https://www.nta.go.jp/taxes/kids/hatten/page16.htm 【税の歴史】より
税は歴史の中で、そのかたちを何度も変えてきました。
それは社会の変化によって、求められる税のあり方も変わったからです。
歴史をさかのぼってみてみましょう。
飛鳥時代
飛鳥時代に行われた大化の改新(645年)では、公地公民(土地や人民を国家のものとすること)など、新しい政治の方針が示されました。
701年に完成した大宝律令では、租・庸・調という税や労役をかける税のしくみができました。
【豆知識1】租・庸・調とは?
租は男女の農民に課税され、税率は収穫の約3%でした。庸は都での労働(年間10日間)、又は布を納める税、調は布や絹などの諸国の特産物を納める税だったようです。
ちなみに庸と調は男子のみに課税され、農民の手で都に運ばれたそうです。
奈良・平安・鎌倉・室町時代
奈良時代には、墾田永年私財法(743年)が制定され、土地の私有化へと展開していきました。
また、平安時代には大きな寺社や貴族の荘園が各地にでき、農民は荘園領主(土地を所有する地方の豪族)に年貢や公事(糸・布・炭・野菜などの手工業製品や採取物)、夫役(労働で納める税)などを納めました。
鎌倉時代は守護、地頭や荘園領主のもとで経済が発達しますが、農民には年貢のほかに公事と夫役が課せられていました。
室町時代には、税の中心は年貢でしたが、商業活動の発達により商工業者に対しても税が課せられ、街道に設けられた関所では、関銭(通行税)などが税として課せられました。
安土桃山・江戸時代
全国統一を行った豊臣秀吉は、土地を調査して太閤検地を行い、農地の面積だけでなく、農地の収穫高などを調べて年貢を納めさせるようにしました。
当時の税率は、二公一民といい、収穫の三分の二を年貢として納めるという厳しいものでした。
江戸時代には、田畑に課税される年貢の地租が中心で米などを納めたそうです。
また、商工業者に対する税も、運上金・冥加金(株仲間と呼ばれる同業者に商売の特権を認めるかわりに納める税)といったかたちで納められました。
明治時代
明治政府は歳入の安定を図るため、1873年に地租改正を実施しました。
地租改正では土地の地価の3%を地租として貨幣で納めさせたそうです。
また所得税や法人税が導入されたのもこの頃です。
ちなみに所得税は、所得金額300円以上の所得者に課税されるものでした。
大正・昭和時代
大正時代から昭和初期にかけては、戦費調達のため、増税が続きました。一方で、現在ある税のしくみができ始めたのもこの頃です。
1940年に源泉徴収制度が採用されました。
1946年には日本国憲法が公布され、教育、勤労にならぶ三大義務の一つとして「納税の義務」が定められました。
また翌年には、納税者が自主的に自分の所得や税額を計算して申告・納税する申告納税制度が導入され、1950年にはシャウプ勧告に基づき税制改革が行われました。この勧告の考え方は、今日においても税制度の基盤であるといわれています。
【豆知識2】シャウプ勧告とは?
戦後混乱した日本の経済事情の下で、どのような税制をたてるべきかということについて、来日した、アメリカのコロンビア大学教授シャウプ博士の使節団が調査を行い提出した勧告のことです。この勧告には、直接税中心の税制にすることや、地方財政の強化などが盛り込まれました。
平成時代
1989年(平成元年)に、商品の販売やサービスの提供に対して3%の税金を納める消費税の導入や所得税の減税などを含む大幅な税制の改革が行われました。さらに消費税は1997年(平成9年)から5%の税率(地方消費税1%を含む)に、2014年(平成26年)から8%の税率(地方消費税1.7%を含む)、2019年(令和元年)から10%(地方消費税2.2%を含む)に変わりました。
このように、経済社会の変化にともない税の制度は変わってきました。これからも、豊かで安定した社会を築くために、税のしくみは変わっていくことでしょう。
https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/formation/generation_02.html 【飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代】より
お米を税として徴収した「飛鳥時代」から、田んぼの土地支配が武士になった「鎌倉時代」まで、 稲作の発展によりお米が富と権力の象徴となっていった時代に迫ります。
お米を税として徴収する制度があった「飛鳥時代」(592年~710年)
お米は栄養価が高く生産性に優れ、長期間の保存に耐え、おいしく食べられる食糧でした。そのためお米を基本通貨とし、「税」として納めるという社会が始まります。 飛鳥時代後期より行われた「班田収授の法」は、田地を分け与えるかわりに、収穫した稲を徴収することを定めた法です。
当時は全ての土地と人が国家のものとされていました。大和朝廷は人々に一定の田=口分田(くぶんでん)を与え、籾米(もみごめ)で租(税)を納めさせました。口分田は売買を禁じられていました。
また、この時代の農具は、田んぼを耕すことが目的のきわめてシンプルなものがほとんどでした。穂を刈り取るのではなく、現在のように根っこの部分を刈り取るやり方が一般的となり、そのための農具として鉄製の鎌が普及していきます。
田んぼを増やすための開墾が進んだ「奈良時代」(710年~794年)
奈良時代における国家の繁栄はめざましいものでしたが、粗・庸・調や労役の負担に苦しむ農民のなかには、口分田や家を捨てるものが増えてきました。また人口も増加したので、722年(養老6年)、朝廷は田地を増やすために百万町歩開墾計画を立て、723年(養老7年)には、三世一身法を出して開墾をすすめました。
さらに、743年(天平15年)の墾田永世私財法によって、開墾した個人が田を永久に所有できることになりました。これは、律令制度の土地公有の原則を破る重大な改革でした。この結果、有力な貴族や寺社は先を争って開墾を始め、私有地である荘園が広まっていきます。
奈良時代には田植えが本格化します。人々は手強い雑草であるヒエと戦いを続けるうちに、水田の雑草を抜いてから、別の場所で大きく育てた稲を植える方法を編み出しました。こうすれば、次のヒエが芽を出したときには稲は大きくなっており、倒伏(とうふく)も少なくなります。
また、農地を広げるために地方への進出が繰り返されました。稲栽培に向かない寒い土地にも、稲作を広げようとしたことから、結果的には寒さに強い品種が開発されました。
田んぼの面積は、現在の3分の1である100万ヘクタールに達していたようです。
国が所有する田んぼが減り、農民が武装していった「平安時代」(794年~1185年)
墾田永世私財法を受けて貴族や寺社が開墾した土地は荘園と呼ばれ、荘園領主は稲作を奨励します。10世紀から12世紀にかけて荘園は増え続け、国家の土地である口分田が減り、政府はしだいに無力化していきました。
荘園の境界をめぐる土地争いや地方役人の税の取り立てから身を守るために、農民は武装をするようになります。ふだんは農業をしながらも、武士となり、武士団をつくって軍事力を養っていったのです。
田んぼの土地支配が、武士へと移っていった「鎌倉時代」(1185年~1333年)
朝廷が地頭を設置して警察権と年貢徴集権を主張するなど、荘園の権利関係が複雑になるなかで、貴族や寺社の支配は弱まり、形式化していきます。そして実際上の支配は、もとは農民である武士(在地領主・開発領主・根本領主)の手中に移っていきました。
お米をもつものは富と権力を持ちました。武士が天下を支配できたのは、この頃の武士がお米の生産者でもあったからです。
鎌倉時代には、お米の生産高も大きく伸びました。領主が税であるお米を早く手に入れようとして、早米を作らせたという記録もあります。
普通の農家でも、牛や馬の力を利用して土地を耕す傾向が見られるようになりました。水田に水を引くために水車が使われ、金属製の鎌(かま)、鍬(くわ)、鋤(すき)などを専門に作る鍛冶も生まれました。案山子(かかし)もこの頃に登場しています。
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1504/answer.htm 【年貢米」(答え)より玄米】「
年貢は玄米で納入することが基本でした。年貢に限らず、江戸時代の「米」という言葉は玄米を指します。庶民が領主に年貢として納める米も、庶民が商品として出荷する米も、脱穀して籾摺り(もみすり)をした玄米の状態の米だったのです。
米で納める租税の歴史を見ると最初から玄米だったわけではありません。
7世紀後半に律令制で租庸調が定められ、そのうち、田に課された税(租)は頴稲(えいとう、穂に付いたままの籾)で納められていました。その後、8世紀の初頭には脱穀した籾で納める形に変化し、それから数百年をかけて、租税として納める米は、籾から玄米に置き換わっていったのです。
このように玄米で租税を納める方式は、世界的にみると非常に特殊な形です。現在でも日本は玄米で取引しますが、世界の米取引は籾で取引することが標準です。このような日本の米に関する商い慣習は、年貢米制度の名残といえるでしょう。
籾は貯蔵に優れているという特長があるので、長期保存が目的の場合には、現代の日本でも籾の状態が選ばれます。一方の玄米は、劣化が早く長期保存には向きませんが、品質の確認は籾よりも容易であるという特長があります。
このような特長から、日本の領主は、貯蔵性よりも品質のチェックを優先させたと考えられるのではないでしょうか。
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