道教と日本思想 ⑤

http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店  より

神道と「三玄(易・老・荘)」の学

 神道の概念が変化していくというのは主として中国仏教と、その教理を大幅にとりいれていく道教においてですけれども、魏晋の時代の中国仏教のうち、いわゆる義解(ぎげ)仏教、つまり一種のアカデミズム仏教学ですが、この義解仏教の教理解釈の根底にあるのは、「二玄の学」すなわち『易経』と『老子』の哲学であります。のちには『荘子』の哲学が加わって、三玄の学となりますけれども、

 この三玄の学は漢訳仏典にもとづく仏教教理の理解、解釈、教理形成を行なっていく場合のテコの役割を果たしています。

 道教はもちろんですけれども、仏教の教理解釈においても『易経』と老荘の哲学がベースに置かれ、『易経』の「神道」という概念が宗教的な真理の世界一般を意味して仏教でも使われるようになる。ちなみに17世紀以後、キリスト教が中国に入ってくると、キリスト教でもまたみずからの教えを神道と呼んでいます。

 このことは魏晋仏教だけにかぎらず、のちの随唐仏教でも事情は同じです。そこでは易と老子と荘子、いわゆる三玄の学が中国仏教の教理解釈学の根底におかれています-

 しかし、ここで最後に注意しなければならないのは、中国古代の神道として、『易経』もしくは『易経』と『老子』の哲学をその教理・教義の根底にもつ第二層の儒教礼典の国家的な宗教、あるいは、中国民族宗教としての教理と対比するとき、その後の儀礼と教団組織を整えた第四層の道教も、みずからを神道であって鬼道ではないとしばしば強調しながらも、そのように主張する教義や儒教礼典の国家的な宗教の底辺部に、依然として、根強く鬼道をかかえこんでいるという歴史的な事実であります。

 それからまた、中国仏教でさえも、時々みずからを神道として強調しているにもかかわらず、やはりその底辺部に鬼道をかかえこまざるを得なかったという歴史的な事実であります。すなわち、中国という歴史的、風土的な限定をもつ社会で仏陀の真理を説き、信者を獲得しようとすれば、どうしてもその底辺部には、道教や儒教礼典の国家的な宗教ほどではないにしても、また、その仕方も違っていますが、土着的な鬼道をだきこまざるを得なかったという事情が考えられることです。

 つまり、中国仏教も、高僧伝だとか名僧伝だとかに記されている仏教のあり方は別として、現実の庶民社会に行なわれている中国仏教の底辺部は、鬼道すなわち土着的な呪術宗教と密接に結びついている。また儒教礼典の国家的な宗教も、民族宗教としての道教も、インドから伝来してきてその体質を変えた中国仏教も、それぞれに神道としての宗教哲学的な性格と、鬼道としての呪術信仰的な性格を上下の重なりの層としてもっている。ですから私たち研究者としても、そのことを見落としてはいけないのではないかということです。

仏教一辺倒の日本古代宗教思想の研究

 とかくこれまでの日本古代の宗教思想史研究というのは、先ほども申しましたように、国学の系統の皇国史観の立場から抜けきらぬものが多かった。もしくは仏教一辺倒の宗教思想史研究であり、日本古代の宗教思想を仏教だけで理解し解釈しようとする傾向が強かった。そして、日本に朝鮮から渡ってきた仏教が、実は漢訳された中国仏教であり、中国的に体質を変えられたインドの仏教であることの認識もきわめて薄弱であった。また同じくもとは中国の仏教であっても、朝鮮や日本に伝えられた仏教が、中国の高僧伝や名僧伝のたぐいに載せられているような純粋度の高い仏教ばかりでは必ずしもなく、大部分は、中国土着の呪術宗教的な思想信仰と習合された、多分に道教的臭味をもつ中国の底辺部もしくは辺境部の仏教であった事情も、十分に考慮されなければならない。

Ⅲ 天皇と真人-天皇概念の来た道

はじめに

宇宙の最高神「天皇」

 中国古代の天皇(てんこう)でありますが、この天皇は中国の秦・漢のころから梁・陳のころまで、日本で申しますと、だいたい弥生期から古墳期、西暦紀元前300年ごろから紀元後600年ごろまでの間、宇宙の最高神とされていた天上世界の神さまの名前であります。宇宙の最高支配者という意味で天皇大帝とよばれることもあります。

「真人」の意味

 西暦前4世紀ごろに活躍した荘周という哲学者がいまして、この哲学者の言行を記した『荘子』という書物が現在も伝えられています。この書物のなかに人生と世界の根源的な真理、それを荘周の哲学では"道(タオ)"とよぶわけですが、この"道"の根源的な真理を体得した人を「真人」とよんでいます。この真人は、荘周の哲学のなかで「神人」とよばれていることもあります。また「至人」とよばれることもあります。

 神人というのは、現実には人間でありながら神のような境地にある人、つまりアキッカミ(明神)です。至人というのは、最高の人間、絶対的な人格をもつ人という意味ですが、このような「神人」「至人」とセットにされて、西暦前4世紀のころ、日本でいえば、縄文期の終りから弥生期の初めのころにかけて、真人という言葉が中国の古代で使われています。

 真人は最初のころは、このように中国古代の哲学で使われた哲学的な概念・用語だったわけですが、西暦後2世紀ごろの後漢の時代、つまり日本の弥生期の後半あたりから、宗教的な意味で使われ始めました。現存する文献で確かめられるのは、だいたい、紀元後140年代ぐらい、後漢の王朝の半ば、順帝のころからです。どういう意味で宗教的に使われるようになるかと言いますと、先ほど申しました天上世界の最高神、天皇の宮廷に側近として仕える神の世界の高級官僚というふうに変わってゆきます。

 ちなみに中国の古代で、文献資料のうえでは西暦前4世紀のころから、全宇宙空間を三つの世界、つまり天上の神々の世界と現実のわれわれの住んでいる地上の世界、および死者の世界という三つに分ける考え方が確立されてきます。その三つの世界のなかの天上世界の最高神がやがて天皇大帝とよばれるようになるわけですが、この天皇大帝すなわち天皇は、地上の世界の帝王と同じように天上世界に宮殿をもち、地上の世界、死者の世界をも支配すると考えられるようになります。

 中国人の宗教思想では、天上世界はすべて地上の人間世界の相似形として考えますから、地上の人間世界に帝王がいて、その帝王が立派な宮殿に住んでいるように、天上世界にも立派な宮殿があって、金銀珠玉で飾られ、天皇大帝はそこに住んでいると考えられる。その宮殿に高級官僚として仕えているのが真人であるというわけです。

 それからまた天上世界で天皇大帝に仕える官僚となるために修行している人、つまり仙道の修行者ということになりますが、その修行者をもまた真人とよぶことになってきます。

「天皇大帝」の変遷

 天皇大帝と申しますのは、もともと北辰の星、すなわち北極星を神格化したものです。だいたい、紀元前3世紀、中国の戦国時代の終りごろから発達してくる星占術的な天文学のなかで、天体観測の最高基準になる北極星が神格化されて天皇大帝が出現してきます。そして紀元6世紀の後半-日本の古代の古墳期の終りごろ-までは、宇宙の最高神としての座を占めますが、道教の最高神として元始天尊が出現しますと、その地位を新しい最高神である元始天尊に譲るようになります。

 道教の最高神としての元始天尊は、もともと老子もしくは老子の説く"道(タオ)"の真理を後に神格化したものです。老子は本来は哲学者なんですね。現在、私たちが読むことのできる『老子』という書物には、老子を神さまに見たてたり、神さまとして祀るといったような記述は全く見あたりません。あくまで人生哲学、処世の知恵を説いた一種の哲学書です。-宗教書としての性格は本来は全くもっていないわけです。

 ところが、この老子が紀元後2世紀、後漢の桓帝の時代になりますと、神さまとして祀られるようになってくる。そして神さまとして祀られる老子は「老君」とよばれます。さらにこの老君は格上げされて「太上老君」、「元始天王」、「元始天尊」とよばれるようになる。

 「元始天王」というのは、世界を始めた王さま、世界の始まりからいた帝王という意味であり、「元始天尊」というのは、仏教の「世尊」「釈尊」「天尊」を真似た言い方です。元始天尊とよぼれる道教の最高神が出現するのは、私の考証によれば、だいたい6世紀の後半あたりからです。この元始天尊は一名を玉皇、玉皇大帝とも言いますが、以後、1949年の社会主義革命の前まで、歴代の中国人によってもっとも信仰された道教の最高神であったわけです。

 元始天尊が6世紀の後半ごろ道教の最高神として出現しますと、それまでの最高神「天皇大帝」は格下げになります。

 ついでに申しますと、天皇大帝が宇宙の最高神として中国社会で一般的に公認されるまでには、つぎのような事情がありました。中国の古代文献で最初に出てくる最高神は、昊天上帝(皇天上帝)で、中国最古の詩集である『詩経』(『書経』)などに見えます。

 ところが先ほど申しましたように、戦国時代から漢代にかけて星占術的な天文学のなかから北極星を神格化した宇宙の最高神「天皇大帝」が出てきますと、もともと生まれの違う二種の最高神「昊天上帝」と「天皇大帝」を一体化しようとする動きがでてくる。

 最高神が二つもあるのはおかしいというのが主な理由でしょうが、しかし儒教の経典である『詩経』などにれっきとした記載のある昊天上帝の存在を抹殺するわけにはゆかず、さりとて現実の社会に強い勢力をもつ天皇大帝の信仰を無視するわけにもゆかない。そこで昊天上帝は天皇大帝とイコールだという解釈が儒教の学問をする学者から出てくる。紀元後2世紀の後半の学者鄭玄がそれです。

 中国の国家を統治する帝王の政治は、漢代以後、儒教を統治の原理とし、その儒教の経典には宇宙の最高神として昊天上帝が記載されており、その昊天上帝を帝王が祀るということは国家祭祀の礼の規定(『周礼』)にも記載されている。そこで鄭玄によって天皇大帝は儒教の昊天上帝と同じ神格であると解釈されるわけですが、この解釈は宇宙の最高神としての天皇大帝の地位を公認することにもなるわけです。

 このようにして天皇大帝は昊天上帝と並んで、宗教的な信仰の対象としては天皇大帝、帝王の行なう国家祭祀(儒教の礼典)の対象としては昊天上帝、時には帝王もまた、天皇大帝を祀って6世紀の半ばごろまでくるわけです。そして六世紀の後半に、上に述べたような元始天尊が出現しますと、天皇大帝は格下げされて、元始天尊の下位におかれることになります。そうなりますと天皇大帝というのは、世界の全部ではなくて、東のほう、つまり日本の方向ですが、その地域を部分的に支配する神さまであるというような解釈も行なわれるようになる(この解釈は元始天尊の出現と関連して、もう少し古く遡ることも考えられます)。また7世紀、唐の時代には、生身の天子が生前に天皇(死後は諡として天皇大帝)の称号を用いるという事態も起こってきます。もちろんその天子(唐の高宗)は熱烈な道教の信仰者でありました。

日本古代史における「天皇」

 日本の古代史で、天皇という二字の漢字が使われ始めるのは、すでに述べましたように法隆寺金堂の薬師像の光背の銘文、つまり推古天皇のころからではないかと言われていますが、真人という言葉も、この天皇という称号と密接な関係をもって日本の古代史のなかでやや遅れて用いられてきます。

 たとえば、『古事記』、『日本書紀』の編纂の基礎を作ったといわれる天武天皇の諡(おくりな)のなかに見られる真人(まひと)がそれです。諡というのがもともと中国風のもので、日本でそれを真似たわけですが、天武天皇の場合も中国風の諡がおくられています。『日本書紀』によりますと、「天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」というのがそれであり、真人(しんじん)をマヒトと読ませています。そしてこの真人が中国からきたものであることは、その上の字の瀛(おき)ではっきりします。

 濠という字は司馬遷の『史記』始皇本紀によりますと、西暦前三世紀の終りごろから仙人の住む海中の三神山の一つとされています。三神山というのは蓬莱(ほうらい)と方丈と瀛(えい)州ですが、この三つの仙人の住む海中の山は、中国からいって東のほう、つまり日本の方向の大海原のなかにあるとされています。徐市(じょふつ)という人が秦の始皇帝の命を受けて童男女数千人を引きつれ、この海中の三神山に仙人を探し求めたという話は、徐市の墓が日本にあるという話とともに有名ですが、この三神山の一つである濠州に住む真人という意味で、天武天皇の死後に「瀛真人」という諡がおくられているのです。

-即位されて13年目に、これまでの豪族を中央集権的な支配組織のなかに組み込むために「八色の姓(やくさかばね)」というものを制定されますが、その最上位におかれているのが「真人」です。「八色の姓」とは、真人、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)ですが、真人はその最上位におかれて、しかもこの姓(かばね)を与えられるのは皇族です。

-この「八色の姓」の最上位を占める真人も、-中国の神仙道教における真人-天上の神仙世界の元首である天皇の宮廷で最上位を占める真人からきていることは確実だと思われます。

 それからまた、『日本書紀』の天武紀に見える伊勢神宮の祭りの「神宮」とか、「斎宮」とかいう言葉も、中国では古く道教的な文献に見えているものです。また、神宮を内宮と外宮に分けることも陶弘景の茅山(ぼうざん)道教などで古くから行なわれています。

中国古代の「神道」概念

 「天皇と真人」を中心とする天上の神仙世界を理想として説く道教のことを、中国で古くから神道とよびます。神道というと、日本だけのもののように考える方が多いと思いますが、実は中国のほうがはるかに古いのです。中国の神道もまた日本のいわゆる神道と同じように、仏教が伝わる以前の中国固有の民族信仰、土俗的な呪術、宗教などを教理・儀礼の主軸としたものです。外来の宗教である仏教を強く意識しながら、それに対抗する民族固有のものとして強調される点も日本の神道と共通した性格をもっています。この中国の神道が、神道という言葉を用いて、はっきりした主張を神の教えとしてととのえてくるのが、真人の概念の宗教化と同じく2世紀の中ごろから3世紀の前半-日本の弥生期の終りごろ-です。

皇位の璽(しるし)、鏡・剣をめぐって

 鏡もしくは剣を、物を写すとか人を斬るとかいった実際的な用途以上に神秘なもの、宗教的な霊力をもつものとする考え方は、中国で非常に古くから成立しています。文献資料で確認されるものだけでも前4世紀ぐらいまでは遡ります。そして鏡それ自体を神秘なものとし、それを帝王権力のシンボルとする考え方も、また剣を同じように帝王権力のシンボルとする考え方も、前2世紀の前漢のころから顕著になってきます。ただし、こういった資料や記述は、儒教の経典のなかには、ほとんど見られません。むしろ儒教が抹殺していった神秘な思想、宗教的な世界に関する文献資料のなかに多く見えるわけです。

 鏡と剣は天上の帝王の権威権力のシンボルであると同時に地上の帝王の権威権力のシンボルでもある。地上の帝王は天上の帝王の命令委託を受けて地上の世界の支配者となっているのであるから、天上の帝王の権威権力を象徴する鏡と剣は、同時に地上の帝王の権威権力の象徴でもあるというのがその論理で、唐の王朝の帝王の権力の神聖性を、道教の宗教哲学で根拠づけるという役割をも果たしているわけです。

紫という色

 日本では古くから紫色が尊重され、紫色が現在に至るまで皇室の色とされています。古いところでは、たとえば『日本書紀』の孝徳天皇の大化3年(647)のところを見ますと、この年、七色十三階の冠位を定め、上位の官吏は深紫色の服を着るというように規定されています。

 つまり紫色を天皇と結びつけることも、もとはといえば中国からきたものであり、中国古代の神仙道教的な宗教思想と密接な関連をもっていると考えられます。

 と言いますのは、中国の正統的な思想である儒教では、たとえば『論語』のなかに「紫の朱を奪うを悪(にく)む」という孔子の言葉が見えていますように、間色である紫を反価値的な色と見るわけです。したがって本来的な儒家の価値観では、紫は賎しい色であり、紫衣は卑俗な服であり、非礼の服であるとされます。

 これに対して、中国の古代で紫色を好んだのは、神仙道教と風土的にも密接な関係をもつ斉(せい)の国すなわち今の山東省の地域であり、紫色を宗教的な神秘性をもつ色として重んじたのは、黄老道家の学者たちや神仙讖緯(しんい)の思想家たちなのです。

 なお、地上の帝王の宮殿をも、また紫宮・紫微宮になぞらえることは前漢の終りごろから文学作品などに多く見られるようになり、5世紀、北魏の時代には、現実に地上の帝王の宮殿を紫宮とよんでいます。その北魏の帝王たちは、熱烈な道教の信者であり、道教の国家的な保護者でありました。要するに天皇を紫と結びつける信仰もしくは思想も、中国にそのオリジンがあり、ないしは中国から伝わってきたものと見ることができると思います。

「大和」について

 私が「大和(やまと)」という日本の国号が、中国の神仙道教と関係をもつのではないかと考えるようになったのは、「大和」という二字の漢字がきっかけです。大和という二字の漢字があてられている「ヤマト」は、ヤマのト、すなわち山の入口の意味だろうと思いますが、その意味とおそらくまったく関係のないと思われる二字の漢字、大和があてられているわけです。そして「大和」という漢語は、中国の古代では、「神道」という漢語、「天皇」「真人」という漢語などと一連のものとして、神仙道教の宗教哲学のなかできわめて重要な意味をもつ言葉です。

 すなわち、中国古代の神仙道教の宗教哲学では、先ほどから申し上げてきましたように、宇宙の最高神である天皇、天皇大帝が、高級官僚である真人を側近におき、天上世界の紫の宮に住んでいる。その天上世界は、地上の人間の世界のような争いや乱れや苦しみや悲しみが超克されていて永遠に平和な世界である、「大和」の世界であると説きます。と同時に、そこは清く明らかである、清明であると強調します。

 また『老子』のなかでは"道(タオ)"を和として捉え、「沖気以て和を為す」とか、「和を知るを常という」などと言っている。また『荘子』のなかでも「道」は「四時を調和し、万物を大和す」と言い、宇宙次元でのバラソスを「大和」として考えている。

 「大和」という言葉と思想は、中国古代の文献資料では、このように確実なんですが、日本でヤマトに「大和」という二字の漢字をあてる場合はどうかという問題が残ります。中国の古代文献で日本国もしくは日本人をよぶ場合には、すべて「倭」という漢字を使っている。「倭」というのは醜いとかせむしとかいう意味で、かなり軽蔑の念の含まれている言葉です。

 日本だって中国から頭をなでられてうれしがっている時期もやがて過ぎ、次第に民族的なプライドもでき国内事情も安定してくると、今までの「倭」を新しく「和」にあらため、しかも単なる和ではなく偉大な和であるということで、「大和」という漢字を用いるようになったのではないでしょうか。はじめは、ヤマト朝廷を中心とする部分的な地名として用いられていたものが、やがてヤマト朝廷の勢力の拡大にしたがって、日本国ぜんたいをよぶ言葉になったという事情も考えられます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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