金子兜太の〈現在〉 : 定住漂泊 / 齋藤愼爾 編集

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金子兜太の〈現在〉 : 定住漂泊 / 齋藤愼爾 編集

東京 : 春陽堂書店, 2020.9

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030647620-00


https://note.com/muratatu/n/n736eeec26dbd  【『金子兜太の〈現在〉 定住漂泊』をめぐって】より

武良竜彦(むらたつひこ)

『金子兜太の<現在> 定住漂泊』

齋藤愼爾 (編集) 春陽堂書店 2020年10月5日刊

出版社による紹介文

戦後の俳壇界において、常に先頭に立って戦い続けた「金子兜太」。

わが道を貫き、平和を希求してきた俳人の全容を、齋藤愼爾氏編集により現す!

著名人たちとの数々の対談、評論、晩年の俳句を再編集した、貴重な一冊がここに誕生!

     ※

◎ 私の兜太に対する一視座

 編集に当たった齋藤愼爾からの要請で、本書に私も「兜太の〈今日の俳句〉とそれ以後」という小論考を寄せている。

 今兜太の俳句の業績を振り返るとき、現代俳句に果たした意義の考察も大切だと思うが、戦後俳句、社会性俳句からの離れ方、そしてその後の言動は批評的視座で検証することが、その「兜太的問題」を、現代俳句がどう超克していくかという意味でとても大切だと思っている。

 その視点から私は前半で兜太の「今日の俳句」で提示した「俳句論」の意義を振り返った上で、後半は兜太のべた「存在者」の限界について婉曲的に論評した。

 兜太の「存在者」は偏に自分の存在を肯定的に謳いあげるという自己の生き方という「態度」のことしか述べられていない。そこには戦後、人類規模で人間という存在が、人間自身に対して「加害的存在様式」に変貌してきているという、文学的にも重要な課題に届く視点が欠落している。この問題を抜きにした「存在論」などに文学的価値はない。

 そのことについての違和感は、かつて俳句は「象徴詩」であるという論陣を張った兜太が、言葉の象徴性と逆立するような痩せこけた言葉によるスローガン的で、直接的な表現を是とした「態度」にも、そして「土」「定住漂泊」や「一茶」の評価の仕方にあるどこかズレた視点にも共通するものだ。

 以下、私の小論の後半部に一部を摘録する。

     ※

 戦後第二世代は70年代に思春期から青年期を迎えている。第二次安保世代以降の世代であり、この世代はさらに団塊・全共闘世代と、それ以後でものごとの捉え方に違いが見られるようだ。

前者は高度成長期のまっただ中にあり、それ故の社会的歪みの顕在化が同時進行だった世代であり、後者は社会の歪みが決定的な様相で恒常的に存在した時代に思春期を送った世代である。

この後者の70年代に思春期を過ごした詩人・俳人の意識には、それまでの歴史・文化との不連続的な孤児性がある。表現の上では一元的な主題性の表現に絡めとられることへの、潔癖なまでの拒否感を持つ失語症的な表出となって表れている。既存の価値観・言語表現観への徹底した不信感がある。

この世代の一人で、かつて鈴木六林男の門下にあり、現在は「575」という個人編集発行の俳誌で表現活動をしている高橋修宏が含蓄に富むことを述べている。

暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男

暗闇の下山くちびるぶ厚くし  金子兜太

この二句をめぐってこう述べている。

  ※

「暗闇」をめぐる二つの俳句の隔たりと、その間に広がるものこそ、戦後俳句と呼ばれる荒涼とした領土のひとつであったと、いま差しあたり考えてみることができるかもしれない。

わたしたちは、その荒々しい豊饒な領土を、どのように見ればよいのか。語りつづけることができるのか。あるいは、すでに失いつつあるのだろうか。

  ※ 

戦後の俳句表現における問題点を、この二句の対比で象徴的に指摘する高橋修宏だが、たしかに戦後俳句表現には、そのような層的な分裂というか、住み分けのようなものがある。彼は兜太の句については何も言及していないが、兜太の「暗闇」が「下山」する身体的状況だけを覆う、目先の利かなさの中の、自分という存在の確かさを頼りにしている感覚と、六林男の「暗闇」は確かに異質だ。

六林男の「暗闇」は視界不良の得体の知れない広がりを持って自分を囲繞する情況であり、ただ「泳ぐなり」という意思的ではないぎりぎりの人間的な自己表出だけがある。

戦後は「身体性」を基調とした「存在」の有り様そのものが、疑われてゆく時代だったという認識の者にとっては、六林男の句の方に深いシンパシーを感じるのではないか。

この世代にとって、まさに自分を囲繞する情況が、得体の知れない「暗闇」のように感じられているのは頷けることだ。

近代以降の人間とその社会の存在様式自身が、人間を含むあらゆることに対して加害的になってきていることが認識され始めた時代に、俳句表現のことを考えなければならなかった困難を、最初から引き受けざるを得なかった世代でもある。

彼等はまず次のように自問することから始めざるを得ない世代だ。

あらゆる言語表現が、ものごとから遊離してしまう言葉の失効性が顕な時代に、その言語そのもので切り結ぶことが可能なのか。

地球規模の生命の危機を含む、人間としての存在論的な危機を見つめ、簡単に答えなど得ることができない永遠の問いかけをするのが文学の存立的契機ではないかという思いが根柢にあるように見える。

兜太が唱えた表現主体論を言語主体論として当然のこととしつつ、言語表現が纏う主題性が直接的な意味文脈に回収されることへの、潔癖症的な拒否感があるようだ。

彼ら「前衛系」の俳人たちが構築してみせる俳句世界はそれぞれ違うが、ある共通点がある。彼等がそのことに自覚的かどうかは別問題として、最先端の哲学的思潮を反映しているように感じられる。

たとえば高柳重信が、伝統俳句に対するアンチテーゼとして、もっと多様で自由な表現形式があってもいいはずだという思いから、多行形式俳句などに挑んだときの「俳句は形式が書かせる」という言葉には、まるで哲学の構造主義のような響きが感じられる。

そして高柳に師事して新しい表現に挑戦した俳人たちのその後の試みには、表現内容の脱・構造主義的な面が感じられる。

そこからさらに脱構築的な手法へと各自それぞれの表現を切り拓いてきているように見える。俳句の言葉の解体と再構築である。

そしてそれ以後のポスト・モダン的な思潮が抱え込む、世界にはあらかじめ意味あるものなど存在しないというようなニヒリズム的側面を超克しようとする試みがなされているようだ。

無意味に意味を見出す逆説的な反転思想ではなく、無意味であることをそのまま受け入れて生きることに生じる諸問題を、哲学的に再考しようとしている思潮の反映が覗えるようだ。

俳句表現に引き付けて言えば、言葉も含めて既存のあらゆる価値観にも依存しないが、今自分が表現をする限定的な創作行為において、できることを為し、その成し遂げたことも疑い検証するという、無限の営為の中に創造的営為を置き直すという詩法と言えるかもしれない。

そうなると当然、その表現方法も俳人各自の、言葉との格闘の結果獲得され、獲得された途端に疑われてゆくことになる。

兜太以後に表現論的な纏まりのある論考が確立さていないという評言に接することがあるが、それをもって兜太の詩論が、後続の世代の俳人にとって、今も有効な表現方法論であることを保証するものではない。

兜太のように先行する詩法への批判意識に立脚する、統一的な表現論自体が成立しない地点まできているのである。

後続の特に「前衛」的な位置にいる俳人たちにとって、俳句表現の統一理論など不可能であるように感じられているはずである。

もはや時代はそんなものを必要としない、多様性の時代の孤独な営みの中にしか、俳句の創造はないという認識のように見える。

そのような認識と各自の方法の絶えざる模索が、「兜太以後」という俳句表現の現状であり、とりあえず一つの「新しいかたち」と言えるのではないだろうか。

       ※

要約すれば私の小論の主旨は「戦後は身体性を基調とした存在の有り様そのものが、疑われてゆく時代」であったということであり、そんな中で無邪気に「存在者」であることを肯定的な視座だけで、俳句表現の核に謳いあげる兜太には、そのことに対する視座が欠落しているのではないかということを、間接的に述べたところにある。

◎ 渡辺誠一郎の「一茶に兜太を重ねて」

本書の中で私がもっとも共感したのは、渡辺誠一郎の「一茶に兜太を重ねて」という論考である。「兜太の原郷への屈折感のなさ」に注目して、そこに違和感を表明している。兜太の一茶崇拝の意識と、一茶との間に防ぎようのないズレがあることを論証的に批評している。以下、それがよく表れている箇所を摘録する。(抜粋順不同)

      ※

 先にふれたように、「俺は死なない。この世を去っても、俳句となって生き続ける」とする「存在者」、兜太の言葉が気になる。

たしかに素のままで自由に生きることを意味する「存在者」ではあるが、一日一「存在者」と名乗った瞬間、別物に変ってしまうのではないかと危惧するのだ。一茶が自らの境遇を受け入れて内面化したのとは違い、兜太は外側に明るく向かうようだ。兜太はかつて、一茶の生き方を「求道者」ではなく「非求道者」に近いと述べたことがあった。一方兜太が「存

在者」と名乗った途端、その言葉の位相は逆転して、「求道者」となってしまうのではないかと思えるのだ。

 しかし「存在者」とは、少なからず大見得の観がある。あえてこの言葉を持ち出さずとも、普通に生きることではないかとも思えてくる。普通に生きることこそが難しく重い。声高に存在者と語るほどのものであるのか。多分に押しつけがましい。

 これは、過酷な戦中体験に始まり、俳句の前衛論争などに象徴される俳壇での戦いなどで得た確証と自信が、兜太をそうさせるのだろうか。そこが兜太らしいといえばその通りだ が、どこか危なっかしい。同じ荒凡夫の言葉も、一茶においては、やむに已まれぬところで選び取ったいわば「内側の境地」であるが、兜太のそれは、自らの意志によって勝ち取った、目指すべき境地に近い。それはあくまでも己自身を際立たせ、外側に向かうのである。たとえば、東日本大震災を詠んだ《津波のあとに老女いきてあり死なぬ》を見ると、確かに強い祈りの句ではあるが、「死なぬ」と言った途端、老女の姿以上に兜大の姿が強く浮かび上がる構図である。 

一茶の話に戻ると、私が一番気になるのは、一茶が農民の子としての「血」を消し去ることが最後まで出来なかったことである。その割り切れない心情を普通に吐露するところが茶の魅力であるし、ある意味では一つの紛れもない境地であるように思う。

一茶の農民を捨てた心境の痛烈さは驚くほどだ。まさに罰当たりの心境をそのまま引き受けざるを得ない農民の血がそう思わせるのだろう。しかしここに一茶の生の極み、句境の極みを見る思いがする。それゆえ、業俳の世界に身を置いて世間の評価を得たとしても、一生わり切れず、満足する境地にはなかった。

  兜太の救いの認識は少々素朴過ぎる。私にはそう単純には割り切れるものかは疑問である。あれだけ自らの不耕徒食を責める一茶の心境を考えると、幾度の屈折の果ての帰郷であったに違いない。《江戸じまぬきのうふしたはし更衣 一茶)と詠うように、都会である江戸への違和感を抱え、その裏返しとしての〈ふるさとの土〉も確かにその理由の一つかもしれない。しかし少なくとも心の平安を故郷へ求めていたのではなく、ましてや土への郷愁などではない。

  兜太の救いの認識は少々素朴過ぎる。私にはそう単純には割り切れるものかは疑問である。あれだけ自らの不耕徒食を責める一茶の心境を考えると、幾度の屈折の果ての帰郷であったに違いない。《江戸じまぬきのうふしたはし更衣 一茶)と詠うように、都会である江戸への違和感を抱え、その裏返しとしてのくふるさとの土》も確かにその理由の一つかもしれない。しかし少なくとも心の平安を故郷へ求めていたのではなく、ましてや土への郷愁などではない。

兜太には過去の故郷と晩年に思う故郷は連続してある。故郷は変わらないというよりも、兜人が変わらなかったということになる。一茶は故郷に帰るが、かつての一茶の生きた故郷ではなかった。先に述べたようにそれは一茶自身が農の世界から遠くへ来てしまったことに他ならない。兜太は違う。失うべき故郷を最初から死ぬまで持たなかったとも言えるのだ。

原郷への屈託のなさは、兜太の故郷と同化する稀なる資質なのか、単なる幸運なのかよくわからない。

原郷秩父の月を妻と一緒に眺めていている兜太は幸せである。

故郷から東京、そして熊谷に移っても、兜太の故郷への喪失感はなかったのだ。一茶のように「孤化」していない。むしろ中年以降に改めて原郷にしっかりと《非土着者として定着》したといえるだろう。いずれにしても、一茶と兜太の原意識は、土着・非土着の位相の中で、絶妙にねじれているのである。

 兜太の存在は、確かに人なつっこく人間味に溢れていた。

兜太は、時代が残した多くの爽雑物の混じった魅力ある「異物」として、俳句の世界に長く記憶されていくのではないか。

それゆえにこそ、兜太のマニュフェストに惑わされることなく、われわれは常に兜太の素に向き合っていく必要があるように思うのだ。

  ※

兜太のその「原郷」に意識の「屈折感のなさ」については、兜太が熱弁をふるった「土」とか、「定住漂泊」の認識の、一種のほがらかすぎる脳天気さに私も違和感を抱いていた。

渡辺誠一郎はそれをこのような筆致で、個人的な印象のレベルを超えた論証的な緻密さで批評している。

  

◎ 大井恒行の「兜太の挫折」

次に共感したのは、大井恒行の「兜太の挫折」で、その結びの文だけを次に摘録する。

     ※

 思えば、金子兜太もまた、人間の生きかたと俳句形式をからませたときから、情況の変貌とともにある人間の喜怒哀楽に表現の背景を求めたといえよう。それは、必然的に、金子兜太の肉体の自然過程、情況の変貌に対応する思考を手ばなさなかったことにおいて、あまりに情況的な金子兜太の貌を見せているのでもある、といえる。

     ※

 兜太の言動が「情況的」であったと言う大井恒行の指摘は、ずばり核心をついた視座だと思う。そこに先述した渡辺誠一郎の論考にも共通する、「ズレ」のようなものの在処を感じる。この視座は私の小論の主旨である「存在」についての視座のズレと重なる問題ではないだろうか。

◎ 坪内稔典の「金子兜太論 その〈戦後俳句〉」

 次に共感したのは、坪内稔典の「金子兜太論 その〈戦後俳句〉」である。これもその結びの文だけを以下に摘録する。

     ※

 このたび『短詩型文学論』を再読して気付いたのだが、金子は、そこに「それにしても随分長い間、ぼくは方法論に頭を突っ込んでいたものだと思う。この気持はやや苦い」と書いている。(略)

 文学における方法とは、新しいことばを獲得すること、つまり、その新しいことばに出現する人間に出会うことである。

とすると、方法を追求することのみが文学的な行為なのだと言い切ってもよい。方法論へのかかわりを《苦い》と思うようになったとき、金子は《戦後俳句》から離れようとしていたのである。

    ※

兜太の「土」「原郷」「定住漂泊」と一茶評価などの言説、俳句論は、坪内が指摘するように「方法論へのかかわりを《苦い》と思うように」なってから、「方法認識」なき「態度」の表明として顕在化してきたものだ。「社会性」を個人の態度の問題だと言った兜太は、方法論として「社会性俳句」の限界を超えようとしたのではなく、「態度」の問題ということとで、自分自身の気分を変えたのではないだろうか。

かつての「社会性俳句」の「社会性」は、敗戦直後からしばらくの間、社会主義思想的なものに限定されていた一過性のパラダイムに捉われていた。

文学における「社会性」とは、もっと広い視野における、文学が社会と表現論的にいかに切り結ぶことが可能かと自省的に問うことで可視化されるものである。

兜太にも戦後の「社会性俳句」にもその視座はなく、その視座をもってその限界を超克してきたわけではなかった。これは兜太だけの問題ではなく、現在に続く俳句表現上の課題ではないだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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