https://muchacafe.hateblo.jp/entry/2018/07/26/000407 【禁断の果実を食べたアダムとイブの罪 この人類最初の罪を「原罪」と呼ぶ】より
禁断の果実
エデンの園に置かれたアダムは、神から園を自由に歩きまわって、管理する仕事を与えられました。アダムは妻のイブ(エバともいう)とともに、エデンの園の木の実を食べて暮らしていましたが、神によって園の中央にある善悪の知識の木の実を食べることだけは禁止されていました。
神への裏切りをそそのかす蛇
ある日、最も頭のいい蛇(へび)が、イブに向かってこう問いかけます。
「神はどうして果実ならどれを食べてもよいと言わなかったのか」
「食べたら死ぬから」
「あなたがたは決して死ぬことはないだろう。それを食べるとあなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者になることを、神は知っているのだ」
蛇の巧(たく)みな誘いに心揺れるイブの目に、美しくおいしそうな実が飛び込んできます。イブは禁断の実を手に取って食べてしまい、さらにはそれをアダムにも渡しました。
善悪を知り羞恥心芽生える
すると、互いが裸でいることを急に恥ずかしく思い、いちじくの葉で腰を覆(おお)って茂みに隠れてしまったのです。木の実を食べて善悪を覚えたことから、ふたりには羞恥心(しゅうちしん)が芽生えたのでした。
ここで「善と悪」とは、「善さ」と「悪さ」の意味ではなく、知識の両極端を指す言葉であり、全体をあらわす。つまり「善と悪を知る者」とは、知らないことは一つもなく、できないものは何もないという「全知全能者」のこと。
人類は数々の労苦を背負うことに
神はふたりを問いただしましたが、アダムはイブに、イブは蛇に責任をなすりつけました。もちろん、一番悪いのは蛇ですから、神は蛇に「お前はすべての生き物の中で最も嫌われるものとして、地を這(は)い、ちりを舐(な)めて、生きよ」と罰を与えます。さらに、女には子を生む苦しみを、男には額に汗して労働をする苦しみを、そしてすべての人間に命の期限を与えました。
神に問われたイブは「蛇がだましたので食べた」と責任転嫁したので、「全知全能者」にはなれなかった。そこに到達できない限界に気づかされたのです。
アダムとイブの楽園追放
神の命に背(そむ)いたという原罪(げんざい)を背負ったふたりは、楽園を追われました。楽園と人を隔(へだ)てるために、エデンの東には炎の剣を持った天使が置かれます。人間が知識の代償に得たものは、労苦と死だったのです。しかし、神はエデンの園から追い出したが、ふたりに皮の衣を着せて情けをかけたのです。
蛇の存在
『旧約聖書』では、知能の高い存在として描かれている蛇。世界各国の歴史においても、特別な存在として扱われてきた。中国では畏怖(いふ / 恐れおののくこと)の対象となり、西洋ではその容姿から魔的なものとして恐れられてきた。そして日本では、ハブは罪のある者を見わけてかみつくとされ、白蛇は神聖視されている。特異な姿の蛇に対する思い入れの深さは人類共通のものといえる。
出展「創世記」第3章
『イチから知りたい! 聖書の本』より
理解するポイント
ここでの罪は神の命に背き、また神に問いつめられ責任転嫁したところにあるのではないでしょうか。他のものに責任をなすりつけたことが神の怒りにふれた。そして、「全知全能者」にはなれず、限界に気づかされた。禁断の果実、善悪の知識の木の実を食べて得た、その知識の代償はあまりにも重かったのです。しかし、問題はこの限界をどのようにして生きるかということでもあるのでしょう。
https://www.lily-promotion.jp/inspiration/detail/history002.html 【ユリの歴史 ◆ 第2回 ユリの象徴学 聖母マリアの純潔を表わすユリ】より
聖母マリア。聖処女とされる彼女はどのようにしてこの世に子どもを生んだのでしょう?
彼女が最も神聖な人間であると知られるのに、なぜ、長い時間が必要だったのでしょうか?
そしてユリの花は、彼女の人生においてどのような役割を持っていたのか?
オランダで最も有名な、そして最もその著作が読まれているローマカトリック司祭、Antoine Bodarアントワーヌ・ボダール氏に聖母マリアとユリの話をうかがいました。
『神は汝を迎える 純潔の花 マリアよ 聖なる女性』・・・聖母をたたえるオランダの讃美歌は、こんなふうに始まります。・・・神は聖母マリアを歓迎し、彼女を「最も純潔な花」と呼びました。彼女はまるで花のようでした。みずみずしく、そして若く、汚れなき女性。純粋とは、誰にも触れられず、無垢であることを意味します。マリアは無垢で汚れのない若い女性であると。 なぜマリアと純粋さとはそれほど強く結びついているのでしょうか?彼女はユリの花ように白く、彼女の優しさはユリの透き通った美しさに表われています。彼女の純粋さは神のごとくあり、まさにそれは神による純粋さといえるものだからです。
私達が最初にマリアに出会うのは、神の使いの天使ガブリエルがナザレの彼女の家に行き、彼女に告げる時です。「マリア、気品に満ちた者、神はあなたと共におわします、神に祝福された女性」あるいは(別の訳では)「喜びなさい。あなたは神に選ばれた。神はあなたとともにおわします。」
マリアはこの予期せぬ訪問に悩みます。心配からではなく、神への畏れのためでありました。しかし、天使は彼女を安心させるように、こんなふうに言葉をかけました。「畏れることはありませんよ、マリア。あなたは神の恵みを受けるのですから。あなたはやがて身ごもり、男の子を生むでしょう。子どもの名はイエスさまと呼ばれるがよい」。
この出会いの様子を思い描くのはとてもかんたんです。なぜなら、キリストの生誕と処刑を除くと、受胎告知ほど何度も絵画に描かれた場面はないからです。人々は毎年、教会の暦でクリスマスの9か月前の3月25日にお祝いをします。中世後期の作品で、マリアは、神聖な雰囲気のある家の内部を背景として多く描かれました。彼女は常に美しく謙虚で、それが彼女をよりいっそう魅力的にしています。彼女は手元の時祷書から顔を上げ、驚いている姿で表わされ、身につけているかわいらしい服はたいてい青い色をしています。天使が到着して彼女は優雅にひざまずく。もしもガブリエルが手にユリを持っていなければ、部屋のどこかにユリの花瓶があるはずです。マリアは清純な処女で、けがれのない少女、イスラエルの無垢な女性として表わされています。
アントネッロ・ダ・メッシーナ
1430-1479 作
「受胎告知のマリア」
中世後期の作品で、マリアは神聖な雰囲気のある家の内部を背景として多く描かれました。
ここで、いったんガリラヤの町に戻り、天使とのやり取りの続きを聞いてみることにしましょう。天使の告知に対するマリアの反応は落ち着いていて、シンプル、的を射ています。「なぜなのですか?私は男性を知りません。」もちろん、男性を知らない女性は妊娠するはずはありません。マリアは未婚で、まだ誰も触れられていません。彼女はダビデの家のジョセフという名の男と婚約していただけでした。ガブリエルは答えました。「聖霊があなたのもとへ来て、最も高い方の力があなたを覆ったのです。これからあなたが生む聖なる人は、神の子と呼ばれるでしょう」。
イエスは、男性ではなく聖霊の力でマリアにもたらされたのです。神に言葉は必要ありません。イエスは血や人間の欲望、人の意思ではなく、神から生まれたのです。
マリアは新しい契約の最も純粋な忠誠のしるしです。彼女は神の恩寵で自分の身が変わることを喜びます。これは本質的な純粋さ、内面からの服従、心の純潔であり、誰にも触れられていない無垢の身体の純潔に意味を与えるものです。精神性は身体性に先行するのです。「神の使いよ、私を見てください。私は神の御言葉に従います。」これが神のお召しに対する彼女の受諾の言葉でした。
イエスが神であり男性であるとされる一方、最も神聖で純潔な人であるマリアへの信仰が東西のキリスト教で長い間言明され続けていたにもかかわらず、彼女の無原罪の御宿りについての教義は、1854年Piusピウス9世によって初めて宣言されることになります。ローマ教会は、大祭である12月8日のキリスト降誕の9か月前、すなわち9月8日を聖マリアの生誕記念の祝祭日と定め、これを祝いました。この催しは、マリアの母親が受胎したときから無垢で純潔であったということ、つまり、いかなる原罪にも汚されていないということを記念するものなのです。
0コメント