http://nsweb.cocolog-nifty.com/diary/2008/02/post_b453.html 【越前、越中、越後??】より
以前から「自分の住むとろは加賀、福井県は越前、富山県は越中、新潟県は越後と呼ぶがどうしてだろうか」と不思議に思っていた。
富山は立山連峰などの峠のようになっているので越なのかと勝手に想像していた。
環境考古学の安田喜憲教授の記事をみていたら、当地方の地名のいわれにハッと気づいた。
出展 2008.12.28エコジャパンインタビュー記事より
安田先生によると、紀元前400~紀元後100年、中国長江流域にいた「呉」「越」などの稲作漁労民族民が、「漢」など黄河流域からやってきた畑作牧畜民に追いやられてボートピープルとなった難民が、各地に広がり、稲作漁労文明を根付かせた。
その一部が日本にやってきた。日本海側にやってきたのが「越」、九州地方にやってきたのが「呉」で、邪馬台国は「呉」の流れをくむらしい。
日本海側では、7世紀、越中国の政庁は高岡市伏木に置かれていた。
それで、富山地方は「越中」なんですね。
納得!
ところで加賀の名前はどこからきたか。
全国に「加賀」「敦賀」「滋賀」「伊賀」など「賀」のつく地名は沢山ある。
語源探索によると、「賀」とは、盆地や周りを山で囲まれた川の流域を言うらしい。
ひとつ利口になりました。
コメント
「越前、越中、越後??」読んでの感想を述べますと時代的に少し「あらっぽ過ぎるので」紀元前400年から紀元後600年となれば五百年から一千年の開きがありますので、やはり日本国では文字が出てくる時代から始めて歴史学が成立するので、考古学と混同するのはドーカと思います。
4世紀半頃、ヤマト政権が日本を支配するようになって、「越の国」または「高志の国」「古志の国」と文献に見られます。北陸道を都が近畿地方の中心部であったので中心部からながめると、所謂手前が越前、中央が越中、ドン尻最後尾が越後と呼ばれたのは690年頃以降です。全体を加賀の白山、越中の立山、駿河の富士山は近世の話であり、古代の都人とは白山を「越しのしらやま」と敬い白山信仰につながっていきます。当時は未だ加賀の国が立国されていませんでした。新潟の地酒も「越乃寒梅」?であって、「越後寒梅」とは言いませんし、故人のシャンソン歌手こーちゃん事「越路吹雪」の「越路」は北陸三県(福井、石川、富山)プラスの新潟県に通ずる地域・地方の街道をさしていると思っています。この「越の国」の中には能登の国もふくまれており、越後は今の新潟県プラス出羽の国、越中は富山県とほぼ同じく、越前は今の石川県(能登地方、加賀地方)と、若狭国を除く今の福井県のエリヤでした。
時代は下って718年に能登国が越前から独立して立国され、823年に加賀国が越前国から独立して全国的には最後の国として立国されました。普通の石川県人の歴史観では加賀百万石意識が過剰に刷り込まれており、江戸時代は富山藩(富山県)は加賀藩の支藩扱いであったり、かっては金大は一期校で富山大は2期校と金大が優越しているような感覚が石川県、富山県民の双方にあったし、現在の能登地方と加賀地方と比較すると加賀地方が先進地方と多数の県民は思っている。しかし古代は加賀国は能登国より後進国で、越中国は能登国より、更に古く先進国であったし、事実、歌人の大伴家持は越中国や能登国の国司に派遣されている。加賀国の名前にしても当時の朝廷が「輝く国」「かぐわしい国」の意味で加賀となったという説が一番の有力説であり、賀の付くのはその他に佐賀、甲賀もあり、賀だけの意味だけで言うと加賀の加は何を意味するかが、むしろ重要になってくる。も賀は正月を賀する事を賀正というようにおめでたいことを賀する、つまりおめでたいことを賀したり、加えたりのめでるという意味でかがやくの加賀の方が有力だと思う。また呉の国が邪馬台国といっても、邪馬台国の近畿説も有力であるし、邪馬台国以外の九州地域に呉の国のいわれの県は何処かも私は知らない。「呉越同舟」というように呉と越は中国本土では敵・味方であったが、何らかの事情でボートピープルで相乗りしてきて日本に着たが、居住地は北陸と九州に分かれた理由はさっぱり解らない。環境考古学で推し量るだけでは歴史を語るのには無理があると思う。
投稿: koetoshi | 2008年2月13日 (水) 21時16分
コメントどうもありがとうございました。
このコメントに対するお応えは、下記ブログ「越前、越中、越後 その2」で書かせていただきます。
http://nsweb.cocolog-nifty.com/diary/2008/04/2_7482.html
初めまして!
越後越前について調べていて、こちらへたどり着きました。
早速ですが、越後の方が地図上で上の方の場所にあるのに、
なぜ越後と言うか知っていましたら、教えて下さい。
宜しくお願いいたします。
投稿: ruruka | 2009年1月 9日 (金) 19時13分
rurukaさん
ブログ見ていただいてありがとうございます。
推定ですが、越前、越中、越後という国名をつけたには大和の人だった。
大和の方角からみて、越中富山の前が越前、後ろが越後ということではないでしょうか。
http://nsweb.cocolog-nifty.com/diary/2008/04/2_7482.html 【越前、越中、越後 その2】より
2月で書いたブログ「越前、越中、越後??」で「越」のいわれについて、思いつきで記載し、ある方より「いい加減なことを書くな」とコメントをいただき恥いっていましたが、心の中にひっかかりが残ったままでした。
先日、ある人より4月19日に那谷寺で平成神道研究会20周年地方開催シンポジュウムが開催されるがチケットを買わないかという案内が来ました。
見ると「自然と生きる環境生命文明」というテーマで、哲学者の梅原猛先生と、越の記事のもとを書かれた環境考古学の安田善憲が出席される。
これは、よい機会と思って、今日、参加させてもらいました。
シンポジュウムのなかでは越にいての話は少し出たがあまり詳しい話はなかったので、シンポジュウム終了後、安田先生の所に行って個人的に質問すると、快く答えてもらえました。
先生の答えは、
『富山県のことを「越」と言う。越中富山、越前、越後。越とは、長江文明の担い手が、ボートピープルとなって逃げてきた所だろう。越中の越は呉越の越だ』
といこうとでした。
どういうことかというと、越の国は稲作漁労民で、文明としては玉(ヒスイの一種)を大変に大事にする。稲作漁撈民にとって、天と地の交流と結合が、豊饒性をもたらす最も大切なことがらであった。玉はや山からとれる、漁労民族としての越は山を崇拝し、そのシンボルとして玉を宝とした。
越人は、玉を探して日本海を渡り山に分け入った。立山や姫川辺りでは、今でも玉の原材料がとれる。
始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、外越とは東海の彼方にいる越だ。即ち、現在の富山県周辺らしい。
今から、4000年前に大変大きな気候変動があり、金属製の武器を持つ漢民族が南下し、玉のような高度な文明を持つが、金属製武器を持たない長江文明が攻め滅ぼされ、呉越人はボートピープルとなって、日本はじめ各地に逃れた。
ということらしい。
なお、シンポジュウムは、白山信仰・立山信仰に関するものでしたが安田先生の意見は、これらの山岳信仰は、越人が数千年前から玉を探して白山や立山奥深く入っていたという土台があった。1700年前頃から数百年地球の温暖期に当たり今より1.5℃位気温が高かった。この時期に泰澄和尚や行基和尚が出て白山に登り、一気に白山信仰は開花したのではないかということでした。
コメント
ものすごく特殊な考えと思います
安田さんも梅原さんも有名ですがアマチュアです
一般の考えは、畿内から山を越えたエリア越(こし)の国が語源です
紀伊が木の国(木のあるくに)、摂津が津の国(みなとのあるくに)、肥後などが火の国(火山=阿蘇山=のあるくに)など、古代の国名は大和言葉で解釈するのが普通です
越のボートピープル説はおもしろいけど、中国の苗字や地名がいっぱいあるとか、風習で連続性があるとか、傍証になるものが余りに乏しいですね
投稿: | 2008年11月 4日 (火) 13時27分
専門的なご意見ありがとうございます。
地名が大和言葉からきていることはよく理解できます。
畿内から山を越えたエリアと言っても広すぎるのではないでしょうか。
その広いエリアのある地点、現在の「富山県」の南部を「越」と呼んでいます。
ということは、大和人はここに越人の子孫が住んでいたことを知っていて「越」とよんだということも考えられます。
安田先生は、富山県から予算をもらって、その研究をしたと言っておられました。
投稿: がまがえる | 2008年11月 7日 (金) 20時24分
こんにちは。越の国になぜ加賀が?というある方の論文を読んで、私も何故かしらと興味を持ち検索してこちらまでたどりつきました。
前回というか古い記事の方も読ませていただきました。ありがとうございました。勉強になりました。
私はがまがえるさんがクンクンと嗅いでおられる匂いに賛同ですよ。あまり詳しい知識もありませんが。
せっかく巡りあいましたので、またときおり、伺わせていただきますね。
投稿: ママさん | 2010年3月17日 (水) 11時47分
ママさん
応援ありがとうございます。
私も素人です。
皆さん、大和朝廷以降ことはについて色々文献があるようで、その文献をもとに話をされているようです。
でも、地名は文字ができる前から話ことばとしてあったのではないのでしょうか?
北海道の地名のいわれはアイヌ語ですね。縄文人は越の地を何と読んでいたのでしょうか。
現在、この地域の地名をつけたのは弥生人のようですが、DNA鑑定など、日本人のルーツの研究が進むと、また違った見方がでるような気がします。
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