http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_179a.html 【第二芸術論再読】より
「選句」をめぐる議論といえば、桑原武夫の「第二芸術論」が有名だ。
フランス文学者だった桑原は、京都大学人文科学研究所を中心に、ユニークな共同研究の組織者として活躍したことでも分かるように、広い視野とバランス感覚の持ち主だった。
その桑原が、俳句は心魂を打ち込むべき芸術ではなく、その慰戯性を自覚した方がいい、と論じたのだった。
岩波書店発行の雑誌「世界」の昭和21年11月号に掲載されたもので、原題は、『第二芸術-現代俳句について』である。夏石番矢編『俳句 百年の問い』講談社学術文庫(9510)に収録されている。
桑原が、俳句を「第二芸術」と断ずることになるきっかけは、自分の子供が国民学校(戦時中の小学校)で俳句を習ってきたことである。子供に実作の指導を依頼されたことから、手許にあった雑誌に載っている諸家の俳句を読んでみようという気になった。
10人の俳人の作品から1句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を5句まぜたリストをつくって、周りにいた同僚や学生に示して優劣の順位をつけさせた。
対象とされた句は以下の通りである。
1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら 2 初蝶の吾を廻りていづこにか
3 咳くとポクリッとベートーヴェンひゞく朝 4 粥腹のおぼつかなしや花の山
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し 6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 8麦踏むやつめたき風の日のつゞく
9 終戦の夜のあけしらむ天の川 10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き 12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと 14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし
桑原自身は、これらの句に優劣をつける気も起こらず、ただ退屈したばかりだった、と述べている。
そして、周りの人の評価を集約すると、作者の優劣や大家と素人との区別がつけにくい、ということになった。
確かに、この中には大家の作品(草田男-3、井泉水-7、たかし-10、亜浪-11、虚子-13)などが含まれているが、それを他よりも優れたものとして選び出すことは殆んど不可能であろう。
桑原があえて凡作を選んだわけではないだろうが、これらの句が、黛まどかさんの『知っておきたい「この一句』に収録されていたとして、私も高い評価をしないだろうと思う。
とすれば、現代の俳句は、作品自体で作者の地位を決定することが難しく、作者の地位は作品以外の、例えば俗世界における地位のごときもので決められるしかない。
それは、弟子の数や主宰誌の発行部数などであるから、党派を作ることが必然の要請になり、有力な党派から別派が生まれるのは自然で、数多くの派が生まれることになる。
その党派は、中世職人組合的で、神秘化の傾向を含み、古い権威を必要とする。俳句の場合、その聖者が芭蕉であり、「さび・しおり・軽み」等々がその経文である。
桑原は、水原秋桜子の「俳句の取材範囲は自然現象及び自然の変化に影響される生活である」という説を認めつつ、その方法として、「小品の絵を描くようなつもりで」という言葉に疑問を呈する。
指導者が、他のジャンルに方法を学べというような修業法を説くようでは、既に命脈が尽きているのではないのか。かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするのがふさわしいだろう。
それを「芸術」と呼ぶのは言葉の乱用であって、あえて言えば「第二芸術」として区別すべきである。
私たちのような素人の読者にとっては、俳句が第一芸術であろうが、第二芸術であろうが一向に構わない。しかし、俳人と呼ばれるような人たちにとっては、強いインパクトがあったようだ。
(因みに、作者は、上記以外に、青畝-1、草城-4、風生-5、蛇笏-8、秋桜子-15が著名人で、他が新人または無名の人である)
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/100_4f6e.html 【第二芸術論への応答】より
桑原武夫の『第二芸術』について、阿部誠文『戦後俳句の十数年』(佐藤泰正編『俳諧から俳句へ 』笠間書院(0507)所収)は、名家を選ぶ基準も示されず、手元の資料だけにより、素人数人の意見で結論を急いでいるなど、方法にも結論も妥当性を欠き、無効である、としている。
しかし、同時に、きわめて有効な評論であった、ともする。反響が大きく、阿部氏の調査の範囲で、昭和22年だけで、90篇の反論が書かれている、という。
阿部氏によれば、反響は反発や批判が多かったが、それはいきなり俳句を否定された反発であり、俳人は、反発を示しながらも、俳句性の探究に向かった。
つまり、時代の転換期にあって、俳句転換を求める方向性が探求されようとしている折り、桑原の論は、俳句界のみならず、短歌界にも影響を及ぼした有効な批評であった、という評価である。
『第二芸術』に挑発されて(?)多くの論考が発表され、俳句の本質を探る試みが深まった。阿部氏の論文から抜粋してみよう。
1.山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」昭和22年12月号)
この論文は、「第二芸術論」と並行して書かれたもので、応答という位置づけではないが、俳句の本質に係わる論考として、幅広い影響を与えた。
俳句性(俳句が他のジャンルと違う点)として、「有季・定型・切れ」の三要素があげられる。山本はそのよってくるところは何か、と問い、「滑稽、挨拶、即興」を抽出した。
それは発句の要件というべきものであって、現代俳句には必ずしもそぐわないが、「第二芸術論」と相まって、俳人たちを俳句性探究に向かわせる役割を担った。
2.根源俳句
山口誓子は、「天狼」昭和23年1月号において、「人生に労苦し、齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが何を根源とし、如何にして現るるかを体得した」と書いて、俳句の根源について、問いかけた。
山口自身は、最初は生命イコール根源とし、後に無我・無心の状態が根源だと変化したが、多くの俳人が俳句の根源について論じ、「内心のメカニズム」「実存的即物性」「抽象の探究」などが論じられた。
3.境涯俳句
境涯俳句とは、人それぞれの境涯、その人の立場や境遇を詠んだ俳句をいう。
狭い意味では、昭和27、8年頃まで貧窮・疾病・障害などのハンディを負った生活から詠まれた句を指す。戦争の影響が、多くの人に重い境涯をもたらしたことの反映でもある。
4.社会性俳句
社会性俳句は、歴史的な社会現象や社会的状況のなかに身を置き、関わりながら詠んだ作品である。
狭い意味では、「俳句」昭和28年11月号で、編集長の大野林火が、「俳句と社会性の吟味」を特集して以後の流れを指す。
5.風土俳句
社会性俳句の中で、地方性、風土性の強い俳句を指す。俳句はもともと風土的であるが、特に地方の行事、習俗、自然を詠んだものをいう。
6.前衛俳句
金子兜太が、「俳句」昭和32年2月号に、『俳句の造型について』という俳句創作の方法論に関する論考を発表した。
「諷詠や観念投影といった対象と自己を直接結合する方法に対し、直接結合を切り離してその中間に“創る自分”を定置させる」というもので、そこから生まれた流れが「前衛俳句」と呼ばれた。
具体的には、以下のような作品を指す。
a 有機的統一性のあるイメージが、同時に思想内容として意味を持つ作品
b 二つのイメージを衝突させたり組み合わせた作品
c 多元的イメージを一本に連結した作品
阿部氏によれば、戦後の十数年は、政治的・経済的な混乱・転換期で、生活することや精神面で自らの拠り処を必要とした。
その起爆剤となったのが、桑原武夫の「第二芸術論」であり、それを表現の探究へ向かわせたのが、山本健吉の「滑稽と挨拶」だった。
しかし、社会が安定するにつれ、自己の拠り処を求める切実さは失われ、新しい俳句の探究も影をひそめていった。
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