Facebook 清水 友邦さん投稿記事「探求の途上で」
昨日、呼吸道の講座がありました。
探求がある程度進むとそれ以上先に進むのが困難になることがあります。
不安になったり、イライラしたり、探求自体に意味がないように思えたりします。
自分が価値のない人間に思えたり、虚無と暗黒に包まれているような感じがしたり、果てしなく落下していく感覚や、暗く重苦しく落ち込んだ状態が何ヶ月も、時には数年続くこともあります。
その時は「ゆらぎ」が起きて古い自我の壁が崩壊しようとしているのです。
存在の力が備わっていないと自分に何が起きているのかわからないので、そこから逃れようと余計に苦しんでしまいます。
プロセスを経過するとわかるのですが、居心地の悪い感覚が心に浮かんできたということは、その感覚を認めてもらいたいということです。
否定的な感覚は心の奥に閉じ込めてしまった大切な自分の側面なのです。
古い自分を超えて本当の自分を知るには思考と同化することをやめなければ気づけません。
感情を抑圧している人は情動が湧き上がると思考で覆い尽くして、感じないようにしてしまいます。
それがいつも行われているので思考から離れて見ることが難しいのです。
子供の時は思考が鎧となって身を守る手段でした。
が、大人になったいまでは逆に自我が足かせになっています。
情動が浮かび上がってきた時に、それを言語化せずに、それを認めて受けいれることが必要です。
情動の感覚を分析や判断することなくあるがままにします。
いままでの習慣で自動的に思考が湧いてきますが、いま自分に必要なことが起きていると思い直して、情動から逃げないようにします。
いまこの瞬間に起きていることをあるがままに受け入れることができれば本当の自分に気がつくことが起きます。
存在の力がついて、感情を受けれることができれば思考で覆う必要がなくなります。
思考に気づくことができると自然に心が鎮まってきて思考が自分ではないことがわかってきます。
思考の制限から解き放たれた感情のエネルギーは自由な生命エネルギーへと昇華します。
どんな感情も必要があって起きています。
何も間違っていることはないので、自分を責めないようにします。
思考に気づき、本来の自分につながるためにはある程度の時間とエネルギーが必要なこともあります。
真実はいつも今ここにあるので、結果を焦らないようにします。
すべては縁にしたがって物事が起きているのです。
https://kenkyujinsei.com/ 【株式会社研究人生とは】より
人間は皆、発見の航海の途上にある探求者である。 ラルフ・ワルド・エマーソン
エマーソンによると、我らは皆、探求者らしいのだ。
そしてこのサイトの名前は ”研究人生(kenkyujinsei.com)”….
大学院生時代に建てたサイト(ブログ)であり、なんだか大袈裟な名前のサイトです。
では、なぜ、”探求人生” にしなかったのか。
探求(たんきゅう, research)…[名](スル)あるものを得ようとしてさがし求めること。さがし出して手に入れようとすること。
https://www.weblio.jp/content/%E6%8E%A2%E6%B1%82
研究(けんきゅう, research) …[名](スル)物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすること。
https://www.weblio.jp/content/%E7%A0%94%E7%A9%B6
探求も研究もどちらも同じような言葉です。
まあ、でも、個人的に感じる双方の日本語としてのニュアンスで言えば、
探求はもっとマクロというか、大極的に物事を求めているような感じがします。
対して、研究はよりミクロな視点というか、深くその物事に熱中し、その真相に辿り着こうとしているような。
探求の中に研究があるようなイメージでしょうか。
探求は宝島を探すような、研究はもっと細やかに特定の宝石を求めているような(?)
ざっくり言えば、探求ってなんだか研究に比べると少し薄っぺらいニュアンスに感じてしまうのです。
私は、物事に情熱的に向き合い “研究” する姿勢を常に持ち続けていきたいのです。そう、研究人生。
と、まあ大そうな入りをしましたが。
主にパソコン周りの日々の備忘を余力がある限り記事にしています。
最近社会人となり、色々と書きたい話題はあるのですが、なかなか記事に書き出すモチベーションが出ず。
まあ、ゆらりゆらりと書いていきます。そしてこんな会社は存在しません。
https://ameblo.jp/nishito-akiko/entry-12603626049.html 【真の人間関係とは?】より
井筒俊彦氏の「意識と本質」を読んでいます。
人間の意識と、さまざまなものに見出す本質について、学術的アプローチで探求されているので、これまで自分に起こった体験的理解に、新しい言葉をもらえて、理解が立体になってきています。
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
松尾芭蕉に、「私意をはなれる」という言葉があるそうです。
すごくシンプルな言い方でいいなあと思いました。
これを自分の言葉にしてみると、「ものごとを捉える自分」という意識からはなれること、になります。
「自分」と「もの」という分離を超えて、対象を見るということです。
それは芭蕉にとって、美的修錬だったようです。
そうして「私意をはなれる」瞬間、「もの」に「出合い」、歌が生まれたのでしょう。
芭蕉は、その出合いの体験を、「物に入(い)りて、その微(び)の顕われ」ることだと言っています。
「自分」が消えて、「もの」の実存の中に入っていくと、「もの」は自らを顕わします。
そのとき両者の実存が出会うのですね。
人と人の出会いも同じだと思います。
自分と他人という分離がないとき、お互いの実存が出会って、そこに場がつくられます。
それが真の人間関係なのだろうと思うのです。
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