生生流転

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20190318-362717.php 【【 深川 】<草の戸も住替る代ぞひなの家> 時代を超え残る俳聖の心】より

 JR福島駅から東北新幹線を使うと上野駅まで約1時間半。この数十年間に、旅は急激に変化した―などと考える間もなく上野に着いた。目指すは「おくのほそ道」の旅の起点、東京・深川である。

 深川は、東京都江東区の北西、隅田川の左岸に位置する。松尾芭蕉が長く住んだ土地だ。

 芭蕉は伊賀上野(現三重県伊賀市)の出身。農家の次男に生まれ、仕えた武士の元で俳諧の腕を磨いた。諸説あるが29歳(数え年。以下同じ)のころ、俳諧師として身を立てるため江戸に移り住んだという。

 詩想深める拠点

 芭蕉が深川で暮らし始めたのは37歳の1680(延宝8)年冬という。門人から贈られたバショウ(バナナに似た多年草)が家の周りに茂ったため、この草庵を「芭蕉庵」と呼び、俳号を「芭蕉」と名乗るようになった。

 当時、芭蕉はすでに江戸俳壇で地位を確立していたが、深川は江戸の町はずれ。なぜ一流俳諧師がこの地に引っ込んだのか、直接の動機は不明だという。

 以来14年間、芭蕉は、この隅田川のほとりで暮らした。その間「おくのほそ道」の旅を含め4度の旅に出掛けた。芭蕉が没したのは51歳の1694(元禄7)年10月、大坂でだが、この時も深川から出発した旅の途中だった。

 有名な句〈ふる池や蛙(かわず)飛び込む水の音〉を詠んだのも深川。この地は、芭蕉にとって旅のベースキャンプ、詩想を深める拠点だった。

 さて現代。大江戸線の森下駅で下車し、江東区芭蕉記念館がある界隈(かいわい)をぶらつく。

 住宅街と商業地が接し、うっすら下町の風情が漂う。大通り沿いには日中も営業する居酒屋が。「いかにんじん」の貼り紙を見て飛び込んだ店内では、老若男女が和気あいあい。店員が「福島とゆかりはないが、オーナーが気に入りメニューにした」と言う、ニンジン多めの一品を食べ、街の人なつっこさを感じた。

 風流とは無縁そうな大通りから横町へ入ると「深川芭蕉通り」の表示や「芭蕉そば」ののれんが現れた。芭蕉の気配が徐々に増す。

 民家と民家の間には小さな「芭蕉稲荷神社」。境内の案内板に、芭蕉庵は消滅したが1921(大正10)年、東京府が、同神社のある常盤1丁目を旧跡に指定した―とある。この付近に庵(いおり)があったらしい。

 近くに隅田川を望む絶好の場所を見つけた。「芭蕉庵史跡展望庭園」の表示に従い堤防を上ると、ビルの間をゆったり流れる大きな川の姿が現れた。庭園の奥には、頭巾に着物姿の芭蕉の座像があった。

 人生流転の実相

 「おくのほそ道」は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」と始まる。

 時の流れを旅人、人生を旅に例えたこの一節が、船が行き交う目の前の風景としっくりくる。芭蕉がこの地に住んだ理由のようなものが腑(ふ)に落ちた。

 数百メートル北にある芭蕉記念館では、別の芭蕉の気配を感じた。築山に立つ、芭蕉庵を思わせる、小さなかやぶきのお堂。中には小さな芭蕉像があった。

 「おくのほそ道」の中で一番最初に記された句〈草の戸も住替る代ぞひなの家〉。旅立ちを前に引き払った庵には、すでにほかの家族が住み、ひな人形が飾られ華やいでいる―。芭蕉が「人生流転の実相を感得した句」(萩原恭男)という。

 お堂の芭蕉像は、まさにひな人形とは対照的な孤独やはかなさを漂わす。ただ同時に、芭蕉が今もそこにいるような存在感、時が流れても消え去りはしない俳聖の魂のようなものも感じるのだ。

 【 道標 】奉公先で俳諧と出会う

 松尾芭蕉は寛永21(1644)年、伊賀上野の松尾与左衛門家に次男として生まれました。幼名は金作、長じて宗房と名乗りました。

 13歳の時に父が亡くなり次男の芭蕉は10代の後半、地元の有力な武家、藤堂家に奉公します。ここで芭蕉は俳諧と出会いました。

 藤堂家の嫡子良忠は芭蕉より2歳年長で、俳諧を好みました。芭蕉は良忠の話し相手だったらしく、ともに俳諧を行うようになります。

 俳諧とは元々「滑稽・諧謔(かいぎゃく)」と同じ意味の言葉で、面白おかしいことをいう一般語。滑稽味を主眼にした連歌が「俳諧連歌」と呼ばれ、やがて「俳諧」と略称されるようになりました。

 芭蕉の俳壇デビューは21歳の寛文4(1664)年でした。俳諧撰集「佐夜中山集」に、宗房の号で発句二を採られたのです。以降いくつかの俳書に句を採られました。藤堂家では嫡男の愛顧を得て、故郷での生活は順風のようでした。しかし、良忠は寛文6年、病没してしまいます。

 芭蕉が藤堂家を辞した時期を含め、その後の動静はよく分かっていません。ただ伊賀上野で俳諧を続けていたのは確かで、寛文12(1672)年、自作を含む伊賀俳人の句を選び、自ら判詞(寸評)を加えた俳書「貝おほひ」をまとめました。同書からは、芭蕉が当時の俳壇で主導的な立場にあったことや、豊かな言語感覚が見て取れます。これを契機に芭蕉は故郷を離れ、活躍の舞台を江戸へと移していきました。而立(30歳)を前にした29歳のころです。(和洋女子大教授・佐藤勝明さん)


https://www.kumagayakan.net/info/now/bunkazai2106.html 【旅の記憶】より

■時代を超えて ―移り行くものと人―

旅の記憶の連載も十数話をへて、ネタ切れになりそうですが、牛の涎のように途切れそうで途切れないものです、牛の歩みのようにゆったりしっかり進めたいと念じています。

旅人といえば松尾芭蕉、芭蕉は3月の末、片雲の風に誘われたかのように旅立ちの日を迎えます。旧暦のことですから現在では5月の終わりころになるでしょうか(この年は閏月が加わったことから現在とは2ヶ月のずれが生じた)。

-奥の細道 旅たちの初句は「草の戸も 住替わる代ぞ ひなの家」とあります。

「ひなの家」は三月節句によりひな人形を飾った家というよりの、雛人形を飾るような女児の住む家になったという意味とされています。ただ「ひなの家」は春の季語ではあります。

今年の春はウイルス蔓延のため陰鬱な幕開けとなりましたが、気持ちは豊かにありたいものです。五道庵竹二坊は芭蕉の遺徳を慕って、野原文殊寺に芭蕉塚を築き碑も建てました。五道庵は熊谷市の隣り、滑川町福田の権田氏の人で本業の医師の他に俳諧・国学・書道・茶道の五つの道に秀でたことから五道庵の名を藤堂候(伊賀藩公)から受けたといい、芭蕉の伝記をまとめた「芭蕉翁正伝」を著わしています。

芭蕉以前、古代以来「春」の季節をとても重要な時期だと考えていました。草木は芽を出し葉を茂らせ棒木の山は緑の衣を装います。動物たちは子を産み育て、生きる仕事を始めます。自然が春を開始点としていると感じる日本人も、耕し植え育てる農業社会の循環の中に春を出発点としていました。旅により多くの地域を巡ることで芭蕉はこの生々流転する人や風土の姿を直に見たかったのだろうと思います。その思いは創られた多くの俳句に示されていると思います。

春は循環する自然のはじまり、人の暮らしの開始点とする感性は現在も余り逸脱していないように思います。ただ今年の春は厳しい試練とともに始まりました。

【参考図書】小林甲子男1991「五道庵竹二坊」『埼玉俳諧史の人びと』さきたま出版会


http://rekishi-club.com/otoko/matuo.html 【松尾芭蕉 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」】より

 これは周知の通り、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の冒頭の言葉だ。単純に考えると、「月日」も「年」も旅人だというのは、冒頭の言葉に続く、次の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」遂に奥の細道の旅に出た、という言葉を導くための前口上のようなものと思われる。しかし、俳諧の天才、芭蕉はこの言葉をもっと奥深い言葉として表現しているのではないか?

梅原猛氏によると、月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。ところが、それは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」すなわち生死があるという。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのだ-と分析する。

このように考えると、芭蕉の宇宙論は地球を固定して考える天動説でもなく、太陽を固定して考える地動説でもなく、すべての天体を含む宇宙そのものを永久の流転と考える宇宙論なのだ。そして、この宇宙論は最近、現代科学が展開した宇宙論に似ており、芭蕉はまさに時空を超えた宇宙論を持っていたとも考えられる。

また、この「奥の細道」には多くの謎が隠されている。詳細にこの旅行記を分析した歴史家たちの間では、実は芭蕉は諜報員だったのではないかという説がささやかれている。この説には3つの根拠がある。1.「奥の細道」で訪ね歩いた場所が、ほとんど外様大名がいる藩

2.芭蕉の生まれ育ちが伊賀

3.同行した弟子の河合曾良が毎日几帳面につけていた日記から浮かび上がる芭蕉の不可解な行動-だ。

「奥の細道」は芭蕉が45歳のとき、奥州地方と北陸地方を150日間かけ2400km近くを歩いて回った経験をもとに、3年後の元禄5年に書かれたものだ。

全国統治のため、徳川幕府が各藩の大名の行動や考え方を知るには、幕府お抱えの諜報員たちに実際に調べてもらうしかない。幕府の諜報員たちは薬売りなど商人に姿を変えたりして、全国各地を飛び回った。だが、地方分権に近い当時は治安維持のために藩内のどこにでも誰もが近づけるわけでもなく、ましてよそ者が好き勝手に行動することなどできなかった。

諜報員としての理想の条件は、どこにでも行ける旅の目的があり、藩内を自由に動ける権限を与えてくれる高官や、地元に詳しい人物とのコネを持つ人間だった。著名な俳人である芭蕉は、その条件にピッタリなのだ。

「奥の細道」と曾良の日記とは実に80カ所も日時と場所が異なっている。それは2日に1度の割合で違いをみせており、どちらが本当の行動なのか多くの歴史家が首をひねっている。互いに別々の宿に泊まっていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に2人が一緒ではなかったことが明らかだ。芭蕉は何か別行動を取る必要があったのか?

旅のペースも不思議だ。何かを追いかけるように急いだり、あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留している。「奥の細道」の記述をもとに類推すると、芭蕉はまるで忍者のように頑健な体力の持ち主なのだ。こうしてみると、芭蕉への謎は深まるばかりだ。

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれた。松尾家は農業を生業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。生没年は1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、“俳聖”と呼ばれた。

 弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。

 芭蕉の“俳聖”の顔と、裏の諜報員の顔、十分両立する気もするが、果たして現実はどうだったのか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」


https://goldenbat-gentantoku.at.webry.info/202103/article_3.html 【袖触れ合うも多生の縁437~「古池や蛙飛び込む水の音」の句は全く虚構である!~かえるとかわず 芭蕉 嵐山光三郎】より

前回は「井の中の蛙(かわづ)」についてでしたが、今回も蛙についてです。別にワタシの家の近くに田圃や池があり、♪ 蛙(かえる)の歌が聞こえてくるよ~ ♪ てな雰囲気だから、続けて取り上げる訳やないんですが。ところで、「古池や 蛙(かわづ)飛び込む 水の音」という句がありますね。

これは松尾芭蕉の有名な句ですが、井の中の蛙も、この句も「かえる」じゃなくて「かわづ」ですよね。あれ、一体「かえる」と「かわづ」はどない違うんやろか? 一寸調べてみましたが、Japan Knowledgeに因りますと、「かえる」は日常語、「かわず」は歌語として使い分けられてきたそうです。

『万葉集』には二十首ほどのかわずの歌が収録されており、それらは「河津、川津、川豆、河蝦」などと表記されていることからわかるように、その多くは「河鹿(かじか)」(カジカガエル)をさしている。

河鹿(写真下)は山の湖や清流に棲む、小さな痩せた蛙だが、外見に似ず、♪ヒョロヒョロヒヒヒヒ♪ と澄んだ美しい声で鳴く。山の鹿に対して河の鹿と呼んだのである。

蛙は両生類の中で最も繁栄している種類で、南極、北極を省く全世界に約三千種も生息している。蛙が棲む場所は種類によってさまざまだが、水分を皮膚から摂取するので、一般に水分の多い湿った場所に好んで生息する。

そのためもあり、水や雨との縁が深い動物である。特に水稲栽培を中心とする農耕民族であった日本人は格別の親しみを感じてきた。蛙を主人公にした伝承や昔話も多い。乾季を地中で過ごしたり、冬眠する種も多く、そのためにたとえばヒキガエル(写真下)などは上代においては、大地の主の神の使者と考えられていたようだ。

蛙の鳴き声は雄のラブコールで、種の識別や雄であることを知らせるためのもので、最終的に繁殖のためのコロニーを形成するのが目的である。そこにおける交尾は群れ集まって行なわれ、戦っているようにも見えるところから、「蛙合戦」「蛙軍(かえるいくさ)」と呼ばれる。

さて、話を「古池や」に勧めますが、山梨大学名誉教授伊藤洋さんの松尾芭蕉に関する国内最大級のデータベース「芭蕉DB」にはこの句が詠まれた経緯をこのように書かれています。

芭蕉は、中七・下五の「蛙飛ンだり水の音」までできたが、上五に悩んでいた。そのことを其角に話したところ、其角は「山吹や」にしては、と提案したという。これは「山吹の花のしづえに折知りて啼く蛙」という定型表現からの提案であり、其角一流の派手好みの一句とはなるが、芭蕉はこれをとらず、即座に「古池や」としたという言い伝えがある。

「蛙飛ンだり」という表現には、弾んだ躍動感や高揚感がある反面、談林風の滑稽の影が残る。「飛び込む」と日常語に直したところから、わびやさびにつながる水墨画の世界が現出した。古来、和歌の世界では蛙はその鳴き声が詠まれることをきまりとしていた。芭蕉がこれを「飛び込む水音」としたところに俳諧としての独創があると言われている。蕉風確立の画期をなした一句。ただし、誰でも知る俳句中の俳句でありながら、人類最高の秀句であるという 評価から、いや駄作に過ぎないというのまで、その評価はさまざまである。この古池も杉風の生け簀だったとか、江戸本所六軒堀鯉屋藤右衛門の屋敷の池だとか、諸説紛紛である。詮索をすればするほど、解説を加えれば加えるほど句影の消えていく 名句である。

と解説されています。しかし、概ね世間では名句と称されていて、この句が詠まれた芭蕉池と言われる池もあり、又、句碑もあちこちに建てられています。

処が、この句は写実ではなく、虚構だ、嘘っぱちだ!とけなす人がいてはるんですね。誰かというと、、「悪党芭蕉」という本の著者、嵐山光三郎さんです。

古池や蛙飛こむ水の音、はポチャンか。大きい蛙ならタポン。

しかし飛びこむ音なんてしないんだそうだ。ヘビなど天敵に襲われそうになったときだけ水面に向かって飛ぶそうだが、その場合も音をたてずにするりと水中にもぐりこむ。ふつうは池の端より這うように水中に入っていく。

カエルの図鑑片手に、春の一日庭園の池で観察した結果、この句は写生ではなくフィクションであることを発見した。芭蕉のフィクションの力ゆえ、日本中いや世界中の人が「蛙が飛び込む音を聴いた」ような気になった。芥川が芭蕉を大山師だと言ったのは、事実より虚構が先行し、その虚構を事実のごとく広く世間に実感させる力を芭蕉が持っていたからだと考える。であれば芥川も大山師で、大山師たちに騙され感動して文芸の道に入った私もミニ山師となる。

そうか、芭蕉も芥川も嵐山もみんな山師なんですか!?

山師とは、山林の買付けや伐採を請け負う林業の人々や鉱脈の発見・鑑定や鉱石の採掘事業を行う人達のことですが、今ではなんだかうさんくさい人のニュアンスに捉えられていますよね。

なんでそないな意味になったんやろか?

林業は現在廃れてきているものの、植林や樹木の伐採作業に入る前に山の地形を測定したり、機械が通るの道を作ったり、切り出した木々を運んだり、ご苦労の多い大変な仕事です。

それから採掘事業の方ですが、山々を渡り歩いて地下資源を探す山師の歴史は古く、当時は技術者であり科学者でもあったが、時代が下がると一発屋の印象が強く、また、猟銃に少量の金を入れて岩に撃ち込み、金鉱脈を発見したなどとウソをつき大金を騙す者も現れ、山師たちの言動は、一発当たれば大儲けなので大言壮語が多く 詐欺師と同様にみられるようになったとか。

あ、相当横道に逸れてしまいましたね。

蛙が水の中に飛び込むことがあるか無いかという話でしたね。ワタシは蛙て変温動物やから、用心して水に入るにしても、そろそろっと入るように思います。ま、一度確かめてみたいとは思うものの、どこにいったらええんやろ・・・誰か、蛙クンが仰山いてるとこ知ってはったら、教えておくれやす。ではでは。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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