言靈の世界

https://www.toibito.com/interview/humanities/philosophy/1526 【言霊の世界【前編】

鎌田 東二】 より

「言霊(ことだま)」という言葉は聞いたことがあっても、それが何を意味するのかまで知っている方はきっと多くないでしょう。宗教哲学をはじめ幅広い領野で研究活動を続ける鎌田東二先生は、実に半世紀にもわたって言霊の魅力に取り憑かれてきたと言います。言霊とは果たして何なのか、私たちはそれを感受できるのか、そして、その先に広がる世界とは……。一般的な意味の伝達やコミュニケーションの道具とは異なる言葉のあり方について、じっくりとお聞きしました。

生命とは何か

――今日は「言霊」とはどういうものかということについて、いろいろお聞きできればと思います。先生は言霊の底流にはアニミズム的な言語観があるとおっしゃっていますね。アニミズムというとふつうは生き物ではない物体や物質に生命を見出すものだと思ってしまうんですが、それだけではなく、風や雷といった自然界の音にまで生命を感じたのが言霊の起源ということになるのでしょうか。

 生命をどう捉えるかというときに、ふつうは有機体的な、つまりある関係性を持って互いにフィードバックし合うような、そして、自己組織化や自己複製といったものを行うことのできる力と構造みたいなものが生命だ、というのが現代の一般的な理解だと思うんですよね。そういうフィジカルな生命観がある一方、さまざまな物がダイナミックに流動してる世界にはフィジカルではないものにも生命があるんじゃないか、というのが古代からの考え方です。

――フィジカルではない、つまり物質的ではない生命もあると。

 言い方を変えると、われわれは二元的に「フィジカルとスピリチュアル」というふうに分けてしまいますけど、そういう分け方ではない、もっと混然一体とした世界の捉え方があったと思うんですよ。

 われわれはコミュニケーションをしますが、今だとコミュニケーションはいくつかの次元に分かれていますよね。バーバルコミュニケーションとノンバーバルコミュニケーションとか、サインのようなコミュニケーションと言語的に分節された世界のコミュニケーション。そこに知性や認識がどう作用するかということを認知科学や心理学、神経科学といった領域でやってるわけです。

 でも、そういう分け方、近現代的な分け方を超えて、われわれの世界の構造というものをもっとざっくりと、あらゆるものが生きている宇宙エネルギーの変容とか流動といったものとして捉える世界観が考えられるんじゃないかと。

――なるほど。

 言語というのは宇宙エネルギーが変容した「花」みたいなものなんですよ。なので、その花を通してすべての生命に通じることができ、力の授受や気の受け応えをすることができる。霊の世界においてもこの世の物質の世界においても、そういう流動性とフィードバックとリサイクルみたいなものが循環している。古代からのこういった世界の捉え方の中に言霊も組み込まれているということだと思います。

――すべてのものは流動的に変化して、互いにコミュニケートし合っていると。

 自己言及し合うというか、リアクションし合っているわけですよ。そういう反応や相互関係性みたいなもののダイナミズムを、われわれはどうしても解析したり分析したりと要素還元的に考えてしまう。ひとつひとつの要素に分解してそのメカニズムを捉えようとするわけですが、そうではなくて、この全体像の中に働いている大いなる力や大いなるエネルギーをそのまま感じ取ることだってできる。すべてはホワイトヘッドが言うように実在でもあり過程でもあるようなものであって、生命的な実在は変容する過程そのものなんです。現象即実在というか。

――言語と生命は別々のものではないと。

 こういう考え方が根底にあって、その一部分がアニミズム的な、私は言語生命観とか言語アニミズムと言っていますけど、そういうふうなものだと思うんですよね。言語は人間だけに特別なものではない。動物も、草木も、石も、存在してるものはみな語る。風も雲も星も。だから、宇宙言語というものがあって、言霊というのはその宇宙言語の日本人的な捉え方の一つだと思います。

解像度

 言霊思想の元になるのは人間がいかにコミュニケーションすることができるか、人間的なコミュニケーションというのはどういう幅を持っているのかという問題だと思うんですよ。宗教が生まれると神の言葉を聞くという体験が語られるようになります。これは神というふうに概念化されていきますけども、要するにわれわれの次元とは異なる世界の言語があるってことですよね。

――そうですね。

 われわれの世界の次元に神の言葉が、何らかのメッセージが入ってきて、われわれの世界の言語に翻訳される。どこかに人間の次元とは異なる次元の世界があり、われわれはそこからの呼び掛けをキャッチしたり、それに応答したりすることができるわけです。

 そのときふつうは神を上にして、草木や土は下に置きますよね。人間がその上にあると思ってるから。でも実際はそうじゃなくて全部同じなんだというのが根本の考えですが、仮に上下の軸を設定したとするなら、上からも下からも声は聞こえてくるよということです。

――草木も石も語るわけですもんね。

 全方位が声、宇宙そのものが声なんだと。そのことを空海は『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』の中で、「五大に皆響き有り、十界に言語を具す、六塵悉く文字なり、法身は是れ実相なり」と表しました。

――宇宙というとどうしても空間的に捉えちゃうんで、音が宇宙ってどういうことだろうって思ってたんですけど、今のお話をお聞きすると、宇宙というのは空間的なものだけではないんですね。

 空間も時間も全部包含しているひとつのものですよね。

――そういうことなんですね。

 空間というとわれわれは1次元なのか、2次元なのか、3次元なのかというふうに言いますよね。1次元が線の世界、2次元が平面、3次元が立体、その3次元に時間の軸を加えて4次元といったところまでがふつうにイメージできるものですけど、数学や物理学ではさらに高次元を構想してるようですから、われわれが今捉えている世界がすべてではない。この世界はわれわれの個々の感覚、いわば解像度によって規定されているわけなので、それをもっと開くか、あるいは変形した場合に世界が違うように見えてくるのは当然だと思うんですよ。

 60年代、70年代のサイケデリックはそれをドラックによってもたらした。われわれの感覚のありようを変容することによって、瞑想もその一つの手法だと思いますが、薬物によって変容させるか、瞑想や滝行によって変容させるかは別として、そこで解像度の変化が生じるわけです。

――解像度という捉え方は面白いですね。

 解像度は子どもから大人になっていくときにも変わると思うんですよね。多少は日々変わってるはずなんです。言霊を感受するというのも、その解像度が開かれてる状態の一つだということになるのでしょうね。

矮小化された世界

 加藤さん(編注:質問者のこと)は視覚と聴覚のどちらがより根源的だと思いますか。

――うーん、ふつうに考えるとやはり目から情報を仕入れているという感覚が強いですね。

 近代の発想では、人間の主体性や理性というものは見るという感覚作用を基軸に成り立ってると考えます。でも私は、それは近代的な偏見だと思う。われわれの感覚による授与というものが何であるかといったときに本当はもっと開かれてるっていうか、多様だと思うんですよ。だけど、私たちはそれを目で見える世界に閉じ込めて、そういう色付けをしてしまっている。そうすると、世界はもうそういうものとしか捉えられない。

――さっきの解像度のお話ともつながってきますね。

 それに対して聴覚、耳によって捉えられる世界というのはより統制がきかないわけです。たとえば寝ているときは目をつぶっているので何も見えないですよね、夢以外は。視覚の世界は目をつぶることで遮断できるけど、耳の世界は遮断できない。猫を見てるとよく分かるけど、ピピピっと反応してますよ。耳の方向がレーダーのアンテナのようにキャッチしている。私たちもそうだと思うんですよね。

 われわれの無意識に深く入り込んでいるのは、小川のせせらぎだったり、小さな風の音であったり、誰かの話し声だったりといったもので、そういった音がわれわれの環境の何かを形作っている。そういう聴覚の世界の方が本当はより深く広く根源的だと思うんですけど、われわれはそれを視覚の世界に矮小化していると思うんです。われわれが視覚的に、あるいは言語的に認識するということは、簡単に言うと、あらゆる事象を矮小化するってことなんですよ。

――わかる形、わかりやすい形に

 縮小してモデル化している。たとえば本当に悲しいとき、「悲しい」という言葉ではその悲しさを表現できませんよね。悲しみっていうのはちょっと形にできないような何か。でも、それを「悲しい」という言葉に置き換えることによって、そこに一つのモデルを作ることになる。巨大に膨れ上がっている感情を、「悲しい」の一語でつなぎ止めてしまう。標本をつくるみたいに。

 すると、やがてその「悲しい」という言葉を、「嬉しい」とか「楽しい」といった他の言語との差異や位置関係の中で理解するようになる。われわれの普通の理解の水準というのは、このように言語によって矮小化された世界を捉えていくということなんです。言語的な捉え方、つまりは認識と視覚的な捉え方が一致している。すべては矮小化された概念の世界になってるわけですよ。

――視覚によって認識できるのは概念化されたものだけであり、それらは言語によって既に矮小化されているというわけですね。

 本当の感受の世界っていうのは、そんな矮小化から離れて成り立っている草木も言問う世界なんだけど、われわれは言語によるフレームを作って、ある意味プロテクトしてるので、そういう見方ができなくなっている。でも、それをある瞬間外すことできれば、草木言問う世界に通じることもできると思うんですね。動物とも、星とも、死者とも会話できる。それなのに、われわれは矮小化された認識世界の次元だけで物事を捉えようとして、その先に行こうとはしない。行かなくても生活できるし。

――確かにそうですね。

 でも、詩人とか芸術家とか宗教家といった人たちはそっちの世界の方に関心があって、ベクトルが向いている。認識世界なんてニセモノだとか、嘘っぱちだとか、少なくとも違和感があるわけですよ。こんなもんじゃないよねって。世界はこんなもんじゃないと思う人が、こういうのが本当じゃないかと表現することで、芸術や宗教といったものが現れるんじゃないですかね。

――詩人も芸術家も宗教家も解像度が高いわけですね。

 だから彼らにとってのリアリティーと世間一般に流通しているリアリティーには違いあるわけですよ。 

詩の言葉

――でも、詩人や宗教家が使う言葉も、言葉は言葉なわけですよね。言葉によって矮小化された世界を、また言葉によって超えようとしているってことですか。

 そこがある種の矛盾というかパラドクシカルな構造をはらむわけですが、言霊も言葉を用いて表現するわけですから、言葉を用いて言葉の矮小化を突破することはできますよね。

――うーん。

 言葉を開くというか、言葉が持っている何かを開くわけです。そのためには、その言葉が用いられる文脈を変えないといけない。あるいは言葉の支点、言葉が持ってるベクトルみたいなものを変える力が必要になってくる。

 たとえば、「空は青い」という文章だとそのままというか、文字通りにしか受け取ることができないけど、これを「空は海だ」というふうに違うものを結び付けたり、「青は無限だ」と別々の事象を重ね合わせたりすることによって、ふつうとは異なる文脈を示すことができる。それによって、「空」とか「青」という言葉の深層を露(あらわ)にすることは不可能ではない。

――ふつうは結び付かない言葉同士を結び付けることで新たな地平というか、新たな世界が開けてくる、みたいなことでしょうか。

 むかし『君のひとみは10000ボルト』っていう歌がありましたよね。たとえばあれも、「君の瞳はかわいいね」「魅力的だね」という一般的な認識の次元を超えて、「10000ボルト」という量的なものを結びつけることで、その瞳が持ってる魅力やエネルギーの作用といったものを表現することに成功してると思うんですよ。

――なるほど。

 瞳が1万ボルトなんてことは科学的にあり得ないし、根拠も何もないわけですけど、そういうものをわれわれは瞬時に理解するじゃないですか。戦後すぐにヒットした『リンゴの唄』に、「リンゴの気持ちはよくわかる」って歌詞がありますよね。

――はい。

 リンゴに心があるということを理性的に考えたら誰も納得しないわけですよ。普通に考えたら。でも、その歌で「リンゴの気持ちはよくわかる」って歌われると、そうだねって思う。「草木言問う」の世界に通じていく。

 子どもの言語表現には意外なものを結びつけるということが割に多いと思いますけど、言葉と言葉、語と語の組み合わせを変えることによって、普段の認識世界のフレームを変形させたり、時には突き崩したりして何とも言えない新鮮さを生み出すということがあると思うんですね。

 宮沢賢治が言うには、詩人が詩として表現するのは、心の中にあるイメージとか言語ではなく、世界全体にたゆたい、発動している力動、エネルギー、ダイナミズムだと。そういうものをキャッチし、自分が変換機になって表現する。だから私は自分で創作したとは言えないと。自分はこの自然界にあるものを受け取っただけなんだ。そういうふうに聞こえるものを、ただその通りに書いたまでだと。

――まさに言霊ですね。

https://www.toibito.com/interview/humanities/philosophy/1535 【言霊の世界【後編】

鎌田 東二】より

本当の透き通った食べ物

 宮沢賢治は1896年に生まれたんですけど、その年には三陸地震がありました。賢治が生まれる前に三陸地震があって、生まれた月にも起こった。そして、彼が亡くなった1933年にまた三陸沖に大きな地震が起こって、津波も発生しています。災害と災害の間に彼は生まれて死んだ。だから災害とか飢饉といった人々の苦難、農民の苦しみ、そういうものをすごく敏感に察知していたと思うんです。

――なるほど。

 賢治は25歳のときに東京に出て来て、「国柱会」という宗教団体で布教師になろうとするけど断られるんですね。それで印刷工場で働きながら詩や童話を書き始めた。それを1924年に出版するんですけど、4月に『春と修羅』、12月に『注文の多い料理店』をそれぞれ1000部自費出版する。

――自費出版だったんですね。

 なぜその年にそういうものを自費出版したかというと、その前年に関東大震災があったんです。1923年の9月1日。そのときには賢治は花巻に戻って農学校の先生をしていたんですけど、東京生活を経験しているので、東京の破壊の度合いや人々の痛みというものがイメージできるわけです。本当に大変なことが起こっていると。このとき彼は「自分はこの世界に何を発信できるのか」っていう思いに駆られたと思うんです。

――それが2冊の本になった。

 そこで語られているのが、さっき言った、ここに書かれているのは自分が創り出したものじゃなくて、星や月や鉄道線といった、いろんなところからもらってきたものだと。自分はもらってきたものをその通り書いたまでなので、自分でもなんでこんなふうなものになったのか分からない。分からないけどそれが本当の透き通った食べ物になることを願うと。これが言霊ですよ。真言ですよ。

――透き通った食べ物というのは?

 宮沢賢治は世界には三種類の食べ物があるというんですね。一つは物質的な、つまりご飯やお肉のような食べ物。われわれはそれを摂取してフィジカルに生きている。二つ目は『春と修羅』の序文で言ってますけど、私たちは風を食べ、美しい朝の日光を飲むことができると。風や日光というのは物質的なご飯ではありませんが、「気」と考えれば理解できますよね。われわれは新鮮な風の気や、日光の気みたいなものを感じることができる。そういう気のレベルの食べ物がある。

――よくわかります。

 三つ目が本当の透き通った食べ物で、これは魂の食べ物だと。本当の食べ物は言葉だというんですね。言葉でも魂に届く言葉でなければならない。詩や童話がそうであると。

 キリスト教でも「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出でし言葉によりて生くるなり」と言っていますよね。神の口から出た言葉、これがキリスト教だと福音になるし、旧約聖書だと預言ということになると思うんです。そういう神の言葉をわれわれはキャッチして、それが生きる糧になっていく。それがあるからこの世界を本当に生きていくことができるし、死ぬときもその言葉を支えにして死んでいくことができる。宮沢賢治は自分の詩や童話が人々の生きる糧となるような、真実の言葉になることを願っていたわけです。

――そしてその言葉は自分が創り出したものではなく、自然界から聞こえてきたものなんですよね。自分はそれを変換しただけだと。その感覚がすごいなって思います。

 芸術家の多くはそういうことを言うと思うんですよ。ユーミンだって、中島みゆきだって、もらってきたとか下りてきたとかって。インスピレーションという言葉があるように、そういうのはやはり向こうから到来してくるものだと思うんです。でも、それをキャッチするためには、自分のフレームを外したり、磨いたりしなきゃいけないから、いつもいつもひらめくとは限りませんけど。

――論語に「述べてつくらず 信じて古を好む」ってありますよね。あれも孔子が自分でつくったのではなく、昔あったことを述べてるだけだっていうことで、今のお話とつながるなって思いました。

 論語で言えば「巧言令色、鮮(すくな)し仁」ですよね。巧言令色というのはわれわれが利害関係に満ち満ちたところでうまく立ち回る言葉、つまりおべんちゃらを話すってこと。そして、自分の利益を上げるように行動するってことじゃないですか。でも、それは本当に語っていることでも聞いていることでもない。そこには仁はないよと。

――耳が痛いです……。

 仁っていうのを言霊と考えれば、そんな言葉に言霊はないと。それはお前が利害関係の中でうまく立ち回るためにしゃべってる状況言語にすぎないから。でも、お前の世界を本当に開いたならば、仁の世界、言霊の世界は開かれるよと。空海であれば「五大に皆響き有り」で、言語は世界に満ち満ちているのだからって言うでしょうね。だから、キリストも孔子も空海も宮沢賢治も、みんな同じようなこと言ってるんじゃないかと思うんですよ。

――自分を開いて言霊をキャッチしろと。

 言葉は誠の言葉を語れよといいます。孔子は孔子なりに誠の言葉を語ろうとした。空海は密教の文脈で誠の言葉を真言としてして語り、宮沢賢治は誠の言葉を童話や心象スケッチとして語ったということだと思うんです。それは現代のシンガー・ソングライターであっても大きくは変わらないとは僕は思っています。

――なるほど。

 ただ、中にはうまく商売するための芸術、「巧言令色」の芸術家も職業家もいますので、その辺はいろいろあるかもしれませんけど。

宇宙言語

 最近AIが人間言語ではない独自言語をつくったじゃないですか。

――そんなニュースがありましたね。

 そしてその言語をプログラムによって人間言語にも翻訳できるようにしたんだそうです。そのしくみがどういうものかは分かりませんけど、AIの言語でもわれわれは翻訳できるんですから、それを拡張すれば、石の言語、虫の言語、星の言語……、いろんな言語を自動翻訳できるんじゃないかって思うんですよね。

 逆に言うと、われわれはどこかに「自動翻訳機」を持ってるはずだと。それを最大限に働かせることができれば、われわれ自身の翻訳能力を高めることができる。空海や宮沢賢治、かつての詩人や思想家といった人たちはそういう翻訳能力を高めた人だと思うんですよ。宇宙言語の。

――なるほど。日本語の五十音だったり、七十五音だったりっていうのも宇宙言語の翻訳の一つだっていうことができるわけですね。

 文化的に固定されたパターンなわけです。

――面白いです。

 日本語なんて一つのパターンにすぎない。言語世界はもっと自在っていうか、多様なものだと僕は思うんですよ。そうじゃないと草木言語なんか成立しない。

――確かに。

 草木言語っていうのは、よく使われる言葉でいうとテレパシーみたいなものだと思うんですね。テレパシーというのは言語を交わすことなく理解し合うということですよね。以心伝心みたいな。もしも心でもって心を伝えることが可能なら、その心が伝わる伝わり方にもやっぱり構造があると思うんですよ。

 AIの開発なんかで認知の研究がさらに進めば、その構造はいずれ解明される可能性もあるんじゃないかと。私は昔から異種間コミュニケーションとか多次元コミュニケーションに関心があるんですけど、言語も異種的に、多次元的に開かれてると思うんです。われわれの次元の言語だけじゃないだろうと。

――日本語とか英語とかっていう次元だけではないってことですね。

 もちろんそれも一つ一つの世界ではあるけれど、それに限定されるものじゃない。日本語や英語っていうのはある一定の認識のパターンなわけです。だから、その認識パターンを外すこともソフト転換することもOSを変えることもできるはずだと思います。

――ということは、まったく新しい言語をつくることもできると。

 ザメンホフがエスペラント語をつくったときに関心を持ったのが、宮沢賢治と出口王仁三郎です。彼らがなぜ世界言語みたいなエスペラント運動に邁進したかというと、言語はもっと宇宙的だという一例をザメンホフが提示してくれたと思ったからでしょう。われわれはいろいろな回路を経ることで、そういう世界言語、宇宙言語の世界に行き付くことができるという思いがあったんだと思います。

――宇宙言語の世界って、何かぞくぞくしますね。

 言語の捉え方自体が彼らにとっては宇宙なんですよ。宮沢賢治も出口王仁三郎も。宇宙は言語で、生命も言語なんですよ。そこに生命と非生命の区別はない。存在世界はすべて、生命・非生命が包含して一体になっている。それを神と言ったり、仏と言ったりしてきたんだと思います。

主語と日本語

――出口王仁三郎の「八意(やごころ)的的言語観」というのもすごく面白いと思いました。一つの言葉で一つの意味を表すのではなく、言葉を重ねていくことで新たな意味の地平を開くっていう。

 詩の手法もそうですよね。掛詞や比喩、メタファー、メトニミー、アナロギア、アナロジー、寓話……。さまざまな方法がありますけど、基本的には重ねですね。重ねやずらし、つながらないもの同士をリンクさせることによって言語的な揺らぎというのか、通常の意味世界に違う補助線を入れて見ることができる。詩人や宗教家は、哲学者もそうだと思うんですが、そういうものの見え方を示すことができると。

――それと比較するとユダヤ・キリスト教の言語観、律法的言語観というのは一義的ということでしょうか。神の言葉は絶対であり、かつ真理は一つなので、言葉の意味も厳格に定義されているというか……。

 図式的にいうとそういうふうに受け取られる一面もあると思うんですけど、私は旧約聖書の神が光あれと言ったら光があったというのも、宇宙と言語が一体化している、根源言語を持ってるという点では、言霊の世界と隔たりがないと思っているんですよ。

 言語と存在世界はひとつながりの中にあるのであって、存在世界の一部分が言語なのではない。言霊の世界、草木言問う世界において言語は存在であり、生命なんです。神が光あれと言ったら光があったというのも、言葉と存在と生命が全部つながってるわけじゃないですか。そういう世界観は洋の東西を問わずあるのではないか思っています。

――なるほど。

 ただ、現実の歴史における言語というのは独自の文化的バイアスを受けて、ヘブライ語になったり、ギリシャ語になったり、日本語になったりして、それぞれの特質を生んできました。たとえば文法構造にしても、主語と述語の関係をはっきりさせなければいけない言語体系と、日本語のように主語、あるいは主体性といったものが不明瞭であっても伝わる言語体系があります。

――日本語は主語がなくても通じるって、よく言いますよね。

 じゃあなぜそうなのかっていったときに、西洋の言語における主語と述語というのは非常にはっきりとした関係で結ばれていると思うんです。律法が正にそうですが、ある種の倫理的な関係というか、「我」がするのか、それとも「汝」がするのかがとても重要。

 それに対して日本では主語がなんであってもいいというか、すべてが主語になりうるわけですよ。八百万(やおよろず)ですから。すべてのものが主語になって語り始め、それをつないでキャッチすることができる。アニミズムといえば正にアニミズム的なものが、そもそも日本語の根本にあるんじゃないでしょうか。

――面白いですね! 日本語は草木や風や星が語るということを前提にしている。私の語ることは私の独創ではなく、それこそ宮沢賢治が言うように、世界が語っていることだと。それならわざわざ「私」と言わないものうなずけます。

 つまり、私という主体が狭くないということだと思うんですね。私が複数的にあるというか、少なくとも私=自我であると思っているわけではない。もっとあいまいで、ゆるくて、入れ替わり可能みたいな。古代人の多くはきっとそういう認識だったんじゃないかと思うんですよね。

――現代の私たちが考えているように確固とした自分がいて、他者がいて、世界があるというのではなく、さまざまなものが混然一体となっていたと。

 混然一体。今だったらそういう言い方になっちゃうでしょうけど、もっと全体を全体として見ると、混然ではなくて整然だったんじゃないですかね。

――整然ですか?

 整然一体。われわれはどうしても言語的に分節して考えるので、異質な要素が混ざって「混然」というふうに見てしまうけど、でも、彼らの世界は僕は混然ではないと思うんですよ。混然ではなくて、全体じゃないでしょうかね。

――なるほど。要素を切り出す分節線がそもそもないわけですもんね。生命も物質も言霊もひとつながりのもとして、全体として存在していたと。

 なのでむしろ整然と、そしてクリアな世界だったんじゃないかと思います。

(2018年11月28日)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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