Facebook・KNOB ノブさんさん投稿記事·
10月23日 昨日はまた始まりを感じるひふみの日。
藍仙人😊 藍原繁樹さんが横浜は反町にある長年歯科医院を営んでこられた場を、皆が集え、様々なことを学べるスペース「エール・アイ」とし始められて数ヶ月。
https://www.yell-ai.com/
『免疫力をUPする!〜自分の中にある免疫力に気付くには〜』と題された会がエール・アイにて開催されました。
整形外科医、膝のスーパードクターたつみ一郎先生と元々 大病院の血液内科の医師で現在は富士山の麓の地より緩和ケアの専門病棟 l いまここ l
https://imacoco.kawamura-jp.jp/
にて様々な新たな取り組みをされている大木学先生の講演会でありました。
個性の違うお二人の先生のお話と共に写真家でもある大木先生の写真展『ひかりみち KOUKAN 2021』も同時開催。
~KOUKANとは、光感、交感、交歓…など様々な意味が込められています。
そして、コロナは光冠でもあります。
このコロナの時代にひかりを見いだしていくこと~と大木先生からのメッセージ。
美しい映像を見ながらのセラピスト大木 華さんの音叉のヒーリングもたっぷりと満席の会場。
早々に たつみ先生から
心配な方以外、みなさんマスクは外していただいて大丈夫ですよ~と。
情報番組などテレビ、マスコミに登場されておられる医師の方々とは全く違うお役目、真実をそれぞれの場にてたんたんと表しておられる医師のお二人。
たつみ先生の臨死体験、得意分野の😊ディープ・ステートのお話も織り混ぜながら、、、免疫力、生命力アップのお話。
大木先生の緩和ケア病棟で日々体験される生と死 いのちのお話。
動と静くらい、キャラクターの違うお二人ですが、大の仲良し!!
そして、共通するのは、昨日もお話しに出てきていた ~自分軸~をぶっとくしっかりと持たれているということ。
またイダキをお持ちの医師二人!!僕にとっては大切な響き仲間でもあります。
昨日、僕の座った席の前に、みなさまマスクを外された中、おひとりマスクをされた女性がおられました。
休憩となり、早く窓をあけて換気をしましょう~とそして、後ろの僕に、こっそりみなさんマスクを外されて心配じゃないのかしら?と。
大丈夫ですよ~とお伝えしましたが、やはり後ろ姿は心配そう。
質疑応答時、その女性の方に
マスクについてお聴きしましょうか?とお尋ねすると、嬉しそうに是非!と。
代わりに僕がご質問をさせていただきました。
マスクについて、コロナさんについても、お二人のお考えをお話くださいました。
結びに、たつみ先生がお持ちされたのは、真菰の葉と精麻。
日本では太古から大切であった植物 真菰と大麻ですとご紹介されると、前の女性、~大麻って麻薬の!!マリファナのあの大麻?~と。
短くご説明させていただきましたら、ビックリと~
最後にはマスクを外され、笑顔を見せてくださいました。
美しい笑顔でありました。
深く、楽しく、響きも合わさり、学びと目覚めをいただける素敵な会でありました。
たつみ先生、大木先生、華さん、繁さん。
ご一緒させていただいたみなさま。ありがとうございました~KNOB拝
https://bunshun.jp/articles/-/46376 【「私自身、若い頃は、死が怖かった」“臨死体験”を取材した立花隆さんが伝えたい、人間が“死んでいく”ときの気持ち《追悼》立花隆さんインタビュー#1】より
ジャーナリストで評論家の立花隆さんが、4月30日、80歳で亡くなりました。立花さんは『死はこわくない』『臨死体験』などの著作があり、安楽死や脳死など人間の死について取材を重ねたことでも知られています。その立花さんが出演された「NHKスペシャル 臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」について、週刊文春に語ったインタビューを再公開します。(全3回の1回目。2回目、3回目を読む)
(初公開:週刊文春2014年10月30日号。記事中の肩書・年齢等は掲載時のまま)
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数多く寄せられた「ありがとう」
私が案内役として出演した「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」(9月14日放送)は、視聴率約11%を獲得しました。NHKスペシャルとしては高い値です。放送直後からNHKに再放送の要望が多数寄せられ、私の個人事務所には、放送から1カ月以上経った今も毎日、感想の手紙が送られてきています。
インターネットでも大きな反響がありました。ブログやツイッターで賛否両論を書きこまれています。「考えさせられた」というコメントが大半ですが、中には激しく反発して、番組批判を展開しているサイトもあります。臨死体験を死後の世界の存在証明であるかのごとく扱い、死後の世界との交流を売り物にしている新興宗教の人々には不愉快だったのでしょう。何しろあの番組は、脳科学の最新の知見を踏まえて臨死体験は死後の世界体験ではなく、死の直前に衰弱した脳が見る「夢」に近い現象であることを科学的に明らかにしたからです。
意外だったのは、感謝の気持ちを私に直接伝えてくれる人がかなりいたことです。高齢の女性が多かったのですが、呼び止められて「ありがとうございました」とよく声をかけられました。これまで何本も大型ドキュメンタリー番組を作って来ましたが、今回のように放送後に街で会う視聴者から直接お礼を言われた経験は記憶にありません。
心停止後も脳は動き続ける
感謝してくれた人たちは、おそらく番組のエンディングで私が述べた「死ぬのが怖くなくなった」というメッセージに共感したのだろうと思っています。
「死ぬのが怖くなくなった」といっても、「死後の世界は存在する。だから死は怖くない」と科学的な根拠もなく声高に断定する人たちもいます。最近、日本で評判を集めている東大医学部附属病院救急部の矢作直樹氏のような例です。最近彼は週刊誌で、TVの怪しげな番組に出まくって霊の世界がどうしたこうしたと語りまくる江原啓之なる現代の霊媒のごとき男と対談して「死後の世界は絶対にある」と意気投合していましたが、これが現役の東大教授かと口アングリでした。ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこまないと、「死ぬのが怖くない」世界に入れないのかというと、決してそうではありません。ごく自然に当たり前のことを当たり前に、理性的に考えるだけで、死ぬのは怖くなくなるということをあの番組で示せたと思っています。
番組を見ていない読者のために、ここで内容をざっとふり返ってみます。脳の働きから、死の直前に幸福感を感じる?
臨死体験というのは、事故や病気などで死に瀕した人が、意識を取り戻した後に語る、不思議な視覚体験です。体験者の多くは、自分の体から心が抜け出して、天井付近から自分の体や周囲にいる人たちを見下ろしたりします。体外離脱と呼ばれる現象です。そして、そのまま心はトンネルを抜けてまばゆい光に包まれた世界へ移動して、美しい花畑で家族や友人に出会ったり、超越的な存在(神)に出会ったりする。
この現象をオカルトではなく、科学的に説明することができるのか。番組ではまず、今アメリカで最も注目を集める臨死体験者で、脳神経外科医のエベン・アレキサンダー氏や、わずか生後1カ月で臨死体験をしたという4歳の男の子の証言などを紹介しました。1991年に私がNHKと作った「臨死体験」(視聴率16・4%)を見た人や、その後に書いた『臨死体験』(文藝春秋、後に文春文庫)を読んだ人なら、あらためて説明されるまでもない内容です。しかし、今回の番組は、前回以上に、臨死体験が起こる仕組みの解明に鋭く迫りました。それが可能になったのは、23年前よりもはるかに進歩した脳科学のおかげです。
臨死体験は死後の体験ではなく、死に瀕した脳の働きによるのではないか? と考えた私は、ミシガン大学のモンゴル人学者、ボルジガン博士を訪ねました。彼女は、マウスの脳に電極を埋めこみ、薬物注射によって心停止を起こした後の脳波を詳しく調べました。すると、心停止後数十秒にわたって、微細な脳波が続くのを確認しました。
これまで心停止すると数秒で脳への血流が止まり、それとともに脳波も止まると考えられていましたが、それは単に測定の感度が低すぎたからだったのです。心臓が止まったあとも数十秒、脳が実は活動を続けるとなると、臨死体験は「死ぬ直前の脳の活動による体験」と考えられるとボルジガン博士はいっていました。今回の番組では示していませんが、博士は脳波だけでなく、心停止後の脳内神経伝達物の詳細な変化を調べており、それによって暖かい光に包まれるような幸福感も説明できるとしていました。
死の間際の脳の働き
ここでちょっと、放送後に視聴者から寄せられた手紙を紹介します。
差出人は、東京薬科大学名誉教授の工藤佳久氏。工藤氏によると、1991年放送の「臨死体験」を見て、この現象に興味を持ったそうです。そこで工藤氏は、ラットの脳細胞を使った次のような実験を行いました。記憶に関係があるとされる海馬の切片を虚血状態(局所的な貧血状態)に置いてみたのです。
すると神経細胞の活動はどんどん低下していきましたが、驚いたことに5~10分程度経過したところで猛烈に活動しはじめ、その状態が数秒間続き、突然、すべての反応が消えたと言います。まるでロウソクの火が消える直前に激しく燃えるような現象でした。
ボルジガン博士の研究ではマウスの個体レベルで死の間際に生じた脳波が記録されましたが、工藤氏の研究では、ラットの細胞レベルでも死の間際の脳活動の活発化が見られたわけです。工藤氏は、この実験は非常に再現性が高く、「たった数秒程度の活動だが、これが臨死体験の実体かもしれないと考えている」(工藤佳久著『もっとよくわかる! 脳神経科学』羊土社)と言っています。
ボルジガン博士や工藤氏の研究結果は、現行の脳死判定にも影響を及ぼすかも知れません。心臓が止まった後、だんだん弱くなっていく脳活動が、わずか数秒とはいえ突如、活発になる可能性が示されたからです。もしその間に臨死体験をしているとしたら、臨死体験の途中で生の最終段階が断ち切られてしまう恐れがある。脳死判定は相当の時間的余裕をもって行うべきです。
人間の心とはどのように生まれるのか
さて、番組に話を戻します。死の間際に脳が働くことは確かとしても、なぜ臨死体験の証言者たちは似たような光景、幸福感を語るのか。その謎を解き明かすためには、「人間の心のメカニズム」に踏み込まなくてはなりません。
私たちは、身体感覚の錯覚を利用して、体外離脱現象を人工的に起させる、スウェーデンのカロリンスカ研究所のH・アーソン博士の実験を紹介しました。
被験者はまず、ヘッドマウントディスプレイをかぶった状態でベッドに寝かされます。番組では私自身が被験者となりましたが、目の前のディスプレイには私の足が映されています。アーソン博士は棒を使って、私の足をさすります。くり返し棒で撫でられ、その様子を見ているうちに、視覚と触覚が合わさってディスプレイで見ていることがリアルそのものだと思いこみます。だから、アーソン博士がナイフを持ち出して私の足を斬りつけようとしたときは本当にビックリしました。しかし実は、私の脇には人形が寝ていて、ディスプレイに映っていたのは、すべて人形の足に対して行っていたことで、リアルな私の足に対してではありませんでした。それを実験が終ったときにタネ明かしとして見せられてビックリしました。視覚と触覚を切りはなすと、人間は簡単にあり得ないことを信じるようになるのです。同じ装置を使って体外離脱の疑似体験ができるようになっていました。こんな単純な実験で、体外離脱によく似た現象を起せるとは私自身、驚きました。
この実験でわかったのは、自分の身体内部に自分がいるという感覚は、脳によって作られるということです。アーソン博士は、「体外離脱は、自分の身体を認識する脳内のモデルが崩壊することで起る」と指摘しました。その通りでしょう。
さらに番組は、日本人初のノーベル医学生理学賞を受賞した利根川進さんによる、マウスに「偽の記憶(=フォールスメモリー)」を植え付けるというショッキングな実験や、ウソの写真を何日もかけてくり返し見せることで、体験したことのない体験を実際に体験したかのごとく人が語り出す心理実験の解説へ進みます。
脳が高度に進化した結果、人類は豊かな想像力を獲得しました。しかしそれとともに、フォールスメモリーを作る危険性まで背負いこんでしまったという利根川さんの指摘にハッとさせられた視聴者も多かったはずです。人間がこれが真実と思いこんでいる相当部分が、実は自分のリアルな記憶と、学習記憶や、文化文明が与える思いこみやらで合成されたフォールスメモリーのかたまりである可能性があるということです。
神秘体験とはなにか
結局、臨死体験の謎を解決するには、私たちの心とは何なのか、そして心がどのように生まれるのかを明らかにしておかなければ前に進めません。そういう観点から、心の最大の謎である「意識」の正体に迫る最新理論を紹介しました。それがウィスコンシン大学の神経科学者ジュリオ・トノーニ教授の提唱する「意識の統合情報理論」です。
この理論によると、蜘蛛の巣のように複雑なネットワークを持つシステムならどんなものにも意識が宿ります。生物だけでなく、ロボット、インターネットなど無生物でも意識を持つというのです。この理論は現在、検証が進められていますが、もしこれが正しいと証明されれば、人が死ねば脳のネットワークのつながりが消え、心も消えることになります。
最後に番組は、人はなぜ神秘を感じるのかという謎に迫ります。臨死体験の中で、最も不思議なのは、その最中に、圧倒的な現実感をもって「超越的な存在」との出会いを果たす「神秘体験」です。いったいどうしてそんなことが起るのか。この謎に取り組むのがケヴィン・ネルソン教授です。死の間際、脳の中の辺縁系(情動、意欲、記憶などに関与している領域)の働きによって、人は白昼夢を見ているような状態になり、幸福感で満たされる。このとき神秘体験をしているのではないか。進化的に古い脳の部分である辺縁系が神秘体験に関わっていることから、ネルソン教授は神秘体験が、実は人間の本能に近い現象ではないかと指摘しました。
太古の昔から、人間は死の間際に神秘体験をしてきたのかもしれません。
死とは、「夢に入っていくような体験」
私は番組の最後のコメントとして次のようなことを述べました。
「この取材を終えて、私が強く感じていることは、20年前の『臨死体験』という番組を作ったときにも感じたことですが、死ぬということがそれほど怖くなくなるということです。しかも、前よりも強くそう思います。ギリシャの哲学者にエピクロスという人がいるんですが、彼は人生の最大の目的とは、アタラクシア=心の平安を得ることだと言いました。人間の心の平安を乱す最大の要因は、自分の死についての想念です。しかし、今は心の平安を持って自分の死を考えられるようになった。結局、死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。そういう気持ちになりました」
ここで番組は終わりましたが、実は取材した内容をすべて紹介できたわけではありません。総取材量を10とすれば、実際に番組の中に盛り込めたのは3くらいです。残りの7はお蔵入りかというと、そうではありません。元々、このプロジェクトは、NHKスペシャルを1本制作して終わりではなく、関連番組を沢山BSで放送するものとしてスタートしました。今後、BSで関連番組が次々放送される予定です
「死」を恐れていた若き日
したがって、今の段階ではまだ「死ぬとき心はどうなるのか」という今回の番組の問いかけに対して、私とNHKの取材班とが完全に答えを出せているわけではありません。しかし、問いに対する答えとは別に、私としては、一連の番組を通じて、「死は怖くない」というメッセージをいちばん伝えたいと思っています。
私は今年74歳です。足腰は衰え、昔のように走ることも、階段を駆けあがることもできなくなりました。つい先日も、食事中に下の歯の一部が欠けてしまい、老いの進行を強く感じました。同級生たちも次々と死んでいますし、自分より若い人も亡くなっている。自分もいずれ、それほど遠くない時期に死を迎えるにちがいないということが実感として理解できるようになりました。その結果として、生に対する執着が弱くなりつつあります。「死は怖くない」という心境に私が到達したのは、今回の番組の取材を通じて臨死体験に関する新たな知識を得たからという理由以上に、年を取ることによって死が近しいものになってきたという理由があります。
そういう意味で、私のように年を取った者の死と、若い人の死、あるいは不慮の災難、事故による死とは分けて考えるべきかもしれません。若いときは死を恐れるのが当たり前です。私自身、若い頃は、死が怖かった。高校生のときには自殺を考えるほど落ちこんだこともありましたが、死ねませんでした。文藝春秋を3年で辞め、哲学科に入り直すときに、私の頭をいちばん悩ませていたことも、死をめぐる哲学でした。
死とは一体何なのか、いくら考えてもわからない
――前回は評判を博したNHKスペシャル『死ぬとき心はどうなるのか』に沿って、立花さんの「死は怖くない」というメッセージの意味を紹介しました。今回は、立花さんの死生観の変遷についてうかがいたいと思います。最初に死を意識したのはいつごろですか。
立花 中学生のときですね。毎朝挨拶をしていた隣家のお婆さんが死ぬときに呼ばれて臨終に立ち会ったときです。間もなく亡くなって、さっきまで生きていた人が、ただのむくろになってしまった。これはショックでしたね。子供から大人になる過程で誰でも死を怖いと思いはじめる時期が来るものですが、それが僕の場合は中学生だったわけです。
僕の長女はかなり早くて、何が原因か3歳のときに「死ぬのが怖い」と大騒ぎしていた。今では本人は、ぼんやりとしか覚えていないようですが。
――死の恐怖はその後、薄れていったんですか?
立花 日常的にはそんなものすぐに消えますが、心の奥底ではかなり後までつづいたんだと思います。結局、死への恐怖があったから、僕は哲学に傾倒するようになったのだと思います。死とは一体何なのか、いくら考えてもわからない。そうかといって考えることをやめることもできず、観念の世界にどんどん深入りしていった。
「哲学者への身上相談」という企画で
――立花さんは1964年に東大仏文科を卒業後、文藝春秋に入社しましたが、2年半後に退社。当時書かれた「退社の弁」には、会社員生活を続けていては充分な読書時間を確保できず、死んでも死にきれないという焦燥感がにじみ出ています。その後、東大哲学科に学士入学された。
立花 東大哲学科に在学中から、学費を稼ぐために、僕はいくつかの出版社をかけ持ちで、雑誌に原稿を書いたり取材を手伝ったりしていました。当時の仕事でよく覚えているのが、「諸君!」(文藝春秋、2009年休刊)の編集部で手伝った、「哲学は現代を救いうるか」という特集です(1970年4月号)。
特集の中の1本に、「哲学者への身上相談」という企画があった。ある若き経営者(広告制作会社)が、自分は何のために生きているのかということに思い悩み、哲学者に率直にその悩みをぶつけて答えてもらうという内容でした。答えてくれた哲学者が、東大文学部倫理学科助教授(当時)の小倉志祥(ゆきよし)先生です。
9ページにわたるこの記事は無署名の編集部原稿という体裁をとっていますが、実は僕がはじめから終りまで全文執筆しています。前説から2人の対談まで全部そうです。経営者が「大学1年くらいのころ、(死について)すごく悩んだ」と言うと、小倉先生はこう答えました。
「ぼくも旧制高校のころ悩みましたよ。1人で寝ている。明日起きたときに自分がいなかったらどうしようと思うと、恐くて眠れなくなる。正直いって、今でも死は恐いですよ。自分というものがなくなっちまうってことは悟りきれない」
自殺したいと何度も思った
小倉さんのこの言葉を聞いたとき、僕はホッとしました。それまで他の人に自分には死の恐怖があると告白するのは女々しいようで恥ずかしいと思っていました。小倉先生が我々の前ではっきり「死は恐い」と認めた。何だ、全然それは恥ずかしいことではなかったのだと思いました。その後、自分でも人前で堂々と死の恐怖を認めるようになりました。
――立花さんの死の恐怖は観念的なものだったんですか。それとも、なにか具体性をおびたものがあったんですか。
立花 僕は、高校3年生くらいから、大学のはじめにかけて何度も自殺したいと思ってたんです。
――原因は?
立花 失恋です。思い詰めて自殺したくなったんです。しかし、自殺というのは、本気でやりたいと思うと、具体的行動が必要です。具体的に何をどうするのか。第一歩をああでもないこうでもないと考えあぐねているうちに、自分はその一歩が踏み出せない人間なのだということがわかって、自己嫌悪におちいりました。
実は自殺は、哲学における中心的な問題の1つです。実存主義の作家として有名なカミュは『シーシュポスの神話』という哲学的エッセイの冒頭で、こう書いています。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(『シーシュポスの神話』清水徹訳 新潮文庫)。うん、そうだと思いました。大学時代のはじめ、しばらく実存主義に熱中したのは、これがきっかけでした。
必ずしも自殺がいけないことだとは考えていません
人が死ぬとはどういうことなのか。この問題をはじめて真っ正面から哲学的に論じようとしたのが実存主義です。マルクス主義とともに、実存主義は、1950~60年代の大学生が最初に受ける知的洗礼として重要でした。日本の大学生に大きな影響を与えたのはフランスの実存主義で、カミュの『異邦人』、サルトルの『実存主義とは何か』『存在と無』、ボーヴォワールの『人はすべて死す』などは、当時の大学生の必読文献でした。
人はみないつか自分の死に一人で向き合わなければならない。「自分の死は自分で死ななければならない」。実存主義が繰り返し問うたのが、自殺の是非を含む、自分の死との向き合い方でした。この問いは今の若い人にとっても切実なものではないでしょうか。
――若者(15~34歳)の死因トップが自殺なのは先進国で唯一、日本だけです。
立花 誤解を招いてしまうかもしれませんが、僕は必ずしも自殺がいけないことだとは考えていません。何十年も前ですが、もの書きになってはじめの頃(著作2冊)、子供の自殺が大きな社会的問題になりました。その頃、僕は、ある県の教育委員会に呼ばれて、学校の先生や親たちの前で、講演をしたことがあるんです。常識的にそういう場では、子供が自殺しないためにどうすべきなのかという「ベキ論」を語るものだと思います。講演を依頼した人もおそらくベキ論を期待していたはずですが、僕は最初に「子供が自殺をするのはいけないことじゃない」と言いました。
子供時代から青年時代を通じて、自殺したいと一度も思ったことがない人はいないんじゃないでしょうか。少なくとも心の中で自殺を考えたことがない人がいたら、その人の成長過程に何か欠落があったといえるのではないか。普通の人間が普通に育っていけば、どこかの段階で死にたいと考える。それはむしろ人間の健全な精神的成長の一階梯なのではないか。そんな話をしました。
自殺の是非は若いときに一度は真剣に考察すべき
僕は今でも、子供が自殺したいと真剣に考えて実行に移すことはありえることだし、それが絶対ダメだとはいい切れないと思っています。カミュじゃないけど、自殺の是非は人間が若いときに一度は最も真剣に考察すべき命題の1つです。
こういう言説が子供や若者に勧められることはほとんどありませんが、ないわけではありません。たとえば寺山修司の評論集『死者の書』(土曜美術社、1974年)に、「青少年のための自殺学入門」という章があって、これが面白いんです。少年時代の寺山は「自殺機械をつくることに熱中していた」らしく、彼の考案した自殺機械をいくつか紹介しています。たとえば、「2羽のニワトリ式自殺機」は、「心臓に照準をあわせて、弾をこめた猟銃を設置し、その引き金を2羽のニワトリの足にヒモで結んでおく。2羽のニワトリは私の頭上の砂袋に止まっているのだが、袋に穴があいているので砂がこぼれて、だんだん足許が不安定になってくると、本能的に下へとびおりる。そのときに足に結んだヒモが引っ張られて引き金がひかれ、私は射殺されるというものである」。他にも、「上海リル式浴槽自殺機」、「ねじ式自殺樽」「脱穀機型脳天振動自殺機」などを発明しています。唐十郎はこの書を寺山の最高傑作と言っています。唐も若いときに自殺を真剣に考えた若者の1人だったからだと思います。
「死にたいのなら死んでみればいい。だけど、やり直せないよ」
――1990年代にベストセラーになった『完全自殺マニュアル』(鶴見済著 太田出版、1993年)の先駆けですね。
立花 それよりずっとずっと前に出た本です。寺山は「なぜ、学校の工作の時間に自殺機をつくらせないのだろう」「死ぬ自由くらいは自分自身で創造したい」と書いています。
僕もそう思いますね。人はいずれ死ぬのだから、死期を自分で早めてもいいじゃないかと主張する人に対して、ダメだという必要はない。「死にたいのなら死んでみればいい。だけど、やり直せないよ」といえば充分だと思っています。寺山修司のこの本を渡して、こういう死に方もあるぞ、と教えて、失敗がないようによくよく考えろといえばいい。それで、実際に自殺機械を工作の時間に作ってみろと呼びかける。そんな指導があっても悪くないと思っています。
余談ながら、寺山修司とは文春にいた頃、わりと親しくしたんです。寺山が演劇集団「天井桟敷」をつくる直前で、なにしろ僕の最初の本の帯を書いてくれたのは寺山なんです。文春を辞めたとき、彼が「俺のとこへ来い」と誘ってくれました。そのときそれを受けていれば、まったく違う人生を送っていたと思います。
――役者になっていた?
立花 いや、それはないだろうけど(笑)。
身近になった安楽死の議論
――自分の死を自分で決定するという問題と関連して、安楽死についてはどうお考えになりますか?
立花 非常に重い病気、たとえば難治性のガンにかかって、あらゆる手だてをつくしたが、回復の望みは全くなく、あとに待つのはひどい苦痛ばかりということになったら、そして本人の望みがそれしかないなら、許されてしかるべきだと思います。
実は最近、僕の周辺でそういう問題がもちあがっていて、いろんな議論が仲間内で交わされている最中なんです。本人はまだ最終的決心をしているわけではないけど、議論はしてもらいたいということで、自分の病状を皆にオープンにしています。そして自分の未来が医学教科書に従えば「麻痺と激痛の中でもだえ苦しみながらの死」であることなどを。僕が彼だったら、遠からず、安楽死を選ぶだろうと思います。いま日本では安楽死を認めていませんが、幾つかの国では外国人に認めていますから、安楽死を求めて国を渡る人たちが出ています。
僕自身の場合は、外国にわざわざいって安楽死を求めるより、国内で最大限の緩和ケア(モルヒネづけで苦痛なし)をお願いすることになるだろうと思います。友人の場合は、彼がどのような決断をしようと彼の決断を尊重してやろうと思います。
僕は長い間、人の死とは何かというテーマを追いかけてきました。1980年代後半から90年代前半にかけて取り組んだ、脳死問題に関する一連の言論活動でも、死の定義について徹底的に考え抜きました。医療技術の進歩によって、生と見ていいのか死と見ていいのかはっきりしない領域が出てきた。
当時、死の定義を拡大して、脳死者からの臓器移植を普及させようとする立場に対して、僕は異議を申し立てる立場から記事を書いたり、話をしてきました。その頃、移植医療を推進したい側の人たちの集会に呼ばれて、議論したことがあります。そのとき、彼らのリーダーから突然、「あなたの死生観はどうなってるんですか」と聞かれたのです。それは僕のまったく予期しない質問で、虚をつかれて口をつぐんでしまったんですが、後になって「あなたの死生観はどうなんだ」というのは、正しい問いの立て方だと思い返しました。結局、その問いにきちんとした答えを持っていないと、あらゆる問題に対して答えようがないはずだからです。
語り得ぬものには沈黙せよ
自殺、安楽死、脳死など、生と死に関する問題は1つの問題群として捉えるべきで、それはその人の死生観と切り分けられない問題なのです。どの問題を考えるにしても、結局、自己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に決定権がある場合には、それに従うよりないことだろうと思います。
――人の死生観に影響を与える要素として大きいのは、宗教です。立花さんの場合はどうですか?
立花 僕の両親はキリスト教徒だったので、一般の日本人の習俗を知らずに育ちました。今でも困ることがありますよ。お盆って何? と聞かれても答えようがない。当然、家に仏壇もないし、神棚もありません。むしろ両親はそういう日本の伝統的な習俗に反対していました。
「死後の世界は存在する」という見方は、日本人一般の人にとっては馴染みやすいところがあるのかもしれません。お盆になると死者が帰ってきて、仏壇のロウソクの炎を揺らすと教えられて育ってきた人にとって、この世とあの世がつながっているという考えは自然に受け入れられる。日本人の心の世界は、広い意味で、死者の世界との交わりを含めて成立しているように思います。
どの宗教的なグループに属するかによって、死生観は異なります。しかし、日本人の場合、自分がはっきりと仏教徒である、神道の氏子であると認識している人は少なく、ぼんやりとどこかのグループに属している状態です。その上、自分が属しているグループの教義なり世界観と、自分の信条が一致している人は必ずしも多くない。
仏教でも神道でも宗派によって死生観はかなり違いがあります。僕は2度目に結婚した家の宗教が神道で、葬式が神道で行われるのを経験しているんですが、仏教のゴテゴテ感がなくて、自然宗教的スッキリ感にすごく好感が持てました。キリスト教は他の宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れました。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところです。
――死後の世界が存在するという考えは、「あってほしい」という願望もあってか、なかなか捨てがたい面があります。
立花 そう考える人がいるのは仕方ありません。しかし、僕にとっては解決済みの議論です。死後の世界が存在するかどうかは個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて答えを出そうとする世界の問題ではない。
僕は文春を辞めて入り直した哲学科で学んだことの中で、いちばん大きな影響を受けたのがヴィトゲンシュタインの哲学です。彼が『論理哲学論考』の最後に書いています。
「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」
死後の世界はまさに語り得ぬものです。それが語りたい対象であるのはたしかですが、沈黙しなければなりません。
「あと1年くらいに」的な発言はよくしているんですよ
――2007年(平成19年)暮れ、立花さんは膀胱がんの診断を受けています。切除手術が行われる数日前、電話をかけてこられて「俺の寿命はあと1年くらい」とおっしゃった。
立花 そんなこといったっけ(笑)。
――ええ、サラッとした調子で。あのときは死を意識していたんですか?
立花 そうなんでしょうね。でも、それまでも「あと1年くらいに」的な発言はよくしているんですよ。
――手術は無事に終えられて、それから7年がたちますが、再発の可能性はあるんですか。
立花 あることはあります。一般的には、治療によってがんが消えた後、5年経過すれば患者はがんを克服したサバイバー(生存者)と見なされます。しかし、膀胱がんの場合、再発率が高く、5年経過してもサバイバーにカウントされません。僕も、手術後7年経ちますが、ついこの間、医者から「再発の可能性がある」といわれました。その直前の内視鏡検査で内壁が真っ赤に腫れ上がっていましたから、自分でも、あ、これはヤバいと思ってすぐ入院に同意しました。その場面は、番組(『NHKスペシャル 臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか』9月14日放送)でも映し出されています。ところが、番組中ではその後、僕の膀胱がんに関する言及がなかったので、いろんな人から「(がんは)どうなったんですか?」と聞かれました。
結局、4月に内壁の8カ所から細胞を採取してバイオプシー(病変が疑われる細胞を取りだして、顕微鏡で調べる検査)をした結果、異常なしでした。バイオプシーの後、しばらくオシッコの頻度が上がったり、排尿痛があって不便でしたが、今は何ともありません。とりあえず次の異常が発見されるまでの当分の間、大丈夫じゃないかと思っています。
死の危険性を自覚したのは心臓の手術でした
膀胱がんの手術より、死の危険性を自覚したのは心臓の手術でした。2008年(平成20年)に、冠動脈2カ所に梗塞が見つかった。1つは90%梗塞、もう1つは75%梗塞です。運動負荷検査でも、シンチ検査でも、CT造影でも一見してわかるヤバい状態でした。そこで手術でステントと呼ばれる補強筒を血管内に埋めたんです。
この手術では、まず左手首からカテーテル(細長い管)を挿入して、血管の中を心臓まで伸ばしていきます。カテーテルを通じてステントを送りこむんですが、ステントの挿入前に、バルーン(小さい風船)で血管の狭窄部位を膨らませる。このときバルーンには20気圧もかけられます。自動車のタイヤの空気圧でもせいぜい2、3気圧ですから、想像を絶する高圧です。一挙に20気圧かけられるわけではありません。「まだ膨らまないな。あと何気圧上げてください」とか医者がいいながら徐々に圧を加えていく。手術中こちらの意識はハッキリしていますから、そういう声がすべて聞こえてくる。どんどん気圧が上がっていくうちに、「いつパンと破裂するかわからないな」と思いました。20気圧と聞いたときは、「エッ嘘だろう」と思いました。
――怖かった?
立花 死んでも不思議ではないとは考えましたが、意外に冷静でした。場数を踏んだベテランの医者でしたから、まかせる以外ないと思ってました。手術後、「バルーンが破裂する可能性はなかったんですか」と医者に聞きました。そしたら「ある」と(笑)。ただし、もし破裂して大出血しても、すぐ開胸手術に切り替えるから、大丈夫だという話でした。
インドでは本当に死ぬ思いでした
――死にかけた経験は他にもありますか?
立花 インド旅行中に死にそうな目に遭いました。1974年(昭和49年)にオランダ航空(KLM)から新航路の開設を記念して初フライトに招待したいという話が来て、喜んで便乗して、中東諸国をめぐりました。イラン、レバノン、シリア、エジプトの遺跡を徹底的に見てまわって、最後に寄ったのがインドでした。そのときそれまで経験したことがない高熱を発したんです。でも、薬もなく、手持ちの金もないからとにかく寝ているしかなかった。結局、何も食べずに数日寝ているうちに突然回復しました。
――原因は?
立花 病院に行っていないので正確にはわかりませんが、一種の風土病だったんでしょうね。旅先では水に気をつけろとよくいわれますが、水を一切飲まないわけにはいかないから飲む。金がないからどこでも土地の水道水です。それであちこちの土地で体調を崩すわけですが、インドでは本当に死ぬ思いでした。
父の臨終をじっくりと見つめた
――このときは死の恐怖を感じたんですか?
立花 それはありません。高熱でほとんど意識が飛んでましたから。意識が戻ったときにこのまま死ぬのかなと一瞬思いましたが、またすぐ意識が消えていった。死ぬのが恐いなんて考えてるヒマはありませんでした。昔、宇宙飛行士で医師の向井千秋さんに、大事故を想定した訓練中、パニックになる人はいないのかと聞いたことがあります。彼女の答えはこうです。
「みんな自分がいま何ができるかを考えて必死で作業をはじめますから、プロとしての意識が全面に出て、怖いとかいったことは、あまり感じなくなるんですね」(『宇宙を語るⅠ』中公文庫)
いざ死の危機に直面すると、人間って、その状況を把握したり、その対応に駆け回ったりするのに精一杯で、死を心配している余裕なんてない。それが普通なんです。暇な人だけが死の恐怖にとらわれるんじゃないでしょうか。
――前回、死生観に影響を与える要因として、宗教や習俗について見解を伺いました。他に考えられる要因として、身近な人間の死もあると思いますが、いかがですか?
立花 誰しもそうだと思いますが、僕も両親の死に立ち会ったときは大きな衝撃を受けました。
特に印象深いのは、父親の死です。
父・橘経雄は2005年(平成107年)に95歳で亡くなりました。戦時中、30歳で北京に渡って北京師範学校、次いで北京高級中学校の教官を務め、戦後は1994年に書評専門紙「週刊読書人」の専務を最後に引退するまで長く出版業界に身を置いていました。日本出版業界の激動の時代を知る歴史の証人の1人です。是非、詳しい話を聞きたいと思っていましたが、亡くなる数年前に脳梗塞で倒れて以降、言葉をほとんど発しなくなって聞けませんでした。
いよいよ危ないという時に、病床の傍に僕はいました。そして、彼の喉仏が上がったり下がったりするスピードがだんだん遅くなって、ついに止まるところを目撃したんです。散々人の死を見たり書いたりしてきましたが、人間が息を引き取る瞬間をじっくりと見つめたのはこのときがはじめてで、死とはこういうものか、と思いました。子供の頃、隣家のお婆さんの臨終場面に立ち会ったときは細部を見ていなかったなと思いました。そして臨終を細部までウォッチしたとき、そこに何か怖ろしいことが訪れる瞬間がある訳ではないと思いました。
「あなたが死を怖れるとき死はまだ来ていない。死が本当に来たとき、あなたはそこにいない。だから死は怖れるに当らない」というギリシアの哲人(エピクロス)の言葉通りだと思いました。
1人で誰にも看取られず静かに死にたい
父親に話を聞けなかった反省もあって、母・龍子には、生前、家族史の聞き取りの機会を設けました。母は2011年(平成23年)に95歳で亡くなっています。
2人とも、日本人の平均寿命より長く生きました。人の寿命の長短と相関関係がいちばん強いのは、その人の親の寿命らしいので、僕も長生きするのかもしれません。でも、僕自身は、両親ほど長生きしたくないですね。ヨボヨボのボケ老人になって生きててもいいことがあるとは思えないですから、ボケる前に死にたいです。死ぬとき、あ、オレはいま死につつあるんだと意識したいです。若いときインドで見た夢のつづきを見る思いで。
――立花さんにとって、理想の死に方とは?
立花 ジャングルの象のように死にたいですね。象は死期が迫ると群れを離れて、ジャングルの奥深くにある象の墓場へ向かうそうです。そして、象の骨と象牙が山のように積まれた墓場にたどりつくと、自らその上に横たわってひっそりと死ぬ。本当かどうかは知りませんが、小学校高学年のときに本でこの話を知って以来、自分も1人で誰にも看取られず静かに死にたいと思ってきました。
「オレは明日死ぬぞ」と告げて
私の伯父はこれに近い死に方をしています。伯父は昭和初期に小さな出版社を興して、若き日の大宅壮一の本を出してやったこともありました。その縁で大宅壮一の娘(大宅映子さんの異母姉)を橘家で預かったこともありました。僕の親父は一時期、大宅さんの娘さんと兄妹として暮らしていたわけです。
戦争が終わってしばらく改造社の重役を務めた伯父は、その後、米国務省監修の外国人向け英会話学習テープを日本で独占販売して一儲けします。一式数十万円もする教材でしたが、実務的な米語を学べると評判を集め、JALや自衛隊など、大企業や官庁を相手に沢山売りさばいたようです。伯父の会社は僕が勤めていた文藝春秋の近くにあったので立ち寄る機会も多く、そのたびに飯を食わせてもらっていました。文春を退社した後は、翻訳のアルバイトをもらったり、金銭的に困ったときには借金したこともあります。
この伯父が80歳のとき、「オレは明日死ぬぞ」と家族に告げて、本当にその翌朝亡くなったのです。なかなか起きてこない伯父を起こしに行ったところ、伯父は床の中で静かに死んでいたそうです。それまで死の近接を感じさせる予兆はなく、普段通りの生活をしていましたが、本人にはわかる何かがあったのでしょう。僕も死期が近いことを悟ったらジタバタせず静かに逝きたいですね。
ベッドは温かすぎたり、寒すぎたりしないようにしたい
――現実には老衰死よりも、どこか体を悪くして、病院で息を引き取るパターンのほうが多いと思います。病院で死を迎える場合に、何か希望はありますか?
立花 延命治療は嫌ですね。胃瘻(いろう)も人工呼吸器も願い下げです。希望としては、いよいよ死ぬとなったとき、ベッドは温かすぎたり、寒すぎたりしないようにすることですね。
――なぜ?
立花 2002年(平成14年)に亡くなった医師で、名古屋内科医会会長も務めた毛利孝一さんの例を知っているからです。毛利さんは生涯に3回も臨死体験をしました。1回目は心筋梗塞で42歳のとき、2回目と3回目は脳卒中で、それぞれ68歳、78歳のときです。1回目と2回目の臨死体験はハッピーなもので、こんなに楽に死ねるのかと思ったらしい。ところが3回目は、とにかく暗くて寂しい体験だった。彼によると、はじめの2回は温かい蒲団の中で生理的に快適な状態だったのに対して、3回目は救急病院で薄い病院着1枚だけで寝かされていたということです。
――寒い状況に置かれると、臨死体験の内容がハッピーでないものになってしまうわけですね。
立花 逆もありえます。死の床を温かくしすぎると、灼熱地獄の臨死体験をするかもしれません。臨死体験は脳が最後に見せる夢に近い現象ですから、いい臨死体験ができるように、死に際の床をなるべく居心地よくしておくのが肝要です。臨死体験の研究が進めば、どういう環境に置かれたとき、人はハッピーな臨死体験・臨終体験ができるのかといった知見がもっと集まるでしょう。
葬式にも墓にもまったく関心がありません
――死んだ後についてはどうですか。人によっては葬式の挙げ方、墓の建て方など細かくいい残します。
立花 葬式にも墓にもまったく関心がありません。どちらもないならないで一向にかまわない。
――日本人一般の感情とは異なる考えですね。
立花 キリスト教徒の両親の家で育ったせいでしょうね。「人間の肉体はチリから生まれてチリに帰る」という考え方にずっと親しんできました。肉体に特別な意味があるとは思えないのです。
特に嫌なのは、火葬場での骨あげです。焼き上がった遺体の骨を遺族らが2人ひと組で順番に箸で骨を拾いあげ、骨壺に納めていく風習ですが、こんな儀式は要らないと思います。僕はあるとき火葬場でたずねました。もし遺族が故人の遺骨を拾わずにそのまま帰ったらどうなるのかって。東京都清掃局(現環境局)の清掃車がきて引き取るとのことでした。つまり、残った遺骨はゴミとして処理されるわけです。僕も死んだら、葬式なし、骨あげなしで、遺骨は東京都に引き取ってもらえばいいと思っています。昔、伊藤栄樹(しげき)という、現役検事時代にダグラス・グラマン事件など有名な事件の数々を手がけた有名な検事総長が『人は死ねばゴミになる』という本を書きましたが、あの通りだと思いました。
生命の大いなる環の中へ
――ゴミとして処分されるというのが理想の葬られ方なんですね。
立花 いえ、もっといいのは「コンポスト葬」です。遺体を他の材料と混ぜ、発酵させるなどしてコンポスト(堆肥)にして畑に撒くのです。このアイデアを知ったのは1993年(平成5年)にNHKでコリン・ウィルソン(『アウトサイダー』『オカルト』などの著作で知られるイギリスの作家。2013年没)との対談番組を作るために、イギリスに1週間ほど滞在していたときでした。コリン・ウィルソンの友人の1人となぜか気が合い、雑談しているうちに、人の死に方の話になりました。彼がいうには、火葬は1刻も早くやめ、コンポスト葬にすべきであると。そうすれば他の動物と同じように、人間の肉体も自然に回帰できるというのです。
私もこの意見に賛成です。人間以外の生物は死ぬと遺体を別の生物に食べられるか、微生物に分解されるかして、自然の物質循環の大きな輪の中に入っていきます。人間の遺体の場合、土葬の頃はよかったのですが、火葬が主流の現代では、誰にも食べられず、ガスとして無機物に転化していくことになります。これでは人間が生物界の一員であるとはいえません。
だから僕の葬り方としては、コンポスト葬が理想ですね。チベットで行われている、遺体を刻んでハゲタカに食わせる「鳥葬」も理論的には悪くないけど、美学的にはチョッとどうかなと思います。海に遺灰をまく散骨もあるようですが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も美学的かつ法的に難点があるから、妥協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思います。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいい。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO91848550X10C15A9000000/ 【月を見よ、死を想え】より
一条真也の人生の修め方
9月27日の「中秋の名月」、28日の「スーパームーン」、みなさんは月見をされましたか。2015年は「中秋の名月」と「スーパームーン」が2日連続した珍しい年です。
「月狂い」のわたしは大いに月を愛で、大いに飲みました。じつは、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っています。地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたり、地上からレーザー光線で故人の魂を送る「月への送魂」を行ったりしています。なぜ、月が「あの世」なのか、今回はそのお話をしたいと思います。
世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きており、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。
彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えるでしょう。地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そしてよみがえる変幻してやまぬ星なのです。
月の裏側がいつも見えないのはなぜ?
都心の夜景を眼下に星空を観察する催しも(東京・六本木ヒルズ)=写真 編集委員 葛西宇一郎
秋の夜長 星空をもっと知りたい
「葬式仏教」といわれるほど、日本人の葬儀やお墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係もまた非常に深いと言えます。
お釈迦さまことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。
ミャンマーをはじめとした東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。仏教のみならず、神道にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、なんと言っても太陽と月です。太陽は西の空に沈んでいっても翌朝にはまた東の空から変わらぬ姿を現しますが、月には満ち欠けがあります。つねに不変の太陽は神の生命の象徴であり、死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。
また、「太陽と死は直視できない」という有名なラ・ロシュフーコーの言葉があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。
さらに、人類の生命は宇宙から来たと言われています。わたしたちの肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。その材料の供給源は地球だけではありません。はるかかなた昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきました。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じてわたしたちの肉体に入り込み、わたしたちは「いのち」を営んでいるのです。
わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還るわたしたちは、「宇宙の子」なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継ステーションのようです。
もし、月に人類共通のお墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中どこの夜空にも月は浮かびます。それに向かって合掌すれば、あらゆる場所で死者の供養をすることができます。また、遺体や遺骨を地中に埋めることによって、つまり埋葬によって死後の世界に暗い「地下へのまなざし」を持ち、はからずも地獄を連想してしまった生者に、明るい「天上へのまなざし」を与えることができます。そして、人々は月をあの世に見立てることによって、死者の霊魂が天上の世界に還ってゆくと自然に思い、理想的な死のイメージ・トレーニングが無理なく行なえます。
「葬送」という言葉がありますが、今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされるでしょう。「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘います。「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、葬祭は「送祭」となる。そして「死」は「詩」に変わります。満月の夜、ぜひ月を見上げて、死を想ってみてください。
わたしは「狂」がつくほどの大の月好きです。毎月、満月の夜には宗教哲学者で京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二先生とWEB上の往復書簡を交わしています。「ムーンサルトレター」というのですが、最近、なんと10周年を迎えました。それを記念して『満月交遊 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)という本を上梓しました。満月の気に誘われて書き上げた世にも不思議な本ですので、よろしければご一読下さい。
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