https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15892113?categoryIds=4502625 【米・稲の語源】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15890777?categoryIds=4502625【米が「神聖な食べ物」とされてきたのはなぜか】
Facebook今野 華都子さん投稿記事
私達の祖先は、自然から感じたことを素直に言霊にして、祀り祈って表して生きてきました。
米農家にとって自然(八百万神)と人をつなぐ山伏は自分達の代わりに100日間の潔斎して祈り続け穀霊出現を待つ自分を潔め待ちつづけるのですね。
こうしたからこうなるのではなく、人事を尽くして待つ。
謙虚に待つ。
そこに穀霊が立ち現れる。
日本人の自然に対する畏敬の念をそのまま体現する山伏の存在が今本当に大切なのだと感じました。
皆さんに知って欲しいのでシェアさせていただきます。
感謝
https://www.shonai-zukan.com/life/hitobito/hoshino_fumihiro 【羽黒山宿坊「大聖坊」13代目 羽黒山伏 星野 文紘】より
庄内地方の文化を形作るものの一つに、出羽三山の山岳信仰に裏打ちされた修験道がある。山を信仰の対象とし、その中に入って修行を行うことで悟りを得る。羽黒山の麓にある宿坊「大聖坊(だいしょうぼう)」で修行者を受け入れ、山へと入る際に先達を務める13代目当主、星野文紘(山伏名:尚文)に話を聞いた。
「大聖坊が始まったのは1630年だな。初代は新潟の十日町あたりから来た山伏だと言われている。昔はみんな移動が基本だ。今以上に、食べるために、生きるために移動していた。日本は山国だから、稲が伝来する前までは自然から食べ物をいただいていたから、みんな移動していたわけだよ。そして定住化したのが、稲が入ってきた縄文の後期だ。移動しなくても命となる食べ物が手に入るようになった」
山の自然と平野の自然。ヒトが生きるために摂取する食べ物の話。ゆったりと、殊更に力を込めることもなく、星野先達の言葉はいきなり本質的な部分に触れていく。
「今でこそ稲の生産においては、肥料だとか色々な技術だとかが使用されているが、昔の人たちにとって稲が収穫できるというのは、稲の魂、『稲魂(いなだま)』というものが増殖して収穫を迎えるという発想だった。イナヅマってあるだろ。雷だ。庄内地方は昔から雷の多いところで有名だった。イナヅマを漢字で書くと稲に妻だ。天から神が雷となって光って降りてきて、そして稲に子種を宿すと考えられていた。生きとし生けるものの魂を大事にしてきたということがわかるだろう」
山伏が豊穣を祈念する「冬の峰」の行
出羽三山の修験道では、「春の峰」「夏の峰」「秋の峰」「冬の峰」という四つの季節、四つの場所での修行をひと組のサイクルとして捉えていた。元来、古くからの神道と結びついた山岳信仰と、天台宗、真言宗を基本とする仏教の山岳修行が結びついて修験道は構築されてきた。神仏の融合だ。それを明治時代に入るとともに政府は廃止しようとした。明治元年に発布された神仏分離令だ。「ヨーロッパの列強に追いつくために一神教にしようとしたわけだ」が、神仏を合わせて信じていた人々の意識を変えるのは難しかった。
「どうすればいいかと政府は考えた。神仏を集合させていた修験道をぶっ潰すしかないとなって、今度は神仏分離令に続いて修験道廃止令を出して潰しちゃった。すべての日本の山からは、仏教系のものが排除されてしまった。羽黒山の供養塔である五重塔には、聖観音菩薩、軍荼利明王、妙見菩薩が祀られていたけど、ここを壊されないために明治初代の宮司が三仏を外に出し、荒沢寺に隠して(現在は黄金堂に祀られている)、ここには大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀った。羽黒権現を羽黒神社にして、神様の山にしちゃったわけだ」
もちろん、神仏を集合させた修験道の山として出羽三山を信仰していた村の先人たちは、反発した。初代宮司のとった行動は、あくまでも政府の目を欺くためのカムフラージュに過ぎない。修行が命である修験道における「秋の峰」「冬の峰」をそれまで通りに行うことにしたのだ。「秋の峰」は一週間の行。これを完遂すると、誰もが山伏になれる。そして「冬の峰」は「百日行」とも称される山に籠る行だ。この「冬の峰」がとりわけ、出羽三山の修験道と庄内という地域を深く結びつけるものだという。
「興屋聖(こうやひじり)という小さな祠に、稲もみや大小豆などの五穀を入れて祈るんだ。大体60歳を過ぎた長老の山伏が、最初の50日は自宅参籠といって自分の部屋に籠り、朝夕の禊をして五穀に祈りを捧げる。ここに入れた穀物は穀霊という霊を持っているから、祈ることによってそれを引き出す。この役目を『松聖(まつひじり)』という。待つことに由来する。昔の人は語呂を大事にしたんだな。
そして11月13日から山上参籠だ。羽黒山の斎館に入り、そこで行をする。何を意味するかというと、さっき話した『稲魂』を稲につける祈りだ。50日後には『冬の峰』の満願日の松例祭を迎える。そして明けて新年の1月3日から稲魂のついた稲もみを一俵の稲もみに入れて、別当や所司、三先達が祈り、一俵全体に稲魂を移す。これが江戸時代で終わってしまった『春の峰』だ」
明治時代に入り「春の峰」は廃止してしまったが、「冬の峰」でついた「稲魂」を庄内中の農家の稲もみに広めるためには、「春の峰」は必要だ。そう考えた星野や松聖を経験した山伏で出羽三山神社と話し合い、今年から「春の峰」を再現した。「稲魂」のついたもみを田に植え、豊作を祈る従来の羽黒修験を蘇らせる試みだ。
天と地をつなぐ役割を得る
「稲妻の光を浴びて、『稲魂』が増殖する。そのために山伏たちは祈ってきた。庄内の土地を思い、庄内の人たちをお祈りして常々守ってきたんだ。それが庄内と羽黒修験の関係だ。人の魂と稲の魂の一体性を守ってきたんだ」
「俺としては完全に、言葉は音から始まっていると言う感覚なんだよ」と、人の語源について説明を開始した。
「人は『ひ』と『と』からなる。今、霊という字で書かれる魂。あれは昔、『ひ』と言った。そして、1から10を数えるのも昔は、ひい、ふう、みい、よお、いい、むう、なあ、やあ、こお、とお、と数えた。『ひ』で始まって『と』で終わり、11からまた『ひ』で始まって20が『と』で終わる。人は1から10まですべて魂。そういうことなんじゃないかな」
そして、「人間」とは何か。山に入り、修験に身を投じると感じられるものがある。「あくまでも俺なりの解釈だよ」と前置きしてこう語る。
「夜に山で満天の星の下を歩く。そこにいると、我々が星と地面をつないでいるような感覚になる。つまりは、天と地をつなぐのが『人間』なんじゃないか。魂である人が、天と地をつなぐ役割を得ることで人間になる。こういうふうに考えると、みんな腑に落ちるんだ」
修験道とは、頭で考えることから始まるものではない。山に祈りを入れる修行を通じて、自然を感じる。そして、自分で感じたことを考え、答えを見つけてきた。修験道を頭だけで理解しても仕方がない。「見る」「聞く」「食べる」という首から上で得られるはっきりした理解や知覚ではなく、魂という見えない世界を首から下で感じる。「腑に落ちないとわからない。丹田で、命の元の付け根で見えないものを感じるのが修験道なんだ」と星野は強調する。
地霊を鎮める鈴の音の響き
「日本には春夏秋冬という四季がある。だけどはっきりしているようでいて、冬から春への移ろいがあって、春から夏、夏から秋、秋から冬と、どっちつかずの曖昧な時期があってすべてをつないでいる。1年のサイクルでの曖昧性、緩やかさというものが日本人には合っているんだよ。その自然の曖昧さに委ねて暮らしてきたから、あらゆるものに神が宿ると考えた『八百万の神』の思想に行き着いたんだな。自然に委ねれば自然は拒まないよ」
羽黒山を歩く先達の後を追いかけると、先達の腰につけられた鈴が鳴らす澄んだ音色が心地よい。歩きながら意識の働きが消え、無意識に自然を感じる。それが修験道の原点なんだということを鈴の音の波動が伝えてくれる。
「これは地霊を鎮める鈴の音だ。人の気持ちも鎮めるんだよ。修行で月山なんかにみんなを連れて行くだろ。そうすると『先達の鈴の音に引っ張られました』って言うもんな。鈴の音に引っ張られて、つまらないことを考えないで山に委ねたらいいんだよ。そうしたらいろんなものが見えてくる。月山の雨の中を歩いているとしんどいかもしれないけど、修行が終わるとみんな、『やってよかった』ってなるよ。頭ではしんどいと思っていたけど、体は自然を感じて喜んでいたってことだ」
羽黒山宿坊「大聖坊」13代目 羽黒山伏 星野 文紘
1946年、羽黒山の宿坊「大聖坊」13代目として生まれる。2007年に出羽三山で「冬の峰百日行」の松聖を、2008年より「松例祭」の羽黒権現役である所司前を務める。出羽三山神社責任役員理事。出羽三山祝部総代。著書に『感じるままに生きなさい−山伏の流儀』(さくら舎)。
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