原点が存在する―俳句表現論争史から

http://kogumaza.jp/1801haikujihyuu.html 【原点が存在する―俳句表現論争史から ①

武 良 竜 彦】より

谷川雁の真似をした訳ではないが、今月の俳句時評の題を「原点が存在する」としたのは、戦後の現代俳句の「論争」の中に、今の俳句の在り方に関する重要な原点が存在するからだ。ただそれを単に歴史として眺めるだけではなく、現在の私たちの表現方法論にとって、それはどんな意味があったか、なかったかを問うことによってしか「原点」は浮上しない。

 角川の総合誌「俳句」2017年10月号において、「戦後俳壇100年に向けて」として現代俳句協会、俳人協会の歴史を振り返る座談会「俳句のいまとこれから」という特集が組まれていた。その記事の後に「キーワードで読み解く!戦後俳壇トピックス」が簡潔にまとめられていた。

表現論に関わる事項は次の通り。

第二芸術論、根源俳句、社会性俳句、前衛俳句、造形論、現代俳句の問題(草田男・金子兜太往復書簡)、境涯俳句論争、「軽み」論争。

  どれも時代的なパラダイムに縛られたり、論者の立場からのバイアスが掛かった偏見、

 主旨や概念が定義不足で未整理なままの主張など、瑕疵が目立つ論争が多いが、そう

 であるが故に俳句表現論として見た場合、積み残された重要な課題がそこには存在する

 ことも事実だ。

  これらの課題の中から現在に繋がる表現論の部分を以下に抜粋し、★印以降に、その

 今日的意味を探る論考を試みることにしよう。今回はまず「第二芸術論」問題から。

 ▼第二芸術論

仏文学者・桑原武夫が『世界』(岩波書店・昭和21年11月号)に発表した論文「第二芸術―現代俳句について」に端を発した俳句の芸術性に関する論議。桑原は俳人の創作態度の思想的・社会的な無自覚性、俳句の芸術的脆弱性・未完結性などを指摘した。特に俳句については、無記名だと大家と素人の俳句の優劣がつかず、パラフレーズ抜きでは理解できないものが多い、という性急な例証に基づいて、作品の価値自体ではなく党派性に凭れて成り立っている俳句は同好者間の慰戯であり.「第二芸術」として他の芸術と区別されるべきである、と批判した。

★俳句表現論としての今日的意義の検証

現在、桑原武夫『第二芸術―現代俳句について』は講談社学術文庫版に収録されていて誰でも読むことができる。

その内容を大雑把に整理すると、「ヨーロッパ(特にフランス)礼賛」「俳句批判」「桑原の芸術観」といったことが述べられている。

桑原武夫の俳句表現についての誤解について、今日的意義の検証上、次のことを指摘しておくべきだろう。

桑原は素人からプロの俳人の俳句を引用した後、「これらの句を前に、芸術的感興をほとんど感じないばかりか、一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じえない」と書いている。また「私の心の中でひとつのまとまった形をとらぬ」とも語っている。

これは俳句をフランス文学などの小説散文を読むときと同じように読もうとしているから起こる「苛立ち」の表明である。そのことは次の文章にもよく表れている。

「作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるのでなければ芸術の意味が無い。現代俳句はそういう弱点を持っている」言語表現を一律に「意味」としてしか受け取られない者には俳句の「非再生産」性とやらは耐え難いものだろう。

 俳句は作者が提示する文学的主題を、作者の表現意図通りに読者のうちに「再生産する」ことを強いない文芸である。文章表現としての一元的な「意味」を語らず、造形的表現を提示する俳句は、読者各々がその心に自由に「文学的主題」を発見する文学である。そのことへの無理解がここにある。桑原の無理解は次の文章にも表れている。

「ヴァレリーの詩は極度に完成しているから、アランが注釈を加えていても問題は無い」が、「一つの句に多くの鑑賞や解説、特に鑑賞が与えられるということは非芸術的だ」

 この発言自体が非文学的であり、すなわち非芸術的ではないか。芸術の鑑賞には作者が意図する唯一無二の「正解」があるとでも言いたげなこの思考に根本的な誤謬がある。なぜそんな誤解、誤謬が生じるのか。それは今や迷信に近い古い文学観、芸術観に捉われているからだ。

 文学に於ける表現主体と、文学的主題の関係、そして、その二つに対する読者という鑑賞主体の関係に根本的な誤解があるからだ。この桑原論考では、ある作品を書いた作者という生身の存在と表現主体が混同されている。その生身の作者に、自分が書いた作品の文学的主題が明確に把握されているという迷信がある。

  はっきりさせておこう。

生身の作者という存在と表現主体は別ものである。そして表現主体は文学的主題を唯一無二のものであるというふうには把握などしていない。成立した作品はその瞬間から、作者の意図を越えてまったく別の文学的主題を孕む(獲得する)可能性を秘めている。そのことまで把握することは作者には不可能である。そういう意味で生身の作者は作品の成立と同時に表現主体であることから疎外(押し出)される。作者でさえ自覚できない文学的主題を持つ作品を成立させ得た、その時だけ表現主体は束の間存在する。

  鑑賞者はその作品を鑑賞しているその時の、自分の主体性をかけて、その作品を契機として自己の中に何かを創造する。その作品世界に対してだけ成立する表現主体の営為と互角にわたり合う。それは桑原がいう一つだけの文学的主題の感受を強制される「再生産」とは無縁の世界である。

俳句とはそういう「芸術」であり文学である。

いや、あらゆる芸術がそういう普遍の原理に基づいて創造されるものだ。これが今や一般的な文学論の常識だ。

俳句の表現をめぐって論じるときも、この一般的な文学論の常識が通用しなければ、論としての価値はない。

残念ながら、当時の俳人たちの桑原論考に対する批判にもこの観点が欠落していた。表現主体論が自覚されて論じられるには、金子兜太の表現論(主旨は違うが)の登場まで待たなければならなかったようだ。


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17079043 【悼・金子兜太―私たちは何を手渡されたのか】

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