https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/f9b431dd282bdced581808b999ce8fc9 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その8 盛安寺】より
2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第8回で盛安寺を紹介します。
盛安寺は明智光秀が祈願所として使用した寺で別名は明智寺とも呼ばれていた。
供養塔や陣太鼓が残る西教寺の末寺です。
盛安寺の基本情報
住所:大津市坂本1-17-1 TEL:077-578-2002
宗派:天台真盛宗 山号:瑞應山 院号:法王院 御本尊:阿弥陀如来坐像
霊場:湖国十一面観音菩薩霊場 第二番、びわ湖百八霊場湖西 第七番
創建:宗祖真盛上人(1443-1495)により創建
再建:文明18年(1486)越前朝倉氏の家臣である杉若盛安(すぎわかせいあん)が再建
盛安寺は杉若盛安の名前に由来
再興:比叡山の焼き討ちで焼失明智光秀により再興
明智光秀の供養塔
灯篭の左側の小さな五輪塔が明智光秀の供養塔
本堂には位牌「秀岳宗光大居士 霊位」天正10年6月14日があります。
盛安寺の説明書き
盛安寺は穴太の里「高穴穂宮跡」(成務天皇の宮)のあるところで天智天皇も勅願で
創建された崇福寺の遺物でもあります。
太鼓楼
この太鼓楼の中に明智公陣太鼓があります。元亀・天正年間前期(1570-1575)の
ある夜「暁の鼓」を打って坂本城に敵の急襲を知らせたものとされ、その恩賞として
明智光秀より「庄田八石」(太鼓田)を与えられた。
上の写真は山門付近から撮った太鼓楼の遠景
本堂
本堂はと棟札より慶安5年(1652)に建立された。
平成5年(1993)に大津市の指定文化財に指定されています。
客殿(国重文)
客殿の写真を撮れなかったので案内リーフレットの境内図を添付
客殿は伏見城の遺材で建てられたと伝えられています。
建築年代は不詳ですが西教寺の客殿や聖衆来迎寺の客殿との比較から17世紀前半と
推定されています。平成5年(1993)8月に国の重要文化財(建造物)に指定。
殿内には障壁襖絵(長谷川宗圓の屏風とともに)には桃山期の狩野派の壮麗な
絵巻が観られます。前庭も見どころだそうです。
穴太衆積み石垣
鐘楼
観音堂
庫裡
収蔵庫
十一面観音立像(国重文)
十一面観音像の拝観は5、6、10月の毎土曜日とGW、正月3ヶ日のみ
井上靖の小説「星と祭り」や白洲正子の「十一面観音巡礼」で取り上げられています
この十一面観音は延暦寺開山の伝教大師(最澄)の師範行表の作
明智光秀ゆかりの地巡り~盛安寺~
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/9174a37efbfa00f40feb8ea47bfd3093 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その9 宇佐山城跡と宇佐八幡宮】 より
2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第9回で宇佐山城跡と宇佐八幡宮を紹介します。
宇佐山城は琵琶湖の南西、近江国と山城国を隔てる比叡山塊の南に位置する標高336mの
宇佐山山頂に築かれた山城です。宇佐山城は織田信長が森可成に命じて築かせた城で、
森可成の死後の元亀2年(1571)に明智光秀が入城し、「比叡山焼き討ち」の拠点とした城です。
宇佐山城の文献上の初見は、奈良・興福寺の僧である多聞院英俊が記した『多聞院日記』で、永禄13年(1570)3月20日の稿に、「信長が配下の森可成に命じて宇佐山に築城させ、江南と京都を結ぶ道路を封鎖した」と記されています。4月23日に元亀に改元。
元亀元年(1570)9月16日から同年12月17日までの志賀の陣で戦場の一つとなった場所である。
上の写真は宇佐八幡宮下の宇佐山城址への入り口
上の写真は地元の志賀小学校が山上の主郭(本丸)に至る道に道しるべを作成しています。
赤いリボンなどもつけられていました。
しかしながら、当日は単独行動で何か異変があってはいけないので自重し登坂を途中で中止しました。
山城探索の好きな人達が詳しく山頂までの紹介をされていますのでリンクさせて頂きます。
https://signboard.exblog.jp/28885263/
https://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001
https://ameblo.jp/danhaya/entry-12373755522.html
上の写真は京阪南滋賀駅付近から臨む宇佐山 頂上(本丸跡)にはNHK、民放のアンテナが
建っているそうです。
宇佐八幡宮
住所:大津市神宮町13 御祭神:八幡大神(応神天皇)
創建:治暦元年(1065) By 源頼義
Goo地図を添付しておきます。
外観遠景
上の写真は正面からみた宇佐八幡宮
上の写真は側面からみた宇佐八幡宮
御足形
上の写真は御足形の神域。説明書によれば錦織郷に居を構えていた源頼義
(源頼朝の5代前)が八幡宮を創建せんと検分の時この岩の上に神鳩が現れ頼義公を
建立の地に導いた。依って治暦元年(1065)宇佐八幡宮が建立された。
金殿井
上の写真は天智天皇(626-672)が病気を癒したとの伝承がある霊泉で
1,351年前、中臣之金によって発見されたことから金殿井と呼ばれています。
境内の紹介をもう少し詳しくしたいのですが30,000字の制限からこの辺で終えます
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/31f68fd69279debeed24f0c5f7a4c998 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その10(最終回) 光秀の菩提寺「西教寺」】
2020年04月01日 04時56分40秒 | 滋賀県情報
2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第10回で西教寺を紹介します。今回で最終回とします。
西教寺は聖徳太子が創建したと伝わる天台真盛宗の総本山で、明智光秀の供養塔や
妻の煕子の墓がある明智家ゆかりの菩提寺です。
西教寺の基本情報
住所:大津市坂本5丁目13-1 TEL:077-578-0013
宗派:天台真盛宗(総本山 末寺400余り) 山号:戒光山 御本尊:阿弥陀如来
創建:聖徳太子がその恩師高麗の僧彗慈・恵聴のために創建(伝承)
中興:元享4年(1324)慈恵大師良源、恵心僧都源信が念仏道場とした
再興:文明18年(1486)真盛上人が西教寺に入寺 堂塔と教法を再興
元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで焼失した伽藍は明智光秀、紀州徳川家
により再興、天正18年(1590)京都の法勝寺を合併
公式サイト:http://saikyoji.org/
所在地のGoo地図を添付しておきます。
光秀の供養塔とその一族の墓
上の写真は坂本城主明智日向守光秀の供養塔とその一族の墓
総門(坂本城遺構)
上の写真は西教寺の総門(坂本城遺構)
この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が、坂本城門を移築したと言われています。
昭和59年(1984)に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのままの姿で復元。
光秀の妻煕子の墓
明智光秀は煕子(ひろこ)が存命中は側室を置くことなく三男四女をもうけ、
仲むつまじく暮らしていたと伝わっています。石山本願寺攻めで、病に倒れた
光秀を、煕子は坂本城で懸命に看病しました。光秀が回復すると今度は煕子が病に
倒れ、坂本城で亡くなりました。葬儀は西教寺で行われ、当時、妻が先に死んだ場合
夫は参列しないのが慣わしでしたが光秀は葬儀に参列したといわれています。
光秀の愛妻家の一面が判るエピソードとして西教寺で語り継がれています。
明智光秀は元亀4年(1573)5月24日、堅田城に拠った本願寺光佐を討った時(2/19)、
戦死した侍大将から足軽までの18人の家臣に対して平等に米禄を西教寺に寄進しています。
明智光秀が家臣を重んじる優しい性格であったことを示すエピソードとして
TVなどでも紹介されています。今回は下記のyoutube動画での紹介を添付。
その時歴史が動いた 明智光秀の真実~心優しき武将~
境内の見どころ
(1)本堂と客殿
本堂は、江戸時代の1739年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています
客殿は、大谷吉継の母らの寄進により、1598年に建てられたもので、同じく国の重要文化財です
客殿は淀城から移築とも言われています。
(2)御廟(宗祖真盛上人廟)
(3)客殿庭園
こちらの庭園を観るためには500円の拝観料を払って大本坊(庫裡)から客殿に入場する必要があります。
(4)宗祖大師殿
ここからの琵琶湖方面の眺めは抜群でお勧めスポットです。
(5)勅使門と寺標石柱
(6)萬日法会の石碑
字数の関係で、写真を略します。18回までの石碑が並んでいます。
19回目の法会は令和3年(2021)の11月2日~8日に挙行される予定です
もう少し書き足りない部分もありますが、字数30,000字以内の制限からこの辺で筆を止めます
最後に境内図を添付しておきます。
このシリーズもやっと最終回まで書き終えてほっとしています。
0コメント