秀は信長に仕え、元亀二年(1571)に近江坂本城主となったので、玉は少女時代をこの地で過ごすことになる。
そして、天正六年(1578)、信長の命により、十五歳で細川忠興へ嫁ぎ、細川氏の居城であった山城国長岡(現在の京都府長岡京市)の勝龍寺城に移る。玉の新婚生活は長岡で営まれたわけである。
天正八年(1580)、細川氏は丹後を平定して宮津(現在の京都府宮津市)に居城を構え、玉は忠興とともに宮津へ移る。
そして天正十年(1582)六月二日、玉の父光秀が本能寺の変を起こす。
信長を倒した光秀は、当然細川藤孝・忠興父子は自分に味方するものと考えていた。しかし、宮津で本能寺の変の報を聞いた細川父子は、もとどりを払って信長に対する弔意を表し、光秀との義絶を表明する。
あわてた光秀は、六月九日付の覚書を細川氏に送り説得する。
自分が近国を平定した暁には十五郎(光秀嫡子)や与一郎(忠興)に引渡して自分は隠居するつもりである。だから協力して欲しいと。
しかし細川父子は翻意せず、援軍を得られなかった光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、最後は山城国小栗栖で自決する。本能寺の変からわずか十一日後のことである。
本能寺の変を境に玉の運命も暗転する。光秀と義絶したことを明らかにするため、玉と忠興も離れねばならなかった。家臣の一人は玉を自害させるよう主張したが、結局家老松井康之の献言により、丹後国味土野(三戸野・現在の京丹後市の一部)に玉は幽閉されることになる。
玉は天正十一年(1583)から天正十二年の二年間を味土野で過ごした。この間に玉と起居をともにしたのが清原佳代という侍女である。この女性は父の影響によりキリスト教を信奉していた。佳代の父は、清原枝賢という高位の公家であったが、永禄六年(1563)にキリスト教に改宗していた。佳代は後に玉に先がけて洗礼を受けマリアと名乗り、玉の受洗を助けることになる。
天正十二年、父の仇である秀吉の許しを得て玉は忠興と復縁し、味土野から大坂の玉造(現在の大阪市中央区玉造付近)にあった忠興の屋敷に佳代とともに移る。
この頃、嫉妬深い忠興は他の男に玉を見られることを嫌い、玉を屋敷に閉じこめたという話が伝わっている。しかし私は疑問に思っている。このような話を伝えるのは、イエズス会宣教師のフロイスであるが、彼自身は直接玉や忠興と親しかったわけではない。玉の悲劇性を強調するために、フロイスが伝聞を潤色した可能性があると私は思う。
むしろ玉白身が他人との接触を嫌い、屋敷に閉じこもったというのが真相であろう。
『関原軍記大成』という古記録に残る玉の言葉はこうだ。
「味土野に幽閉された頃卑しい山の民に謀反人の娘と謗られて口惜しく思い自害を考えた。しかし忠興に呼び戻されて年月を送ってしまった。この頃、諸大名の奥方は淀殿(信長の姪)の御前へ参ることが多いが、私自身は謀反人の娘であるこの身を恥じて参らなかった」
屋敷に閉じこもる妻を慰めるため、忠興は茶道を通じての友人である高山右近から聞いたキリスト教の話を語って聞かせた。忠興自身はついに入信しなかったが、彼の母もキリシタンであり、まったくキリシタンに無理解であったわけではない。しかし、玉はすぐにキリスト教に入信したわけではない。仏教の教育を受け理知的であった玉は、むしろ最初キリスト教に対して懐疑的であったようだ。
ところが、天正十五年(1587)に秀吉がキリスト教の禁教令を出すと、まるで秀吉の命に逆らうかのように、玉はキリスト教の洗礼を受ける。宣教師たちが日本から退去する前に、洗礼を受けねばならないと決意したのである。洗礼によって玉はガラシャという洗礼名を授かる。ガラシャ(正しくはグレーシア)とは恩寵すなわち神の恵みの意味である。洗礼は侍女である清原佳代(マリア)がセスペデス神父の指導のもとにおこなった。
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