一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)
健康習慣をつけるには「私の体は私ではなく私のもの」という主人意識をもち
内臓を偏りなく使う必要があります。
心臓だけをたくさん働かせたり 腎臓だけを過度に使ったり 肝臓を酷使したり
胃に負担をかけすぎたりすると 体の調和が崩れやすくなります。
心臓はまだ元気だけれど 肝臓が無理をして 命が危なくなると 心臓はどれほど悲しいでしょうか?
いつの日か安らかに息を引き取りたいなら偏りなく内臓を使う必要があります。
全身をムラなく使うためにウォーキングほどいい運動はありません。
ウォーキングは体を構成している600以上の筋肉とそれと一緒に動く約200の骨を動員する
全身運動です。
涼しい風が吹くウォーキングにいい季節になりました。
歩数を増やし、健康習慣をつけてみましょう。
私たちの体は健康な生活習慣によってのみ健康になることができます。
Facebook・石川 眞樹夫さん投稿記事·
ヒューレン博士からのメッセージです。
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とてもシンプルなことなのです。常にクリーニングし続けること。ありがとうと言うだけで、記憶、すなわち苦悩や悲しみが消去されます。でも大半の人は、ものすごく質問をしたがりますね。しかし、どれだけの質問を重ねても、決して記憶を消去することはできません。質問に対して答えることよりも、その都度ありがとうと言ってクリーニングし、ゼロになってインスパイアされることの方が、はるかに意味があるのです。
わたしは決して質問するなと言っているのではありません。気付いてほしいのは、その質問の下にあるのは記憶であり、その記憶はクリーニングしてほしいと待っているということです。
例えば、部屋の壁に照明のスイッチがあるとしましょう。灯かりを点けたのがクリーニングされた状態です。そのスイッチを押すと灯かりが点くことに気付いた人は照明を灯していると、そこへわたしもやり方を覚えたいと集まってくるでしょう。
しかし、あなたの中の光がいつもオフになっていたら、誰もあなたのことが見えないので見つけることはできません。だから、どこかで誰かがスイッチをオンにしなければならないのです。
ハワイの州立病院でわたしがクリーニングし続けたのは、誰かが責任を取ってそうする必要があったからです。
わたしは誰かがクリーニングするのを待とうとは思いません。すべてに100%責任を持っているからこそ、わたしはとにかく一瞬一瞬、絶えずクリーニングしているのです。
あなたが選択できるのは2つです。光か闇か。あなたには選ぶ権限があります。記憶というのは暗闇であり、ときにそれは病気として現れるかもしれません。執着のないゼロの状態以外はすべて、潜在意識の記憶に囚われているのです。
あなたは世界の中で起きている問題はその人達の問題で、自分の問題だとは捉えていないような人もたくさんいるでしょう。しかし、なぜ自分のクリーニングをしないで、責任を取らないで周りの心配をするのでしょうか?
あなたの中の記憶をクリーニングしなさい。
あなたの平和は自分の心の中から始まるということを、理解しなくてはいけません。自分がどういう責任を取れるかというところに、意識を合わせることが大切です。問題は、あなたが責任を取るか、取らないかだけです。
100%の責任を持つというのは、すごく難しいことです。人間の意識は1秒に対して15ビットしか考えられないのに対し、わたしたちを動かしているのは潜在意識の中にある記憶であって、それは1秒に1100万ビットも動いている。その膨大な情報を知らないということすら、わたしたちは知らないのです。
まずは自分が始めること。そこからすべては変わっていきます。
記憶を消去できるのは「愛」しかありません。
Ho' oponopono Asia
Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事「あなたは愛されるに値する存在」
あなたは、あなた以外の何者でもなく。あなた以外にあなたになれる者はなく。
あなたはあなた以外の存在にはなれないのです。
だとしたら、あなたがあなたを否定したところで何の意味もない。
あなたは、あなたの存在を前提としているからです。
過去の過ちも失敗も、醜さも、欠点、劣等感も、あるがままに受け入れ、自分を信じるのです。時には、過去の成功や栄光は、毒にもなります。
いつまでも、過去の成功や栄光にすがっても、今の自分が救われるわけではありません。
今の自分を受け入れ、今の自分を愛するのです。この世の中に不完全な存在なんてありません。又、卑しい存在もありません。病気だから不完全で、健康だから完全なんて事もありません。百点満点だから完全で五十点だから不完全だなんて言う事もありません。
障害があるから不完全で、何の障害もないから完全と言う事もありません。
展覧会で特賞をとった花は尊くて、野に咲く花だから卑しいと言う事はありません。
野に咲く花は、誰に助けられるわけではありません。
野に咲く花は、それ自身で完全であり、それ自身で咲いているのです。
それが命です。
生きるという事です。
不完全な命なんてこの世にはないのです。
野に咲く花を見て美しいと感じたら、美しいと感じる自分と美しいと感じさせてくれる何者かに感謝し、そっと手を合わせればいいのです。
花と自分との間には何の隔たりもないのです。
頭脳や心臓だから尊くて肛門だから卑しいなんてしません。何が完全で何が不完全かを判別しているのは人です。何が尊くて、何が卑しいかを決めているのは人です。
あなたは、あなたとして常に完全無欠なのです。あなたは、あなたとして絶対なのです。
そう思えば病気だって怖くない。そのことに気がつけば自分を生かしている存在に感謝するようになります。
生かされている自分に感謝する心が起きます。この世の全ての存在に感謝する。
自分の苦しめる者にすら感謝できるようになります。
何に対しても感謝してありがとうという気持ちが起こるたびに、あなたは、歓喜に打ち震え自然と涙が流れてくるのです。
それこそが愛です。誰にも愛されてないなんて思ってはいけません。
あなたは愛されるに値する存在です。相手を許し、自分を許す。自分を許し、相手を許す。
相手を許し、自分を許す。傷ついた自分を許し、自分を傷つけた人を許す。
自分を傷つけた人たちを許し、傷ついた自分を許す
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