金子兜太――俳句を生きた表現者

Seth@cazusci

【本棚登録】『金子兜太 〔俳句を生きた表現者〕』井口 時男 https://booklog.jp/item/1/4865782982?type=post_social&ref=twitter&state=add #booklog


http://blog.livedoor.jp/hojo9m2/archives/57656088.html 【『金子兜太――俳句を生きた表現者』目次】 より

 *以下の目次によっておよそ推測していただけるかと思うが、私は、俳句というものを広く近代文学(&戦後文学)の中で、金子兜太の戦後の歩みを激動の戦後精神史の中で、とらえることを心がけた。

目次

一 はじめに―金子兜太論の方へ                 

  1「東北白い花ざかり」

  2「兜太三句」

  3「金子兜太とドストエフスキー」

二 前衛前史―生立ちから社会性俳句まで(年譜に代えて)

  1秩父と父母と

  2青年期の俳句

  3トラック島という戦場

  4戦後の歩み―「第二芸術」論から社会性俳句へ

  5六〇年以後概略&句集一覧

三 前衛兜太(一)―無神の旅へ                  

  1前衛たちの「一つ火」―赤黄男と修司と兜太

  2社会性と政治性と文学性

  3社会性とイメージと超現実

  4「無神」という言挙げ

  5肉体と土俗―六〇年代前衛として

四 前衛兜太(二)―イロニーから遠く離れて            

  1金子兜太はイロニーを知らない?―三鬼と兜太

  2文学とイロニー

  3俳句とイロニー

  4イロニーと社会性―草田男の場合

  5社会性と私性―草田男と楸邨

  6イメージは「行動する」―スローガンと述志

  7芸術性と社会性―兜太と重信と塚本邦雄

  8「創る」ことと「成る」こと―兜太と人間探求派

五 還相(げんそう)兜太(一)―大衆の方へ、「非知」の方へ           

  1嬉しく生きている素振り―吉本隆明と七〇年代的転向

  2軽みとイロニー―坪内稔典の「ゼロの句法」

  3「衆の詩」―金子兜太の「転向宣言」

  4還相の兜太―山頭火と即吟性と「非知」

六 還相(げんそう)兜太(二)―野生とユーモア                 

  1「太い」人、「野」の人―「アカルサハ、ホロビノ姿」か?

  2「自然」への撤退―実存性と社会性

  3一茶と兜太―「景色の罪人」から「原郷=幻郷」へ

  4イロニーとユーモア

  5野生とユーモア―糞(まり)句と笑いの俳諧(俳句)史

  6「非知」とユーモア―二物遭遇の世界へ

http://blog.livedoor.jp/hojo9m2/archives/57656145.html 【『金子兜太――俳句を生きた表現者』あとがき】 より

あとがき

『金子兜太』カバー折返し 本書は「兜太 TOTA」一号から四号に連載した「前衛兜太」に大幅に加筆したものである。新型コロナウイルスのために逼塞を強いられる日々での仕事だった。

 執筆に際しては、「外部」からの観点を大事にするよう努めた。私が俳句界の「内部」などまるで知らないせいでもあるが、案外これが本書の取得になっているかもしれない。

 具体的には、ジャンルの特殊性(という名目)に閉じこもりがちな俳句を詩や短歌や小説といった文学全般の中でとらえ、俳人・金子兜太の歩みを戦後表現史や戦後精神史の中に位置づけることである。それは造型俳句論で金子兜太自身が志向したことだったし、また、こういう「外部」の観点に耐えられる俳人は金子兜太ぐらいだろうとも思う。

 つまり私は、ふつうの文芸批評の方法で、一般の読者に向けて、書こうとしたのである。

 そのため、時にはかなり理詰めになったり、時には兜太からも俳句からも遠く離れたりして、いわゆる俳論や俳人論を読みなれた方には「野暮」と思われる書き方になった部分があるかもしれない。「野暮」とは「内部」の暗黙の作法を知らない者のふるまいを意味するのだから。

 しかし、そもそも金子兜太は俳句や俳壇という狭い枠を大胆に踏み越えた存在だったのであり、閉じた小世界での「洗練」など意に介さず、現実世界の荒々しさへと開かれた「野暮」の方を好んだ人だったのだ。

 ともあれ私は、戦中戦後を生き抜いて九十八歳の長寿を全うしたこの堂々たる「存在者」、俳句歴だけでも八十年に及ぶこの稀有な「表現者」の世界に、正面から、取り組んだつもりである。本書が俳句の「内部」の読者のみならず、「外部」の読者にも、広く読んでもらえれば幸いである。

 私は以前、第一句集『天來の獨樂』に収めた短文で、「俳句が詩を羨望することの必然性と俳句が詩になることの不可能性とを、同時に知った」と書いた。それは前衛・富澤赤黄男についての感想だったが、加筆を終えたいま、同じことを思う。

 金子兜太は俳句が「詩」になることの可能性と不可能性を、「社会性俳句」から「前衛俳句」へと遮二無二表現の高度化を推し進めた「往相」(ほぼ一九七〇年代前半まで)と、大衆的な平明さへと、また「原郷=幻郷」へと、還ろうとした「還相(げんそう)」(ほぼ一九七〇年代後半から)とに、振り分けて生きたのだ。しかも往相においても還相においても規格外の表現者として俳句を生きたのだ―と。

 「現代」の表現者としてお前は「詩」を志向しなければならない、しかし俳句の作者としてお前は「詩」を志向してはならない―富澤赤黄男のように、金子兜太のように、我々もやはり、このダブル・バインドの声を聴きつつ各自の試みを続けるしかないようだ。

 なお、言わずもがなのことながら、私自身は実作において金子兜太のあとを追うものではない。金子兜太は唯一無二。あとを追ったって無駄だ。私自身は晩年の兜太の野太いユーモアを感嘆しつつ遠望しながら、いまはむしろ、イロニー的屈折性と間テクスト的重層性の可能性につきたいと思っている。

 最後に、黒田杏子さんに心からの感謝を。第一章に書いたとおり、なにしろ黒田さんに声をかけてもらわなければ金子さんにお目にかかることもなかったし「兜太 TOTA」の編集に携わることも金子兜太論を書くこともなかったのである。この奇縁のすべては黒田さんのおかげなのだ。しかも黒田さんからは「俳句を生きた表現者」という本書の副題ももらい、帯文までもらった。

 そして、出版を快諾してくれた藤原書店社主・藤原良雄氏と、編集実務を担当して索引まで作ってくれた刈屋琢さんにも、感謝。


http://blog.livedoor.jp/hojo9m2/archives/57656013.html 【新刊『金子兜太――俳句を生きた表現者』】より

『金子兜太』カバー 『金子兜太――俳句を生きた表現者』を昨日(2021年1月30日)上梓した。定価2,200円+税。藤原書店に感謝。

 雑誌「兜太 TOTA」の1号から4号に連載した「前衛兜太」に大幅に加筆したもの。一般読者にも読みやすいはずである。

 金子兜太は戦後最大の俳人。一般には、2015年7月、澤地久枝の依頼を受けての「アベ政治を許さない」の揮毫で知られる。

 (こちら、日刊ゲンダイのページに、自身の揮毫を掲げた金子兜太の画像付きの記事あり。これを揮毫したために政府の機嫌を損じて文化勲章受章を逸した、と噂されたそうだ。)

『金子兜太』帯&背 「俳句を生きた表現者」という副題も帯文(右画像)も黒田杏子さんからいただいた。(「あとがき」参照)

 さすがに帯文の「句友」はあまりに過褒、おそれいったが、黒田さんいわく、金子さんは年齢や性別や結社にこだわることなく人間に接した、兜太さんはあなたに逢えて本当にうれしかったはずだ、だからこれでよいのだ、と。

 晩年の金子兜太に寄り添い続けた黒田さんのご判断、ありがたく頂戴した。

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