スサノヲ

https://ameblo.jp/hifumi1810/entry-10480320924.html 【須佐之男命3】より

大本神諭を記した出口王仁三郎の、スサノヲに関する見解が、大本初期の「道の栞(しおり)」の中にこうあります。

「須佐之男命には『海を治めよ』との詔(みことのり)であった。即ち『此の大地の在る丈けを構うべし』との仰せである。『古事記(ふることふみ)』に『海原』と在るは、此の大地の事である。此の大地は水が七分ありて陸(あげ)が三分より無いから『海原』と云うのである。昔から日本の国を『四つの海』と称うるも、此の道理である」第二章・御霊のことわけ

つまり、天照大神は太陽界である高天原を、月読命は太陰界である夜の食国(おすくに)を、須佐之男命には、海が七割を占める地球、つまり地上界の統治を任せた…と云うのです。

あくまでアマテラスは高天原(太陽界・天界)の統治であって、地上界まで治めるのは越権行為であり、地上統治の正しい神は、スサノヲだと主張しています。

神勅に従い、地上界を治めようとしたスサノヲを、八百万の神々は、支配者たるスサノヲの命を守らず、大地は穢れ、乱れるばかりでした。

スサノヲはひとり心を悩まし、八百万の国津神(我々のご先祖さま)を悔い改めさせ、救い上げる事のみに心を砕いたのです。

しかし八百万の神々はいっこうに改心せず、この現状を嘆き、スサノヲは地上統治をあきらめ、父、イザナギにすべて返還し、母、イザナミの住む国へ行こうとしましたが、イザナギはスサノヲの心に理解を示さなかったのです。

これを受けてスサノヲは、天津罪、国津罪、許々多久(ここだく)の罪を一身に引き受けて、八百万の神々を救い上げんと決意したのでした。

日月神示にはこうあります。

「次の岩戸閉めはスサナルノミコトに総ての罪をきせて根の国に追いやった時であるぞ、スサナルノミコトは天下(あめがした)を治(しろ)しめす御役の神であるぞ。天ヶ下は重きものの積もりて固まりたものであるから罪と見えるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、これが正しく岩戸閉めであったぞ。命(みこと)を荒ぶる神なりとして伝えてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、暴れまわり、壊しまわる神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ。天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取り違いしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ」

このように、我々はスサナルノミコトの御守護なしでは生きていけないのです。我々の罪穢れを一身に背負い、今も尚根の国にあって陰から御守護下さっておられるのですから。

かつて経験した事がない程の、今度の大峠(2012年問題)は、スサナルの神様をないがしろにして来た、我々自身が招いた禊ぎ祓いなのです。

まずはスサナルの神様に対してお詫びをし、改心出来なければ、大難を小難に祀り替えて頂く事は不可能だと思われます。

他にもスサナルノミコトに関する神示にはこうあります。

「世界中の罪背負ひておはしますスサナルの大神に気付かんか。盲、聾と申してもあまりでないか」『地(くに)つ巻』第十五帖

「岩戸は五回閉められてゐるのざぞ。那岐・那美の命の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから、此度の岩戸開きはなかなかに大層と申すのぞ」『日の出の巻』第一帖

「素戔嗚の大神様も篤く祀りてくれよ。此の神様には毎夜毎日御詫びせなならんのざぞ。此の世の罪穢れ負はれて陰から守護されて御座る尊い神様ぞ、地の御神様、土の神様ぞ、祓い清め御神様ぞ」『日の出の巻』第九帖

「素戔嗚の神様この世の大神様ぞと申してあろうがな。間違いの神々様、この世の罪穢れを、この神にきせて、無理やりに北に押し込みなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇り穢して、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにして了ふて、わからんことになりて、キリストの世に致して、さらにさらにわからぬことに致して了ふて、悪の仕組み通りに致してゐるのぢゃぞ、判りたか」『岩の巻』第一帖

日月神示には、このように、素戔嗚尊が善神であり、世界の救世主神である事が繰り返し述べられています。

そして更にもうひとつ、スサナルとクニトコタチの類似性についての記述を記しておきます。

大本の創世神話には、国祖・国常立尊も地上界に善政を施こうとして八百万の神々の不満を買い、地球の艮(うしとら)・丑寅=東北にあたる日本列島に押し込められ、祟り神・艮の金神として恐れられました。

スサノヲとクニトコタチのこの類似性について、大本神諭には、クニトコタチは霊界の主宰神であり、スサノヲは現界の主宰神であるとして、二元的に分けています。

世界は霊界と現界に大別され、それぞれの主宰神が決まっていて、それら総てを統率する全宇宙の主宰神が、『神素戔嗚尊大神(カムスサノオノオホカミ)』で、霊界においては、太陽界・伊邪那岐大神、太陰界・伊邪那美大神、地上界・国常立尊。現界では太陽界・天照大神、太陰界・月読命、地上界・須佐之男命であるとしています。

このように、スサノヲとクニトコタチは表裏一体の関係に在るようです。

日月神示にはこのように記されています。

『大国常立の神様が大素戔嗚の神様なり』黄金の巻・第三十四帖

と示されている事から、やはりスサノヲとクニトコタチは一体のものであるようです。

まだまだ、解釈の余地は残されたままですが、おぼろげながら言える事は、霊界で起きた事は、その写しとして必ず現界でも起こり得る…と言うことです。

最後にもうひとつ、日月神示では、素戔嗚尊をスサノヲ(オ)と呼ぶ場合と、スサナルと呼ぶ場合がありますが、神示の原文『地つ巻』『日月の巻』のわずか二帖に「す三七お」とある以外は、すべて「す三七る」や「す三七台風(ウズの記号で“ル”や、ラ行の字は大部分が台風で現される)」と記されている事から、正しい呼び方は“スサナル”であると思われます。

スサナルとスサノオの違いについてはハッキリしておらず、ただ、言霊が違うからには、その働きも異なると見るのが妥当かもしれません。

スサノオの「オ」は「生む」「生まれる」の意で、また「生」の字は「オウ」とも読みます。例えば「生い立ち」「生い先」などです。

これはペルシャの「スサの王」に通じる事が推察出来ますが、わたしの私見の域を越えるものではありません。

さて「ナル」については、「鳴り成る」の意と取れますので、これを数霊的に捉えて、「ウム(生・有無?)」と「ナル(成る)」の両者の関係から、次のような答えを導き出す事が出来ないでしょうか?

○(零・霊)から始まって、一二三四五六と生成化育し、七で有形となり現象化する状態を表していると…。

この「ウム」と「ナル」については神示の『夏の巻』第五帖に、こうあります。

「なりなると申してあろうが。なると申すのは内分は同じであるが、形の変わることであるぞ。ウムとナルは同じであって、同じでないぞ」

と示されています。素戔嗚尊は、まず地上界に「現生る(あらぶる)」神“スサノオ”として顕現し、その大いなる働きは、ウズ(台風)となって現れます。スサナルのルが原文で台風と現されるのはその為なのかもしれません。

地を統治する神の本質は「ウム」の仕組みでスサノオの神と現れ、続いてスサナルと鳴り成りて経綸を進展してゆくのです。

日月神示に“スサナル”の名が頻出するのは、この経綸が一段も二段も進んだ御神勅である事の、証明であると言っても過言ではないと思われます。


「アマテラスにとって≪洞窟≫という場所は、日常的にセルフヒーリングを行っていた場所だったと思われます。心の傷を癒すためには≪脳波がα波になる≫必要があります。その脳波がα波になるように合理的に設計されたのが≪洞窟≫という特殊な空間です。天の岩戸の場所と構造がわかれば、現代のヒーリングにおける大きなヒントにもなることでしょう。」

「佐之男命には、海が七割を占める地球、つまり地上界の統治を任せた」

二つの文節から連想するのは心の傷を癒すため天の岩戸の場所は深海の岩窟=深層心理の社会から隔離された領域、夢や神話による癒しです。


https://kf-planning.blogspot.com/2013/07/blog-post_5.html 【記紀神話と聖書の予言】

古事記や日本書紀の記紀神話における神の名前や場所の名前が、イスラエルを発祥とされる旧約聖書の中の言葉と共通性があることは以前から指摘されていました。

そして、イスラエルの国家の崩壊と日本の建国のタイミングを考えると、歴史的にも日本の建国にイスエルの民がかかわっていると考えることができます。

記紀に登場するイザナギはヘブライ語では「イザヤの王子」と解釈することができます。

イザナギの子がスサノオです。

イザヤは聖書のイザヤ書の中でイスラエルの滅亡を予言し、東方の海の島々でイスラエルの神を崇めよと救出の予言をします。

イザヤの一族を中心としたユダヤの民はタガーマハラを拠点として大陸を横断し日本にわたってきたと考えると、記紀神話と聖書の予言を照らし合わせたときにつながってくるのです。

タガーマハラはノアが方舟に乗ってたどり着いたところであり、国家を失った時に新天地を求めて移動する際の拠点となったところです。

タガーマハラが記紀のおける神の拠点である高天原(たかまがはら)であることを否定しきれるものはありません。

日本神道の総本山ともいえる伊勢神宮の奥の宮は伊雑(イザヤ・イザワ)の宮と呼ばれ、その紋章はイスラエルの「ダビデの星」であることからも、日本の古代史とイザヤ一族は切り離せない関係と思われます。

言葉とは直接関係ありませんが、なぜイスラエル(ユダヤ)にこれほどこだわるのかその理由を述べておきたいと思います。

イスラエルの民は聖書に書かれた民族そのものであり神の子孫と言われる特殊な存在です。

更にそのイスラエルの民の起源はシュメール人と思われ、紀元前5000年以前に地球最古の文明としてチグリス川、ユーフラテス川に挟まれた地域に農耕による文明を築いた民族です。

すでに話し言葉だけでなく書き文字(楔形文字)を持った非常に高度な文明によって成り立っていたといわれます。

昔、歴史で習ったメソポタミア文明です。

どれだけ調査しても現在の技術でも説明できないほどの文明があり、一部ではその指導層は地球人ではないとまで言われています。

イスラエルの民はエジプトの文明にも貢献しましたが、武力的な分野での力が弱く奴隷として数世紀にわたり使われることになります。

ピラミッド文明の基礎も彼らにあると言われています。

やがて紀元前13世紀にモーゼの導きにより聖地イスラエルに戻ることがかなった彼らは、ダビデ王、ソロモン王の時代に黄金期を迎え世界にその名を知られ、タルシン船を使い世界中の国と貿易をしました。

エルサレムの神殿が作られたのがこのころと言われています。

彼らは栄養価の高い食物を必要としたらしく、果物の栽培やの牧畜の技術があったことが認められています。

紀元前10世紀ですよ、日本には何もないころです。

皇統の始まりとされる神武の即位が紀元前660年と言われていますので、それよりも更に3世紀は前のことです。

しかしソロモン王が没すると国家の崩壊が始まり、紀元前931年にもともとあった12支族が分裂し北に10支族によるイスラエル王国、南に2支族によるユダ王国ができます。

さらには神への背信行為、金と権力によって腐敗した王政によって紀元前722年に北のイスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされます。

国を失い大勢の民が各地に逃げていきました。

今度は紀元前586年に南のユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされます。

民は捕虜としてバビロン(今のイラク)に連れて行かれます。

それからおよそ50年後に南の王国の民の2支族はエルサレムに戻ってくるのですが、北の10支族については王国に崩壊以降歴史から完全に消えてしまいす。

「失われた北の十支族」その後の歴史ロマンのいたるところに顔を出すようになります。

この時に国の崩壊を予言したのがイザヤであり、イザヤの一族に率いられて予言に従い東に向かったのが北の十支族ではないかと言われています。

彼らは武力統治による侵略や征服を嫌い、技術による文化的な王国を築いてきました。

起源と言われるシュメール人においても、天文学的な技術と農耕のための灌漑の技術は信じられないレベルであった跡が確認されています。

宇宙人説のもとになっているところですね。

北の十支族のその後の動きについては少ない資料から想像するしかありませんが、少し長くなりますのでそれについては次回にします。


https://kf-planning.blogspot.com/2013/07/blog-post_6.html 【ここが日本語の原点か】より

北のイスラエル王国の崩壊を予言したイザヤはわずかながら救いの道も予言していました。

「東で神をあがめ、海の島々(海沿いの国)でイスラエルの神、主の名をあがめよ」(イザヤ書24 章25 節)とあります。

イザヤの一族に率いられてイスラエルの失われた十支族は東に向かったと思われます。

イスラエル王国が崩壊したのは紀元前722年です。

紀元前660年、遠く大陸を隔てたアジアの果ての島々の国である日本において皇室の歴史が幕を開けます。

古代日本の文化とイスラエルの文化が酷似するのを理由付けするには、この60年を見てみる必要があります。

十支族はいくつかのルートを通って東に向かったと思われます。

西は海、北は天敵のアッシリア、南はアラビアの砂漠と言う環境の中では、山を越えて東に向かわざるを得なかったことでしょう。

未知の世界を目指すことしか生きるすべがなかったということなのでしょう。

その中で一番多くの民が通ったのが陸路としてのシルクロードだといわれています。

シルクロードにはいたるところにべブライ語の看板が残っています。

数少ない資料の中から十支族の足取りを追ってみます。

イスラエルの民はもともと遊牧民族であり、信仰の父と呼ばれるアブラハムや「主は私の羊飼い」と言ったダビデ王に代表されるように、天幕で移動しながら羊や馬を放牧して生活圏を作ってきました。

十支族が国を失った後の紀元前7世紀には、スキタイ族が現在の南ロシアに広大な遊牧国家を作り時とともに東に移っていったのは歴史上の事実です。

十支族がスキタイ族と同化したりあるいは指導層として国家形成を手伝ったりして騎馬民族となり東に向かい日本に至ったと考えることはできます。

スキタイ族はあっという間に歴史から姿を消してしまいます。

しかし紀元前4世紀には騎馬民族の匈奴が東モンゴルのほうで力を伸ばし遊牧国家を作っています。

彼らのルーツは西アジアから来た高度の文明を持つ民であることが分かっています。

十支族の目的は東の海の島々であり、そこへ行くためにはあらゆる知恵と技術を使ったと思われます。

それは通り過ぎた後にも子孫たちに伝承されて育っていったものと思われます。

一説では秦の始皇帝(紀元前250-紀元前210)の目の色はブルーで西洋系の特徴を持っていたユダヤの民といわれています。

十支族と思われる民族の移動には、東に向かうための侵攻はおこないますが征服による領土の拡大は見られません。

それよりも一時的に高度な文明を持って歴史に顔を出したかと思えばすぐに歴史から消えてしまいます。

イスラエルの民は専門の技術を持ったものの集団だと思われます。

当時の他の民族と比べると明らかに栄養価の高い海産物や乳や果物を採っていたといわれています。

天文、建築、農業、治水、冶金、航海などの技術者集団であり、自らの国を失った彼らはその技術を提供することで東への道を切り開いていったのではないでしょうか。

その高度な技術は専門用語としてのイスラエル語とともに彼らの歩んだルートに残されていると思われます。

言葉の生まれ始めた各地の文明との融合により、取り込まれ訛ってしまい原形をとどめないものもたくさんあるのではないでしょうか。

目的地日本においては、途中の経過してきたところとは異なります。

予言通りだとすれば、彼らはここで国を作ったのです。

皇統を始めたのです。

イスラエルにおける旧約聖書のように古事記に神話を登場させそこにイスラエルの神を置いたのです。

天皇家の紋章である十六菊花紋章はエルサレムの神殿にも、さらにはメソポタミアのシュメール人の神殿にもほぼ同じものを見ることができるそうです。

古事記の成立は不確かでなければならないのです。

語り継がれた国造りの神話の数々は、その原点を聖書だと考えると見えてくるものがあります。

イスラエルにおける建国の神話が聖書であるように、日本における建国の神話が古事記であり、その共通性はまだまだ語りつくせないところです。

2003年までは日本での弥生(稲作)が始まるのは紀元前500年ころと言われてきました。

これを覆す事実が発見され紀元前800年ころまでさかのぼるようになりました。

第一弾で到着した失われた十支族の子孫が皇統を始めたのち、歴史に残る大きな移動は283年に技術者集団としてやってくる秦氏があります。

彼らはそれぞれの専門分野において技術を広め、名を改め帰化していくのです。

この時期の中国朝鮮の情勢は安定しており、あえて危険を冒して日本に来る動機が見えません。

追われて逃げてくるわけでも、侵略に来るわけでもないのです。

しかも遥かに低い文明しか持たない国で、そのまま帰化して日本に根付くのです。

秦氏は秦の始皇帝の子孫ではないかと言われています。

そこにイスラエルの影響が見えるならば、東に向かう中で各地に残った十支族の子孫たちが大陸において秦氏のもとに集結してから、自分たちの国としてやがては目指すべき日本へ渡ったのではないでしょうか。

このように見てくると日本人には世界の最初の文明を築いたシュメール人の血が、そして神の民としてのユダヤの血が色濃く交じっているのではないでしょうか。

戦うことを嫌い、神や自然との共生のために技術を発展させた民族としての知恵と歴史が、やまとことばには込められているのではないでしょうか。


https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12272352874.html 【スサノヲと紀氏について(18)】より

今日は、吉田拓郎の「シンシア」を聞いている。

山口 博の「創られたスサノオ神話(中公業書)」(以下「山口論文」という)によれば、スサノオ神話のもとになった、騎馬遊牧民叙事詩の英雄伝説を日本に伝えたのは、氐族の族長符健が建国した前秦の遺民の中国系渡来人である秦氏であったと、以下のようにいう。

騎馬遊牧民の「英雄叙事詩を列島に持ち来ったのは秦氏」であった。

「新撰姓氏録」左京諸蕃上の太秦公宿禰の項や、山城国諸蕃の秦忌寸の項には、太秦氏も秦氏もともに秦の始皇帝の子孫であると」書かれている。

この「記載はおそらく、現在は断片的にしか伝わっていない渡来系氏族秦氏の家伝ともいうべき「秦氏本系帳」が元になっていると思われ、「この始皇帝子孫説は彼ら自身の主張であ」る。

「始皇帝の子孫であるという秦氏の自称をそのまま認めることはできない」が、「彼らか中国系の渡来人であった可能性は極めて高い」と考える。

「秦氏を名乗る渡来人の集団の来朝は、仲哀朝か応神朝かは明確でないが、5世紀初頭前後であろう」

これは「中国の華北では、四世紀初めからおよそ一世紀余りにわたって騎馬遊牧民か活躍し、多くの国家か興亡した、五胡十六国の時代である」

 

 「このうち秦を称してのは三っつあ」り、「四世紀半ばに氐の族長符健が建国した前秦、それに続いて姜族の姚氏か建てた後秦、鮮卑族の乞伏氏が建てた西秦である」が、「後世の歴史では始皇帝の秦と区別するために、それぞれ前秦、後秦、西秦と呼び分けるが、のちに後秦や西秦が登場するなど予想もしていない符氏が、自ら前秦と称するはずはなく、第三代皇帝符堅は大秦天王と称していた」

 「氐族と莞族はともにチベッ卜系であるが、おもに陵西省西部から甘粛省南部にかけて住んでいたらしい氐族は、姜族に比べると遊牧的性格がやや希薄で、半農半牧を営んでいたらしい」が、「騎馬遊牧民である」

「五胡十六国の時代、華北を東西に分割する形で支配下に置いたいくつかの王朝は、その正統性を誇示するために、春秋戦国時代の秦や燕などという国号を使った」が、「それは新興の王朝が春秋戦国時代の王室との血の繋がりを主張しているにほかならない」

「始皇帝の秦の故地は甘粛省東部で、中原を占める漢民族から西戎と卑しめられていた集団との関わりは明らかである」ので、「その近縁性から、氐族が始皇帝の秦の後裔を自称する発想は極めて自然なこと」で、「前秦には、始皇帝の衣鉢を継ぐ意識があった」

「符健が父の遺志通りに長安に入り、国号を大秦とし、元号を皇始と定めたのも、始皇帝の秦の後裔であることを自任したからである」

「華北統一を成し遂げた第三代皇帝の荷堅は、仏教に帰依し、民族や部族を超えた国家の建設を目指した世界主義者だった」が、「高句麗に僧侶を派遣し、朝鮮半鳥に初めて仏教をもたらしたのはこの皇帝」で、「敦煌莫高窟の開鑿もこの頃に始まる」

「前秦は初代符健によって建国され、英主と称される三代符堅を経て」、三九四年「六代で滅亡し」、「王族も重臣たちも流民となった」が、「彼らの亡命先は、地続きで、しかも仏教宜布などソフト面でも交流のあった高句麗で」あったと考えられる。

 

 「その後、前秦の遺民はかつての朝貢国だった新羅へと移動し、一部はさらに南下して半島南端の伽耶へと至ったと考えられる」

「「三国志」魏書東夷伝韓条は、辰韓の古老の言い伝えとして、「自分たちは古の逃亡者の子孫で、秦の労役をのがれて韓の国へやって来たとき、馬韓かその東部の土地を割いて与えてくれたのだ」(今鷹真・小南一郎訳「正史三国志4」一九九三年)と記す」が、「辰韓はのちの新羅の地に相当する」

「かつて始皇帝の秦からの難民か辰韓に安住の地を得たように、前秦の遺民も朝鮮半島南東部の新羅へと流入し」、「前秦の遺民は新羅だけでなく、百済へも移動した」が、「むしろ百済への移動が主流だった」

「日本書紀」応神十四年是歳条と十六年八月条は、秦氏の祖、弓月君が率いる百二十県の民が百済から渡来した経緯を記している」が、これは「まるで集団亡命を思わせる」

 「前秦の符堅は農業を奨励し、瀧漑施設の整備改修を積極的に行ったという」が、「仁徳朝に茨田堤・丸爾池・依網池の築造など、さまざまな土木工事を担当した秦氏の先進的な土木技術は、前秦の移民か大陸から持ち込んだもの」であり、「彼らは誇るべき国号そのままに、自らの集団を「大秦」「太秦」と表記して、大和言葉でウズマサと訓ませた」

「「日本書紀」欽明即位前紀に、山背国紀郡深草里(現在の京都市伏見区)の人、秦大津父の次のようなエピソードか記載されている」

 

 「欽明天皇が皇子であった頃、ある夢を見た。夢の中の人物が、皇子に「秦大津父という者を寵愛すれば、壮年になって必ず天下をとるであろう」と告げる。

皇子は大津父を探し出し、事情を聞くと、大津父が答えていうには、

「伊勢に商いに行っての帰り、山中で互いに血まみれになりながら闘う二匹の狼に出会いました。このままではどちらも狩人に殺されてしまうと思い、二匹をたしなめて争うのをやめさせ、血を拭き介護したあと、山に放してやったことかあります」

とのことであった。

皇子は大津父を近くに侍らせて寵愛した。財産は豊かになり、皇子は長じて即位することかでき、大津父を大蔵省の役人に登用したという。

「トルコ系、モンゴル系の騎馬遊牧民にあって、狼は勇猛果敢な英雄の化身であ」り、「流血をものともせず闘い抜く激しい気性を持ち、最も畏怖すべき存在であったからこそ、闘争を繰り返しなから生きる騎馬遊牧民たちの始祖に祭り上げられた」

 

 「狼始祖伝説を持つ騎馬遊牧民同士の激しい闘争と興亡の歴史」があったが、「仏教を信仰し漢化政策を推進して、民族や部族の違いを超えた統一国家の建設を目指した理想主義者、荷堅」は、「学校を創設し、しばしば大学に赴いて自ら学問を奨励するほどの文化人」で、「行政機関も多民族から構成されていた」

かつて「狼をトーテムとする騎馬遊牧民間の闘争の歴史と、それを和睦させ統一に導こうとした英主」の符健が存在したという歴史が、「渡来系秦氏の一族の記憶の底に、故地の歴史が伝承へと変容を遂げ、二匹の狼の争闘とそれを仲裁した人物のエピソードとして留まっていた」と考えられる。

「騎馬遊牧民の落雷習俗をもたらしたのも秦氏という事例を指摘できる」「(山口「落ちた雷の伝承」前中後編。二〇〇七、〇八、〇九年)」

 

 「秦氏は賀茂別雷神社(上賀茂神社)初期の祭司であり、走馬の儀を中心とする祭儀は、秦氏によりもたらされたトルコ系高車族の落雷習俗の影響を受けて成り立っている」

 「高車族は落雷の地で火を燃やし、犠牲獣を捧げ、その周囲を百回にわたって馬で駆け巡った」が、「賀茂神社の祭神もまた落雷した神であり、その初期の祭祀儀礼では犠牲獣を連想させる「猪頭」を被った人が、神籬の周囲を馬で駆けた」

「狼始祖伝説を持つ高車族は、呼称を変えつつモンゴル高原に勢力を張り、前秦とも関係のあった騎馬遊牧民である」

「秦大津父のエピソードは、「日本書紀」欽明即位前紀に記載されている」が、「欽明天皇の即位は五三九年」で、「即位前紀の話なら六世紀初めであ」る。

「また、秦酒公は雄略天皇の寵臣であるから、五世紀後半の人である」

「秦氏の祖とされる弓月の君の渡来は応神朝のことだから、五世紀初め頃」である。

 「古くから出雲の須佐で崇拝されていた農業神スサノオ」「に、秦氏のもたらした騎馬遊牧民の叙事詩の英雄のイメージか結び付き始めたのは、秦氏が大和王権に隠然たる影響力を持つようになった六世紀以後のことであ」る。

 「乙巳の変(六四五年)の時に焼失した「天皇記」「国記」の編纂か、聖徳太子と蘇我馬子によって始められたのは推古二十八年(六二〇)である」が、「太子や馬子とは密接な間柄だったと思われ」、「その太子と馬子の編纂した「天皇記」「国記」であれば、秦氏の持ち込んだと思われる異国の英雄叙事詩を取り込み、出雲の農業神スサノオ像を変貌させて、アマテラスを窮地に追い込む悪神に仕立て上げるのは、造作もないことであった」

 「大和王権の中枢によって創られたスサノオの虚像に対する関心は王権内部に留まらず、温度差はあれ、アマテラス直系以外の各氏族が共有していた」ので、「平安時代になってのことだが、スサノオとは直接の関係がないにもかかわらず、忌部氏の「古語拾遺」、物部氏の「先代旧事本紀」にスサノオの悪行・追放・オロチ退治か組み込まれている」

「この状況は記紀に定着する以前においても同様であり、スサノオの虚像は多くの氏族の伝承にも取り入れられ、「日本書紀」の一書に描かれている」

 山口論文のこうした主張には、異論がある。

山口論文は、「大和王権の中枢によって創られたスサノオの虚像に対する関心は王権内部に留まらず、温度差はあれ、アマテラス直系以外の各氏族が共有していた」というが、古事記や日本書紀に書かれた「スサノオの虚像」は「アマテラス直系以外の各氏族が共有していた」が、それは、それらの氏族の「スサノオの虚像に対する関心」のためではなかった。

 

 「スサノオの虚像」は、古事記や日本書紀に書かれたことで、律令制の天皇権力が公認した「歴史」となり、律令制国家の支配層を構成する氏族の共通の支配思想の一部となったので、彼らに共有されたのである。

 高寛敏が「倭国王統譜の研究(雄山閣)」(以下「高論文」という)で指摘しているように、系譜1→系譜2→系譜3、そして原古事記や日本書紀に書かれた系譜は、その変更の都度、それに伴う物語と共に、王権の支配層であった畿内の有力首長層に共有された。

 逆に言えば、畿内の有力首長層に共有・周知させるために、それらの系譜やその系譜を説明する物語が構想されたのであり、それらの系譜はそれに伴う物語りを語る形で、それらの首長層に公開されたと考えられる。

畿内の有力首長層は、それらの系譜や門語りに沿う形で、彼らの系譜や伝承を構想していったので、結果的に、原古事記や日本書紀に書かれたスサノヲの神話も、彼らに共有されることになったのである。

山口論文は、「秦氏の祖とされる弓月の君の渡来は応神朝のことだから、五世紀初め頃」である、という。

しかし、大和岩雄の「秦氏の研究(大和書房)」(以下「大和論文③」という)によれば、「弓月の君」は山城国の秦氏の祖ではなく、本来は大和国の波多臣の祖であるが、実在してはおらず、また、「弓月の君」が波多の民を引き連れて渡来したという伝承も事実ではない。

山口論文は、「秦酒公は雄略天皇の寵臣であるから、五世紀後半の人である」という。

しかし、大和論文③が指摘するように、秦酒君は、山城国の秦氏が創作した人物で、実在はしていない。

山城国の秦氏が、「秦造」となって、全国に散在していた「秦の民」を統括するようになるのは、欽明大王の頃のことであり、その意味での秦氏の祖とは、秦大津父である。

大和論文③が指摘するように、山城国の秦氏は、葛城氏に従属して葛城にいたが、倭王武=雄略大王が葛城氏の本宗家を滅ぼしたときに、大和国の葛城から山城国の岡田→深草→葛野と移動させられた。

秦の民は全国に散在していたが、山城国の秦氏の系統の他に、河内国の秦氏がおり、以前「多氏の出自について」で論証したように、多氏は河内国の秦氏の出自であったと考えられ、王権への影響からすれば、河内国の秦氏や大和国の波多臣の方が、より古く大きかった、と考えられる。

山口論文が指摘する「秦大津父のエピソード」が、前秦の荷堅の故事に基づいて語られていることはそのとおりである。

また、山口論文指摘するように、秦氏が奉斎した賀茂別雷神社(上賀茂神社)の走馬の儀を中心とする祭儀は、秦氏によりもたらされたトルコ系高車族の落雷習俗の影響を受けて成り立っているのも、大和岩雄の「神社と古代王権祭祀(白水社)」(以下「大和論文④」という)も指摘しているように、事実である。

だから、山口論文が指摘するように、山城国の秦氏の首長層は、前秦の遺民の中国系の渡来人であり、そのために「パタの民」の「パタ」に「秦」の字を選択したと考えられる。

なお、首長層が中国系渡来人であったというのは、土木技術に長けていたとされる、河内国の秦氏も同じである。

しかし、秦氏の全体が中国系渡来人であったわけではない。

圧倒的多数の秦氏は、鍛冶や養蚕などに従事していたのであり、初期の渡来の主体は、金官伽耶国周辺の鍛冶や養蚕の民であった、と考えられる。

秦の民の首長層には、古くからの金管伽耶国の貴族層も含まれていたと考えられ、山口論文の指摘は、秦の民の首長層の中で主導権を握って行った集団が、前秦の遺民の中国系渡来人であった、ということであると考える。

なお、落雷を信仰する神社やそうした神社を奉斎する有力氏族は多く存在するが、それらの信仰のもとになったのは、秦氏の中の前秦の遺民の中国系渡来人たちは持ち込んだものであった、と考えられる。

 

大和論文③が指摘するように、秦氏の渡来は、4世紀末から5世紀初めに始まる。

そうすると、前秦の滅亡が394年であるので、最初期の秦氏の渡来に少し遅れて、前秦の遺民は渡来したと考えられ、時期的は妥当な範囲であるので。山口論文が指摘からすると、秦氏の中には前秦の遺民であった首長層が含まれており、彼らが、自分たちの伝承である騎馬遊牧民の英雄伝説を日本に持ち込んだと考えられる。

そして、その時期は5世紀当初頃であったと考えられる。

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