葵の御紋

https://guide.e-ohaka.com/column/ohakamon/tokugawaieyasu/ 【徳川家康 江戸幕府を開いた葵の御紋】

徳川家康の家紋 三つ葉葵(徳川家)

徳川将軍家の家紋は「三つ葉葵」、いわゆる「徳川葵」や「葵の御紋」と呼ばれるものです。これは、徳川家の前身である松平氏が、所領の三河国にある賀茂神社の氏子だったことに由来するそうです。

「葵紋」は京都の賀茂神社の例祭「葵祭」に端を発します。葵は神聖な植物として例祭で用いられ、神社の紋にもなりました。

江戸幕府が成って以降、自家の権威保持に努めた徳川家は「三つ葉葵」の使用を厳しく制限したといいます。

幼少期の人質生活を経て東海の大大名に

徳川家康は、三河国の土豪(その地域に土着している勢力の大きな一族のこと)松平氏のもとに生まれました。

徳川家康

彼の幼少期は、織田氏、今川氏の人質生活に占められており、ここから脱するのは「桶狭間の戦い(1560年)」以後のことです。

当時、今川氏の人質だった家康は、今川義元が織田信長に敗れると、そのくびきから脱し独立を果たしました。

その後、家康は信長と同盟を結び(清洲同盟/1562年)、三河・遠江国と領地を広げていきます。そして「本能寺の変(1582年)」以後は、甲斐・信濃の一部・駿河も領地に加え、大大名となったのです。

清洲同盟は「本能寺の変」で信長が斃れるまでの20年間、続きました。この同盟があったから信長は西進することができ、家康は甲斐国・武田氏や相模国・後北条氏といった東の強敵から領土を守ることができました。両者は背中を守りあった仲ともいえるでしょう。

関ヶ原を制して江戸幕府を開く

信長の後継者となった豊臣秀吉とは「小牧・長久手の戦い(1584年)」で戦火を交えますが、後に臣従。小田原征伐(1590年)の後に、後北条氏の旧領地である関東への転封(領地が変わること)を命じられました。

これは東北を見据えた秀吉が、その抑えとしての期待を家康に向けたためとされます。

関東に移った家康は、難攻不落をほこった小田原城を居城にはしませんでした。後に幕府が開かれ、現代まで続く首都・東京、すなわち江戸にその拠点を置いたのです。

秀吉晩年には五大老(豊臣政権の政務にあたった5人の大名のこと)の筆頭になりました。

そして秀吉没後、前田利家によって抑えられていた家康の台頭や、武断派と文治派の対立といった豊臣政権のわだかまりがあふれ、「関ヶ原の戦い(1600年)」が起こります。

これに勝利した家康は1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。また1615年には豊臣氏を滅亡させ(大坂夏の陣)、日本全国を支配下におきました。

こうして戦乱続きだった100年間に終止符が打たれるとともに、約260年に及ぶ天下泰平・江戸時代の幕が開けたのです。

徳川をレア姓にして価値を高める

家康が姓を「松平」から「徳川」に変えたのは、1566年のことです。これは今川氏からの独立後、三河国を統一した年にあたります。

このとき徳川を名乗ったのは家康一家のみだったそうで、一族のほかの家々は松平のままでした。このことで「徳川家は松平氏の中でも別格」という印象を内外に与えたのです。

さらに、江戸時代には徳川を名乗れる家を将軍家と、家康の血をひく御三家(尾張・紀州・水戸の徳川家)に限りました。しかも、御三家の出身でも分家などは松平を名乗るという念の入れようです。

後には御三卿(田安家・一橋家・清水家)も徳川を名乗れるようになりましたが、ともかく徳川家は家紋同様、姓のネームバリューを高めてその権威の保持に努めたのです。

徳川家康のお墓

徳川家康のお墓は、いくつかあります。家康の遺言により、遺体は駿府の久能山(現在の久能山東照宮)に葬られ、1年後に日光(現在の日光東照宮)に移されました。このことから家康のお墓として、久能山東照宮には「神廟」が、日光東照宮には「奥宮」があります。

日光東照宮の墓

このほか、松平氏の菩提寺である大樹寺(岡崎市)などにもお墓があります。


http://kaneiji.jp/archives/news/10%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97%E3%80%80%EF%BD%9E%E5%A4%A9%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E5%83%A7%E6%AD%A3%E3%81%A8%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89%E5%85%AC%EF%BD%9E-2  【10月のおはなし ~天海大僧正と德川家光公~】 より

10月2日は、東叡山寛永寺を開山された天海大僧正のご命日です。寛永寺では、天海大僧正をお祀りする開山堂(かいさんどう)(両大師)において、一山住職全員で「開山会」を行いその遺徳への報恩を行っています。

天海大僧正は、今でこそ歴史学の研究が進んだことにより108歳のご長命であったことがわかっています。しかし現代から見てもあまりに長寿であったことから、実は豊臣秀吉との天王山の戦いに敗れた明智光秀が生き延びて天海大僧正に変わったのだというとんでもない言い伝えも、どうやらだいぶ信じられていたのです(もちろんこの説は70年以上前に否定されています)。

さて天海大僧正は、德川家康公の精神的支柱として側近となったことから始まり、秀忠公・家光公と、三代にわたって仕えました。特に家光公は家康公を大変に尊敬されていたのですが、その家康公が心を許した天海大僧正がまだ存命であったことから、家光公は天海大僧正をまさに崇拝したのです。このとき天海大僧正は、織田信長公によって焼かれてしまった延暦寺の復興に尽力していました。こうした関係から、延暦寺の根本中堂が現在の形に再建されたのがまさに家光公の時代だったのです。

ところでこうしたお二人の関係をめぐって、天海大僧正が家光公に送った一句が伝わっています。

長命は  粗食(そじき) 正直 日湯(ひゆ) 陀羅尼(だらに)  折々ご下風(かふう)  遊ばさるべし

(長寿の秘決は、ぜいたくな食事をしないこと、正直であること、毎日お風呂に入ること、陀羅尼という仏教の呪文を唱えること、そしてたまには「おなら」をなさることです)

おならと言うとずいぶんおかしな気がしますが、70歳近く年下の将軍に長寿をアドバイスする天海大僧正の人間味が伝わってくるのではないでしょうか。皆さまも日々お忙しいことと思いますが、天海大僧正の一句をたまには思い出して、緊張をほぐしていただければ幸いです。

https://www.zen-essay.com/entry/darani  【陀羅尼とは呪文のようなお経 ~言葉に力が宿る神秘の経文~】より

仏教経典、いわゆる「お経」には、様々な種類のものがある。

それらの多くは仏の教えを文字で記したものであって、いわば仏教を学ぶための教科書のような書物となっている。

漢字の羅列や難解な言葉、古い語体などによって呪文のように聞こえることもあるが、内容に目を向ければ学ぶべき教えがきちんと説かれている。

しかし中には、意味内容よりもお経そのものを唱えることのほうが重視されるような、一風変わったお経もある。

まさに呪文のようなお経だ。

それが陀羅尼(ダラニ)と呼ばれる経典類である。

陀羅尼とは

陀羅尼とは、サンスクリット語の「ダーラニー」という言葉を音訳したもの。

つまい「ダ」と「ラ」と「ニ」の発音をする漢字を当てはめた結果が「陀羅尼」であり、したがって漢字自体には何の意味もない。

単純に発音が似ていたからこの三文字が使われているだけである。

ダーラニーの原意は「記憶する」「忘れない」といったもので、それは当初お経に限られたものではなかった。

暗記や習得といった形で記憶すべきことをダーラニーと呼んでいたのが、やがてそのように覚える一部のお経に対してもダーラニーという言葉が使われるようになり、いつしかダーラニーといえば一部のお経のほうを指すようになっていったと考えられている。

それで、ダーラニーという言葉の意味であるが、これは日本語では「総持」とか「能遮」と意訳されることが多い。

「総持」とは「総て持つ」ということで、ダーラニーの丸暗記という意味を表している。

一方「能遮」とは雑念や妄想を遮断する意味であるが、これは陀羅尼を唱えることで無念無想の境地を保とうとするダーラニーの「目的」を意訳した結果である。

つまり陀羅尼とは暗記した語句を繰り返し繰り返し唱えることで、雑念から離れることを目的としたお経なのである。

陀羅尼,音訳,意訳

陀羅尼の目的と記述内容

陀羅尼の目的は、前述のように繰り返し唱える経文に没頭する点にある。

したがって陀羅尼経典は、その経文の内容に教学的な要素を含める必要がなかった。

仏教を学ぶために存在する経典ではないのである。陀羅尼という経典は。

では陀羅尼経典には何が書かれているのかというと、仏や菩薩を讃歎する言葉や、願いの成就を求めるような言葉が列記されている場合が多い。

仏教の教科書としての経典ではなく、呪文的な経典と表現したほうが陀羅尼経典には相応しいと言われる所以は、ここにある。

陀羅尼とは、読誦すること自体が祈祷のような経典なのだ。

このように、意味を理解することを目的とせず、ただ唱えることに没頭することこそが重要であった陀羅尼経典は、中国に伝わっても意訳されることはなかった。

いや、むしろ意訳すべきではないと考えられた。

意味を訳してしまうと、読んでいるうちに経文の意味が頭に入ってきてしまい、没頭という点から考えて不適切だからである。

だからサンスクリット語のままの発音で、表記だけを漢字に改めるよう音訳された。

あえて意味をわからなくしたのである。

こうなると当然、陀羅尼は聞き慣れない言語で唱える不思議なお経として人々に知られるようになり、その神秘的な音の響きから、呪術的な経文、呪文のような経典であると理解されていった。

そして現代においても陀羅尼は呪術的な経典として位置付けられ、やはりと言うべきか、その意味内容が説かれることはほぼない。

陀羅尼,訳さない理由

不翻の五義

言葉の意味を訳すことなく、もとの発音のままに唱えることが維持された陀羅尼には、言葉自体に力が宿っているのだという考え方がある。

そうした考えの根拠となっているのが、いわゆる「不翻の五義」とよばれる、陀羅尼の意味を訳さない5つの理由である。

不翻の五義とは、具体的には以下の5つをいう。

陀羅尼は、ブッダをはじめ諸仏が話していた言葉そのものであるから、これを真に理解できるのは仏同士だけであり、人知の及ぶところではないから訳すことができない。

原語には多様な意味が含まれており、たとえ1つの言葉であっても多義であるため、何か1つの言葉に訳してしまうと他義を失ってしまう。

陀羅尼には神仏の名前が多く記されており、名前を訳すことはそもそもできない。

陀羅尼には諸仏の神秘の力が宿っているから、訳してしまうとその力が失われる。

陀羅尼を唱えるということは、神仏の力を自身に宿すためであり、ひたすらに唱え続けて加護を得ることに専念すればいい。

以上の「不翻の五義」と呼ばれる、意味を訳してはいけない5つの理由が陀羅尼には存在するため、陀羅尼経典は現代でも古代インド原語の発音のままに唱え続けられているというわけだ。

禅宗でよく唱えられる陀羅尼

陀羅尼という経典の性格を考えたとき、呪術的な経典であるから自力の禅の思想とは相容れないところが多いと、普通は考えられる。

しかし面白いことに、実際には禅宗でも陀羅尼経典はよく読まれている。

たとえば禅・曹洞宗では、陀羅尼経典である『大悲心陀羅尼』を毎日のように読むし、ほかにも『消災妙吉祥陀羅尼』というお経も比較的よく読まれる。

また、施食会でよく読まれる『甘露門』にも陀羅尼が多く登場する。

曹洞宗の大本山である永平寺では、昼の勤行で『仏頂尊勝陀羅尼』が読まれているし、時期によっては『楞厳呪』というお経もよく読まれる。

禅宗であっても、陀羅尼経典は身近なお経として読まれている。

大悲心陀羅尼

最後に、陀羅尼経典として曹洞宗でもっともよく読まれる『大悲心陀羅尼』の全文を掲載しておきたい。

音訳のためだけに綴られた見慣れない漢字の連続と、不思議な発音のルビをご覧いただくだけで、多少なり陀羅尼経典の呪術性が伝わるのではないかと思う。

大悲心陀羅尼(全文)

南無喝囉なむから怛那たんのう 哆羅夜耶と ら やーやー

南無阿唎耶な む お り やー 婆盧羯帝ぼ りょきーちい 爍鉗囉耶し ふ らーやー 菩提薩埵婆耶ふ じ さ と ぼーやー 摩訶薩埵婆耶も こ さ と ぼーやー 摩訶迦盧尼迦耶もーこーきゃーるにきゃーやー 

唵えん 薩皤囉罰曳さー は ら はーえい 數怛那怛寫しゅーたんのうとんしゃー 

南無悉吉利埵伊蒙な む し き りー と い もー 阿唎耶婆盧吉帝お り やー ぼ りょきーちい  室佛囉楞馱婆し ふ らーりんとーぼー 

南無那囉謹墀なーむーのーらーきんじー  醯唎摩訶皤哷きーりーもーこーほーどー 沙咩薩婆しゃーみーさーぼー  阿他豆輸朋おーとうじょーしゅうべん  阿遊孕おーしゅーいん 薩婆薩哷さーぼーさーとー 那摩婆伽のーも-ぼーぎゃー  摩罰特豆もーはーてーちょー  怛姪他とーじーとー 

唵えん 阿婆盧醯おーぼーりょーきー  盧迦帝るーぎゃーちい  迦羅帝きゃーらーちい  夷醯唎いー き り  

摩訶菩提薩埵もーこー ふ じ さーとー  薩婆薩婆さーぼーさーぼー 摩囉摩囉もーらーもーらー  摩醯摩醯もーきーもーきー 唎馱孕りーとーいん  俱盧俱盧くーりょーくーりょー 羯蒙けーもー  度盧度盧とーりょーとーりょー 

罰闍耶帝ほーじゃーやーちい 摩訶罰闍耶帝もーこーほーじゃーやーちい  陀囉陀囉とーらーとーらー  地利尼ち り にー  室佛囉耶し ふ らーやー  遮囉遮囉しゃーろーしゃーろー  摩摩罰摩囉もーもーはーもーらー  穆帝隸ほーちいりー 伊醯伊醯ゆーきーゆーきー  室那室那しーのーしーのー 

阿囉參お ら さん佛囉舍利 ふ ら しゃーりー  罰沙罰參はーざーはーざん  佛囉舍耶 ふ ら しゃーやー  呼盧呼盧摩囉呼盧呼盧醯利くーりょ-くーりょーもーらーくーりょーくーりょーきーりー  娑囉娑囉しゃーろーしゃーろー  悉利悉利しーりーしーりー  蘇嚧蘇嚧すーりょーすーりょー  菩提夜菩提夜ふ じ やーふ じ やー  菩馱夜菩馱夜ふ ど やーふ ど やー  彌帝唎夜みー ち り やー 

那囉謹墀の ら きんじー  地利瑟尼那ち り しゅ に のー  婆夜摩那ほ や も の   娑婆訶そ も こー 

悉陀夜し ど やー  娑婆訶そ も こー 

摩訶悉陀夜も こ し ど やー  娑婆訶そ も こー 

悉陀喻藝し ど ゆーきー  室皤囉夜し ふ らーやー  娑婆訶そ も こー 

那囉謹墀の ら きんじー  娑婆訶そ も こー 

摩囉那囉もーらーのーらー  娑婆訶そ も こー 

悉囉しら僧阿穆佉耶すー お も ぎゃーやー  娑婆訶そ も こー 

娑婆摩訶悉陀夜そ ぼ も こ し ど やー  娑婆訶そ も こー 

者吉囉阿悉陀夜しゃ き らー お し どーやー  娑婆訶そ も こー 

波陀摩羯悉陀夜ほ ど も ぎゃ し ど やー  娑婆訶そ も こー 

那囉謹墀の ら きんじー 皤伽囉耶はーぎゃ ら やー  娑婆訶そ も こー 

摩婆唎勝羯囉耶もー ほ り しんぎゃ ら やー  娑婆訶そ も こー 

南無喝囉怛那哆羅夜耶な む か ら たんのー と ら やーやー 

南無阿唎耶な む お り やー  婆盧吉帝ぼ りょきーちい  爍皤囉耶し ふ らーやー  娑婆訶そ も こー 

悉殿都し て どー  漫哆囉も ど らー 跋陀耶ほ ど やー  娑婆訶そ も こー 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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