道教と日本思想 ⑥

http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店  より

 『古事記』序文の「混元」

 『古事記』の序文は、元明天皇の和銅5年(712)に書かれていますが、元正天皇の養老4年(720)に成ったという『日本書紀』の書き初めの部分とともに、これまでの学者もすでに指摘していることですが、まったく中国の神仙道教の哲学を下敷きにして書かれています。

 たとえば『古事記』の序文を見ますと、「それ混元すでに凝(こ)り」と、しょっぱなからこういう記述が出てくる。「混元」という言葉は、「天皇」「真人」「紫宮」と関連して、2世紀、後漢の中ごろの天文学者であり、思想家であり、文学者でもある張衡という人の文章のなかにすでに見えています(「混元という言葉と同じ意味である「渾元」という言葉は、もう少し早く、2世紀初めの班固の文章あたりから見えています)。

 ところが、この「混元」という言葉の神仙道教の哲学における重要性についてさえ、今まではほとんど注目されていません。近ごろの『古事記』の注釈書などを見ても、通り一遍の説明しか加えられていません。しかし、この言葉は、中国の思想史ではたいへん重要な意味をもつのです。本来は『老子』の宇宙生成論から出たもので、それが西暦紀元前後の段階では『易』の宇宙生成論とも結びつけられて、『老子』の哲学と『易』の哲学とのコンバインされた、後の道教の宗教哲学の基礎理論をなす形而上学を生み、その形而上学の基軸をなす言葉が、この「混元」なのです。

 ちなみに道教の宗教哲学では、「混元」とは、「事を混沌の前に記すなり」、「道は混然として是れ元気を生ず。元気成りて然る後に太極有り。太極は則ち天地の父母、道の奥なり」「(陶弘景『真譜』)などというように使われています。『古事記』の序の文章が、道教のこの「混元」という言葉をふまえていることは、まったく疑いの余地がありません。

神仙道教と書紀・祝詞

 『日本書紀』の場合も同じです。そこで使われているのは、前2世紀に書かれた道家の文献『淮南子(えなんじ)』です。

 儒家の文献『論語』や『孟子』と違って、『淮南子』は最初からこの世界がどうしてできたのか、天地の開闢はどのようにして行なわれたのか、といったようなことを問題にし、また説明しています。この世界が初めに何であったのか、この世界はいったいどうして始まったのかというようなことを初めて問題として提起したのは、中国の思想史では、老荘道家の哲学です。それをうけて『潅南子』もまた、この世界の始まりを問題にしているわけです。-そういった書物の記述を下敷きにして、重要なところでは、たとえば「元気」という言葉を「混元」と言いかえるとか、そういう作業で、『古事記』の序文や『日本書紀』の神代の巻が書かれていることは間違いないし、おそらくそれを書いたのは、当時帰化人とよばれていた一群のインテリであったと推測されます。そして、初めにも申しました、天武天皇の神仙道教に対する関心と、記紀のこのような記述との間にも密接な関連を考えていいように思います。

 つぎに記紀と関連して、日本古代の「祝詞」のなかにも、なまなましい形で中国古代の神仙道教の痕跡が見られます。これはおそらくではなく、確実な事実として、渡来人によって日本に持ちこまれてきて、宮廷の儀式のなかで呪術宗教的な役割を果たしています。すなわち『延喜式』に載せる「東西(やまとかわち)の文(ふみ)の忌寸部(いみきべ)の横刀(たち)を献(たてまつ)る時の呪(じゅ)」がそれです。

 「謹みて皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方の諸神、司命と司籍、左は東王父、右は西王母、五方の五帝、四時の四気を請い、捧ぐるに禄人を以てし、禍災を除かんことを請う。捧ぐるに金刀を以てし、帝祚を延ばさんことを請う。呪して曰く、東は扶桑に至り・西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千の城、百の国、精(よ)く治まること萬歳、萬歳萬歳なれ」

 全文をかかげました『延喜式』の祝詞の文章は、完全に中国の神仙道教です。朝鮮からもってこられた道教の呪文の言葉を、6月と12月の大祓の儀式のときに、東西文部の渡来人たちがやるというのが面白いと思います。そして、このことは、中国古代の神仙道教的なものが、どういうコースで日本へはいってきたかということを、具体的に示しているものと見られますが、天皇と真人の問題を考える場合にも重要な意味をもつものです。

神道-中国と日本

 神道を日本の専売特許のように強調したのは、江戸末期の平田篤胤です。篤胤という人は、中国古代の神道について実によく研究している。その目的は、先にも申しました記紀の神代の巻における日本の神道をもっと深く学問的に研究したいということでスタートしたものだと思います。ところが、八世紀の段階で、文字化された記紀の内容を文字を媒介にして学問的に研究しようということになれば、どうしても中国のもとのものを学ばなければ研究にならないわけです。

-しかし、篤胤の神道についての結論は逆だちしている。日本の神道が中国に行ったというのが彼の結論なんです。

道教研究の欠落部分

 近江朝廷で大陸の学問文化を全面的に日本にもち込むという時、つまり7世紀の後半ですが、他の点ではすべて唐の制度を真似したのに、老荘道家の哲学および道教だけは厳しく切って捨てられています。

 しかも、その切って捨てられた理由は、「玄」すなわち老荘の思想および道教が、「独善を以て宗と為し、愛敬の心無く、父を棄て君に背くもの」(『経国集』に載せる葛井広成の対策文)だからというのです。律令体制の基軸は、家族道徳を中心にした国家の統治組織、つまり儒教の忠孝の教えですから、家では父、国では君の絶対的な権威が保証されないような学術思想は困る、そこで全面的に切って捨てられた。

 そういう事情もあって、それ以後の日本で重んじられた中国学は、儒教経学の学問、律令体制の路線に乗る学術だけが、主流を占めてきたわけです。

もう一つの中国思想史

 -この墨子の考え方が、先ほどから説明してきました中国古代の神道の思想の一番基軸をなすものです。墨子の思想こそ中国における"神(かん)ながらの道"であり、"神ながらの道"の教、すなわち「道教」という言葉を中国の古代文献で一番最初に使っているのも墨子です。

 しかも墨子は、-上帝をトップにおいて、墨子の"義"の実践の指導者「鉅子(きょし)」を網の目の結び目に配する「尚同(しょうどう)」の理想社会を構想するわけです。

 そして全宇宙を天の上帝の世界と現実の人間世界とその中間の鬼神の世界との三つに分ける、いわゆる三部世界構造-後の道教の世界観の原型をなすもの-を説いたのも、この墨子です。

 墨子のこのような宗教思想は、漢の武帝の思想的ブレーンとなった董仲舒の天人感応(災異祥瑞)の思想に採り入れられ、さらにそれを「神道」「神呪」として呪術宗教化した『太平経』の思想として展開し、その教えにもとつく張角の太平道の宗教一揆が後漢の末期に起きてくる(本書の巻末に戴せる「略年表」を参照)。

 それからすぐ引きつづいて張角の太平道の教法と類似する張陵、張衡、張魯のいわゆる三張道教、5世紀における寇謙之を天師とする北魏の道教、六世紀における陶弘景を天師とす

 茅山(現在の南京市の遠郊)の道教と、大きく括れば、中国古代の神道が、神を肯定する思想の流れとして展開し、唐代における道教の黄金時代へと注ぎ込んでゆくわけです。

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