ありがとう、ありがとう

Facebook・相田 公弘さん投稿記事 涙が止まらない 「ありがとう、ありがとう」

 一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。  そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。次に生まれた弟が二歳のときです。  ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。

 「お兄ちゃんなんてバカじゃないか」

 お母さんは、はっとしました。それだけは言ってほしくなかった言葉だったからです。そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。  ―――弟にお兄ちゃんをいたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。

 その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。  そして一年たち、二年たち・・・しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。  お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。

 弟が幼稚園に入った年の七夕の日、偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。人があまりたくさん来たために興奮したのか、お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。

 みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。  そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。  「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」  お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。

その晩、お母さんはノートに書きました。  「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」  ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。

人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。

 やがて弟は小学校に入学しました。入学式の日、教室で初めて席が決められました。ところが弟の隣に、小児マヒで左腕が不自由な子が座りました。  お母さんの心は動揺しました。家ではお兄ちゃん、学校ではこの友だちでは、幼い子に精神的負担が大きすぎるのではないかと思ったからです。

 その夜、ご主人と朝まで相談しました。家を引っ越そうか、弟を転校させようかとまで考えたそうです。  結局、しばらく様子を見てから決めようということになりました。

 学校で最初の体育の様子を見てから決めようということになりました。  学校で最初の体育の時間のことです。受持ちの先生は、手の不自由な子が体操着に着替えるのを放っておきました。手伝うのは簡単ですが、それより、一人でやらせたほうがその子のためになると考えたからです。

 その子は生まれて初めて、やっと右手だけで体操着に着替えましたが、そのとき、体育の時間はすでに三十分も過ぎていました。  二度目の体育の時間のときも、先生は放っておきました。すると、この前は三十分もかかったのに、この日はわずかな休み時間のあいだにちゃんと着替えて、校庭にみんなと一緒に並んでいたのです。

 どうしたのかなと思い、次の体育の時間の前、先生は柱の陰からそっと、その子の様子をうかがいました。  すると、どうでしょう。前の時間が終わるや、あの弟が、まず自分の服を大急ぎで着替えてから、手の不自由な隣の席の子の着替えを手伝いはじめたのです。  手が動かない子に体操着の袖を通してやるのは、お母さんでもけっこうむずかしいものです。それを、小学校に入ったばかりの子が一生懸命手伝ってやって、二人ともちゃんと着替えてから、そろって校庭に駆け出していったのです。

 そのとき、先生は、よほどこの弟をほめてやろうと思いましたが、ほめたら、「先生からほめられたからやるんだ」というようになり、かえって自発性をこわす結果になると考え、心を鬼にして黙っていました。  それからもずっと、手の不自由な子が体育の時間に遅れたことはありませんでした。

 そして、偶然ながら、また七夕の日の出来事です。授業参観をかねた初めての父母会が開かれました。  それより前、先生は子どもたちに、短冊に願いごとを書かせ、教室に持ち込んだ笹に下げさせておきました。それを、お母さんが集まったところで、先生は一枚一枚、読んでいきました。

 「おもちゃがほしい」、「おこづかいをもっとほしい」、「じてんしゃをかってほしい」・・・。  そんないかにも子どもらしい願いごとが続きます。それを先生はずっと読んでいくうちに、こんな言葉に出会いました。

 「かみさま、ぼくのとなりの子のうでを、はやくなおしてあげてくださいね」  言うまでもなく、あの弟が書いたものでした。先生はその一途な願いごとを読むと、もう我慢ができなくなって、体育の時間のことを、お母さんたちに話して聞かせました。

 小児マヒの子のお母さんは、我が子が教室でどんなに不自由しているだろうと思うと気がひけて、教室に入ることもできず、廊下からそっとなかの様子をうかがっていました。  しかし、先生のその話を聞いたとたん、廊下から教室に飛び込んできて、床に座り込み、この弟の首にしがみつき、涙を流し、頬ずりしながら絶叫しました。

 「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・・」  その声がいつまでも学校中に響きました。       

出典元(「続 気くばりのすすめ」鈴木 健二 著 講談社文庫より )

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弟さんの思いやりがある素直な心に感動して涙が溢れてしまいました。

これからも真っ直ぐに育ってほしいです。

お母さんの想いが伝わったんですね。

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Facebook・西尾仁さん投稿記事 「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」

ごめんなさいね おかあさん       ごめんなさいね おかあさん

ぼくが生まれて ごめんなさい      ぼくを背負う かあさんの

細いうなじに ぼくは言う        ぼくさえ 生まれてなかったら

かあさんの しらがもなかったろうね   大きくなった このぼくを

背負って歩く 悲しさも        「かたわの子だね」とふりかえる

つめたい視線に 泣くことも       ぼくさえ 生まれなかったら

この詩の作者は山田康文くん。

生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。

養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、 ノーの時は康文くんが舌を出す。

出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。

気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。

この母を思いやる切ないまでの美しい心に対して、母親の信子さんも、彼のために詩を作りました。

わたしの息子よ ゆるしてね            わたしの息子よ ゆるしてね

このかあさんを ゆるしておくれ          お前が脳性マヒと知ったとき

ああごめんなさいと 泣きました          いっぱい いっぱい 泣きました

いつまでたっても 歩けない            お前を背負って 歩くとき

肩にくいこむ重さより              「歩きたかろうね」と 母心

"重くはない"と聞いている             あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ ありがとう            ありがとう 息子よ

あなたのすがたを 見守って            お母さんは 生きていく

悲しいまでの がんばりと             人をいたわる ほほえみの

その笑顔で 生きている              脳性マヒの わが息子

そこに あなたがいるかぎり       このお母さんの心を受け止めるようにして、

康文君は、先に作った詩に続く詩をまた作りました。

ありがとう おかあさん            ありがとう おかあさん

おかあさんが いるかぎり           ぼくは 生きていくのです

脳性マヒを 生きていく            やさしさこそが、大切で

悲しさこそが 美しい             そんな 人の生き方を

教えてくれた おかあさん    おかあさん  あなたがそこに いるかぎり

 康文くんは重度の脳性マヒで8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。

不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。

康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。

1975年4月には体の不自由な子供達が集う「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。

このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。

このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。

窒息死でした。

横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。

15歳の誕生日を迎えた直後だったそうです。

 康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって「あの子の詩は障害者が『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。

今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。

いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。  『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。

歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。

だから康文くんたちは私たちの先輩。

世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・

向野幾世著 『おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい』より

(詩の中に不適切ととられかねない用語がありますが、障害児本人の作品であり、原文を尊重しました。)


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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