https://toyokeizai.net/articles/-/324763 【文章でひも解く明智光秀が信長討った真の狙い
命運を分けた「コミュニケーション」能力】より
日本史の大いなる謎と称されるものの中に、明智光秀が織田信長を弑逆(しいぎゃく=家臣が主君を殺害)した「本能寺の変」が挙げられます。
次に挙げたのは、その光秀が謀叛(むほん)に及ぶ1年前に、自らの家臣団に宛てて述べた「家中軍法」の一節を現代語訳したものです。内容自体は、明智の兵としての心構えや、軍編成についての記述なので、詳細は省略しますが、最後の締めの部分は興味深い文章です。
「家中軍法」のポイントは?
「右のとおり軍法を定め置くうえは、実戦経験者はなお精進を怠らず、未熟の者はよく理解せよ。私は瓦礫沈淪(がれきちんりん=かわらや小石のごとく沈んでいた境遇)のような低い身分から、信長さまに取り立てられて、このような莫大な軍勢を任されるまでになった。
軍律もよくわきまえず、武勇も功績もあげない者は、国家(織田家)の穀つぶしで、公のものを掠〈かす〉め取るにも等しい。日々精進している者からは軽蔑・嘲笑の対象にもされるであろう。奮起して抜群の功績をあげたならば、必ず信長さまに報告し、重く取り立てるであろうから、この家中軍法をよく守ってほしい。 天正九年六月二日 日向守光秀」
このとき、光秀は主君である信長に、わが身の出世を感謝しています。
これは「本能寺の変」の1年前。光秀本人が「瓦礫」(=価値のないもの)と表現しているように、彼の前半生は、21世紀の令和の時代にいたってもなお、ことごとくが謎に包まれたままです。
「本能寺の変」の動機も、光秀その人も、すべて不詳――。
よく美濃源氏の土岐氏の系譜に連なっていたとか、明智城の城主の息子であったとの話を耳にしますが、これらはことごとく、江戸時代中期に編纂された『明智軍記』の記すところであり、この書籍は「史料的価値には乏しいが類書も少ないので便宜使用されている」(『国史大辞典』)にすぎない、「軍記物」であり、全体が「物語」で、内容に史実ではない記述も多い、根拠の確認できないものでしかありません。
ただ、明らかなことは、この人物が歴史の表舞台に登場してから「本能寺の変」まで、たった14年しかなかったことです。
永禄12年(1569年)正月、光秀は確かな記録『信長公記』(太田牛一著)の中で、信長が京を留守にした機会を捉えて、三好三人衆が、信長の後押しをする15代将軍・足利義昭を京の六条・本圀寺(ほんこくじ)に攻めた折、立てこもって奮戦した多くの人数の一人に数えられていました。
それがわずか2年後、元亀2年(1571年)9月には、織田家筆頭家老の柴田勝家、信長のお気に入りの羽柴(のちの豊臣)秀吉らを差し置いて、織田家中で最初の「城持ち」(城将ではなく領地つき城主)の身分となりました。
拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説していますが、なぜ光秀は、「中途採用」でありながら、織田家においてこのような異例のスピード出世を遂げることができたのでしょうか。
言葉の問題が大きかった
とっかかりは、意外にも「コミュニケーション能力」でした。
この時代には、われわれが考える以上に「言葉の問題」がありました。室町時代の後期=戦国時代には、そもそも明治に創られた標準語が存在しませんでした。信長は丸出しの尾張弁を話し、光秀が仮に美濃出身者ならば、彼はどうにか隣国の信長の言葉が理解できたはずです。九州の人と関東・東北の人が京の都で出会ったとしても、おそらく会話は成立しなかったでしょう。
江戸時代に入っても、コミュニケーションの基本であるこの言葉の問題は、なかなか解決しませんでした。筆談=「文章」にして相手にそれを見せ、相手も「文章」で応ずるか、さもなければ謡(うたい=能の声楽部分)の節をつけ、言葉を発して理解を乞うかで、ほかに方法はありませんでした。
江戸時代、「火事とけんかは江戸の華」といわれましたが、なぜ、けんかが頻繁に起きたのか? 筆者は「言葉が互いに通じなかったから」だと考えてきました。これでは諸事に困るということで、武士の世界では、諸藩は藩士を代々、江戸に住まわせて「江戸っ子」をつくり、標準語に近い共通の言語を、ようやく持つことに成功しました。
戦国時代は大変です。こうした方言に加えて、「男言葉」と「女言葉」が分かれていたのです。平安中期に書かれた随筆『枕草子』には、聞いて違った感じを受けるものとして、清少納言は、法師の言葉と男の言葉、女の言葉、下衆(げす=身分の低い人)の言葉をあげています。
例えば、味のよいことを男性は「うまい」といい、女性は「いしい」といいました。これに接頭語が付いて、今日の「おいしい」が誕生したのです
戦国時代の日本では、このように男性言葉と女性言葉が峻別されており、さらには身分上の独特の言い回しがこれに重なり、そのうえでの地方の乱雑な言葉が入り乱れた時勢でもありました。到底、いずれも同じ日本語とは思えないし、聞こえません。
言葉すらが、この調子です。礼儀・仕来(しきたり)の煩雑さは相当なものであり、室町風の武家が操る礼式言語=「外交」には、専門職が成立していました。
室町幕府が成立した折、殿中作法が定まっておらず、諸大名は雑然とたむろし、喧騒するだけで、いずれが上位者か下位の者か、それすら明確化されていませんでした。貴人をそれなりに迎え、応ずる作法がなければ、将軍といえども尊重されるはずがありません。慌てた幕府は、行儀作法に弓馬術――つまり武芸の作法に、禅の「清規」(修行上の約束事)を加えた礼法を、小笠原貞宗に創らせました。これが小笠原流礼法です。
これを当時の流行語では別に、「行儀」といいました。狭くは振る舞い・仕業(しわざ)のことであり、広くは立ち居振る舞いのすべてを指しました。
筆者は、明智光秀が織田信長に最初に認められたのは、この「外交」の専門職としてではなかったか、と推察してきました。加えて、行政官もできれば、合戦の采配を振らせても、光秀は抜群の才を発揮しました。信長の「天下布武」を助け、王手までもっていった最大の功労者は、光秀であった、と筆者は考えています。
その織田家一の出世頭、ナンバーツーともいうべき彼が、ではなぜ、「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?
光秀を「本能寺の変」に向かわせた理由
筆者は、信長とのコミュニケーション不足――本来、筆も文章も得意のはずの光秀が、心身の疲労から、あえてコミュケーションを自ら断つ方向へ向かったことが、何よりも大きかったように思います。
光秀は諸文献上、信長より6歳以上、18歳以下の年上となります。その光秀が、天正4年(1576年)11月に、糟糠(そうこう)の妻を病で亡くし、自らも病床に伏してしまいます。同じ頃、光秀の同僚であり、織田家の最高幹部=方面軍司令官の一人であった佐久間信盛が、大坂本願寺攻めの長期化、不首尾を理由にクビになり、高野山へ追いやられる事件が起きました。
同様に、信長の幼少期から仕えた老臣・林秀貞や美濃併合に活躍した安藤守就(もりなり)などが、それこそ取るに足らないような理由でクビになる事件もありました。
光秀は心身ともに疲れ切った頭で、自分の行く末を考えたことでしょう。九州ゆかりの「惟任(これとう)」の姓と「日向守」の官名を、彼は信長から授けられています。好敵手である羽柴秀吉の中国方面軍の次は、自らが九州征伐に臨まねばなりません。
このとき、光秀は、自らの未来を悲観したのではないでしょうか。すでに、何でも相談できる唯一の、妻もこの世にはありません。疲労した頭でふと魔がさしたように、「今なら信長をなきものにできる」と。
光秀は「空白地帯」の京の都へ、信長が少数の供だけを連れて入ってくることを、誰よりも詳しく知っていました。信長の盟友・徳川家康も上洛中で、堺にいることも、光秀は当然、熟知しています。
天生10年6月2日…
天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺を急襲して、信長を滅ぼしました。6月5日には秀吉の属城・長浜城と丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させています。
しかし、最も頼みとする親戚である細川藤孝・忠興父子への相談は後回しにしてしまい、そのため「三日天下」は決定的となりました。
結局、光秀は「中国大返し」で畿内へ駆けつけた秀吉の軍勢と山崎に戦い、一敗地に塗(まみ)れて、最後は落武者狩りの農民の手にかかって、その生涯を閉じました。
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光秀がなぜ、得意の文章力・コミュニケーション能力を駆使して、「三日天下」を「不朽の天下」にする努力をしなかったのか。いえ、それ以前に、主君・信長との溝をどうして埋めようとしなかったのか。それを筆者も理解できずにいるのが正直なところです。
妻を失ったとき、病後の体調の優れなかった段階で、光秀が得意の文章力・コミュニケーション能力を発揮して、自らの隠退を信長に認めさせていれば、日本の歴史は大きく方向を変えたようにも思われるのですが。
光秀の悲劇は、現代でも形を変えて起こりうるものです。われわれは、先人の知恵・言動に学ぶべきかもしれません。
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