金子兜太作品鑑賞  ③

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.03.html 【金子兜太作品鑑賞  三】 より

  過去はなし秋の砂中に蹠(あうら)埋め      『少年』

 入隊前の句である。「秋の砂中に蹠埋め」という行為は、自分の過去を砂の中に埋めてしまうということの象徴のようにも受け取れるし、逆に、無意識のうちに過去の大切なものを足の裏で懐かしんでいる雰囲気もある。兜太らしく「過去はなし」と言いきっているが、戦争というものが、人々に、今まで大切にしてきたものとの断絶を強いたという事実を想像せざるをえない。

  穂草まさぐる海に死すべき心たぎち      『生長』

 大きな視点で見れば、戦争というものが人間の愚かさに根差した愚かな現象であることは間違いない。しかし、戦争に参加することを強いられた若者が愚かだとは言いたくない。彼等の真摯、彼等の熱情、命を賭けた彼らの行為そのものに対して、君等は愚かだなどとは誰も言えないはずである。選択の余地なく戦争に参加せざるをえなかった若者の純な心の震えと決意をこの句に見る思いがする。

 敢て言及すれば、テロリズムに自分の生命を賭けた若者に対しても、君等は馬鹿者だという権利が私にあるだろうか。

  冬山を父母がそびらに置きて征く       『生長』

 重層的な意味を含んだ句であるように思う。「冬山」がいろいろな象徴性を帯びうるからである。まず「冬山」をその時代の厳しさの象徴と取れば「この厳しい時代に父と母を残して私は出征することになってしまいました。その無念さがあります」という意味。「冬山」を産土の象徴と取れば「私は出征しますが、私の過去の全てとも言えるこの土地を父よ母よあなた方にお任せします。どうぞこの土地とともに長生きして下さい」という具合になる。そしてこの場合、産土と父母との一体感は強く、自分を育んだ全てのものに対する別れの言葉という感じが出ている。しかも、冬山(産土)は父母を守るだろうし、父母はまた冬山(産土)を守るだろうということを自分に納得させたいような雰囲気も感じる。

 次にトラック島での句をいくつか並べる。鑑賞文が書けないのは、実際の戦場というものを知らない私の想像力不足の故でもあるし、浅薄な鑑賞文を付けるのは却って戦争体験者に対する不敬であるとも思えるからである。

 句は『生長』そして『少年』からのものである。

  星座を分け敵機近づく海にぶし/バナナの葉へし折り焼夷弾叩く/壕に寝しひと夜の裸身拭きに拭く/敵機燃え落つ月の出遅き海面へ/疲れ且戦い仏桑華を愛す/ふる里はあまりに遠しマンゴー剥く/海の上酷暑の遺骨箱を積む/熱天に欠伸の口の暗かりき/遺骨それより白いのは犬/厠探すパンの病葉降る小径/キャツサバ林軍靴を照らす火の果に/樹海の果白照るリーフ見ゆるのみ/重油漂う汀果てなし雨期に入る/あたり見廻しひとりの夜闇ふと美し/被弾の島赤肌曝し海昏るる/銃眼に母のごとくに海覗く/魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ/椰子の丘朝焼しるき日日なりき/急ぎ且首あぐる蜥蜴吾も独り/塩を焼く兵等静かにリーフ照る

  水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る   『少年』

 〈帰国 三句〉の二句目。私にはこの「墓碑」はいわば兜太自身の一つの墓でもあったような気がする。死も覚悟して行ったであろう戦地。たくさんの戦友達の死。そして敗戦。途轍も無い過去との断絶があった筈である。そしてその過去の象徴としての墓。この空白。しかし決意はできている・・生き死に言わず生きんとのみ・・今はただこの戦友達また俺自身の墓に静かに別れを告げよう・・

  一汽関車吐き噴く白煙にくるまる冬     『少年』

 敗戦という、国にとっても自分にとっても大きな変化、過去が断ちきられたといってもいいだろう変化があった。戦友達もたくさん死んだ。この句を読むと、そういう大きな断絶の後にも、容赦なく生のエネルギーは流れて行き、社会はまた先へ先へと進んで行く雰囲気を感じる。そしてその雰囲気にくるまれている作者。  

  墓地は焼跡 肉片のごと樹樹に        『少年』

 なまなましい皮膚感がある。やはり、このような感覚は戦場での夥しい肉片を実際に見たり触ったりした者でないと持てない気がする。これは戦後の句であるが、戦争体験の残像が強く残っているに違いない。戦時中の句にこういうなまな感じの句が見当たらないことを考えると、残像の方がむしろ体験の只中にいる時よりもなまなましいという心理的な事実があるのではないだろうか。

  珊瑚の海へ餓死者を埋むぞくぞく埋む 『金子兜太句集』

 これは昭和三十五年に書かれた〈トラック島回想十一句〉と前書のある句群の中の一句であるから、戦争後かなり経っている。それにも関らず、とてもストレートな迫力がある。

 年譜によれば、この頃の兜太はその俳句人生において、非常にやる気満々だったのではないか。いや、常にやる気満々だという感じはあるのであるが、昭和三十七年の『海程』の発刊前夜にも当たっている時期であるから、その意欲は殊更だったのではないかと推察するのである。

 生と死というのは表と裏の関係にある。一つのものの対極の現れであり、片方が無ければ片方はない。この時期の兜太は、前述のごとく生というものに深く集中しているに違いないから、バランスとして死ということが心に浮かんでくるのではないだろうか。もっと平たく、積極的な表現をすれば、自分は生き残って、活き活きと精力的に仕事をさせてもらっているが、あの悲惨な戦争のこと、むざむざと死んでいった人々のことは絶対に忘れないぞ、という強い決意である。それが、この迫力ある戦場の場面を描かせているのではないだろうか。死ということに真向った人だけが十全に生きることができるという事実がある。「生の詩人」と私は兜太を形容するが、その根っこにはトラック島のいわば「死の経験」が存在するような気が私にはする。

  わが戦後終らず朝日影長しよ         『狡童』

 〈朝日子〉という連作の中の一句で、昭和四十七、八年頃の作品である。この二年間には、日本兵横井庄一さんがグアム島で発見・・連合赤軍のあさま山荘事件・・川端康成自殺・・沖縄返還・・日本赤軍テルアビブ空港乱射事件・・列島改造論の田中角栄が首相に・・日中国交正常化・・水俣病訴訟・・というような事が起っている。戦争の影を引きずりながらも確実に時代は進んで行く。その中で「わが戦後終らず朝日影長しよ」と呟きながら佇っている作者の姿が見えてくる。この連作には「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」という全き自然讃歌のように思える句も同居しているし、「朝日影溢れよ自恃乱れきて」や「朝日なかわが弁証の瓦礫あり」や「朝日打つ我執空間の飛沫」などもある。自然に対する手放しの感受性とともに自己自身や社会に対する重厚で真摯な態度があると言えるのではないだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000