Facebook・清水 友邦さん投稿記事「生まれながら悟っているのならどうして修行しなければならないのか?」
道元禅師は若い頃、本来、人は生まれながら仏で悟っているのならどうして修行しなければならないのか悩みました。
道元はその回答を探し求めましたが誰も答えてくれませんでした。
大津の三井寺の僧侶に相談すると理屈を頭で考えても解決しないので栄西の所へ行きなさいと進められて栄西が開いた京都の建仁寺へ入門しました。
すでに栄西は没していたので教えを求めて24歳で中国に渡りました。
中国で修行して悟りの認可をえて28歳で帰国後すぐに書いたのが普勧坐禅儀です。
普勧坐禅儀では最初に「遠くまで修行に出かけずとも、その身そのままでよい。」で始まり最後は「良い師匠について坐禅に励みなさい」で終わります。
「そのままで良い」と言いながらも「坐禅に励みなさい」では矛盾していますが「悟った。迷った。修行する。修行しない。」と分別判断してしまう心は天と地ほども悟りから離れてしまうと注意しています。
つまり悟りには修行が必要だ、必要でないと考えていること自体が本来の心から離れているのです。
思考で捉える認識には限定や限界があるので認識されたものは全体ではありません。
哲学があつかえるのは言語によって明確に提示できるものだけであると、哲学者ウィトゲンシュタインは語りました。
「およそ言いうることは言い得、語りえないことについては沈黙しなければならない。」ウィトゲンシュタイン
言語を超えた世界を言語は記述できないのです。
道元禅師は他人の言葉や考えで理解しようとするのはやめなさいと忠告をしています。
言葉は比喩として、使うので、文化や価値観、体験を共有していないと表象システムが異なるので同じ言語を使用しても言葉の内容が通じなくなります。
私たちは言葉による合理的な思考で世界を解釈しようとしますが、それがかえって世界をあるがままに真実を理解することをさまたげてしまっています。
覚醒や悟りはあらゆる言語の表現を超えているので言語でこれだと説明できないものなのです。
それにもかかわらず、長い間、頭で理解しようとする習慣が染み付いている私たちはどうしても覚醒を思考でとらえようとします。
そうして、混乱が起きたり、誤解してしまうのです。
道元が修行した比叡山天台宗には誰もが本来悟っているという本覚思想がありました。
人々は生まれながら永遠の存在である仏と同じ智慧(本覚)を持っているのです。
しかし本来悟っていても煩悩に覆われてしまい、それがわからなくなって迷っていることを不覚といいます。
そこで次第に煩悩を取り除いて悟りに到達する事を始覚と言いました。
本覚はありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えです。
ですから悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれました。
すでに悟っているので修行は不要となると、向上心は薄れ、安易な現状肯定になってしまいます。
いつのまにか、そのままで現実に悟りを開いているということになってしまい本覚は危険な思想となりました。
中世の時代は僧兵が幅を利かせ武力による権力闘争を繰り返していました。僧兵のいいぶんはこうでした。
「もともと罪などというものはない、罪があると思うのは妄想である。自分の心はもともと清いので仏である。」と僧侶はうそぶいて欲望のままに狼藉の数々を働いたのです。
本覚は昔から論争の種でした。本覚思想が発展する前には悟りを得るのは難しく限られた特別の人だけだとする考えがありました。
悟りを開いていない衆生つまり、私たち、一般社会人は修行を続けても、いったい、いつになったら悟りが開けるのか判りません。
その点、もともと誰でも仏性が内在しているのであればそれを表に出せばよいので修行の励みになります。
それが中国から日本に伝わる間にいつのまにか仏性が全面に出て来て、すでに悟っているのだから修行は不要の本覚になってしまったのです。
当然、極端に展開した本覚思想は批判されることになりました。
現代でも本覚思想の現代版のネオアドバイダ(非二元・ノンデュアリティー)への批判が起きています。
「現代の西洋でのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対するアプローチは抽象的で虚無主義的で粗暴で現実離れしている。個人、身体と心、現象世界、貧困や飢えや戦争や環境等の社会問題といった現実を否定することが多い。そうしたアプローチは無意味さや無気力の感覚につながることが多い。リトリートや個人セッションを繰り返してきたなかで、そういう教えによって落ち込んだり、人生に意味を見いだせなくなった人たちにたくさん出会った」フランシス・ベネット(resonanz360より)
マインドはマインドを客観できないので
カテゴリーが異なる領域を混同してしまいます。
ようするにマインドを超えた本覚を頭で理解してしまうと自我が肥大を起こして自己満足するか自己否定してしまうのです。
月を示す指は方便であって月ではありません。
悟っている人にとっては真実でも、探求者にとっては「あなたは悟っている。」は方便でしかないからです。
それは薬と同じで適切に使用すれば病が癒されますが使用を誤ると毒になってしまうのです。
探求の道では真実を求める欲望だけが唯一正しい欲望として奨励されます。
修行して、さまざまな瞑想体験を積み重ねて、もうそれ以上何処にも行かない地点まで達した時、何をやっても行きづまってしまった時、努力そのものが障害になっていることに気がつきます。
そのときにはじめて努力を落とすことができます。
最初から努力を放棄したならば、それはただの現状維持になってしまい病は癒えないでしょう。
方便としては思考を落とす。思考を止める。思考をなくす。思考を退けると言語で記述しますが、直接示す言葉が無いのでしかたがなく一番近いと思われる言葉で表すしかないのです。
思考を止めるは方便なので文字通り解釈して止めようとすると間違ってしまうことになります。
覚醒とは今ここで努力する事なく気づいている状態です。
思考があってもなくとも永遠の自己は存在しています。
思考を止めて悟ろう悟ろうと努力していると思考に覆われて今ここから遠ざかってしまい今ここの本当の自分に気がつけないのです。
新月、三日月、満月と見かけの月の形は変わりますが、光があたってもあたらなくとも、実際の月の形態はかわらないように、思考があってもなくとも、瞑想をしてもしなくとも、自己は全く変わらずにあるのです。
しかし光を遮るマインドの虚像に振り回されるために、その事に気がつきません。
悲しみや喜びにあふれても、自己は変わらずにいまここにあるのです。
あらゆる探求の道には歩む道もゴールもありません。
神との合一にいたる方法や究極の悟りの道は何処にもないのです。
探求者は何処かへ到達しようとしたり、悟りをつかまえようとしたり、覚醒を手に入れようとしますが、それらの努力をすること、あれこれと、あらゆる企てをする以前にすでにあなたはすでに手に入れているのです。
本当の所、そのことが腑に落ちるには瞑想やワークを重ねて実際にその行程を歩んでみないとわからないのです。
そのような意味では、瞑想が必要でない事を知る為の方便として瞑想が必要と言えます。
「修行と悟りが一つでないと思うのは外道の見解である。座禅している姿そのままが仏の姿だ。もともと修行が悟りの実現である故、悟りに終わりは無い。坐禅に限らず日常生活においても修行につとめよ」と道元禅師はこのように普勧坐禅儀で説いてます。
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呼吸道オンライン講座
呼吸道の真の目的は自分自身を知るということです。
人はあるがままに観照している本当の自分(セルフ)と刺激に反応するマインドの両方を持っています。
身体、感情、思考、時間、空間、あらゆる概念、知識、これらは全て私ではありません。
今まで自分だと思っていた私は私ではないということです。
それにはまず自分のマインド、思考を観照できるようにならなくてはなりません。
苦しみを取り去る方法は思考と一体化している偽りの自己に気がついて、今ここに在る純粋な意識と繋がることです。
しかし、物心が付いてからずっと思考と一体化しているので思考を見守るのが難しいのです。
それには体の感覚に注意を向け常に変化している呼吸と身体感覚から始めるのがやさしいのです。
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