https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_115/feature01.html 【神仏が習合する熊野信仰 】より
浄土につづく祈りの道ー熊野古道
紀伊山地の深い山々の自然は、古来より万物の創造主が隠れ、宿るところと信じられてきた。人びとは自然を畏敬し、崇め、信仰した。
そして平安時代、敬虔で情熱的な信仰心とともに人びとは熊野の地をめざした。
山中の険しい道を幾日も費やし、息も絶え絶えに歩いた。
浄土へとつづくと信じた熊野三山とその参詣道、熊野古道を辿った。
熊野古道・中辺路の伏拝王子から望む熊野三千六百峰の山並み。ここから本宮旧社地の森が見える。遠く向こうには、那智山や中辺路一番の難所といわれる大雲取山の峰々がつづいている。
紀伊半島南端の海岸部をのぞくと熊野はすべて山の中だ。果無[はてなし]山脈や熊野三千六百峰の峰々が雲をからめて広大無辺に連なる。古代の気が漂う山々の鬱蒼とした森の間を縫ってつづく険しい山道を、あまたの巡礼者が息をはずませ汗を流して辿った。難路の先には浄土がある。世塵を払い清め、救いを求めて熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)をめざした巡礼道が、熊野古道として残っている。
熊野は記紀の神話に深く関わる古い土地だ。神武天皇が八咫烏[やたがらす]に導かれて大和国に進軍する折に上陸したのが熊野の海岸だと『古事記』は記し、『日本書紀』では天照大神の母、伊邪那美命[いざなみのみこと]が隠れたところだと伝えている。熊野の熊とは「隈(クマ)」に通じて奥に秘められた所、隠[こも]るの意で神々が隠れこもる所、あるいはアイヌの言葉で連山の峰を意味するクマネに由来するともいわれる。定説はないが、いずれも深い山々に閉ざされた辺境の地を指している。
俗界と隔てた異界の熊野は、古代から人知を超えた神威のある聖域とされてきた。日本では古来、自然物に神が宿ると考え自然を崇拝した。険しい崖や深い谷、滝や奇岩怪石などが原始のままにあるのが熊野である。温暖で多湿の気候は常緑照葉樹の深く濃密な森林をつくり、驚くほどの巨木を育て、多様な生態系を育む。そこは力強い生命があふれ、生命が再生される場所だ。山岳信仰の修験者はこうした自然に身をさらし、肉体の限界に挑む難行苦行の修行を通して神威を得ようとした。
自然崇拝の神道はやがて修験者によって伝来した仏教と結ばれ、神仏習合という独自の熊野権現信仰が生まれる。神は普段は目に見えない存在だが、仏の姿となって現れ衆生を救うという信仰で、権現[ごんげん]とはその仮の姿で現れることをいう。それゆえに熊野三山は熊野三所[さんしょ]権現とも呼ばれ、熊野は神仏習合によって神々と仏がともにおわす浄土だと考えられたのだ。そして御師[おし]という修験者たちが各地を歩いて三山の神札を配り、全国に信仰を広めた。
熊野信仰が盛んになるのは平安時代中期からだが、信仰の熱狂ぶりを象徴しているのが朝廷人の数限りない「熊野御幸[ごこう]」だ。907(延喜7)年の宇多上皇に始まり、花山法皇、白川院9回、鳥羽院21回、後白河院34回、後鳥羽院28回そして亀山天皇の鎌倉時代中期まで御幸は続いた。女院の御幸はのべ35回。1118(元永元)年の白河院の御幸は、総勢814人(1,000人以上におよぶこともあったという)、伝馬185疋[ひき]が尾根道に列をなしたというから、まさに「蟻の熊野詣」である。信仰は武士や大衆にも浸透し、巡礼をはじめる。そうして人びとは、全国津々浦々から熊野をめざした。
表面がすり減って丸くなった石畳。中世以来、数限りない巡礼者が通ったせいなのだろう。石畳を一歩一歩踏むごとに、巡礼者の荒い息づかいが聞こえてきそうである。
熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称で別に熊野大社、熊野権現とも呼ばれる。写真上は三社のなかでもっとも古いといわれる本宮大社の第三殿証誠殿[しょうじょうでん]。写真左下は那智大社の第一殿瀧宮[たきのみや]、右下は速玉大社神門と上三殿。
那智大社に残る「熊野権現那智宮曼荼羅」。中世以降、熊野信仰を全国に広めた修験道の御師[おし]、先達[せんだつ]、比丘尼[びくに]はこうした曼荼羅などの絵図を使って信仰を説いて回った。
紀伊半島は全体が巨大な山塊。海岸部を除いて熊野は険しい山々に閉ざされ、古代より豊かな自然のなかに神々が隠る聖地として崇拝されてきた。
神仏が習合する熊野信仰
那智大社本殿には、神武天皇を導いた三本足の八咫烏が姿を変えたと伝えられる「からす石」があり、後白河上皇が「熊野御幸」の折に自ら手植えしたと伝わる枝垂れ桜がいまも花を咲かせる。
神倉神社は、『古事記』や『日本書紀』では神武天皇東征の折に登った「天盤盾[あまのいわたて]」の山と記される。また熊野三所大神が最初に降臨したとも伝えられる。
熊野川と本宮旧社地。本宮はもともと現在地より熊野川の500mほど下流の熊野川、音無川、岩田川が合流する中洲、大斎原[おおゆのはら]にあった。巡礼者は川を徒歩で渡り水垢離(禊)をして本宮に参詣した。1889(明治22)年の大洪水以後、現在ある高台に移された。
新宮市熊野川河口の王子ケ浜の夕景。本宮大社、速玉大社を参拝したあと、巡礼者は王子ケ浜を辿って那智大社へと向かった。弓なりの王子ケ浜から望む熊野灘の沖あいには浄土があると考えられた。
熊野参詣道には、紀伊路(中辺路)、伊勢路のほかに、より険しい高野山から果無山脈を越えて本宮に至る「小辺路」、吉野から本宮に向かう「大峰奥駈道」、また田辺から中辺路と分かれて海岸に沿って新宮に向かう「大辺路」がある。
王子は熊野権現の御子神を祀った摂社で、参拝者は王子に拝礼しながら熊野三山に向かった。参詣道の道程途中には王子が点在し、大阪から熊野にかけて100以上もの王子があったとされる。「九十九王子」とはその数の多さを表わしている。
救いの巡礼道中辺路を行く
熊野への巡礼の道はいくつかある。代表的なコースは、紀伊半島を東から辿る伊勢路と紀伊半島の西を海沿いに南下し、田辺から中辺路[なかへち]を通って本宮に向かう紀伊路だ。平安時代の熊野御幸が利用したのは紀伊路である。大勢の従者を引き連れた上皇一行は、都から往復約600kmの行程を20日から1カ月を要して御幸した。
後白河上皇が編纂したとされる『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』にこんな歌がある。「くまのへ参らむと思えども 徒歩[かち]より参れば道とをし すぐれて山きびし 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ はねたべ若王子」。あまりに遠く厳しい道程に、願わくば空を飛んでいきたいものだというほどの難行苦行だったようだ。後鳥羽上皇の御幸に同行した歌人、藤原定家も繰り返し嘆いている。「嶮難[けんなん]遠路 暁より食せず 無力極めて術なし」「終日嶮岨[けんそ]を越す 心中は夢の如し」(後鳥羽院熊野御幸記)。
京を発ち、船で淀川を下り、天満、堺、湯浅、御坊などを経て、田辺に至る。途中には「九十九王子」といういくつもの遥拝所があり、そこに立ち寄って経を読み、拝礼しながら進む。王子は熊野三山の摂社で、九十九は数の多さを表わしている。田辺は「口熊野」といわれ、紀伊路はここで海岸線をそのまま進む大辺路と、山に分け入っていく中辺路に分かれる。浜の潮水で禊[みそぎ](潮垢離[しおごり])をし、出立[でだち]王子に参拝して、稲葉根王子、滝尻王子をめざす。滝尻王子からいよいよ定家も嘆いた険しい山中の道になる。
滝尻王子から本宮までは約40kmの道のりだ。中辺路は滝尻王子からの道で、石を無数に敷きつめた狭くて急な古道は、深い森に包まれ、苔むしていかにも時代の古さを感じさせる。勾配は非常に急だ。尾根まで一気に登る道は、樹木の根が露出していたり、でこぼこの石で歩きづらく、右に折れ左に折れて、見上げると延々と細く急な坂道がつづいている。喘ぎながら一歩一歩、踏みしめて登る。そのうち意識がもうろうとしてくる。とうてい馬が登れるとは思えない。いかに上皇とても御輿で参るわけにはいかないだろう。
巡礼の道は、楽をしてはならない。自ら歩き、難行苦行を経てこそ世俗の業を払い清めることができるのだ。巡礼の道とはそれ自体が道場であり、息も絶え絶えに歩くことが修行なのだ。苦しみの末に尾根に立つと、視界は明るく開け、果無[はてなし]山脈が目の前に長々と横たわっている。明らかにそれは救済の風景だ。道は尾根から尾根へと滝尻王子から16の王子を経てつづき、やがて熊野本宮大社を間近に望む(現在の場所と異なる)伏拝[ふしおがみ]王子に辿り着く。そして、疲労困ぱいの末に本宮の姿を目にした定家はじつに素直に、その胸中を「感涙禁じ難し」であったと書き残している。
伏拝王子から緩やかな地道の坂を下ると熊野本宮はすぐそこだ。現在、熊野古道として残っている道も遠く険しい難路に違いないが、上皇一行が辿った道とすべてが一致しているわけではない。場所によって国道や林道と交わり、すでに廃道になってしまっている道もある。しかし中辺路はここで終わらない。険路はなおつづくのである。
田辺の出立王子を発ち、会津川に沿っていくつかの王子を過ぎて中辺路を進んでいくと、やがて富田川(岩田川)の河畔にある稲葉根王子に着く。水垢離場があり、巡礼者は川の水で身を清めた。
1.滝尻王子は王子のなかでももっとも社格が高く、上皇らはここで歌会や神楽を奉納したという。熊野古道中辺路はいよいよここから難路、険路となる。王子社の裏から一気に尾根まで登る狭く急な坂道は、右に左につづら折りに伸びる。
道の途中に横たわる巨石は山岳修験者たちが再生の儀式に用いたと伝えられる「胎内くぐり」の岩窟。
2.不寝王子跡を過ぎるあたりまでは、急な長い登り坂がつづく。
3.山から山へと尾根道を辿っていくと、高原地帯に出る。ここには古くから集落があり、その氏神が高原熊野神社。境内には楠の大木があり、社殿は室町時代の建築様式を伝え、街道筋でもっとも古い神社建造物。高原霧の里の棚田の向こうには、果無山脈の峰々が連なる。
4.大門王子、十丈王子を過ぎると再び急な坂の登りがつづく。坂が急なゆえに大坂本の名がつく大坂本王子を過ぎると、森閑とした森の中に牛馬に跨がった童子の石像が祀られている。「牛馬童子」は熊野古道のシンボルで、一説では花山法皇の道中の姿だといわれている。
5.継桜王子は「野中の一方杉」で知られ、境内には樹齢1000年を過ぎた杉の巨木が何本も聳え、その巨木には神威を感じる。神仏分離令の際、伐採されようとした巨木を守ったのが南方熊楠であった。
6.発心門王子は要になる五大王子の一つで、ここから先が本宮大社の聖域となり、本宮への入り口。
7.水呑王子を経て伏拝王子。ここから熊野の山並みを通して本宮の森が見える。後白河上皇の「熊野御幸」に同行した藤原定家が「感涙禁じ難し」と語ったとされるのがこの場所だ。王子の傍らには熊野詣途中の和泉式部ゆかりの供養塔がある。
8.中辺路も三軒茶屋跡まで来ると本宮までおよそ小一時間。三軒茶屋で中辺路は、高野山から果無山脈を越えて来る小辺路と合流する。
9.本宮のすぐ裏手にある祓戸(祓所)王子。この場所で長旅の埃や汚れなどを祓い清めたことから祓所[はらいど]と呼ばれている。
10.赤木越の終点である古湯、湯の峰温泉にある「湯峰王子」。巡礼者はここで身を浄める湯垢離とともに疲れを癒した。
現世利益と浄土の熊野三山
那智山から本宮へと戻る大雲取越の古道。標高800mから1000mの熊野の山々を通り「まるで雲を捕らえるごとき」と形容される。
熊野三山とは「本宮、新宮、那智」の三社を指す。熊野本宮大社の創建は社伝によると崇神天皇の時代というから紀元前になる。三山でもっとも古格で、中心的な霊地だ。古くは熊野坐[くまのにいます]神社とも呼ばれ、主神は家津美御子大神[けつみみこのおおかみ](素戔嗚尊[すさのおのみこと])、本地仏は阿弥陀如来。神仏習合でいえば、家津美御子大神が阿弥陀如来として現れた権現で西方浄土を約束している。
熊野詣では、険阻で苦行の道ゆえに道中で衰弱し行き倒れる巡礼者もいたという。それでも人びとは艱難辛苦[かんなんしんく]を覚悟の上で本宮をめざした。熊野三山が人びとの信仰を集めたのは、身分の貴賤、浄不浄を問わず誰をも広く受け入れる平等性と開放性だ。この大らかな精神の根源となっているのが、生命豊かな熊野の自然だともいわれる。三山に参詣すれば苦悩や病は癒え、現世でも来世でも救われる。救済されるなら、人はどのような困難や障害も厭わないものだ。そういう救済への渇望が新宮へと向かわせた。
本宮から先は2つの参詣道がある。熊野川を船で下って新宮に参拝し、海岸に沿って大辺路を進み那智をめざす。一方は中辺路をさらに進んでこれまで以上に起伏の激しい尾根道を辿って那智大社、新宮へと向かう。本宮から那智山までは約40km、中辺路の起点である滝尻王子からすると約80km。しかも行く手には中辺路で最大の難関が待ち受けている。小雲取越[こぐもとりごえ]と、大雲取越[おおぐもとりごえ]だ。その名の通り、雲に手が届くほど山は峻険で道は途方にくれるほどの勾配である。霧が湧き、風が吹く。雨に遭遇すると、急な山道に敷かれた石段は滑りやすく、登るも下るも身の危険さえ感じる。
しかし困難なればこそ、稜線から見渡す熊野灘の海景が劇的なのだ。光輝く熊野灘の彼方には観世音菩薩の不老不死の浄土があるとされている。そして坂を下ると熊野那智大社だ。垂直の断崖に水煙を撒いて流れ落ちる那智の大滝(飛瀧神社)や、原生林に包まれた那智48滝は万物生成の根源となる力だと信仰されてきた。滝そのものに神威があり、古くから修験道の滝行の行場であり霊場である。主神の熊野夫須美大神[ふすみのおおかみ]は「産霊[むすひ]」とも記され、「結ぶ」の意ともいわれている。本地仏である千手観音は補陀洛[ふだらく]浄土、現世利益だ。
新宮は、熊野川の河口近くに鎮座する熊野速玉大社である。社伝では景行天皇の御世、約二千年前の創始とある。速玉大神と夫須美大神のニ神を主神として祀り、薬師如来が本地仏だ。速玉大社の近くにある神倉山の神倉神社には、熊野三所大神が最初に降臨したとされるゴトビキ岩という巨大な岩石が祀られている。ここから新しい宮に祭祀の場所を移したので、速玉大社を「新宮[にいみや]」と呼ぶようになったという。薬師如来は病の平癒のご利益がある。こうして三山への参拝を済ませた後もまだ困難はつづく。来た道を戻るか、海岸沿いに田辺に出るか、いずれにしても道はあまりに遠い。
「蟻の熊野詣」と形容されるほど盛んだった熊野巡礼も、明治の神仏分離によって急速に勢いを失う。しかし時を経て今ふたたび、人びとは世界の遺産である熊野古道の苔むした石畳を、息を切らし、大粒の汗を流して歩きはじめた。
【熊野本宮大社】
熊野本宮大社は「熊野坐神社」ともいう。社伝によると創始は崇神年間。主神は家津美御子大神で、本地仏は阿弥陀如来。
熊野側の中州にある熊野本宮大社の旧社地、大斎原と大鳥居。現在の本宮大社より500mほど離れている。
(左)本宮大社の祈りの護符、「熊野牛玉法印[ごおうほういん]」。熊野権現の神の使いである八咫烏を用いて絵図のように文字が描かれている。御師や先達はこの神札を配って全国を行脚し、熊野信仰を広めた。三山それぞれ烏の数など意匠が異なる。
(右)本宮大社の参道の長い石段。近くを国道が走るが、緑濃い木々の森の中にあり、辺りはしんと静まりかえる。
【熊野那智大社】
熊野那智大社は、古くから修験者の滝修行の聖地だった。平安時代、17才で即位した花山天皇が「千日行」を行ったことでも知られる。神武天皇東征にゆかりの那智大社の主神は熊野夫須美大神で、本地仏は千手観音。
(上・右下)那智大社に向かう途中の大門坂。樹齢800年の杉の巨木が並ぶ間を苔むした石畳の坂道がつづく。傍らには最後の王子となる多富気王子がある。
【熊野速玉大社】
熊野速玉大社は、現在の地に新しく祭祀の場を移したことに因んで「新宮[にいみや]」ともいい、「しんぐう」と呼ばれるようになった。熊野速玉大神と熊野夫須美大神の二神で、本地仏は薬師如来。
樹齢800年といわれる、境内にある梛[なぎ]のご神木。なぎは凪、平穏に通じる。
(右)熊野速玉大社の元宮である神倉神社の鳥居。山上の巨大なゴトビキ岩(ヒキガエルの方言)がご神体で、鳥居の向こうは壁のように迫る538段の急傾斜の石段がつづく。勇壮な火祭りで有名。
熊野那智大社の別宮となる、飛瀧神社のご神体である那智の大滝。落ち口が3つあることから、三筋の滝とも呼ばれる。
那智山青岸渡寺[せいがんとじ]の三重の塔から133mの落差がある那智の大滝を望む。青岸渡寺は、かつては熊野那智大社と一体だったが、明治の廃仏毀釈で独立した。
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