http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=78 【陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(7)】
⑦陶津耳・茅淳耳と大田田根子
大田田根子の出自と三輪の地名起源について、『日本書紀』崇神天皇の条に、前述の大物主の祟りにつての記事につづいて次のような記載がある。
「此の意富多多泥古 (オオタタネコ)と謂(イ)う人を、神の子と知れる所以(ユエ)は、上(カミ)に伝える活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)、其の容姿(カタチ)端正(ウルハ)しかりき。是(ココ)に壮夫(オトコ)有りて、其の形姿(スガタ)威儀(ヨソホヒ)、時に比(タグヒ)無きが、夜半(ヨナカ)の時に忽到(タチマチ)来つ。故、相感(アヒメ)でて共婚(マグハ)ひして共住(スメ)る間に、未だ幾時(イクダ)もあらねば、其の美人(オツメ)妊身(ハラミ)ぬ。ここに父母(チチハハ)其の妊身(ハラ)みし事を怪しみて、其の女(ムスメ)に問ひて臼ひけらく、「汝(ナ)は自然(オノズカ)ら妊みぬ。夫(ヲ)なきに何由(イカニ)か妊身(ハラ)める。」といへば、答えて臼ひけらく、「麗美(ウルワ)しき壮夫(ヲトコ)有りて、其の姓名(カバネ)も知らぬが、夕毎(ヨゴト)に到来て共住める間に、自然(オノズカラ)懐妊(ハラ)みぬ。」といひき。是(ココ)を以ちて其の父母、其の人を知らむと欲(オモ)ひて、其の女にをしえて臼ひけらく、「赤土(ハニ)を床の前に散らし、閉蘇(ヘソ)<此の二字は音を以いよ>紡麻(ヲ)を針に貫きて、其の衣の裾に刺せ。」といひき。故。教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鍵穴より控き通りて出でて、唯遺れる麻は三勾(ミワ)のみなりき。ここに即ち鍵穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、美和(ミワ)山に至りて神の社に留まりき。故。其の神の子とは知りぬ。故。其の麻の三勾(ミワ)遺りしに因りて、其地を名づけて美和(ミワ)と謂ふなり。<此の意意富多多泥古命(オオタタネコノミコト)は、神君(ミワノキミ)、鴨君(カモノキミ)の祖。> 」
これによると、夜毎に陶津耳(スエツミミ)命(ミコト)の女(ムスメ)イクタマヨリヒメのもとを訪れる男の正体を知るため、彼の衣の裾に麻を糸に紡いで環状に巻いた閉蘇紡麻を縫い付けた。翌朝その麻糸を辿って行った所、三輪(美和)山の神の社に留っていたので、オホタタネコが三輪山の神の子であることがわかった、というのである。
大田田根子は、三輪の大物主を祀る大神神社の摂社・大田田根子神社の祭神とっていることが現在でも確認出来る。当社は、三輪の「若宮」と呼ばれる。 <9.三輪神社>
若宮とは、長男(直系の子孫)を意味する。
さらには、記載のように特に「閉蘇紡麻」を「ヘソヲ」読むという注釈が確認できる。これはまるで「臍の緒」を強調しているかの如くである。つまりは、大田田根子の出自について、「へその緒」を辿ると三輪の神・つまり大物主にたどり着くという主張である。
事実、三輪山の神・オオモノヌシの妻がイクタマヨリヒメであり、その子(実際は数代後の子孫)がオオタタネコであること。そして彼が、三輪氏・賀茂氏の祖先だとの記載がある。
つまり、三輪山の大物主神の姓名が三輪氏・賀茂氏であるということを遠まわしに物語っているわけである。このことは、三輪氏系図とも一致し、「三輪・賀茂両氏の系図」の信頼性を裏付けるものである。
名と本質が一体的な存在と考えられていた時代に「三輪」に「神」の漢字をあてていることは、三輪山とその神が並々ならないものであったことを示している。と『三輪山の古代史』著者・平林章二氏は言う。
江戸末期まで庶民の間にまで「神と言えば大物主(三輪)。祭りと言えば賀茂(葵祭り)」というのが当然の事の如く浸透していた所以である。
『新撰姓氏録』大和国神別大神朝臣条にも、次のような記載がある。
大神朝臣。素佐能雄(スサノオ)命の六世孫、大国主の後なり。初め大国主神、三島溝杭耳(ミシマミゾクヒミミ)の女(ムスメ)、玉櫛姫に娶(ミア)ひたまひき。夜の曙(アケ)ぬほどに去(カエ)りまして、来(ミタ)すに曾(サラ)に昼到(キ)まさざりき。是に玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて、苧の随に、尋覔きければ、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山(ミモロヤマ)に指れり。環りて、苧の遺を視れば、唯、三縈(ミワ)のみ有りき。之に因りて姓を大三縈(オホミワ)と号けり。
これによると、大神(オホミワ)朝臣(アソン)は、スサノオの6世孫・大国主の子孫である。大国主は三島溝杭耳(ミシマミゾクヒミミ)の娘・玉櫛(タマクシ)姫と結婚した。夜に来ては明けないうちに帰っていき、昼は来なかった。そこで、玉櫛姫は、苧を紡いで(大国主の)衣に係けた。夜が明けてから、それを辿っていくと、茅渟(チヌ)県の陶(スエ)村を経て、大和の三輪山に至っていた。このため姓を大三輪と称した。という。
さらに『日本書紀』に記載がある、初代天皇神武の大后の出自を伝えた神武記の所伝である。
然れども更に大后(オホサキ)と為む美人を求めたまひし時、大久米命臼しけらく、「此間に媛女有り、是を神の御子と謂ふ。其の神の子と謂ふ所以(ユエ)は、三島溝咋(ミシマミゾクヒ)の女、名は、勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)、其の容姿麗美しかりき。故。美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れる溝より流れ下りて、其の美人の富登<此の二字は音を以いよ。下は此れに效へ>を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎(イススキ)。<此の五字は音を以いよ。>乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)命(ミコト)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と謂う。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。
神武天皇の大后ホトタタライススキヒメ(亦の名はヒメタタライスケヨリヒメ)は、摂津の三島溝咋(ミシマミゾクヒ)の女(ムスメ)セヤタタラヒメと、丹塗矢と化して溝を流れ来た三輪(美和)の大物主神の間に生まれた神の御子である、という。
この、神武皇后の出自と、先に見た大田田根子の出自の記載に、その書き出しと書き収めに共通点が見られ、この二人の人物に何らの共通点があると推定されるという事は既に多くの研究者によって指摘されていた。
つまりは、同族であったということだ。
似たような話がある。『山城国風土記』逸文(『釈日本紀』巻九所引)の賀茂(鴨)氏の所伝がそれである。先に見た、ヤタガラスの移動経路の記載の後次のように続く、
賀茂の健の角身命は、丹波の神野の神伊可古夜日女(カムイカコヤヒメ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ち帰って家の寝床の近くに押して置くと、とうとう身ごもって男の子を産んだ。その子が成人式の時になると、外祖父健角身命は、八尋(ヤヒロ)の〔非常に大きい〕家を造り、八戸〔沢山の扉〕を堅く固めて〔清浄潔斎して〕、八腹〔沢山の酒甕〕に酒を醸造して神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」とするとただちに酒杯を天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで外祖父の名によって可茂の別雷命と名づけた。いわゆる丹塗り矢は乙訓(オトクニ)の郡の社(乙訓神社)においでになる火雷命である。可茂の健角身命と丹波の神伊可古夜日売と玉依日売の三柱の神は、蓼倉(タデクラ)の里の三井(ミヰ)の社においでになる。
三井の社:蓼倉の里。三身(ミミ)とよぶのは、賀茂の健角身命と丹波の伊加古夜日女と玉依日女の三柱の神がおいでになる。それ故に三身の社と名づける。いまは次第に〔訛って〕三井の社というようになった
これによると、山背の賀茂氏の祖神・賀茂建角身(カモタケツヌミ)命<ヤタガラス:下鴨神社の神>と丹波国神野の伊可古夜日女(イカコヤヒメ)<兵庫県氷上町の延喜式内神野神社の神>の間に生まれた玉依日売が「石川の瀬見の小川に川遊びせし時」丹塗矢と化して流れ来た乙訓郡の火雷神と無結ばれて生まれたのが可茂別雷命(カモワケイカヅチ)<上賀茂神社の神>であるという。さらに三柱は彼三名の三身(みみ)であり、三身(みみ)が訛って三井(ミヰ)になったという。
それと重要なのは、母方の苗字を名乗ったという事実である。父系ではなく、母系の暗号なのか。陰陽逆転である。
さらに『日本書紀』の神武天皇の大后の出自について、二つの記載がある。
神武紀第八段一書(アルフミ)第六によると、
此、大三輪の神なり。此の神の子は、即ち廿茂君(カモノキミ)等、大三輪君(オホミワキミ)等、又姫蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)命なり。また曰はく、事代主神、八尋熊鰐(ヤヒロワニ)に化為りて、三嶋の溝樴姫(ミゾクヒヒメ)を生みたまふ。是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。
と二つの説を併記する。ただ、神武即位前紀には、
事代主神、三嶋溝橛(ミシマミゾクヒミミ)神の女玉櫛媛に共して生める児を、号けて媛蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)命と曰す。
とあって『日本書紀』は事代神系とするのを正説としている。
これらの記載により、通説には、「初代天皇・神武の皇后・ヒメタタライスズヒメは、大物主系とする説と、事代主系という説の二説がある」とし、特に、事代主系を正説としている。
さらに神武天皇の皇后の出自についても、母系は明確だが、父系は三輪の神(大物主)系とする『古事記』の説と、事代主神系だと伝える『日本書紀』の2説があるとする。確かに二人の人物が出てきているのだが、少なくとも、事代主も大物主も、三輪・賀茂両氏の祖先である。つまり二つの系統ではなく、どちらも同じ系統だということである。大物主と事代主は、先祖と子孫の関係にあったことを示しているということだ。
このように母系だけでなく、父系も明確なのである。
これらから、理解しなければならないのは、今まで見てきたように、同じ人物に多くの名があること。また使われている漢字は当て字であり、あえて様々な字が使われていること。若干の音にも変化(なまり)があるとうことである。
要は、沢山の説や話があるのではなく、同じ話、即ち同じ人物のことを指していると言うことに気付かなければならない。
さらには、このオオモノヌシと、事代主は同一人物であった事が、判明する。
『記紀』は神武皇后の出自や、賀茂・三輪氏の出自を曖昧にしようとする意図が働いている点にも気付かなければ為らない。その点を踏まえないと『記紀』の術中にはまるのである。
さらに、母系、つまり三嶋の神についてである。
大阪府高槻市三島江に三嶋鴨神社がある。ここは淀川水系で山背と結ばれており、賀茂一族が住居していたことが確認されている。この三嶋の地を含む大阪府北部(豊中市、茨木市、吹田市)からは、多数の陶器窯跡が発見されている。そして、大阪府南部(和泉市、堺市)の陶邑を中心とする地と同様に須恵器製造地であり、陶器製造者集団が存在した。
そして、三嶋鴨神社の祭神は大山積と事代主。大三島(愛媛県)の大三島神社、三島市(静岡県)の三島大社も大山積と事代主を祭る同じ神社である。
三嶋溝杭耳も三嶋溝杭(大阪府高槻市)という地の首長を意味していたのであり、大山積も山のように偉大な首長という美称であったのである。
つまり、祭神は、ヤタガラスと大物主である。
いずれの呼び名も、ヤタガラス・賀茂武角身(賀茂族の猛々しい首長)のことだったのである。
ヤタガラス=賀茂武角身=大山積=三嶋溝杭耳。
要するに、『古事記』の所伝である、三輪山の大物主の神婚伝承は山背の賀茂氏の影響。『日本書紀』の所伝である事代主の伝承は葛城の賀茂氏の影響を受けたモノである。
ところが、『山城国風土記』逸文が伝えるように、山城の賀茂氏は、大和葛城の賀茂氏が移住したもので、両者は同族である。
これらを『記紀』編纂者がたくみに使って、話を複雑にさせたと考えられる。
さらに、陶津耳(スエツミミ)は武茅淳祗(タケチヌツミ)のことであるという注釈がある。これは、三輪氏系図に記載されていた、陶津耳のまたの名が賀茂健角身という注釈と符合する。
通説は、これらを人名つまり固有名詞とする。しかし、陶津耳は「陶の首長」という意味である。また茅淳津耳は「茅淳の首長」を意味する。つまり「茅淳県陶邑の首長」という、同じ人物を指しているのである。この茅淳県陶邑は、今の大阪市の堺市から和泉市あたりの地域である。わかりやすいように、茅淳県を大阪府、陶邑を堺市として考えてみると容易に理解できると思う。堺市は大阪府の中にある。大阪府に居る首長。堺市に居る首長。同一人物のことである。
賀茂本社といわれる、葛城・高鴨神社は、賀茂大神・アジスキタカヒコネ=賀茂武角身であると明かす。さらに賀茂県主・系図にはアジスキタカヒコネ、亦の名を大山積と記載される。
つまりは、ヤタガラス=陶津耳=天日方奇日方タケチヌツミ=賀茂武角身=三嶋溝杭耳=大山積=アジスキタカヒコネ=賀茂大神(土佐大神)など等。
さらに『記紀』神武東遷の条で登場する「頭八咫烏」は原文では「八咫(ヤタ)」を「やあた」と読みませている。つまり「八幡(やはた)」との関係も示唆される。八幡神社の本社・宇佐大社(大分県)の宮司は元は大神氏(オホミワシ)であったという。さらに辛島氏(カラシマ)(韓島)氏を経て、現在の宇佐氏に至るという。新羅との関係が指摘されている神社である。
八幡神社の祭神・八幡大神。彼もまたヤタガラス・賀茂健角身であると推定される。
<10.賀茂神社(広島県竹原市):賀茂殿・八幡殿>
『記紀』には、大国主には多くの名があったと記載される。さらに後世、豊臣秀吉なども多くの名があったことは衆知の通りである。日吉丸、木下藤吉郎、羽柴秀吉、関白、太閤...そして猿。
ヤタガラスにも多くの呼び名、多くは地名の首長が当てられていたのである。そして少なくともその多くの地名は彼の宮があったか、少なくとも勢力圏内であったことが推測される。
後章で詳しく述べるが、安倍清明の母の出身地であると伝えられる、葛葉神社は陶津(大阪府和泉市から堺市)のエリア内に存在する。また、大阪府西部から兵庫県南部にかけての地域は江戸時代までは、摂津国(セッツ)と呼ばれていた。陶津「スエツ」が音便化したものと思われる。三島溝杭もまた、摂津国のエリア内である。
さらにこの摂津国の東に山城国(京都)、そして西には播磨国(ハリマノクニ)(兵庫県)に隣接する。播磨国は後世の陰陽師の本拠地である。
ついでながら、『風土記』に記載がある、三嶋の地についての伝承にも触れておく。
『播磨国風土記』揖保郡大田里の条には、呉の勝(スグリ)が韓国(カラクニ)より渡来し、最初に紀伊国名草郡の大田村に到り、その後分かれて揖保郡三嶋賀美(上)郡の大田村に移住し、それがさらに分かれて揖保郡大田村に遷った、という。
ここに出てくる大田の地はいずれも産銅(鉄)地であり、大田という地名は帰化人、渡来人とされる氏族に関係が深く、国内の主要道路に位置し、背後に鉱山を控えているものが非常に多いという。10年間秦氏の研究を続けている、三神たける氏によると、秦氏周辺には賀茂族の居住が確認され、多くの場合、近隣に大田の地名が確認される事例が多いということをその著『八咫鳥』で明かしている。
摂津の大田(現在の大阪府茨木市大田)は淀川と併流する安威川の上流にあり、三島ミゾクヒの地の北方に当たる。『神名帳』摂津国(セッツ)嶋下郡には大田神社があり、三嶋鴨神社、溝咋神社(ミゾクヒ)に続いて記録されている。
また、『伊予国風土記』逸文には、乎知郡(オチ)御嶋(ミシマ)に坐す(イマス)<三嶋在住の>大山積神の記録として、愛媛県大三島の大山祗神社(オホヤマツミ)の由来を明かす。
それによると、大山積神(別名・和多志大神(ワタシノオホカミ))は仁徳天皇の御世、百済国から渡来し、摂津の御嶋(ミシマ)に鎮座し、再び伊与の御嶋(ミシマ)に移り住んだという。
現在の、大三島神社は、全国の三島神社1万社の総本社になっているという。
http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=79 【陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(8)-1】 より
⑧ヤタガラスの娘・タマヨリヒメが卑弥呼だった!
さて、ヤマトモモソヒメという女性の出自であるが、通説では、孝霊天皇の皇女とされる。これは、孝霊紀に、孝霊天皇と倭国香姫(亦名は絚某姉(ハヘイロネ))の間の所生と記載されていることに拠る。
その妹によく似た名の倭迹迹稚屋姫(ヤマトトワカヤヒメ)命(孝霊紀には倭飛羽矢若矢比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ))という記載もあるが、孝霊紀は孝霊天皇と、意富夜麻登玖迩阿礼比売(オホヤマトクニアレヒメ)命の間に夜麻登登母母曾毘売(ヤマトトモモソヒメ)命が生まれたとする。崇神紀の記事Dの倭迹迹姫速神浅茅原目妙姫との異同の問題もあるが、孝元紀に孝元天皇と穂積氏の祖の鬱色謎(ウツシコメ)命との間に倭迹迹姫が生まれたとあるのは、本居宣長の『古事記伝』にあるように異伝のひとつである。
要は、このように、ヤマトモモソヒメの出自は非常に不安定で曖昧にされているということである。
孝霊天皇にしても、孝元天皇にしても、大物主の時代と大きく離れており、同じ時代ではありえない。つまり、通説では説明がつかないということだ。
さらに崇神天皇や大田田根子と大物主の時代も合わない。
しかし、この点については大田田根子の出自についての記載で、『古事記』には「大物主神、陶津耳の女、活玉依姫を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見の子、建甕槌(タケミカヅチ)の子」とあって、オオタタネコが大物主の子ではなく、実際は数代後の子孫であったことを示唆している。
このことは三輪氏系図にも一致し、これが事実であろう。そして、賀茂氏系図の7代が消されていたのも、この点を隠すためであったものと思われる。
つまり、『日本書紀』編纂者は、時間軸を歪める手法で、実際は大物主の数代後の子孫であるオオタタネコを大物主の子にして、卑弥呼の可能性がある箸墓古墳の時代を崇神天皇の時代にしようと意図したことが判明する。そして、崇神天皇の伯母に当たるヤマトモモソ姫を卑弥呼に比定しようとしたのである。
崇神天皇は、ハツクニシラス天皇の称号があり、彼こそが、初代天皇だったという説も最近では強まっている。その叔母が卑弥呼であれば、母またはその周辺の女性が伊与で、その後、崇神天皇が、伊与の後を継いで王となったということも十分に考えられる。ということにしたかったわけである。
今まで確認してきたように、賀茂健角身と卑弥呼の出自を封印する為、様々な手法が用いられていた事が判明した。時間軸の操作を目的とした、賀茂系図の書けた7代、そして大物主の数代後の子孫である大田田根子を大物主の子する記載。
そして、『記紀』崇神記の大物主、大田田根子の記載と、箸墓伝承の記載が意図的に離して複雑にしたこと。さらに同一人物に多くの名や漢字を当てて話を複雑にしたことなどである。
しかし、『記紀』は同時に謎を解き明かす暗号を用意していた。「大国主には5つの名があった」という記載である。さらに、「一書(あるふみ)に伝わる」として多くの鍵を残しているのである。
これら『記紀』に加え、賀茂氏・三輪氏関係氏族の系図、伝承、そして関係神社の記録や伝承にも、謎を解き明かす為の多くの暗号や鍵が残されていたのである。
これらを駆使すると、複雑に見えた記載が一つの事実を物語っていたことが判明する。
もう一度整理すると、次のようになる。
ヤタガラス=賀茂健角身<『山城国風土記』、賀茂社記録などより>
賀茂健角身=味鋤高彦根。<高鴨神社伝承などより>
味鋤高彦根=大山杭。<三輪氏系図より>
三島大山杭耳=三嶋大山積。<三嶋鴨神社他より>
陶津耳(陶村の首長)=賀茂健角身。<賀茂県主系図一説>
陶津耳=奇日方天日方健茅淳祇(クシヒカタアマヒカタ・タケ・チヌミ)<『日本書紀』一書より>
よって、ヤタガラス=賀茂健角身=味鋤高彦根=大山杭=三島大山杭=三嶋大山積=陶津耳=奇日方天日方健茅淳祇。
奇日方天日方健茅淳祇(クシヒカタアマヒカタ・タケ・チヌミ)は、奇日方天日方(美称・出身?)猛々しい(美称)茅淳県(地名)の首長<みみ>。そして賀茂健角身(カモのタケルのツヌミ)は、賀茂族の猛々しい(美称)茅淳県(地名)の首長<みみ>
三嶋大山積は、三嶋(地名)の偉大な(美称)首長<つみみ>、
道教の奥義とも言える「一にして多。多にして一」つまり、一人であるが、多くの呼び名があった。そして多くの名があるが一人の事であった。
このように、多くは、人名・固有名詞ではなく、同一人物に対する呼び名であったのだ。
さらに現時点ではあくまで推定であるが、少名日子名(スクナヒコナ)=少名彦根(スクナヒコネ)=大汝少名彦根(オオナムチスクナヒコネ)<播磨国風土記より>=高彦根(タカヒコネ)=味鋤高彦根(アジスキタカヒコネ)=ヤタガラス
ヤタガラスの封印が解き明かされる。
ということは、その他の登場人物、大物主と玉依姫・卑弥呼も、大国主やヤタガラスと同様に、多くの名(呼び名)で称された同一人物と推定できる。
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