はがくれや時を彩る桜の実

はがくれや時を彩る桜の実  五島高資

Fruits of cherry

coloring their own times

under the leaves    Taka Goto


https://arbos.typepad.jp/non_tanto/2014/05/%E6%A1%9C%E3%81%AE%E5%AE%9F.html 【桜の実】 より

桜が話題の季節はいくつかある。

もちろん、花が咲くとき、花が散るとき、他に比べるものがないほど日本人を惹き付ける。

紅葉も美しいし、新緑も見事。

そして今は、たくさんの桜の実が可愛い季節。 鳥の鳴き声が賑やかになる。

桜の実は、言うまでもなく「さくらんぼ」ではない。 それは桜の実。

サクランボは「桜桃の実」。

花ガ咲いたら実が出来る。 桜の花が咲いたら桜の実が出来る。

「桜の実前線」というものがあって、それも日本列島を北上しているのだろうか。


一本の木に7色の実・・・時を彩る桜の実 から連想するのは伝道の書 

そして「その時」は隠されている(はがくれや)と言えるのでしょうか?


http://www.restart-woman.com/essay/essay_2003-11.html 【伝道の書 第三章 「旧約聖書より」】より

天が下のすべて事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

働く者はその労することにより、なんの益を得るか。わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを始めから終わりまで見きわめることはできない。

私は信者ではない。しかし、今までこの「伝道の書」以上の詩文に出会ったことはない。

若い頃は、仮に定められた運命があったとしても、人間の能力で切り開くことが出来ると自負していた。

余分な言葉で人を傷つけ「その時を計らなかった」自分の至らなさを責めたこともあった。

しかし、最近では、「こんな事もわかっていなかった」自分に対して、今だからやっと気づいたのだと思う。

人と出会い、人と別れる・・・全ての計らいにも時があるのだと納得する。

人を責めず、実りなく自分も責めない。そうずると、不思議とストレスもたまらない。

毎日のストレスは翌日までも持ち越さない。これも生きる知恵の1つかもしれない。


http://www.okabem.com/essay/chapel1.pdf 【すべてのことには時がある】より

コヘレトの言葉

何事においても最もふさわしい時期があり この世の中のすべてのことには時がある。

生まれる時があれば、死ぬ時がある。植える時があれば、植えたものを引き抜く時がある。

殺す時があれば、癒す時がある。壊す時があれば、建てる時がある。

泣く時があれば、笑う時がある。嘆く時があれば、踊る時がある。

石を投げる時があれば、石を集める時がある。抱擁する時があれば、抱擁をやめる時がある。

探す時があれば、探すのをあきらめる時がある。取り置く時があれば、捨て去る時がある。

引き裂く時があれば、縫い合わせる時がある。沈黙を保つ時があれば、口に出して言う時がある。

愛する時があれば、憎む時がある。戦う時があれば、平和の時がある。

(旧約聖書「コヘレトの言葉」第三章一節-八節。岡部改訳)

本日わたくしが取り上げたいのは、旧約聖書の中にある「コヘレトの言葉」です。コヘレ

トとは、ヘブライ語で伝道者の意味であり、このため聖書のこの部分はかつて「伝道者の書」と称されたこともあります。ここでは、先ほどの朗読にあったとおり、人間の人生を通しての行動ないし活動が十四対(ペア)の表現によって見事な対句をなす詩となっています。いずれのペアもその一方は積極的、肯定的で明るい側面を述べており、これに対してもう一方は消極的、否定的で暗い側面を述べて両者を対比させています。

果たして、これらは何を言わんとしているのでしょうか。一つ明らかなことは、人生は単

に喜びや幸せが継続することだけによって成り立つのではなく、それらと正反対の現象が常

に繰り返されることによって成り立っていることが示唆されています。生があれば死があり、幸せがあれば不幸がある。そして喜びがあれば悲しみがあり、平和があれば戦争がある、という具合です。

つまり、そのことを一層高い視点から捉えると、私たち人間を超えた大きな力(Higher

Power)が私たち人間の働きすべてを支配している、したがってその大きな力の命ずるところ

に従って生きるのが人間の責務である、という意味に受け取ることができます。事実、コヘ

レトの言葉は多くの学者によって従来からこうした理解がなされてきています。

これに対して、多少異なった角度からとらえることもでき、現にそれを主張する見方も少

なくないように思います。すなわち、これらの言葉は、人生の意義や生き方をより具体的に

示したものであり、それらに関して民族や時代を超えた知恵の結晶に他ならない、という捉

え方です。

もう七ー八年前のことになりますが、私は英国オックスフォード大学に滞在して半年間、

研究生活を送る機会がありました。その時に、はじめてこれらの言葉に接し、何と美しい対

句表現であることか、と感銘を受けました。日本語の標準訳ではややごつごつとしたぶっき

らぼうな表現になっていますが、英語ではリズムを重視した流麗な表現になるよう工夫され

ていることも強く印象に残りました(なお冒頭に掲げたのは一般に引用される新共同訳では

なく岡部改訳です)。そして何よりも、これらの言葉には人生への深い洞察があり、究極的な真理が何と鋭く指摘されていることかと私は強い衝撃を受け、感動したことを思い出します。

英語の聖書から冒頭部分を引用すればこのようになっています。すなわち「For everything

there is a season, and a time for every matter under heaven」です。つまり「何事にお

いても season があり、この世の中のすべてのことには time (時)がある」と表現されてい

ます。ここで season というのは直訳すれば「季節」ですが、ここでの season という意味はどのようなものでしょうか。それを信頼のおける英語辞書に頼りつつ深く探って私なりに的確に表わすならば、それは「季節」というよりも「最もふさわしい時期」という日本語で表現することができるように思います。つまり、すべての活動には season(最もふさわしい時期)がある、と述べているのです。

とすると、それぞれのことがらについてそうした時期は果たしていつ、なのでしょうか。そ

れは、私たちを超えた大きな力によって定められている場合もあれば、そうではなくて、私

たち自身が判断しなければならない場合もある、というのがこの教えだと思います。そこで

本日は、私自身の経験を二つお話することによってこうしたメッセージを皆さんにお伝えし

たいと思います。

私の二つの体験

私の第一の経験は、いまの皆さんがそうであるように私の大学時代についてです。私の学生時代は、様々な勉強をすることを第一に考えていました。いわば学生にとっては「よく勉強することこそが仕事である」と考えていたわけです。確かに英会話クラブの活動、あるいは国内旅行のほか、家庭教師のアルバイトなどもやっていましたが、やはり勉強が一番重要だと考えていました。なぜなら、大学時代は人生に二度とない自由な四年間であるので、この時期にしか出来ないこと(つまり非常に広い意味での勉強)にそれを使おうと考えていたからです。また当時、私は将来国際的に活躍したいという思いも持っていましたが、常日頃からアメリカの大学生は猛烈に勉強するということを聞かされていたので、彼らと競争できる力をつけていかなければならないと考えていたことも、私の生活を勉強第一に向かわせる要因でした。そして、本を読むことにもずいぶん時間を費やしました。こうした勉強を仲間とともにすること通じて、幸いにも多くの仲間や友人を作ることができました。

コヘレトの言葉になぞらえていえば、人生においては「勉強する時があれば、気ままな生活をする時もある」というわけであり、私は大学時代を「勉強する時」と位置づけてそれを私なりに実行したわけです。

私の第二の経験として述べたいことは、それよりもずっと後、私が大学を卒業してから二〇年以上も経った一九九一年のこと(今から十七年前のこと)です。それに至るまでのことを多少述べておきますと、私は大学卒業後、ただちに日本銀行というところ(皆さんの財布の中に入っている千円札や一万円札を発行している公的機関)に就職しました。そこでは日本経済の現状を判断するとか、その先行きを予測するなどの仕事、さらにはその基礎となる理論的ないし実証的研究などをもっぱら仕事としていました。

そうした経験があったため、一九九一年当時はアメリカの大学(東部にあるプリンストン大学)に招かれ、その教壇にたって日本経済論の講義を担当していました。そして、いよいよ日本に帰国する日のことに思いをはせていたところ、突然オーストラリアの旧知の学者から電話がありました。彼の話は次のようなものでした。「オーストラリアの国際都市シドニーのある大学(マックオーリー大学という州立大学)にこのたび日本経済研究所が設立された。

そしてその研究所長に就くべき人が国際的に募集されている。その適任者としてあなたを推薦しておいたので是非その任務を引き受けてほしい」というのです。私にとっては全く寝耳に水のような話でした。

果たしてこの話を引き受けるべきかどうか色々と悩み、また紆余曲折もありましたが、私は結局この仕事を引き受けました。これまでの地球の北半球での生活から、初めて経験する南半球での生活へと一転したわけです。そして約二年間、その仕事をわたしなりに全力で取り組み、その職務に要請される成果を挙げることができたと自分では考えています。

再びコヘレトの言葉になぞらえていえば、人生においては「拒む時があれば、引き受ける時もある」ということになります。

二つの体験からの教訓

この二つの体験は、わたくしに大きな教えを与えるものでした。当初は、大学時代の勉強であれ、突然降ってきたオーストラリアにおける仕事であれ、私は自分自身でその時々にふさわしい判断を下してそれを実行した、と考えて何ら疑いを持ちませんでした。つまり、これらの場面での対応は、すべて自分が自分の力によって行った、と理解していたわけです。

しかしその後、年月が経過するにつれて、そうした理解は小さな一面だけしか捉えていないことに次第に気づいてきました。

大学時代に勉強第一の生活ができたのは、単に私だけの力によるものでは決してなかったことを、次第に、そして確実に認識するようになったのです。つまり、大学においては、私に目を開かせるような授業を受ける機会に恵まれたこと、お互いに切磋琢磨する友人がいたこと、静かに勉強できる下宿にめぐり会えたこと、そして両親からは学費や生活費に心配しないだけの仕送りを受けたことなど、いかに多くの恵み(blessing)があったかに気づいてきたわけです。それまで私が自分だけの判断によってすべて取り運んできたと考えていたことは、実はこうした多くの恵みの中ではじめて実現できたことが本当に分かってきたのです。

自分の恥をさらけだすような話ですが、これが事実です。言い方を換えれば、私が大学時代にこのように行動をする「時」それができる「時」、すなわちそのように定められた「時」を持つことになったのは、人間を超える大きな力の采配によってである、と今では考えてい

ます。

また、オーストラリアの大学で日本経済研究所を立ち上げるというチャレンジングな任務に就くことになったのは、自分の経験と力量が評価された結果にほかならない、と当初は考えていました。しかし、ここにおいても、そのような一面的理解よりも、むしろ様々な大きな恵みを受けたからこそ新しい任務を引き受けるという一つの「時」が私に訪れた、と考えるほうが、真実に迫った理解であると確信するようになりました。

すなわち、私の経済や金融に関する知識はもとより、物事を整理して理解する方法や文章の書き方などは日本銀行の先輩や同僚と仕事をする中で長年はぐくんでいただいたものに他ならず、また、組織運営の方法を身につけることができたのも、同様に多くの先輩から仕事を通してそれを私の骨肉にしていただけたことでした。そして、日本銀行では国内および海外の研究者と直接接触する仕事に就けたからこそ、彼らから多くの知恵と先端的問題意識をもらうことができたこともこの上ない恵みでした。さらに、アメリカの大学で私の講義を聴いてくれた学生が頻繁に多くの本質的な質問をしてくれることによって、私は物事をより深く考える機会が与えられたことも大きな恵みであったことに次第に気づきました。そして、新しい任務に就く直接の契機となったのは、何の利害関係もなかった旧知のオーストラリアの学者が私を新しいポストに推薦してくれたからに他なりませんでした。

まさに私がオーストラリアにおいて新しいステップに踏み出すことが、何とすべて、私を離れた大きな力のもとに準備されてきていたことかと驚かざるをえないのです。自分の力と判断だけで新しい道が拓けていった、という当初の理解が何と一面的なものであったことかと知り、愕然とした次第です。

メッセージ

こうした私の体験をもとに、私は皆さんへ二つのメッセージを述べたいと思います。一つは、やはり「勉強するには時がある」ということです。大学時代の四年間は、知識吸収力の大きさ、頭脳の柔軟さ、感受性のみずみずしさなど、人生のどの時期と比べても可能性と成長性に富んでいます。また、新しい友人に出会い、利害関係のない友達関係を将来にわたってつくることができる機会でもあります。このような時は大学を卒業すれば決して二度と訪れることはないのです。そのことを忘れず、大学時代は様々なことを貪欲に勉強し、また友人の輪を広げてほしい。ここでいう勉強とは、単に知識を増やしたり世の中の仕組みを理解するというだけでなく、時を経ても変わることのない価値とは何か、私たちが生きることの本当の意味は何か、などを追求することを含むものです。

そして第二には、今学期のチャペルアワーの統一テーマでもありますが、皆さんにとってそのように定められた時がいかに大きな「恵み」に満ちたものであるかも改めて認識してほしいと思います。高台の森の中にあるこの美しいキャンパス、清掃の行き届いた清潔な校舎および教室、人間の生き方について静かに考えることのできるこのチャペル、そして皆さんの教育に熱意を傾けている教員やスタッフなど、挙げればきりがありません。

勉強するには時があります。それはまさに大学の四年間であり、それ以上にふさわしい時

はありません。そして、それを可能にするために皆さんの環境がどんなに恵みに満ちたもの

になっているか、そのために私たちを超えた大きな力が働いているかを意識してほしいと思

います。

私自身も、皆さんと同様、この恵みに満ちた環境において、今がまさに自分の責務を果た

す「時」であることを忘れずに進んで行きたいと考えています。

(「チャペルアワー」における奨励の言葉、於明治学院大学横浜キャンパス・チャペル、

二〇〇八年十一月七日)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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