ヒスイの女神

Facebook・清水 友邦さん投稿記事「ヒスイの女神」

ヌナカワ姫 (沼河比売・奴奈川姫)は古事記に登場する越(富山・新潟)の国のヒスイの女王です。

縄文中期(五千~四千年前)の糸魚川はヒスイ加工の拠点があり、その頃は人口が最も多く27万人と推測されています。

縄文後期になると寒冷化がすすみ晩期になると人口は7万人まで落ち込みます。

そのころに大陸から稲作文化を持った人々が渡来してきて縄文時代は終わりを告げます。

弥生になり大陸から稲作と同時に、金属性の鉄剣や銅剣などの武器が伝来すると大規模な戦いが始まりました。

鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡からは弥生時代に凄惨な戦いがあったこと示す人骨が多数出土しています。

1世紀の日本を記した『漢書』地理志には100あまりの「クニ」があったと記されています。

國という字は「弋」(くい)と「囗」(かこい)の合わせ字になっています。「弋」(くい)には「地中に打ち込んで目印にする杭」「獲物を捕らえる繳(いぐるみ)」「奪い取る」の意味があります。

古代は「口」だけでクニを意味していたのですが、クニとクニが争うようになると、武器である「戈(か・ほこ)」を取って「口(かこい)」つまり境界線を争うようになりました。

そして、「戈」と「口」が合わさって「或」となり、さらに大きな口が合わさって國という字ができたのです。

縄文時代から人を殺す武器が見つかっていませんので弥生以前の日本は集団で殺し合う大規模な戦争はなかったようです。

本格的な農耕が始まるとコメという富をめぐって国同士が土地を争うようになりました。

「倭国大いに乱れ。更(こもごも)相(あい)攻伐して歴年主(ぬし)なし」と弥生時代後期の2世紀後半の日本に争乱があったことが『後漢書』東夷伝にでてきます。

古事記にヤチホコ(八千矛命)が越(新潟県を含む北陸地方)にやってきてヌナカワヒメに妻問(つまどい)をする話が出てきます。

古代日本は母系だったので子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続しました。男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通ったのです。

「よばい」の語源は「夜這い」ではなく互いの名前をよばわりあったから、よばいというようになったといわれています。言葉には呪術的な力があり、相手に自分の名前をあかすのは愛を受け入れる証でした。

糸魚川市では『古事記』の話をヌナカワ姫とオオクニヌシのラブロマンスとして「奴奈川祭り」をしています。

しかし、『古事記』に出てくるヤチホコの「家の戸を、無理に開けようとしたら、鳥が騒ぐのでこの鳥たちを殺してしまいたい」という言葉は穏やかではありません。

ヌナカワ姫の「どうか鳥たちの命は助けください。」は武力による圧力を受けていたように受け取れます。ヤチホコが沢山の矛(ホコ)という意味がある通り、武力と関係しています。

ヤチホコ(八千矛神)はスサノオという説もありオオクニヌシ大国主は個人名ではなく国を治める役割の名称なので、歴代の支配者の数だけ大国主がいたことになります。

『出雲国風土記』には『大穴持命(オオクニヌシ)、越の八口(今の新潟県)を平げ賜ひて還り坐す』という記載がでてきます。

オオクニヌシは武力を背景に越の国(新潟県を含む北陸地方)を支配下においたようです。縄文の人々は満足な武器を持ってはいなかったので金属製の武器を持った人々はやすやすと侵入できたでしょう。

1665年(寛文5年)に出雲大社の境内の命主社(いのちぬしのやしろ)の背後の大岩の下から長さ35ミリの美しい糸魚川産のヒスイ(翡翠)の勾玉が銅戈(青銅で作られた祭礼用の戈)と一緒に発見されています。

北部九州では銅矛が祭祀の時の重要な祭器でした。

オオクニヌシは九州、宗像のタキリビメ(田霧姫)とも結ばれています。

オオクニヌシは九州と越の国に勢力を広げたのです。

出雲のオオクニヌシは越の国(高志国)で侵略者として見られていました。

糸魚川に昔から伝わる伝承ではオオクニヌシとヌナカワ姫を祝う伝説は少なく、出雲が攻めてきて、ヌナカワ姫を連れ去り、逃げ帰ったヌナカワ姫がオオクニヌシ・出雲族に追われて姫川沿いに逃げて自殺する悲劇の伝承が多いのです。

姫川の上流の松川に姫ヶ淵という深い淵があって、ここはオオクニヌシの手先に追われた奴奈川姫が入水自殺した場所なので、姫ヶ淵というようになったという伝承があります。

姫川の名もこれから出たといいます。

オオクニヌシは越のヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)をなかば力ずくで娶って、越の国に支配を広げたのでしょう。

『古事記』と『出雲風土記』によれば国譲りに最後まで反対したタケミナカタ(建御名方神・御穂須須美命)はオオクニヌシとヌナカワ姫の子供となっています。

ヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)とヤチホコ(八千矛神)の息子タケミナカタ(建御名方神)は縄文の地、諏訪に攻め入り先住民のモレヤ神と戦い諏訪(長野県)の支配者となりました。

タケミナカタ(建御名方神)は「諏訪大社」の祭神として祀られモレヤ神(守矢氏)は祭祀を司る神長官となりました。

日本では大陸のように征服者が先住民を皆殺しにするようなことはしなかったのです。

沼河比売を祭神とする諏訪の御座石神社では息子の建御名方神(タケミナカタ)と母の沼河比売が晩年を諏訪で一緒に暮らしたという伝承があり、御座石神社例大祭では鹿の肉とともに神前に供える「どぶろく祭り」が執り行われています。米は弥生、鹿は縄文の象徴です。

新たに海を渡って現れた渡来民は先住民の姫と婚姻関係を結んで、生まれた御子を長に据えました。

そうして母系の縄文と和合させて男性が支配者となり弥生時代になったのです。

渡来民は先住民の祟りを恐れたので先住民の長を制圧者の先祖を守護する祭司としました。

先住民の呪力を支配者の守護としたのです。

縄文時代は女性が祭司でしたが戦いが始まると軍事リーダーの男性が優位になり祭司権も男性に変わってしまったのです。

ヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)の「ヌ」は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の「ニ・瓊」、と同じく、輝く宝石がもつ呪術力の意味があり翡翠(ヒスイ)のことを古代はヌナタマと呼んでいました。

翡翠の耳飾りは精霊の声を聞きやすくする働きがあると信じられていました。

勾玉の形は霊魂を現していると言われています。

魏志倭人伝に卑弥呼の後継者のトヨが勾玉を魏に献上したとありますが糸魚川産の翡翠だったのでしょう。

糸魚川では縄文の中期(紀元前5000年)頃から流線型の大珠(タイシュ)が作られ、次に日本にしかない独特の形をした勾玉へと形を変えて作られていきました。

新潟県糸魚川産のヒスイ(翡翠)の大珠は世界でもっとも古い翡翠製品です。北海道まで運ばれ、青森県の三内丸山遺跡からも糸魚川産のヒスイ(翡翠)が出土しています。

弥生中期になるとヒスイ(翡翠)の勾玉は北部九州の甕棺墓(かめかんぼ)の副葬品として朝鮮半島の5〜6世紀の遺跡からも勾玉が多数出土しています。

皇室の三種の神器の1つの八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は糸魚川産の翡翠(ヒスイ)の勾玉といわれています。

古代の人々はヒスイ(翡翠)が病気平癒や念願成就や家内安全などの災いを払いう霊力を授けてくれると信じていたようです

埋葬時にヒスイを副葬品として埋めたのは、ヒスイに死んだ人を蘇らす力や死後の旅の安全を守護する力があると考えていたからでしょう。

古墳時代中期(5世紀後半)に入ると呪術と関係が深いヒスイは必要とされなくなりヒスイの勾玉は急速に減少していきました。

女性原理から男性原理が優位になると墳墓の副葬品は呪術的なヒスイよりも金属製の武器が多くなったのです。

古墳時代をすぎて6世紀に入り仏教の時代になると呪術と関係が深い翡翠(ヒスイ)の勾玉は完全に消えてしまいました。

翡翠(ヒスイ)の原産地は長い間忘れ去られ日本にはヒスイの産地がないとされ、発掘されたヒスイは大陸から持ち込まれたものとされていました。

ヒスイ原石が糸魚川市の姫川で再発見されたのは1939年になってからです。

日本と中国の戦争が始まっていた頃、良寛さんを世に出した糸魚川の偉人・相馬御風(そうま ぎょふう)が知人昔奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話を知人にしたことがきっかけでヒスイの原石が姫川上流小滝川周辺で再発見されました。

ヌナカワ姫がヒスイの女王として彫刻の像が建てられたのは戦後になってからです。

「よみがえる女神」出版の報告に糸魚川を訪れた時に美しい虹が日本海にかかりました。

一千年以上忘れ去れていたヌナカワ姫が現代によみがえったことが祝福されたようでした。

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