陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石 ①

http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=76 【陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(4)】より

(4)中国の史書が明かす、邪馬台国=大和国

中国の史書『後漢書』によると、当時の日本「大和」を指して「邪馬臺国」(ヤマト)」と表記していることが確認できる。そしてそこには、南朝宋の范曄(ハンヨウ)によって、次のような注釈がつく。

「按ずるに今、邪馬堆(ヤマタイ)と名づくるは昔の訛りなり」

つまり、「やまと」は昔「やまたい」と訛っていたというのある。

大根(ダイコン⇒デーコ)の発音で触れたように、出雲・尾張訛り(初期標準語?)では、「アイ」を「エー」と発音する。邪馬台国を出雲・尾張の人が発音すると、「やまてーこく」と発音する。大韓民国(テーハミング)は「でーかみんこ」であろうか。

「やまたい」⇒「やまてー」⇒「やまと」。「やまてー」の現標準語(江戸訛り)が「やまたい」と訛ったとも推測できる。「やまと」よりむしろ「やまたい」の方が、現標準語(江戸訛り)に近いということになる。陰陽逆転。

倭民族すなはち大和民族が、「やまたい」と訛っていたのか、日本に来ていた中国の使者が聞き違えたのか、また帰国後に間違って伝わったのかは明らかではない。

いずれにしても、ここで重要なのは、『後漢書』編纂時、少なくとも当時の中国からは、邪馬台国=大和国と認識していたということだ。

邪馬台国が滅んで大和になったとかではなく、そもそも、元来から「ヤマト」(大和国)だったということである。これらの漢字も後世の当て字である。

邪馬台国が謎とされるのは、海外の書物に記録があるにもかかわらず、日本史を記した『記紀』にその明確な記述がないからである。

邪馬台国の記載がある『魏誌・倭人伝』であるが、正式には、項羽と劉邦、諸葛孔明、「四面楚歌」などで有名な『三国志』の中の『東夷伝』のさらに一項目である『倭人』の条を指す。

『三国志』は、3世紀の後半に中国で書かれた史書である。

つまり、「邪馬台国」の時代というのは、映画や小説にもなっている程、明確な記憶が残る『三国志』の時代の歴史であるという事である。既にこの時代は、思い描く以上に、遥かに進んだ文化的な時代の話である。中近東ではこの時代の200年ほど前にイエス・キリストが活躍しており、やはり聖書、映画や小説などで現代まで明確な姿が伝わる。世界的に見ても、「邪馬台国」が謎になっていること自体が不思議な位、文明化された時代の話だということである。この400年ほど後に編纂された『記紀』に僅か400年程前の記載がないこと自体が不思議なのである。『記紀』が自ら語っているように当時、各氏族の間に史書が伝わっていたにも関わらずである。『記紀』が「邪馬台国」を隠匿したであろうということは容易に想像が付く。

 一方で、未だに『魏誌・倭人伝』からは「邪馬台国」の謎は解明できていない。

一体、それは何故なのか。

 改めて、中国の史書『魏志・倭人伝』を検証してみる。

『魏志倭人伝』すなはち、『三国志』東夷伝・倭人の条の資料となっているのは、当時、魏の出先機関があった帯方郡(現在の韓国ソウルの北方)の使者が、何度か「倭人」のいる九州北部あたりに行って、そこの伊都国に滞在したときの報告が主なものである。

 時代は、239年から248年までの9年間である。報告書は帯方郡から魏の首都である洛陽の政府に送られ、そこに保存されていた。

 それらを参考資料として、魚豢(ギョカン)という晋の史官が『魏略』を書いた。そして、その『魏略』を参考文献として、『三国志』の編纂者である、陳寿(チンジュ:?~297年)が「東夷伝」「倭人の条」を書いたのである。

 つまりここで、認識しておかなければならない事は、『魏志倭人伝』の作者である陳寿は、「邪馬台国」へ行ったことがなかったということである。邪馬台国に「尋ねて来て見たわけではない」のである。

前述のように、原典になっている、報告書は、帯方郡にいた使者が40年程前に見聞きしたものである。しかもその使者も、九州北部に滞在していたに過ぎず、邪馬台国の首都や各地を訪ね歩いたのではなかったのだ。

 さらに、現在我々が目にする『三国志』であるが、当然ながら原本ではないということである。現在の本は、刊本の『三国志』としては一番古い、南宋の紹興本(12世紀)に従ったものである。だが、この紹興本がクセモノなのである。

 3世紀に書かれた『倭人伝』の原本はもちろん残っていない。原本から何度も書き写されて伝えられ、12世紀の木版本に至ったものである。その間およそ800年以上。それほどの間には、書き誤りや書き落としがあったものと考えられる。

 刊本としては12世紀の紹興本が最古ではあるのだが、3世紀の原本に近いとは言い難いのである。

 つまり、現在、邪馬台国研究の対象となっている『三国志』東夷伝・倭人の条の記載が、実際に伊都国に9年間滞在していた、帯方郡の使者が見てきた報告書と完全に一致すると考えること自体が間違いの元であるということだ。

 しかも、『魏志倭人伝』の全文は2000字にも足りないほど短いのである。

 さらに、「倭人伝」をよく読むと、あいまな記述が多く具体的な事実を掴みづらいことがある。また所々に文章の通じない箇所もある。一つの文章の次にまったく別な流れの文章が唐突に現れる箇所や、文章と文章との繋がりが不自然な箇所がある。

 そのようなことから、前述の帯方郡の使者の報告書だけでなく、別な資料が混入しているという説もある。そして文章の通じないところや、つながりが不自然な箇所は、筆写するときに文字が脱落したと疑われる箇所もある。代表的な例としては、「以て卑弥呼死す」。主語にあたる章句がないのである。

 色々と述べてきたが、要は『魏志倭人伝』の記載を完全なものと考えていると、邪馬台国の謎はいつになっても解けないということである。

 事実、『魏志・倭人伝』の記述どおりに邪馬台国の場所を求めると、南方の海中に沈んだことになってしまうのである。邪馬台国論争は、九州説にせよ、大和説にせよ、誤字脱字を前提に、自説に都合のいいように解釈し直しているのが実状である。

 このように、『魏志・倭人伝』は決して完全な資料ではないということである。

 「邪馬台国」に近づくには、『魏志・倭人伝』の編纂の経緯を十分に理解した上で、記載事項について明確に事実と判断できるものと、疑わしいものを判別し、参考程度に使うという姿勢が重要になる。

 もうひとつ、重要なことは、「邪馬台国」「卑弥呼」など国名や人名など固有名詞の記載やその発音が事実と全く同じではない可能性が大きいという点である。

報告書を書いた、使者、すなはち外国人の耳に聞こえたものを、自国の当て字で表記したということ、さらにそれを参考資料として書かれたという点を忘れてはならない。例えば、国名が「にっぽん」が「じゃぱん」に「しな」が「ちゃいな」などに変わっ点などからも容易に理解できる。現代のように情報が発達した時代でも似たような事例はいくらでもある。ましてや古代のことである。

さらに、未だに邪馬台国が謎になっている要因でもあるのだが、『魏志倭人伝』の記載を一字一句信じて「邪馬台国」の場所を求めようとすると大変な間違いを犯すということを確認したい。

 『魏志倭人伝』には、帯方郡から女王国(邪馬台国)までの距離は「万二千余里」と記されている。多くの研究者は、まじめにこの距離から邪馬台国の場所を求めようとする。しかし「万二千余里」は中国の直轄ででない国までの距離を意味する観念的数字なのだ。遥かに遠いということを表す数字であって実数でないのである。

 例えば、現存する「万里の長城」の距離が「万里」でないのと同じである。

 実際、おなじ『三国志』「魏志」の「地理誌」「鮮卑伝」には、

「東西は『万二千里』、南北は七千余里」 と記載がある。

「万二千余里」は帯方郡から邪馬台国までの距離と同じ。さらに「七千余里」は都から南朝鮮にある倭の狗邪韓国までの距離と同じだ。

魏の時代の鮮卑は東はシベリアから西は蒙古の端まで、満州を含む広大な領域であったということは事実だ。

地図を見るまでもなく、いかに『三国志』に記載されている距離が実際の距離とかけ離れているかということは、一目瞭然である。繰り返すが、『万二千里』は、実数値ではなく、「遥かに遠い」という意味である。

これらは、『三国志』以外の中国の史書でも確認する事ができる。

『漢書』西域伝に次のような記載がある。

「罽賓国(ケイヒンコク)。王は循鮮城に治す。長安を去る『万二千里』にある。」

「鳥弋山離国(ウヨクヤンリコク)。王は長安を去る『万二千余里』にある。」

「安息国(アンソクコク)。王は番兜城に治す。長安を去る『万一千六百里』にある。」

「大月氏国(ダイゲッシコク)。監氏城に治す。長安を去る『万一千六百里』にある。」

「康居国(コウキョコク)。王は冬に楽越匿地に治し、卑闐城に到る。長安を去る『万二千三百里』にある。」

大苑国(ダイエンコク)。王は貴山城に治す。長安を去る「万二千五百里」にある。

このように端数を四捨五入すると、揃って、約「万二千余里」になる。

これらの国々については、邪馬台国とは違い、現在でも場所を確認することが出来る。

罽賓国はカシミール、鳥弋山離国はパルティアの東のアレキサンドリア、安息国はパルティア(ペルシャ)、大月氏国はバクトリア(アフガニスタン)、康居国はロシアのキルギス、大苑国はフェルガーナ(ロシアのタシケント地方)である。

地図で確認するまでもなく、それぞれの距離はばらばらである。どう計算しても、どう都合よく解釈しても、それらの距離はそろって約「万二千余里」にはならない。

 さらには、『魏志倭人伝』の里数と日数の記載は、実は「陰陽五行説」による数字配分になっているということに気づく。

 陰陽五行説では、1・3・5.7.9が「陽」。2・4・6・8が「陰」。

そして、中国では「陽」の数字が好まれるのである。

 『魏志倭人伝』の記述は、七千里、千里、千里、千里、五百里、百里、百里。

『漢書』「地理志」「五服」の記事にも同様の数字が並ぶ。

 場所についての記載は、行ったことがないので、他の国々と同様に「遠い」という意味のことを縁起の良い数字を並べて記載していた訳である。

『魏志倭人伝』に記載されている距離をまともに信じて邪馬台国の場所をいくら探求しても、それは徒労に終わるということに早く気付かなければならない。多くの研究者が呪縛されている大きな要因の一つである。

中国の史書については、もう一つ明確な事例がある。

『明史』「日本伝」に次のような記載がある。

「日本、故王有り。其の下の関白と称する者、最も尊し。時に山城州の梁(カシラ)信長を以て之と為す。偶々(タマタマ)、猟に出て一人の樹下に臥せるに遇う。驚き起きて突き衝たる、執えて之を詰るに、自ら言いて平秀吉と為し、薩摩州の人の奴なりと。雄健蹻捷(ユウケンキョウショウ)<足が速く、すばしこい>にして、口弁<口が達者>有り。信長、之を悦び、馬を牧令(カワシ)む。名づけて木下の人と曰う」

これに続いて、信長が明智光秀に殺され、秀吉が六十六州を征服して、政権を掌握しさらに、「中国を侵略し朝鮮を滅ぼさんと欲す」と続くのである。

『明史』は中国清の時代、1679年に編纂が始まり1739年に完成した史書である。

これによると、豊臣秀吉は尾張ではなく、薩摩(九州)の家臣だったこと。さらに織田信長はやはり尾張ではなく、山城(京都)の大名だったということになる。

大筋は正しい。しかし、詳細はかなり怪しいということである。特に立地条件においてである。

そもそも、大陸側で認識されていた日本列島の形が次の通りである。

<8.日本地図:混一疆歴代国都之図>

これは、明の時代(1368~1644年)に朝鮮で作成された地図である。

少なくとも、江戸時代に伊能忠敬(1745~1818年)が「大日本海輿地全図」を完成(正確には弟子の高橋影保が完成)して改めるまで、大陸では日本列島はこのような姿として認識していたということである。

中国の史書は、空間軸は怪しいといことに気付かなければならなかった。

『魏志倭人伝』の記載をまともに信じて、邪馬台国の場所を求めようとしても徒労に終わるということである。

今まで数多くの人々が、膨大な時間と労力をつぎ込みながらも、未だに邪馬台国の謎を解き明かせなかった要因の一つである。

『魏志倭人伝』を元に、「邪馬台国の場所」を追求しても、答えは出ないのである。

とはいえ、「魏志倭人伝」の全てがでたらめかというとそうではないはずであるこのような『魏志倭人伝』ではあるが、『明史』の豊臣秀吉の事例のように、それは使いようである。ある程度は史実を反映しているのは確かである。

特に、中国史と重なる部分、例えば邪馬台国の使者が中国を「訪ねた」年やその様子、逆に中国から使者が「たづねてきた」年や様子についてはほぼ真実に近いと思われる。

帯方郡の使者が、伊都国に9年間滞在し、帰国後報告書を出したのは事実であろう。

日本地図を作るのが仕事の目的でなかったはずなので、あちこち計測して回ったとは考えられない。やはり距離に関する記事は報告書に最初からなかったか、曖昧であった可能性が大きい。現代でも、海外出張や海外旅行に行ったからと言って、その国までの距離や位置を明確に報告できる人は殆どいないであろう。

しかし、そこに書かれた、倭国の政治・外交・文化・経済など滞在中に伊都国で見聞きした記事についてはそこから真実が読み取れるものと思われる。

前述のように固有名詞の発音については、注意が必要であるが、『魏志倭人伝』などから事実を見つけ出し、それを参考にすることが重要である。

『魏志倭人伝』など海外の史書は「空間軸は疑わしい」が「時間軸はほぼ信用できる」と言えそうである。

つまり『魏志倭人伝』から「邪馬台国」(ヤマト)」が存在した時代とその様子(歴史)は確認できる。それらを元に、考古学や『記紀』の記載、伝承などを検証すれば、その当時の日本列島を統治していたのは誰かということ、またその都は何処だったかということを解き明かすことが出来るのではないか。

つまり『魏志倭人伝』に記載がある「卑弥呼にあたる人物」と「邪馬台国にあたる国(首都)」を特定できるものと思われる。

 年代については「中国史」とも重なるため、行き来した年などは事実であろう。

よって『魏志倭人伝』に記載されたている時代、つまり、230年頃に「邪馬台国」と表記された国(ヤマト)が日本列島にあり、「卑弥呼」と記載された女王が統治していたということは事実であろう。

 当時の日本の国内事情を把握し、王は誰で、その都がどこにあったのかを割り出せば、かなり高い確率で、その時の王(女王)が卑弥呼、そして伊与で、彼女たちが住んでいた場所が、邪馬台国の都ということになる。

『日本書紀』神功皇后紀に次のような記載がある。

「明帝景初三年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし都に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む~引用「倭人伝」」

『日本書紀』編纂者は『魏志・倭人伝』、つまり「邪馬台国」を知っていたのである。

神功皇后紀に「倭人伝」の一節を引用していることから、『日本書紀の』編纂者は、卑弥呼を神功皇后、そして神功皇后の時代を邪馬台国の時代と考えたという事である。

にも関わらず、『記紀』は「邪馬台国」について、一切明確な説明していない。


http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=77 【陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石】より

⑤卑弥呼は賀茂女(カモメ)だった。 

 『魏志倭人伝』に記載がある、邪馬台国の女王・卑弥呼とはいったい誰だったのか?

古来数多くの方が解明を試みるが、未だに定説に到っておらず、日本古代最大の謎となっている。

卑弥呼の候補者としては、次の3人が有力視されている。

天照大神、『日本書紀』が示唆する神功皇后、そしてヤマトモモソヒメ、である。

 『日本書紀』は、『魏志倭人伝』を神功皇后の条に挿入していることから、この記述をそのまま信じると、卑弥呼=神功皇后となる。そして今もこの説は有力である。

 神功皇后には、武内宿禰(タケウチスクネ)という側近がおり、彼が彼女を補佐したという。確かに、この事実は、倭人伝の記述にあった、卑弥呼を弟が補佐したという記述にも符合する。

 しかし、この『日本書紀』の試みは、海外の史書によって容易に否定される。

『記紀』によると、神功皇后は応神天皇の母とされる。中国の史書『宋書』「倭の五王」の記述によると、応神天王は4世紀に実在したことになる。

また、『日本書紀』によると、神功皇后は新羅に侵攻したという記載がある。その事は、朝鮮史からも事実確認が可能である。

確かに、391年、日本軍は百済・新羅に出兵しており、2国を服従したとする。

そして、これは、朝鮮半島の「好太王碑」によっても、日本軍の朝鮮半島への出兵の事実を確認することができる。ただし、その内容は逆になっており、日本軍は高句麗によって撃退されたことになっているのである。

いずれにせよ、ここで重要なのは、どちらが勝者だったかということではなく、391年に日本軍が朝鮮半島に出兵したということが、日本史と朝鮮史で確認できるということである。

これらの結果、神功皇后は4世紀の人間だったということが判明する。つまり、卑弥呼の時代(3世紀)から1世紀も後の人間であったということである。

よって、『日本書紀』が示唆した、卑弥呼=神功皇后説は崩壊する。

しかしながら、同時に『日本書紀』は、神功皇后に神託を与えたのが事代主だったと記載する。事代主は、賀茂・三輪族系図に登場する人物である。

次に、天照大神=卑弥呼説というのはどうなのか。確かに彼女にもスサノオという弟がいたとされ、やはり、『魏志倭人伝』の記載に符合する。しかし、卑弥呼の時代は、神功皇后からわずか100年遡るに過ぎない。その間、系図上にはあまりに多くの人物が存在する。その間の各天皇が100歳以上の異常な長寿であったという記述を無視したとしても、逆にあまりに短命ということになる。

よって、天照大神を通説のようにスサノオの姉とするのであるなら、この説も却下される。しかしながら、この説にも、賀茂氏・三輪氏の高祖・スサノオが関わる。

最後に、倭百祖姫(ヤマトモモソヒメ)=卑弥呼説である。

実は、『日本書紀』は、「箸墓古墳」(大和国三輪)に埋葬されている人物を、倭百祖姫(ヤマトモモソヒメ)だと記載する。箸墓古墳が卑弥呼で墓であることには既に触れた。

これらから、卑弥呼は倭百祖姫(ヤマトモモソヒメ)であると言う事になる。

このヤマトモモソヒメは、崇拝記に記載があることから、崇神天皇の叔母で、孝霊天皇の娘・ヤマトモモソ姫と目されている。最新の説ではこの説が最有力候補となっているのである。

この孝霊天皇の娘・ヤマトモモソヒメには、吉備津彦という実弟がおり、やはり、『魏志倭人伝』の記述にも符合する。

諸説ある賀茂氏の出自説の中には、孝霊天皇の後裔説や吉備氏=賀茂氏説もある。

 さらに、『日本書紀』の崇神天皇の条などによると、このヤマトモモソ姫は、三輪の大物主の妻であると言う。

同じ『日本書紀』が大物主の子(子孫)が、賀茂・三輪氏、さらに初代神武皇后・姫蹈鞴五十鈴姫と明かしている点については先に触れた。

つまり、卑弥呼の有力候補3女性全員に賀茂・三輪族が絡んでいる事が判明する。

さらに、卑弥呼は陰陽道の元となった道教を扱っていたと推定されるが、後の世でも陰陽家は賀茂氏であったことは事実である。

これらの事から、邪馬台国の女王・卑弥呼は、賀茂女(カモメ)であると推定されるのである。

賀茂・三輪氏の出自についても、邪馬台国同様、古来多くの方が解明を試みながらも未だ定説に到っていなかったという実状には既に触れた通りである。



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