http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanboku/nittatoasikaga.htm 【足利氏と新田氏】 より
南北朝の初期、互いに争った足利氏と新田氏は先祖を同じにする同族同士でした。
源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重(1114~1202)は足利庄を出て上野国新田庄(群馬県新田郡)で新田氏を称し、二男義康(1127~1157)が足利氏を継いだのです。
なぜ長男の義重が足利の家を継がなかったのか、その理由ははっきりわかっていません。作家の海音寺潮五郎氏は義康の母は後妻だったので先妻以上に義国に愛されていたためではないか、と書いています。
注意:新田義重の生年には1114年、1135年の二説がありますが、1135年ですと義康の兄にはなりません。また義康の生年も1116年、1127年の二説があります。
■新田氏
長男でありながら実家を継ぐことができなかった義重の胸中はどんなものだったのか。
とても平常心でいられたとは思えませんし、いつの日か本家を凌いでやる、くらいのことは思ったことでしょう。極端なことを言えば、このことが後の足利氏と新田氏の確執の原因となるのです。
1180年、源頼朝の挙兵を知った新田義重は頼朝の協力要請を断り、独力で平氏打倒を目指し、兵を寺尾城に集結させます。寺尾城は群馬県新田郡とも、高崎市とも言われています。
源氏一族には平氏のように一族皆仲良くして、共に繁栄しようなどという美しい同族愛(?)は一切ありません。我こそは、我こそはという人ばかりで、源頼朝が弟の義経や範頼、同族の佐竹氏を討ったのは象徴的です。
義重の場合、足利を見返す良いチャンスだとでも思ったことでしょうし、頼朝は義重の従兄弟為義の孫にあたります。このため案外頼朝のことを軽んじていたのではないかとも思います。
しかし挙兵したものの兵の集まりが悪く、頼朝の勢力がまたたく間に強大となってしまったので、義重は平氏打倒を諦めざるを得なくなります。そしてこの挙兵が源頼朝の疑心を招き、義重は自ら鎌倉に赴き申し開きをしなくてはならなくなります。
釈明が認められ義重は赦されて帰郷しますが、ほっとするのもつかの間、とんでもない事件に巻き込まれます。
源頼朝の長兄は義平(悪源太義平)といい、新田義重の娘を妻にしていました。
義平は平治の乱の敗戦後、一族が散りじりになった後も平清盛を倒そうとして捕らえられて殺されています。
頼朝はまだ少年だったころこの兄嫁に会ったことがあり、子供心に心ときめいたようです。
鎌倉の主となった頼朝は、ふとしたことからこの兄嫁が義平の死後は実家の新田に戻っており、誰とも再婚していないことを知りました。
昔の思い出が忘れられず、あろうことか頼朝は彼女にラブレターを送ったのです。
困惑したのは新田義重でした。
頼朝の妻北条政子の気性の激しさと嫉妬深さを知らぬものは坂東にはいません。恐怖した義重は慌てて娘を他家に嫁がせてしまいます。
頼朝はやり場のない怒りを新田氏に向け、結局新田氏は鎌倉幕府の中でも要職を得ることはできなくなります。
その後新田氏の子孫は上野国を中心に各地に広がるようになります。その中で最も有名なのは、新田義貞を除けば山名氏でしょう。
山名氏は二男義範が上野国山名郷(現・群馬県高崎市山名)にあって山名氏を称したのがはじまりです。山名義範は父の挙兵以前から頼朝に仕えていたため特別なお咎めはなく、やがて新田氏本家を凌ぐようになります。
山名氏の子孫には室町時代但馬を中心に11か国の守護となり、、全国66か国の1/6の所領を持ったために六分一殿と言われた山名時氏や、応仁の乱の山名持豊がいます。戦国時代には没落しましたが、豊臣秀吉に仕え、明治時代には伯爵となっています。
義重の三男義俊は里見郷(現・群馬県群馬郡榛名町里見)にあって里見氏を称しました。後年安房国(千葉県)に移り、安房里見氏となります。得川氏というのが新田氏の一族にいます。後年、徳川家康はこの子孫を称しました。
■足利氏
一方、足利義康は源義朝の母の実家である熱田大宮司季範の子範忠の娘を妻として、頼朝とは親戚関係にありました。
嫡子義兼は北条時政の娘時子を妻としたため、その関係はさらに密接になります。義兼にとって頼朝は母親同士が姉妹であったことから従兄弟であり、お互いの妻も姉妹同士ですから義兄弟でもあったのです。
足利氏の鎌倉での地位は源氏の最有力者として、北条氏に次ぐものといっても差し支えないでしょう。
さらに義兼の嫡子義氏も北条氏の娘を妻に迎え武蔵守、陸奥守を歴任し、官位も正四位下を得ます。この官位は当時幕府の執権に匹敵するものでした。
このように足利氏は時の幕府と巧みに結びつきその地位を不動のものとし、源氏嫡流が滅んだあとは鎌倉幕府内で最大の実力者となったのです。しかし最大の実力者とはいえ、代々の足利氏当主がそれに満足していたとは思えません。
元をただせば北条など、わが源氏の郎党の家柄ではないか・・・・
その思いが尊氏の代になって爆発したと考えられます。
ところで足利家には代々、先祖の源義家から伝わる「置文」というものがあったと伝えられます。その内容は、源義家が言うには、わが子孫は必ずや天下をとるだろう、という予言書のようなものだったといいます。
しかしこれは伝説であるか、あるいはまったくの作り話でしょう。
源義家は全国の武士達から軍神とまで称えられた名将でしたが、彼の活躍した時代はこれより150年も前であり、その当時は藤原氏の全盛期でした。
そのころの武士の身分はいたって低いもので、天下をとるなどと大それたことを考えるような者は一人もいなかった時代です。武士が天下を意識し始めたのは平清盛等の登場を待たなくてはならなかったのです。
この置文というものが実際にあったとするなら、足利家の当主の誰かが先祖の源義家の名前を借りて密かに作り、伝来の秘文であると称して子孫に伝えていったのでしょう。足利氏の子孫がそれを義家のものと信じ、天下を目指せば文を作った目的は達成されるのです。
またこのようなものが我家にはあるのだと言えば、源義家ほどの有名武将は他にはいませんでしたから、天下の源氏武者への恰好の宣伝材料になるのです。
■倒幕の挙兵
1333年、後醍醐天皇の打倒鎌倉の綸旨(りんじ・・・天皇が発する命令書)を受け取った新田義貞は鎌倉を、足利尊氏は六波羅探題をそれぞれ攻め落とし、ここに鎌倉幕府は滅びました。
太平記によれば鎌倉幕府は相次ぐ反乱に備えるため、坂東六か国から軍勢、兵糧を徴収することにした。新田義貞には軍勢より6000貫の兵糧が割り当てられたため、その無理難題に怒った義貞はちょうど綸旨を受け取ったところでもあるので、挙兵に踏み切った、と記されています。
鎌倉幕府は新田・足利両氏の攻撃で滅びました。
しかしこれは別に両者が示し合わせたことではなく、たまたま倒幕の意志があるところへ後醍醐天皇の綸旨を受けての行動だったのです。新田氏にすれば北条氏への敵意もさることながら、足利氏への反感・・・それは足利氏の知ったことではなかったでしょうが・・は先祖代々のもので、両者が手を組み協力し合ってある目的に向かって突き進むなど到底できる相談ではなかったのです。
その後建武の新政はたび重なる失政で全国の武士達にそっぽを向かれることになり、鎌倉最後の執権北条高時の子、時行が信州で挙兵するとこれに応ずるが多く、時行軍は一気に南下し鎌倉を占領します。(中先代の乱)
鎌倉には足利尊氏の実弟の直義がいましたが敗れて三河まで逃げた時、京都より駆けつけた尊氏軍と合流します。
あっという間に中先代の乱を鎮めた足利尊氏は武士達の信望を一身に集め、鎌倉において朝廷には無断で論功行賞を行うことになります。
これは朝廷への反逆でした。
新田義貞は後醍醐天皇の命により足利尊氏と戦うため鎌倉へ向かいます。
同じ源氏、しかも先祖を同じにする者同士の戦いです。これは両者の確執を知っている後醍醐天皇の策略でした。
緒戦では負けたものの箱根竹の下の戦いで新田軍を破った足利尊氏はその余勢をかって京都に進撃しますが、京都での戦いには敗れ九州に落ち延びます。この時足利軍を徹底的に追撃・殲滅しなかったのが後醍醐天皇の最大の失敗でした。
太平記によれば、絶世の美女と言われた匂当内侍(こうとうのないし)を後醍醐天皇から賜った新田義貞が、彼女を愛するあまり出陣が遅れたため足利尊氏を取り逃がした、とありますが、もとより小説上のフィクションにすぎません。
わずかな期間で九州の豪族達を統合した足利尊氏は再び京都へ進撃し、湊川の戦いに勝利すると新田義貞は後醍醐天皇の命により京を捨て越前で転戦し、その地で戦死します。38歳でした。
鎌倉幕府攻撃時のスタートラインにおいてこの両者を比べた場合、実力は相当の開きがありました。足利氏が鎌倉政権下の最大の豪族だったのに比べ、新田氏は無位無官の小豪族に過ぎなかったのです。
このため全国の武士に対する知名度も足利氏とは比べものにはなりませんでした。
当時の朝廷側の記録に、上野国に新田という者がいる。足利の一族である、と書かれています。新田氏は足利氏から分かれた支族と思われていたのです。
上野国で挙兵したときの新田軍の兵数はどれほどだったのかはっきりしませんが、多くてもせいぜい数百人ではなかったかと思います。(太平記には最初は150人と書いてあります)
しかしその後軍勢は雪だるま式に増えて鎌倉へ突入するときには数万はいたことでしょう。
鎌倉へ進撃する途中で新田軍に合流する豪族が大勢いたわけですが、なぜ彼等は新田軍に馳せ参じたのか。どう考えても新田氏の武力で強制参加させたとか、新田氏の知名度が高かったからとは思えません。
この時北条氏の人質になっていた足利尊氏の嫡子、千寿王(後の2代将軍、義詮当時四歳)が家臣と共に鎌倉を脱出して新田軍に加わわっています。
新田軍に参加した豪族達は、千寿王がいたために真の総大将は足利尊氏であると考えたことでしょう。その証拠に北条氏滅亡後、多くの豪族達は新田義貞ではなく、千寿王のもとに勝利の祝いを述べに行ったと言われています。
これは新田義貞の悲劇でした。
彼がいかに戦上手であろうとも(実際には彼はごく平凡な武将にすぎませんでした)、このスタートラインの差は如何ともしがたいものだったのです。
建武の新政がはじまると、義貞は足利尊氏の勢力増大を警戒する後醍醐天皇によって、尊氏の対抗馬として利用されました。彼が朝廷とわたりあえるほどの政治的手腕を持っていなかったのは言うまでもありません。
少々厳しい言い方をするなら、新田義貞の歴史上の使命は鎌倉を陥落させたことで終わったのです。
足利尊氏が目指したものは第二の源頼朝でした。
しかし彼は頼朝ほどは政治に徹することができず、周囲の勧めにもかかわらず幕府を鎌倉ではなく京都の室町で開いたのは承知のとおりです。1336年、幕府は鎌倉に東日本を統轄させるため鎌倉府を設置し、足利氏の一族を関東管領として送ることになります。
こんなことをするのは関東以東では豪族同士の小競り合いも多く、何かと政情が落ち着かなかったことによります。
関東管領は次第に力をつけて公方を僭称するようになりますが、公方とは当時は征夷大将軍を指す言葉だったのです。同時に関東管領は「関東公方」の家老、上杉氏が称するようになります。このことがやがて永享の乱など、関東の争乱を巻き起こすことになるのです。
足利尊氏は当時最大の実力者ではありましたが、決して彼自身の資質によるものではなく、彼が天下人となりえたのは弟の足利直義、家老の高師直の功績によるものが大きいと言われます。尊氏は戦争は強いが政治はまるでだめ、直義は戦争はヘタでしたが、政治手腕は兄をはるかに超えていたのです。後年この兄弟は政策方針の違いから互いに争うようになり、敗れた直義は尊氏に暗殺されることになります。
南北朝の争いは後醍醐天皇の時代錯誤の政治が最大の原因ですが、それを許した足利尊氏の責任もまた大と言わねばなりません。
ある著名歴史作家(名前は伏せます)は
尊氏が、日本史上の一流人物であり、政治家であり、謀略家であり、かつ英雄であったことは疑いない。
尊氏が帰依して、後醍醐天皇の冥福を祈るため建てた天竜寺の開山夢窓国師は、尊氏の美徳を挙げて、第一に、心つよくして合戦のあいだ身命を賭すべき危機に臨むこと度々に及んだが、笑みを含み、畏怖の色がなかった。
第二に、慈悲はその天性で、人を憎むことを知らなかった。
第三に、心広大にして、物を惜しむ気持がなく、金銀も土石のごとくに人に与えた、と述べている。
戦乱の世の習いとして、尊氏配下の諸将の向背は常ならなかった。しかし、かれは、常に赦した。いちど謀反したものでも、また降伏してくると、温かく迎えた。そういう寛大さが諸将の心をつかんで放さなかったのだろう。
そうした意味で、尊氏は、頼朝、信長よりも人物が大きかったと言います。
私はこの意見には反対です。
心優しく、気前が良いという性格は一人の人間としてみた場合には素晴らしい資質ですが、一国のトップには有害無益なものです。
尊氏は優しい心と甘さによって後醍醐の政治生命を断ち切ることができず、結果としてその後56年も続く南北朝の争乱を許してしまいました。トップに必要とされる資質の一つは非情さなのです。
源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。天下人は皆歴史上指折り(?)の非情さを持っています。
これに対して平清盛は源頼朝・義経兄弟をゆるした心優しい人でした。しかしその後の平氏の運命は・・・滅亡だったのです。
また気前が良すぎたために功績のあった豪族には惜しげもなく領土を与え、結果として守護大名の力が強くなり、相対的に幕府の力は弱まって守護大名を押さえられなくなってしまっています。これはその後の戦国時代の原因の一つにもなりました。
祝日になると尊氏の屋敷には訪問客が持ってくる進物が山のように積まれましたが、尊氏はそれを別の客にどんどん与えてしまうので、夜になると何も残らなかったと言われています。
ホントに気前がいいんですね、この人は。
先にあげた天下人の中で、個人的に友人になるなら尊氏以外にはいません(笑)
でも家臣として仕えるなら徳川家康でしょうね。信長は恐ろしすぎます。
さて、いかに戦場では勇敢で気前が良くて恩賞をたっぷり貰えても、このような事態(南北朝の抗争)を招いた人がどうして政治家として一流の人物でありましょうか。
社長と言うものは一人の人間としては好人物であってもかまいませんが、経営者としては企業を存続させるためには時として非情の決断と実行をせまられることがあり、それができなくては経営者として失格なのです。足利尊氏と言う人は、戦乱の世の政治家としてトップになるには好人物すぎる人だったのです。
この時代、軍事に優れていたのは楠木正成ですが、政治的には一流の人物というのはいません。その意味でこの時代は不幸な時代であったといえるでしょう。
群馬県新田郡新田町は新田氏発祥の地です。
反町館(群馬県新田郡新田町)
新田義貞が青年期に住んだ館跡といわれています。
周囲は堀をめぐらし、今でも水をたたえています。
本堂裏手の庭園にある池は「鳴かずの池」と呼ばれて、義貞が鎌倉攻めを思案しているとき、あまりに池の蛙の鳴き声がうるさいので一喝したら鳴きやんだという言い伝えがあります。
生品神社(群馬県新田郡新田町)
新田義貞の挙兵の地と言われる神社です。
1333年北条氏追討の綸旨を受けるや、新田義貞は直ちに上野国の一族をはじめ各地の諸源氏にも檄をとばし、ついに5月8日生品神社境内で旗揚げをしました。
生品神社では毎年5月8日になると義貞挙兵にちなんで、児童が鎌倉の方に向かって「天誅」と叫びながら鏑矢を射ます。(^。^)
右の象は神社境内にある新田義貞像です。
鎌倉・稲村ケ崎へ侵入するにあたって宝刀を海神に捧げると海が二つに分かれたため、易々と鎌倉に入れたという伝説があります。
義貞がこ引潮現象を利用して、我に天佑あり、と戦意を鼓舞したというのが真相のようです。
当時の上州武士達には海の知識なんて皆無だったでしょうし、海を見るのも初めてのことだったでしょう。おそらくこの現象を知っている人がいて、義貞に智恵を授けたのでしょう。
分倍河原古戦場の碑(東京都府中市)
小手指原(埼玉県所沢市)の戦いで北条軍を破った新田義貞は、続いて分倍河原で北条軍と対峙しました。
緒戦では敗れたものの体勢を立て直した義貞は5月16日の決戦で北条軍を破り、その勢いをもって鎌倉へ向かったのです。
5月22日鎌倉は陥落し、北条氏は滅亡しました。挙兵してわずか2週間後のことでした。
右の写真はJR南武線の分倍河原駅前にある新田義貞像です。
金山城跡(群馬県太田市)
金山城は1469年、新田氏の一族岩松家純が築城しました。自然の地形を利用して築城された典型的な中世の山城で、関東七名城に数えられていなす。(国指定史跡)
この城を攻めた敵は多く、1472年古河公方が、1563年に武田信玄、1566年には上杉謙信が攻めたがことごとく失敗し、城はその堅固ぶりを十分に発揮しました。
国指定史跡
大光院(群馬県太田市)
1613年、徳川家康が、始祖新田義重を弔うために建立された寺です。徳川家康は本当に新田氏の子孫なのかと言えば、ま、ウソでしょうけれど(笑)、家康自身はそう称しています。
右は境内にある新田義重の墓です。正確に言えば義重の墓と伝えられているものです。
足利氏の根拠地である栃木県足利市は群馬県に隣接しています。
鑁阿寺(ばんなじ)(栃木県足利市)
源義国および義国の2代にわたって造営された足利氏の居館跡です。義康の子義兼により鑁阿寺として1196年開創され現在にいたっています。境内には本堂をはじめとして多くの建物があり、また古文書なども鑁阿寺文書として残っています。
国指定史跡
足利学校(栃木県足利市)
足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかにされるのは、上杉憲実(室町時代)によって現在国宝に指定されている書籍が寄進され、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を中興したことによります。
また、天文年間(1550年ころ)には『学徒三千』といわれるほどになり、フランシスコ・ザビエルにより『日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学』と世界に紹介されました。
しかし、江戸時代の末期には『坂東の大学』の役割は終了し、藩校へと移行し、明治5年をもって廃校になりました。
そして、昭和57年『史跡足利学校跡保存整備事業』に着手し、平成2年12月江戸中期の姿に蘇りました。 (足利市ホームページより)
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