https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2018031000011.html?page=1 【よく眠る夢の枯野が青むまで−金子兜太さんを偲んで】 より
戦後を代表する俳人、金子兜太さんが先月2月20日、98歳で亡くなりました。自らの戦争体験を語り平和運動にも尽力しつつ、骨太な作品群を世に放ち、前衛俳句の旗手となった金子さん。一方で自由で大らかな文体は、私たちの心にストレートに響く世界観に満ちています。そんな代表作の一部を、金子さんの歩みとともに振り返ります。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
金子兜太さんは1919(大正8)年、埼玉県小川町で生まれ、その後上海を経て秩父で育ちました。金子さんはその秩父を「産土(うぶすな)」と思い定めて、故郷についてたくさんの句を作りました。
・曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
金子さんの代表作の一つで、郷里秩父に帰った時の光景から、湧くように出来た句とのこと。お腹を丸出しにした子供達が、曼珠沙華の咲き乱れる畑のあぜ道を走っていく姿に、ご自身のちいさい頃を重ねたそうです。
・裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな
秩父鉄道沿いの風景と、蚕飼で活気づく家の中の雰囲気を合わせた、郷里の匂いがいっぱいの句。蚕飼は、当時の秩父で唯一と言える生業だったと、金子さんは語っています。
・おおかみに蛍が一つ付いていた
秩父一帯には、ニホンオオカミの生存伝承が残っています。金子さんが故郷の産土を思う時に、必ず狼のイメージが立ち現れてくるとのこと。山の澄んだ、凛とした空気の中の狼と蛍で、「いのち」の原始を表現しているのです。
犬は海を少年はマンゴーの森を見る
旧制水戸高校在学中に句作を始めた金子さんは、東京帝国大学経済学部卒業後の1944年、海軍主計将校としてトラック島(現ミクロネシア連邦チューク島)に配属されます。爆撃に晒され食糧補給が途絶え、戦争末期には金子さんの仲間や部下は、次々に餓死していきます。
・犬は海を少年はマンゴーの森を見る
土着の島の少年が、よく犬を連れて歩いていた光景。一見のどかな印象ですが、実際には、米軍機が頻繁に襲来する。マンゴーの大木は爆撃でやられ、海では機銃掃射を受けることもある。本来の住民であるはずの島の人々が、どんな思いをしていたか。逆説的に戦争を語っています。
・魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
艦攻機の基地のある島のジャングルに、ひっそり積まれていた魚雷。磨かれた鉄の肌の上を、爬虫類が這い回っていた。金子さんの眼でカメラのように記憶した一句が、戦争の一断面を語っています。
・椰子の丘朝焼しるき日々なりき
・海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
敗戦の日、島の警備隊の司令部に集められ、敗戦の伝達を受けた帰路。金子さんは、いつも此処は椰子の丘に朝日が当たる場所だったと、茫然と回想していたそうです。そして大学生の頃の、粋がって自堕落になっていた生活を、激しく後悔。生きて償おうとの思いが湧き、赤道直下の海に立つ、雲の峰を眺めた心情を記しました。
・水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る
1946(昭和21)年、金子さんが戦後捕虜1年3ヶ月ののち、トラック島から最後の復員船で帰国した船上の作。このとき27歳、仲間の餓死者への鎮魂を込め、反戦への決意を定めた句です。水脈とは、船の航跡のこと。おそらく金子さんは、トラック島から連なる眼下の航跡を、一生忘れることはなかったのでしょう。
春北風茫と弁当食べる子ら
戦後、金子さんは日本銀行に復職しましたが、反戦活動や組合活動に注力。自ら形容する「窓奥族」となるも、55歳の定年まで勤務。そして前衛俳句運動の旗手として、季語のない無季の句や、社会性や時代性を盛り込む社会性俳句などに取り組みます。俳句結社も主宰し、俳句評論など怒涛の発信を続けつつ、素朴で骨太、ダイナミックな俳句で、幅広い層の心を掴みます。
そんな金子さんの、エネルギッシュな作品群から、最後に、春気分や人生賛歌に満ちた俳句をご紹介して、その偉業を偲びます。
・春北風(はるならい)茫(ぼう)と弁当食べる子ら
金子さんによると、この「ならい」は東日本、それも関東平野の海岸部中心の方言で、春のはじめの北西風は「春ならい」の季語。子供たちの光景が目に浮かびます。
・れんぎょうに巨鯨の影の月日かな
春に咲く黄色の花と、回想の月日の中に浮く巨鯨の影を重ねた作品とのこと。60代の時の作品とは思えない、スケール感ですね。
・梅咲いて庭中に青鮫が来ている
こちらも、春が海の中で花開いたような作品です。ご自身の家の戸を開けると庭一面の白梅が開花していて、春を教えてくれた。気付くと、庭は海底のような青い空気に包まれていた。いのち満つ、と思ったとき、海の生き物で一番好きな鮫が、庭のあちこちに泳いでいた。そんな句だそうです。
・じつによく泣く赤ん坊さくら五分
列車の中の出来事を、即興で作ったそうです。泣き声で健康な赤ん坊と思い、窓の外の桜の開花に目を細める。そんな金子さんこそが、生きる喜びに満ちていたことでしょう。
・春落日しかし日暮れを急がない
故郷の秩父での、句会の夕暮れの句。まだまだ歳は取らないよの気構えだそうで、なんとも頼もしい世界観です。
・酒止めようかどの本能と遊ぼうか
こちらも愉快な句です。金子さんの言葉によると、60代になり総入れ歯となり、痛風、ぎっくり腰、風邪と続き、医者と相談して食材を選び、酒を止めて。でも、「本能をある程度自由にしておかないと長続きしないぞ、余裕のある禁欲を。」だそうですよ。
・よく眠る夢の枯野が青むまで
芭蕉の本歌取りにも見えますが、「芭蕉は芭蕉、兜太は兜太、ゆっくり生きてゆこう」の心意気を込めた作品でした。「俳句は自由。遊びの要素があってこそのもの」と唱えた金子さん。俳句の世界のみならず、生活の中でそのおおらかさを私たちも大いに真似て、豪快に生きていきたいものですね。
【句の引用と参考文献】
金子兜太(著)『金子兜太自選自解99句』(角川学芸出版)
金子兜太(著) 正津勉(構成)『日本行脚 俳句旅』(アーツアンドクラフツ)
https://gendaihaiku.gr.jp/column/383/ 【よく眠る夢の枯野が青むまで 金子兜太 評者: 恩田侑布子】より
初読のとき、兜太の辞世だ、と直感した。現実の死までにはまだ二十年もあったが、兜太の俳諧自由は、八十を前に自分自身に引導を渡していたのである。
すぐ連想するのは芭蕉の終焉の
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
であり、最期まで推敲を重ねた
清滝や波に散込青松葉
である。前句は藁色と金色のあやなす枯野にうす墨の翳がこもり、後句は散り松葉を吸う清滝川の青水沫が凄愴の気をもたらす。どちらも文学の妄執ここに極まれりといった感覚の冴えがあり、沈痛な声がせまる。
では、兜太はどうか。くったくもなく眠るのである。寝入り端に出てきた「夢の枯野」さえ忘れ果てて、一っ飛びに千年万年を熟睡する。季節は次々に巡り、春から初夏へ野山は一斉に緑のひかりをほとばしらせよう。
輪廻転生は古代インド思想が有名だが、古代ギリシャにも古代中国にもあった。万葉集でも大伴旅人は歌う。〈この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ〉現世の快楽主義は転生などものかはだ。
兜太は、彫心鏤骨の芭蕉からもエピキュリアンの旅人からも遠い。トラック島の筆舌に尽くせぬ戦争体験に二十代で侵襲された男である。終生〈青春の十五年戦争の狐火〉につき纏われた永遠の「少年」が、狐火ならぬ、無傷の青草と無心な青野の生を願い続けたとしても、そこになんの不思議があろうか。
https://nobuko-soprano.jp/essay/aomumade.htm 【青むまで】 より
塩谷靖子
今年もまた、ツクツクボウシの季節がやってきた。
ツクツクボウシほど、人間に似た声を持つ蝉は他にいない。その声は、遠い日のあの悲しい場面を思い出させる。
それは、友人の幼い子供が病気で亡くなったときの葬儀での場面だった。出棺が始まると、その子の母親である友人の号泣が響き渡った。子供の名前を呼び続けるその声は、参列者全員、いや、その場の全てが凍りつくのではないかと思うほど悲痛なものだった。
棺とともに葬儀場を出ると、あちこちでツクツクボウシが鳴いていて、まるで一緒に号泣しているように聞こえた。そのとき以来、私にはツクツクボウシの声が、泣きじゃくる女性の声に聞こえるようになった。
その後、何と言って慰めても、彼女の悲嘆は深まるばかりだった。いずれ、時の流れが解決してくれるのを待つしかないと思った。だが、果たして、それまで持ちこたえることができるだろうか。悲しみの果てに、自らの命の糸を断ち切ってしまうのではないかとさえ思えた。
そんなとき、私はこんな俳句に出合った。
「よく眠る夢の枯野が青むまで」(金子兜太)。
何と深い安らぎに満ちた句だろう。私は、手紙の最後にこの句を書いて、彼女に送った。心の枯野が再び芽吹くまで、ひたすら待ってほしいとの願いを込めて。
これは、芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を意識して作ったのだろうけれど、元の句とは対照的で、どこまでも温かく慈愛に満ちている。スヤスヤと、幼子のような無心な寝息も聞こえてきそうだ。
芭蕉は、臨終が近づいてもなお、枯野を放浪したいという焦燥に駆られていた。だが、兜太は、芭蕉の枯野を何とかして青ませたかったのだろう。枯野をさまよう芭蕉の魂を成仏させるために。
そしてまた、こんな皮肉も込められているような気がする。「いくら枯淡の境地を愛するといっても、人生を終えるときくらいは、できるかぎり明るく穏やかな境地に身を置くべきだ」と。そんな思いが、見事なまでに対照的な句を生み出したのだ。
私の手紙が、どのくらい役立ったのか分からないが、どこまでも続く枯野しか見えなかった彼女も、薄皮が剥がれるように、生きる力を取り戻していった。
さっきから、ツクツクボウシの声が激しさを増している。どんなに叫んでも、去ろうとしている夏は、もう振り向いてはくれないのに。
2015年に、埼玉県秩父郡皆野町で行われた金子氏の96歳の誕生日のお祝い会に出席した折、この拙文を金子氏にお渡ししたところ、しばらくして次のようなお礼の葉書をいただいた。なお、皆野町は、亡くなった夫の実家があったところである。
「青むまで」のご文章をいただいたまま失礼してしまいました。
年甲斐もなく忙しいのです。
一読して、拙句の理解の温かさに胸打たれました。
感銘の言をいただくことはあっても、こんな胸打たれたことはありません。
この句、福井の永平寺門前町に碑として立てていただいております。
あなたのご文章に感謝していることでしょう。
ありがたいです。
同じ皆野町出身ということも嬉しいです。
(塩谷姓は、亡妻の実家の姓と同じです)
金子兜太
0コメント