明智光秀の幻の城、近江・坂本城跡

https://www.travel.co.jp/guide/article/32849/ 【明智光秀の幻の城、近江・坂本城跡には何があるのか】 より

「信長がくる」割れるほど鳴らされた古鐘

戦国時代の重要な城でありながら、時の流れの中で忘れさられた城がある。滋賀県大津市坂本の坂本城は、そんな城の代表と言えるのではないだろうか。

今も昔も比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として栄えたこの地域に、なぜ城が築かれたのか。築城前の出来事を整理しておこう。

坂本といえば石積みの門前町。比叡山延暦寺や日吉大社と石垣職人を生んだ穴太衆の町だ。JR比叡山坂本駅の北隣に「坂本石積みの郷公園」がある。

園内には若き日の㝡澄(最澄)像が建つ。この地は、最澄が開いた天台宗の総本山「延暦寺」があり、最盛期には三塔十六谷三千坊ともいわれる仏教都市だった。

1570(元亀元)年、姉川の戦いで敗北した浅井朝倉勢に味方した(志賀の陣)ため、織田信長と敵対。翌年、全山が焼失したといわれる「比叡山焼き討ち」にあう。この時、信長勢の侵攻を知らせるために打ち鳴らされた鐘(生源寺の古鐘)が最澄像の向かいにある。

「信長がくる」割れるほど鳴らされた古鐘

通称、破れ鐘(われがね)と呼ばれ、力の限り打ち鳴らし続けたためにひび割れ、不思議な音色になったそうだ。

明智光秀が築いた幻の城「坂本城」

JR比叡山坂本駅から南東方向、地元の人たちが湖(うみ)と呼ぶ琵琶湖の湖畔に坂本城跡がある。比叡山焼き討ちの後、叡山の監視を目的に織田信長が明智光秀に命じて築かせた。

翌年には、天守をもつ本丸と二ノ丸、三ノ丸を構える城がほぼ完成。短期間での築城に驚くが、その理由は城跡を歩けば推察できる。高い石垣はなく、寺町に川の流れを利用した堀を設けたような縄張りだ。

現在、堀は埋め立てられている。写真は、大津市立下阪本小学校や下阪本市民センターが建つ三ノ丸の堀跡。ここは、三の丸跡内でも特徴的なスポットでもある。

東に目を向けると、酒井神社と両社神社が道を挟み並んでいる。両神社は本能寺の変の後に城主となった浅野氏ゆかりの神社だが、赤い壁が印象的だ。境内はどちらも同じような造りになっている。(写真の奥に見える同色の建物は中華料理店)

この先の交差点が、二ノ丸と三ノ丸の境になる。南東側が二ノ丸だ。その先に天守の姿が見えたかもしれない。写真とは逆方向の西には比叡の山が見え、当時の城内の景色を思い浮かべたくなる場所だ。

坂本城の廃城後、二ノ丸の堀は南北を貫く大道となり湖西の主要な街道となった。

二ノ丸の南端に、坂本城址の碑がある(写真)。奥に見える東南寺は、伝教大師最澄が説法をされた寺だ。毎年8月21日からの5日間行われる説法は誰でも聞け、天台宗の高僧が天台座主になるための通過儀礼の場ともいわれている。境内には坂本城落城の際の死者を弔う多くの首塚があり、手を合わさずにはいられない。

ちょっとカワイイ明智光秀像も 坂本城址公園

国道161号(西近江路)沿いに、大きな坂本城址の碑が建つ坂本城址公園がある。駐車場は釣りを楽しむ人たちの車がほとんど。城跡見学者は少ないものの、坂本城跡をめぐる代表的な観光スポットでもある。日曜日にはボランティアガイド(坂本城を考える会)が、坂本城について解説してくれる。

園内の光秀像は、謀反人の面影ではなく「ゆるキャラ」のような可愛らしさが印象的だ。鳥羽一郎が歌う光秀をしのぶ歌碑もあり、ボタンを押せば歌が流れてくる。

坂本城が築かれたのは、三津浜と呼ばれる3つの港がこの地にあったことも理由だろう。琵琶湖の水運に目を付けていた信長は、後に長浜城、安土城、大溝城の水城4城を築城し、琵琶湖の水運支配を完成させた。

公園から湖畔へと下りてみる。琵琶湖越しに見える山並みは、光秀が眺めていた景色と変わらない。

写真右手のキレイな形をした山は、近江富士と呼ばれる三上山(みかみやま)。写真左手の山には安土城があった。安土城から登城を命じる狼煙が上がると、光秀は船で安土へと向かったことだろう。

実は、この坂本城址公園は城内ではなく、当時は湖(うみ)の上だった。

1994年から翌年にかけ、観測史上最低の水位を記録した琵琶湖の大渇水があった。この時、湖中から本丸跡の石垣が姿を現した。歴史的に知られていながらも、宅地化され忘れられていた幻の城の本丸跡が姿を現したのだ。

場所は坂本城址公園から北の西近江路沿い、電子計測器メーカーの研修所があるところだ。残念ながら敷地に入ることはできない。門前に小さな碑があり、坂本城本丸跡であることを示している。碑によると「当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸、礎石建物などが発見された」とあり、見られないのが残念に思う。

坂本城は小天守を備えた連立式天守とされている。宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で「安土城に次ぐ豪壮華麗な城」とつづっている。

安土城天主の完成は1579(天正7)年で坂本城築城の6年後だ。短期間で築城した坂本城が豪壮華麗だったのかという疑問と合わせると、信長から茶会主催の許しを得た1578(天正6)年以降に、「琵琶湖を眺められる茶室」として小天守を増築したのではないだろうかなど、勝手な想像を膨らませたくなる。

山崎合戦後に落城した坂本城

1582(天正10)年6月2日、本能寺の変により織田信長を討った明智光秀。その後、山崎で秀吉に敗れ坂本城へ戻る途中に命を落とした。坂本城は、いとこの明智左馬助光春が守るも包囲され、本丸に火を放ち光秀の妻子や自身の妻らとともに自害した(諸説あり)。

坂本城落城後は、丹羽長秀や浅野長政らが城主となり再建したが、1586(天正14)年に大津城築城にともない廃城。解体され資材は大津城で再利用されている。城だけではなく、町人も大津へと移り住み坂本城の役目は終わった。

本丸跡の少し北に明智塚がある。「ここは光秀公の墓だから、触ると祟られる」との言い伝えがあり発掘調査もされていないが、地元の人により丁寧に守られてきた。塚には、亡くなった将兵とともに光秀の愛刀(郷義弘作の脇差・倶利伽羅の吉広江(よしひろえ)と伝わる)が収められているという。

明智塚から西近江路を北に20分ほど歩いたところに、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)がある。ここの表門は、坂本城から移築された明智時代の城門だ。


https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/bc60ab3ceb4572b220ecff8c84479d25 【明智光秀の妻 熙子(ひろこ)の戒名が聖衆来迎寺の涅槃図裏面に記載】 より

表題の記事が8月8日付け神戸新聞朝刊27面に掲載されていました。

憶えのためにブログ記事にして残しておきます。

記事の要旨は下記のとおりです。

大津市歴史博物館は、聖衆来迎寺にある「涅槃図」(1581年寄進)の裏面に、

明智光秀の妻、熙子(ひろこ)の戒名「福月真祐大姉」が供養対象者として

書かれているのを発見したと8月7日に発表した。

熙子の死亡時期は、菩提寺・西教寺(同市)の過去帳に記されている時期(1576年)

の他に、「明智軍記」が「本能寺の変」直後の坂本城(同市)落城の際に自害した

とする82年説もあり、同館の和田光生学芸員は「涅槃図が寄進された81年以前に

死亡したと確認でき、76年死亡説の可能性が高くなった」としている。

同館は、光秀とゆかりがある聖衆来迎寺の寺宝を調査。

涅槃図(縦約145センチ、横約135センチ)の裏面に寄進者の名前などが墨で書かれ、

成仏を願う物故者として熙子の戒名があった。寄進日は天正9年(1581)8月と記載。

Gooニュース(中日新聞)でも上記とほぼ同じ内容で報道されていますのでリンクさせていただきます。

 gooニュース

https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-101619

本年(2020)3月3日に西教寺と聖衆来迎寺を訪問しており明智光秀の妻 煕子の墓

の写真などを撮っていますので関連写真を添付しておきます。

上の2枚の写真は大津市西教寺に眠る明智光秀の妻 煕子の墓と現地説明板

天正4年(1576)11月7日寂 戒名は福月真祐大姉

 撮影:2020-3-3

明智光秀は煕子(ひろこ)が存命中は側室を置くことなく三男四女をもうけ、

仲むつまじく暮らしていたと伝わっています。石山本願寺攻めで、病に倒れた

光秀を、煕子は坂本城で懸命に看病しました。光秀が回復すると今度は煕子が病に倒れ、坂本城で亡くなりました。葬儀は西教寺で行われ、当時、妻が先に死んだ場合夫は参列しないのが慣わしでしたが光秀は葬儀に参列したといわれています。

光秀の愛妻家の一面が判るエピソードとして西教寺で語り継がれています。

山門は坂本城から移築されたと伝わっています。

3月3日に明智光秀所縁の場所を10箇所ほど観てきました。

詳細は下のブログで記載しています。


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