http://kuuon.web.fc2.com/SEINOSIJIN/SEINOSIJIN.131.html 【〈生の詩人 金子兜太〉 131~140】より
131
余寒のベッドに茫然と妻病むはずなし
今日から金子兜太の妻俳句の圧巻たる連作の鑑賞に入る。この連作は皆子夫人が癌に倒れた時の句群である。この連作を読むと私はベートーベンの第五交響曲「運命」を思うのであるが、まさに「運命が扉を叩く」という形容がぴったりの次の句から始まる。
余寒のベッドに茫然と妻病むはずなし 『東国抄〈妻病む〉』
「病むはずなし」という言葉がとても強い。まさに茫然と運命を見詰めている人間がそこに居る。7・7・6という破調で書かれているのであるが、この破調そのものが思いもかけずにやって来る運命というものを暗示している。
私はこの句を読むと、芭蕉の「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」を何故か連想するのである。破調ということもあるかもしれないが、何か俳句という文学をはみ出してそこにヌッと人間が顔を出しているという感じが似ているのである。俳句を作る為に人間がいるのではなく、人間を表現するために俳句があるのだとしたら、この両句はまさにそれである。そして芭蕉の句が芭蕉自身に関しての事柄であるのに対して、兜太の句が身近な他者に対しての句であるということも、この二人の在り方の違いが解るような気がするのである。本質的に個人の求道ということに軸足が有った芭蕉と、他者と共に在るということに軸足を置く兜太の違いである。
132
妻病めり腹立たしむなし春寒し
妻病めり腹立たしむなし春寒し 『東国抄〈妻病む〉』
妻が病んでむなしいそして春が寒いというのは普通に解るが、「腹立たし」というのが兜太の兜太らしさではなかろうか。闘争の人、闘う人というイメージである。闘わない人、諦めの人である私には、「病むはずなし」や「腹立たし」はとても新鮮な反応である。さすがに狼を守護霊とする人という感じであるし、このガッツと、合わせ持つ優しさが、兜太の生きる秘訣であるような気がする。
133
妻病みてそわそわとわが命あり
妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり 『東国抄〈妻病む〉』
前の句では、妻が病んだということに対しての葛藤があり、抵抗を試みているが、この句に於いては事実を半分は受け入れて命がおろおろとしているのである。戦いているのである。
私達は人生に於いて、堪え難い、許容し難い事実に直面しなければならないのであるが、その時の心理の流れは大雑把に言えば、抵抗→戦き→受容→超越意識という過程を辿るのではないだろうか。その事実の最たるものは死である。
134
こころ優しき者生かしめよ菜の花盛り
こころ優しき者生かしめよ菜の花盛り 『東国抄〈妻病む〉』
祈りの句である。静かで、しかし確かな祈り。存在の奥底を流れているような祈り。この句の菜の花の明るい光を見ていると、この世は祈りで出来ていると思えてくる。
135
春の霧笑つても病む者がいる
春の霧笑つても病む者がいる 『東国抄〈妻病む〉』
「笑っても病む者がいる」という状況と「春の霧」の関係。置かれたあらゆる状況と、その季節の言葉が、俳人の中では見事に抽出され融合されてゆく感がある。「余寒のベッド」然り、「春寒し」然り、「菜の花盛り」然りである。
136
右腎見事に摘出されて春は行く
右腎見事に摘出されて春は行く 『東国抄〈妻病む〉』
先日、私は献体することに決めた。そのことについて私の妻は概ね賛成である。しかし妻自身はそうすることには抵抗があるようである。遺体でもその全てを人前に晒すのは恥ずかしいというのである。そこで妻は献眼をすることにした。他の臓器も考えたが、他の臓器(腎臓など)の場合は死後直後に取りださねばならないという制約があるらしい。眼の場合は死後かなりの時間的な余裕があるらしいのである。
さて句であるが、ニュアンスとしては「春は逝く」ではなく「春は進む」である。そのほうが作者の心の弾みが感じられるからである。現代医学は大したものだという賛嘆と感謝の念と、妻が生き長らえるという喜びである。
137
春の鳥ほほえむ妻に右腎なし
春の鳥ほほえむ妻に右腎なし 『東国抄〈妻病む〉』
手術が成功してまた元のように妻がほほえむ。長い人生のさまざまな瞬間の中でも特に嬉しい時であろう。まるで妻は新しい生命の息吹に満ちた春の鳥のようである。しかし考えてみると妻には右腎が無い。そしてそのことでいっそう妻の命が大切なものに思えて来る。春の鳥・妻、いたいけな命への愛おしみの一句である。
138
病窓に見えいて青き踏む二人
病窓に見えいて青き踏む二人 『東国抄〈妻病む〉』
病院に妻を見舞っている。その窓から若い男女が若草を踏んで歩いているのが見える。作者は自分と妻の若き日のさまざまなことを思い出しているのではないだろうか。窓辺に佇む作者の思いが細やかに感じられるような余韻のある句である。そして、妻が癒えたあかつきには共に野を散策してみたいものだという、またそうなって欲しいという願いもある。
139
病窓に見えいて青き踏む二人
鶫たち朝日に気力病む妻に 『東国抄〈妻病む〉』
鶫たちが朝日に向って羽ばたいていくように、気力が病む妻にやって来た、あるいはやって来て欲しい、という文脈である。「こころ優しき者生かしめよ菜の花盛り」の只管の祈りの状態から、少し物事が生動し、エネルギーが外側に向っていく状態である。
この句から感じるのは、物とそれを生かしているエネルギーの源は一つであるということである。それを普遍的な〈いのち〉と言ってもいい。
140
病院の影のび耕す人帰る
病院の影のび耕す人帰る 『東国抄〈妻病む〉』
「病院の影のび」という病や死を連想させる言葉に、「耕す人帰る」という人間の生の営みの一場面を対比させ、陰影の深い一句となっている。妻にも自分にも、この耕す人にもやがては死の影が伸びてくる。この儚さの気分が詩的にさりげなく表現されているのではないか。
141
春の暮灯が点るゆえ昏れにけり
春の暮灯が点るゆえ昏れにけり 『東国抄〈妻病む〉』
この句などは〈妻病む〉という前書を考慮に入れて読むとよく解る句ではないか。普通の意識では「昏れたから灯が点る」であるが「点るゆえ昏れにけり」という半分忘我の状態、気が付いたらそうなっていたというような意識は、妻の病に伴うさまざまな想いが作者の心中に去来したことを、また作者の黙想的な心の状態を連想させる。
〈妻病む〉ということに関係なく読んでも、「点るゆえ昏れにけり」という意識は論理的な思考を離れた無垢な心の状態を暗示している。句とは直接関係ないが、人間の心の領域においては因果関係が逆転するということは多いのではないだろうか。例えば「あの人はたくさんの美点があるから愛している」というよりも実際は「愛しているからたくさんの美点が見える」という方が事実に近いのではないだろうか。
142
妻の食欲回復徐徐に蚕飼どき
妻の食欲回復徐徐に蚕飼どき 『東国抄〈妻病む〉』
「蚕」といえば結婚直後の
朝日煙る手中の蚕妻に示す 『少年』
を思う。人間の生の営みの象徴であるような「蚕飼」、生の営みをこれから共にやっていこうという表明が神話的な雰囲気の中でなされた句である。今、妻が病んで、それが徐々に回復してゆく時、作者もきっとこの『少年』の句を思い出していたに違いない。
143
回復へ妻アカシアの花の林
回復へ妻アカシアの花の林 『東国抄〈妻病む〉』
文脈からすれば、「回復へ向う妻がアカシアの花の林のようだ」とも「回復へ向う妻がアカシアの林の中に居る」とも取れる。手術後であるから前者が相応しいが、幻想としては後者と取ってもいい。いずれにしても、白い匂やかな柔らかなアカシアの花が、この時の妻の雰囲気を物語っている。
144
山法師闘病の妻昼を眠る
山法師闘病の妻昼を眠る 『東国抄〈妻病む〉』
山法師のあの白い清楚な花が山にたくさん咲いている景色が目に浮かぶ。そして実際あの花は緑の樹々の中で眼を閉じて眠っているような雰囲気がある。この句では眠っているのは妻なのであるが、それが真昼の山の緑の中で眠っている山法師の花のことを言っているようにも感じられる。妻は山法師の花の精であり、眼を閉じて、今は眠り続けている。
145
背を丸め養う者に薄暑
背を丸め養う者に薄暑 『東国抄〈妻病む〉』
〈妻病む 十七句〉と前書のある十五句目の句である。妻が病に倒れた衝撃、祈り、心に去来する様々な想い、眠る妻、そのような過程を経てこの句辺りでは現実味を帯びた描写になっている。病状も安定してきて、ふと現実の日常感が出てきたという感じである。「薄暑」という皮膚感覚を伴った季語がそういう感じを読むものに起させるのかも知れない。
146
三日月に牛蛙とは鬱なるかな
三日月に牛蛙とは鬱なるかな 『東国抄〈妻病む〉』
妻の病気も一つの峠を越え、現実的な養生の段階に入ると、何だか自分の存在が、ボサーッと側に居るだけの用無しに思えて来たりする。そのような心境を比喩的に表現したのではなかろうか。「三日月」が妻であり「牛蛙」が自分である。
147
病む者に演歌の力み声きこゆ
病む者に演歌の力み声きこゆ 『東国抄〈妻病む〉』
〈妻病む 十七句〉と前書のある最後の句である。
私にはこの句は、病院というある意味で一つの非日常空間から日常空間である巷に戻って行く時の句であるような気がするのである。病院には病むものがいる、巷に出てみれば演歌の力み声が聞こえる。そんな場面である。
この〈妻病む 十七句〉は平穏な日常を断絶するような冒頭の一句から始まり、感情の波、祈り、手術の成功、追憶、黙想、病の徐々の回復、そして再び新たな日常へ戻っていくという流れがある。「妻の病」という誰にでも起り得る事柄に際しての自分の意識の流れを真実に、熱く、情感豊かに、細やかに、深い想いで描いた連作であった。そして日常と非日常の、肉体と精神の交響という、現象のトータルな把握がある。
148
環境破壊
まだまだ〈妻俳句〉の鑑賞は続くのであるが、〈妻病む 十七句〉という圧巻の連作の鑑賞が終わったので、話題を変えて少し最近の世の中について感じていることなどを書いてみたい。
私はもともと悲観的な人間である。平たく言えば心配性の人間である。それにしても今の世の中、心配の材料が多過ぎるのではないか。地球規模の環境問題・戦争と平和の問題・人心の荒廃の問題等々、さまざま有る。そして心配である。心のどこかで時々おろおろしているが、それを解消する術もない。
一番の心配の対象は環境問題である。この問題は一番基本的なものではないか。極端に言えば、戦争が起ろうが何が起ろうが、人間や動植物の住む土地である地球が壊れないで存在していれば、また何とか善い方に向う可能性が残されるからである。しかし、地球が人間や動植物が住むのに適さなくなれば、全てはオジャンだからである。そういう訳で環境問題が一番心配なのであるが、いつも不思議に思うことがある。それは、地球温暖化にしろ他の環境問題にしろ、その原因は主に石油である。一方では人間に多大な恩恵を与えてくれているようにも思える石油、その石油が他方では人間や動植物の生存を脅かす大元であるというのは実に皮肉なことである。何故こんなものが地球の地下に大量に埋蔵されていたのだろうか。それが不思議だと思うのである。もし、創造主がいたとすれば、彼は自分の被造物である人間を試しまた観察しているに違いない。「私が創ったこの人間というものは、果してお利口さんなのか、それともお馬鹿さんなのか、眺めていてやろう」というわけである。その為に彼は石油というものを地球の地下に埋めた、という筋書きが考えられる。そして私にはどうも、人間はお馬鹿さんだったという結論の可能性が大きいような気がして、おろおろとしているわけである。
進化論的見て、違う筋書きがあるかもしれない。恐竜が絶滅したように、環境破壊によって人類の大部分は絶滅する。そしてもう少し知恵のある新たな種が進化してくるという筋書きである。これなどは殆どノアの方舟の神話に近いような筋書きであるとも言える。
ああしかし何れにしてもこの大自然が壊れてゆくのを見るのは忍びない。
癌と同居の妻に太平洋は秋 『東国抄』
というような優しい自然。優しい秋の海があるような自然。優しい季節の巡りがあるような自然。そういう自然がいつまでもいつまでも有って欲しい。少なくも人間自らの手によってこの自然を壊してしまうようなことが無いことを祈るばかりである。
149
憲法九条
次に戦争と平和の問題がある。つまり憲法九条改正の動きがあるので、いやおうなしに考えさせららる。そしてこの問題も結局私は地球の環境問題に帰結させて態度を決めている。
次が日本国憲法第九条である
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
実にすっきりとした、人間の理想を掲げた条文である。しかし、戦争をふっかけられたらどうするのか、という疑問が必ず起る。そこで止むなく自衛隊という組織が作られた。自衛の為の交戦は仕方がないというわけである。そして事態を複雑にしているのは日米安保条約である。今は核兵器の時代であるから、抑止力としてアメリカの核の力が必要だというわけである。そこで集団的自衛権というような問題が起る。アメリカに守ってもらっていながら一方的に守ってもらうだけで善いのかということである。だから安保条約を破棄して日本も核兵器を持つ方が善いという議論も起ってくる。だんだんだんだん、憲法九条の理想から離れていくのである。こういう場合はどうする、ああいう場合はどうするということを考えると、だんだん一番大事な理想から遠くなるというのは常のことであるような気がする。
宇宙船「地球号」という立場で考えてみる必要が、現在は有るのではないか。過去において、この「地球号」の上でたくさん戦争があった。殆どが悪い動機を持った戦争だっただろうし、止むを得ない秩序を保つための正義の戦争もあったのかもしれない。そしてそれらの戦争が起っても、沈没しないだけの許容力がこの宇宙船「地球号」にはあった。しかし、現在はどうだろうか。核兵器があり、またこれだけの環境破壊が進む中で、宇宙船「地球号」にはこれらの人間の愚かな行動を許容する力があるだろうか。エネルギーの最大の無駄は戦争であり、また対立した世界の構図の中で地球環境汚染の除去などという世界的な事業が成立するだろうかということである。私には、沈没しそうな船の上で、ああだこうだと小競り合いを続けている場合ではないような気がするのである。あいつやこいつを打ち負かして、自分だけが生き残る道があるのだろうか。私には、あいつもこいつも自分も生き残るか、あいつもこいつも自分も破滅するか、どちらかしかないような時代に私達は置かれているのではないかと思えるのである。その意味で、憲法九条は、宇宙船「地球号」の船首に掲げて置くべき燈火なのではないかと思うのであるが、いかがだろうか。
美しい国日本は美しい地球なくしては有り得ない。
去年今年国会議事堂に餓鬼(チルドレン)ども 句集後
下手な考え休むに似たり蛍の夜 句集後
150
人間の心の荒廃
次に人間の心の荒廃の問題を論じてみようと思ったが、止めにした。人の心という分野は私の分野であるし、私の分野であるゆえに軽々と大雑把に言ってしまいたくないということがある。そしてああだこうだと現在の状況のマイナス面を言ってみても何の益も無い感じがするからである。また、この「生の詩人 金子兜太」という書き物自体が、この閉塞した人間の心の状態を切り開く為の一つの示唆になって欲しいという願望をもって書いているからである。
ただ言えると思うのは、地球の環境問題や戦争と平和の問題などと、この人間の心の問題は連動しているということである。つまり双方の問題が良い方へ向うか悪い方へ向うかは同時性があるということである。
うーうと青年辛そう日向ぼこ 句集後
牛蛙眠れぬ妻に青葉の眼 『東国抄』
〈妻病む〉の連作の後に水牛や象の連作があり、また牛蛙の連作もある。この句はその牛蛙の連作の一つである。その牛蛙の連作を並べてみる
仏さま鷄も牛蛙も鳴くよ
太陽は大きくて黄色牛蛙
牛蛙眠れぬ妻に青葉の眼
昼間眠れて喜ぶ妻に牛蛙
牛蛙に眠り千鳥に目覚めている
兜太の俳句にはとてもとても多くの動物が登場する。そしてどことなくそれらの動物が兜太自身の分身のような感じを受ける。こういう作家は希有なのではないか。例えば一茶なども動物に語りかけるような句があるが、やはり人間としての一茶が動物に親しみを感じているのであるが、兜太の場合は動物達がもう殆ど自己と一体となっている感じがするのである。兜太と自然は一体、自然児兜太ということであろうか。これらの句群においても、とくに牛蛙=兜太という感じが私にはしてしまうのである。
152
妻癒えゆく
雪の宿傷癒えたるや妻多弁 『東国抄』
良き医師に恵まれし妻青き踏む
癒えゆく妻巣立ちの鳥の羽搏くも
茂りあり静かに静かに妻癒えゆく
五月富士妻癒えたれば野路に親し
妻が癒えゆくという過程と、雪の宿・青き踏む・巣立ちの鳥・茂りあり・五月富士という季語がみごとに交響している。これは表面的に上手いというレベルではなく、人間への愛深さ及び自然への感応力及び季語を含めた言葉への造詣の深さ、ということであろう。
153
妻病めば葛たどるごと過去たぐる
妻病めば葛たどるごと過去たぐる 『東国抄』
妻が病むということ。しかも癌という死も視野に入ってくる病。妻という存在は自分にとって何だったのだろうか。この世に生まれて、たくさんの出会いの中から、偶然か必然か、一人の人が自分とこの生を共に歩むことになった。妻を通してたくさんの事を学んだ。男性原理女性原理。たどり着いたと思ってもまだその先がある愛というものの奥深さ。妻というものを通して寛容ということを自然ということを学んだ。時には絶望さえ伴う軋轢があったかもしれない。一対の異性が共に歩むということは、まさに人生に起こり得るさまざまな心理的な問題を全て経験させてくれるような気さえするのである。その妻が今、自分より先に死ぬ可能性のある病に倒れている。
154
手術待つ妻に海上の満月
手術待つ妻に海上の満月 句集後
とても好きな句である。バッハあたりの音楽が聞こえてくるようである。運命に抵抗するというのではなく、運命に静かに深く身を任せた感じ。海上の満月がそれら全てを見守っている感じ。寄せては返す寄せては返す波の音が聞こえてくる。生も死も越えた生の音楽が聞こえて来る。
155
獅子座流星群病い養う妻の町に
獅子座流星群病い養う妻の町に 句集後
男女が出会い、そして夫と妻になる。結婚そして結婚生活であるが、その事が良かったのかどうか、一つの判断の基準がある気がする。これは神話だ、妻も夫も神話の中で出会い、そして神話が続いていると感じられるなら、その結婚あるいは結婚生活は豊かなものに違いない。真実なものに違いない。良かったものに違いない。
病い養う妻の町に獅子座流星群が訪れる。神話である。
156
病む妻に帰る鶫の御挨拶
病む妻に帰る鶫の御挨拶 句集後
ああ、ほんとに素晴らしい。神話である。詩とは神話である。詩人であるとは神話を生きることである。最初、この「生の詩人 金子兜太」という書き物の副題に「徒然にまた神話的に」という言葉を書き添えようかと思っていたのであるが、まさにそういうふうに私自身この書き物を書きたいと思っていたのであるが、私が金子兜太の俳句を読み続けているのは、彼の神話を追体験したいと思っているからだろう。
この句などは、アッシジの聖フランシスコを思い出させる。生は神話である。
157
医師の誠意に妻支えられ遠桜
医師の誠意に妻支えられ遠桜 句集後
皆子夫人の主治医は相当な人物だと思う。それは皆子夫人の主治医に関する句群から推察するのであるが、皆子夫人は主治医に全面的に命を預けたという感じさえ持つのである。主治医に恋をしていたとさえ思われる。多分そういう全面的な信頼がなければ安心して手術を受けることは出来ないのかも知れない。殊に感受性の強い女性にとってはそうではないか。
夫としては妻に何もしてやれない。医師に任せるしかないのである。社会的に忙しい夫とすれば、妻の側に居てやることもままならない。だから、医師が誠意に満ちた医師であることが嬉しい。しかし若干の、何と言ったらいいだろう、寂しさ?あるいはもどかしさのようなものがあったに違いない。それが「遠桜」という感じなのではないだろうか。
金子兜太夫人の金子皆子は私の尊敬する俳人の一人である。そのみずみずしい純な真実味のある句は魅力がある。俳句の歴史の中でもその個性は傑出しているとみていいのではないだろうか。私自身、俳句を作る上でとても教えられるものが多い。そして妻は単なる夫の添え物ではなく、夫婦は互いに影響しあい高めあう存在だとすれば、この「生の詩人 金子兜太」という書き物で、皆子夫人の句を取り上げないわけにはいかないと気が付いた。そこで明日から、多分相当長い期間、皆子俳句を鑑賞したいと思うのである。
158
皆子俳句を鑑賞するにあたって
私は長野県の北部の鬼無里村という山の中に住んでいるのであるが、一昨年に長野市と合併して長野市鬼無里となった。合併して一つだけ良いことがあった。それは長野市から移動図書館が隔週で山の中にもやって来てくれるからである。長野市の図書館の蔵書はインターネットで全て検索できるから、お目当ての本を注文すれば持って来てくれるのである。長野市の図書館に無い本でも条件が合えば図書館で購入してくれる。私は本を買わないことにしているので、とても重宝しているのである。何故、本を買わないかというと、金が無いからである。詳しく言うと、心理的に本を買う金が無いのである。私は若い頃からずっと絵を描いている。しかもろくに売れない絵である。売れない絵を描くということはいわば道楽である。そしてまた途中で俳句を始めた。これも金にならないからいわば道楽である。その上、読みたい本を買うというのは、どうしても心理的に抵抗があるわけである。私の人生、道楽で出来ているということになってしまうからである。
何故こんな事を書くかというと、金子皆子さんの句を鑑賞するにあたって、本当はその句集を読めば一番良いと思うのであるが、その句集が無いのである、買わないから。金子兜太の句集は特別なので買うが、その他の句集は買わないことにしているからである。金子皆子さんの句集は図書館にも置いてない。そして個人の句集というのは、図書館に購入を依頼しても殆どが断られる。長野県立図書館にも無い。松本市立図書館にもない。よく出掛ける池田町の図書館にも無い。ネットで検索してみると、千葉市の図書館には有る。しかし、千葉市の図書館から借りるわけにはいかない。そこで金子皆子さんの句を鑑賞するにあたっては、私が『海程』に在籍している約十年間の『海程』誌に載った俳句のみを対象とすることになる。
159
初花や麻痺の右顔は固蕾
と昨日書いたが、『海程』の皆子さんの句を読み始めたら全句を読みたいという思いに駆られた。そこで今回は特例として、金子皆子さんの句集を買うことにした。
さっそく、そして久しぶりに金子先生のお宅に電話して、皆子さんの句集についてお尋ねした。皆子さんの句集は全部で四冊あるそうである。『むしかりの花』『さんざし』『黒猫』『花恋』である。この中の『さんざし』は他の句集と内容がダブルので必要無いとのこと。そこで他の三冊を送って頂くことにした。また『むしかりの花』はもう在庫が無いかもしれないということだったので、それならお借りできないかお伺いしたところ、何とかするとの話で有り難かった。
金子先生は相変わらずお元気そうで、とても安心した。聞くところによれば現在顔面麻痺という病だそうで、その事をお伺いもしたり、またこの病は私の義父が持っていた病だったので、そんな話をしたりした。この病は私の義父を見ていると、顔の反面が歪んだようになる。『海程』2007年の五月号の金子先生の句に
初花や麻痺の右顔は固蕾(かたつぼみ)
という句があるが、まさにこのような感じの症状なのである。それにしても自分の病の事さえも、このような句に表現してしまうということ、まさに俳諧の権化、あるいは俳人格ということか。いや、この句に限らずその表現の領域が全的であることを考えれば俳神格とでも言いたいくらいである。
160
白梅や老子無心の旅に住む
金子先生にお電話したときの金子先生の言葉。「買ってくれるのか。高けーぞー」。この庶民性。私に金を使わせないという心遣い。虚業としての俳句業へのへりくだり。そんなものを感じる。また今度、金子皆子さんの遺句集が出るそうであるが、それは別に私にプレゼントしてくれると言われた。この気前の良さ。とにかく金子兜太という人は人間的な魅力に満ちている。現在、俳壇の重鎮として尊敬されている金子先生であるが、その理由がその生な人間的魅力にあることは間違いないのであるが、一方で果してその俳句そのものが正当に評価されているのかどうかは疑問である。もちろんある程度の評価はある。しかし正当な評価であるとは見えない。芭蕉・一茶・蕪村・虚子・草田男・兜太・・・と肩を並べるが。もし二人挙げるとしたら芭蕉・兜太であり、もし一人挙げるとすれば兜太である。そういう評価を私はしているのであるが、これは別に私が兜太の弟子であるという身びいきなのではない。事実を言っているに過ぎない。もっとも芭蕉や虚子が人気があるのは理解出来る。いわば彼らは一面的であるからである。存在の一部を切り取って主張しているから見やすいのである。その点兜太はもっと全的である。全的である故に見にくい理解しにくいということはある。部分は理解しやすいが全体は理解しにくいということである。そして言っておきたいのは、芭蕉や虚子を理解しても幸せにはならないが、兜太を理解できれば幸せになるということである。個我の意識を存在全体の意識に融合させること、それが幸せになるということに他ならないからである。
白梅や老子無心の旅に住む 『生長』
161
手術待つ妻に海上の満月
この〈生の詩人 金子兜太〉という書き物の現在の位置は、金子兜太の〈妻俳句〉を鑑賞している途中で、夫人である亡き金子皆子さんの句集を読む必要があるということで、金子先生にその句集を送って頂くことになって、それを待っているという状況である。
この〈待つ〉というのはとても素敵な時間である。友人を待つ。恋人を待つ。何か大事なものを待つ。だから逆にとても辛い時間にもなり得る。待っている友人が来ない。恋人がなかなか来てくれない。自分にとって大切な何かがやって来てくれない。そして時には恐怖に満ちた時間にもなり得る。試験の結果を待つ。手術を待つ。そして死を待つ。だから同時に〈待つ〉ということは祈りの時間にもなる。ある意味では〈待つ〉ということが人生の全てではないか。このアートを身に付けたら、その人は人生の達人と言えるのではないか、とも思える。
兜太の〈待つ俳句〉は十数句あるが、やはり次の句は秀逸である。
手術待つ妻に海上の満月 句集後
162
春落日しかし日暮れを急がない
〈待つ〉ということに関して言えば、私はかつてのインド旅行でかなり鍛えられた気がする。現在のインドの事情は知らないが、かつて(約三十年前)は汽車などは予定時刻から半日遅れだとか一日遅れだとかということはよく有った。誰も文句を言わない。悠久の時の流れの中での一日などはほんの一瞬のことに過ぎないというような意識である。現在インドはとても経済成長していると聞くが、逆にあのような悠々とした時の流れが失われていくのではないかと思うと残念な気持ちもある。現在、世界はすべてスピード優先、早い者勝ちという風潮があるのではないか。悪いとは言わないが、それに地球が耐えられるかという問題がある。慌てない、急がない、待つという態度が現在人間の心に求められている気もする。ゆったりとゆったりと。
春落日しかし日暮れを急がない 『両神』
163
皆子句鑑賞について
一昨日、皆子さんの句集が届いた。昨日はお借りした『むしかりの花』をパソコンに入力した。『むしかりの花』『黒猫』『花恋』とこれから鑑賞していこうと思う。かなりの日数がかかるかもしれない。
〈生の詩人 金子兜太〉というテーマで書いているが、その中に夫人の句の鑑賞を相当数割り込ませるというのも意味のあることである。人間はあらゆる関係の中で生きているが、〈詩〉はその関係の中から生まれるからである。自然との関係、社会との関係、まわりの人間との関係である。付け加えれば、自分自身との関係、神との関係というのも入るかもしれない。いずれにしろ夫婦関係というのはその中でもかなり親密なものであるし、兜太においてもその関係はその生のとても大きな部分を占めていたに違いないと思うからである。しかも皆子さんはその心の深いところのものを句に表現できる俳人であったから、その句を鑑賞するということは〈生の詩人〉としての金子兜太を鑑賞することの一助になるかもしれないと思うのである。宇宙が陰陽で出来ているとすれば、人間関係に於ける陰陽の代表的な形が夫婦である。すなわち、金子皆子さんの句を鑑賞するということは、金子兜太を陰陽の陰の側から鑑賞するというニュアンスもあるかもしれない。
164
新緑めぐらし胎児育ててむわれ尊
『むしかりの花』の鑑賞を始めるが、『むしかりの花』は
〈鴎〉 昭和23年~35年 111句
〈青い鳥〉 昭和37年~42年 70句
〈榛の木〉 昭和43年~45年 54句
〈枸杞の実〉 昭和46年~48年 76句
〈水すまし〉 昭和49年~51年 73句
〈旅次照葉〉 昭和52年~55年 58句
〈黒猫〉 昭和56年~60年 108句
という章に分れている。鑑賞において、その句集名と年代をはっきりさせておきたいので、例えば、次の句は皆子氏の句で、『むしかりの花』の中にあり、昭和23年~35年の間に作られたということで 皆『む』s23~35 と句に添えることにする。鑑賞の順番は大体において句集に並べられた順になると思う。
新緑めぐらし胎児(あこ)育ててむわれ尊(とうと)
皆『む』S23~35
女性が、殊に母が自分のことを尊いと感じるということは、それこそとても尊いことではないだろうか。この尊いという感じは大地が尊い、それに育まれている生命が尊いという感じに繋がる。個我としての我ではなく、大地そして自然が尊いと言っていることに等しいのである。新緑をめぐらした大地という印象がこの句にもある。吾子と書かないで胎児と書いたのは、戦争という殺戮の時代が終って萌した新しい生命に対して、それは自分の子であると同時に命の子、大地の子であるという大きな意識があったのではないだろうか。とにかくこの句は、作者が大地という大きな想念を持っていたのではないか、と私には思えるのである。男である草田男が「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」と自分の子の生長を喜んだ秀句があるが、想念の大きさから言えば、この皆子句の方がずっと大きくて優れている。
この句は昭和二十三年の作だそうである。私は昭和二十二年の生まれだから、ちょうど皆子さんは私の母親の年代に近い。私の本名は春彦であるが、その頃の私の母の短歌に「我に倚り眠ってしまへる春彦の小さく開きし口に月さす」というのがあるのを思い出した。
165
あの時代
『むしかりの花』の冒頭の数句を読んだが、あの時代の雰囲気やあの時代の妻あるいは母親の心情が出ている句が並ぶ。
夫の絣汚れしままに産みに行く 皆『む』S23~35
(洗濯機などの無い時代、主婦は手で洗濯をしていた。自分は産みに実家へ行くが、夫の絣が汚れているのが気になっている。)
ポケットに石ころ吾児の腹整い 皆『む』S23~35
(あの時代、子供は常にある程度腹が減っていた。そしてポケットに石ころがあった。)
夜の秋客去りて砂糖壷しまう 皆『む』S23~35
(砂糖が貴重な時代。客には出すが家族はむやみには食べない。夜の秋の主婦の心情が伝わってくる。)
風邪の子へ家中灯しレモン絞る 皆『む』S23~35
(家中灯すということはあの時代には特別なことで、もったいないことである。多分レモンなども贅沢品だったのではないか。しかし、子が風を引いたらそんなことは二の次になる。)
ゆさぶって桃罐開く寒父子 皆『む』S23~35
(桃の罐詰を食べるというあの時代の贅沢で豊かなひと時。夫と子が幸せだ。そしてその事が自分も幸せだ。)
子が緑描き雨の日の砂糖パン 皆『む』S23~35
(子が緑を描くという幸せ。そして子と砂糖パンを食べるというちょっとした贅沢。雨の一日である。)
鳩時計キャベツも食べて子の眠り 皆『む』S23~35
(鳩時計が打つ。子が眠っている。そういえば今日はこの子はキャベツも食べた。夜の母親のひと時。子への眼差し。)
166
天平の甍見放つ春空へ
青くるみ学ばんと思いつつ歩く 皆『む』S23~35
主婦・妻・母親としての眼差しを昨日の句では見てきたが、その彼女が若々しい向学の思いを表現している。糠味噌臭くもあり、理想を追う姿勢もある幅広い人間像を感じる。次の句などもその理想への向学心が表現されているように思うし、青春を感じて胸が切なくなる。
天平の甍見放つ春空へ 皆『む』S23~35
167
濯ぐ主婦紅潮のゆび桜指す
濯ぐ主婦紅潮のゆび桜指す 皆『む』S23~35
この句などは、主婦としての日常と憧れのようなものが共に表現されているのではないか。肉体と精神のバランスである。
どうだろう、一般的に女性は日常に根ざし、男性は理想を追うという傾向があると言えないだろうか。次の二句をそのような目で見るのはこじつけか。
週日や春卵夫の掌に移し 皆『む』S23~35
朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太『少年』
168
夕汽車のこだまの中の家愛す
私は比較的にテレビっ子である。私の妻も同居している息子も殆どテレビを見ない人なのであるが、私だけはテレビを見る。その所為か、どうしても現代は殺伐としていると思ってしまう。そういうニュースが多いからであるが、実際に時代がそうなのか、あるいはニュースというものはそういう話題を殊に取り上げるものなのか。いずれにしろそういうわけで、次のような句がどこか懐しくて心がほっと和む。
夕汽車のこだまの中の家愛す 皆『む』S23~35
水音に母子包まれ青ぶどう 〃
花梨(かりん)の実ポケットにある父への旅 〃
子が捕りし沢蟹匂い唄う夫 〃
169
屋上より沈まんとコスモスに降りる
屋上より沈まんとコスモスに降りる 皆『む』S23~35
日常の中で黙想的な時間に浸りたいという作者の願いのような気がする。同じ頃の兜太の句に「屋上に洗濯の妻空母海に」というのがあるから、見えてくる景は屋上で洗濯などをしていた作者が下に見えるコスモスの花のところへ降りて来た、というようなことであろう。「沈まんと」が私には「内面に沈潜したい」というように感じられる。そして、内面に沈潜するためにコスモスの花に降りてくるというのが、いかにもこの作者の個性であるような気がする。後年の『花恋』という素晴らしい句作を思うのである。
170
俳句は日常の安全弁
野分昏れ木屑星屑燃やしたし
何か満たされない日常生活の中で、内面の火を掻き立てたいという思い。そして
鰯雲疲れと希望の面仰向け 皆『む』S23~35
とも書く。そして
秋浜に散る貝夫と呑む茶欲し 皆『む』S23~35
と、夫との充実した時間への憧れが美しく描かれる。
この『むしかりの花』の序文に兜太は「俳句は日常の安全弁」であるという言い方が当時あった、と書いているが、私も俳句にはそのような面が大いにあると思う。日常の不備を、ある意味では日常は不備に決まっているのであるが、それを俳句が補ってくれるというわけである。
俳句は遊びであり、文学であり、そして宗教でもあり得ると私は思っている。
171
女人誕生米透きとおる果実のごと
そして時には次ぎのような昂揚した句が生まれる。
女人誕生米透きとおる果実のごと 皆『む』S23~35
私は、この句の「女人」というのは実際に誰かの女児が誕生したというのではなく、自分があるいは一般的に女性が人間としての自覚に目覚めたと解釈したい。そうすると、人間の理想を描いた新憲法も作られた戦後のこの時代の雰囲気にも合っているし、「米透きとおる果実のごと」という言葉がとても良く響いてくるからである。
172
枯色にカナリア少年熱の中
発熱す真夜の白磁に冬迫り 皆『む』S23~35
枯色にカナリア少年熱の中 皆『む』S23~35
この二つの句は並んで置かれているから、同じ場面での句作ではないか。
一句目。自分の子が発熱した時の緊迫感が伝わってくる。「白磁に冬迫り」という表現がそれを演出している。
二句目。「カナリア少年」というのは、この子はカナリアを飼っていてカナリアに夢中だったということではないだろうか。そういう少年が今病気で枯色になって熱の中にいる。何と言ったら良いだろうか。〈眼差し〉である。
173
皿磨き重ね夕焼寒くなり
次の句群などは日々の主婦の生活と心情を細やかに書き取っているのではないだろうか。
凍て濯ぐ泡細細と空映す 皆『む』S23~35
皿磨き重ね夕焼寒くなり 〃
綿虫や皿割りしこと母もあり 〃
春山の底なる母の骨思う 〃
新樹光魚提げ妻は小走りに 〃
そしてその背後には
ネーブル匂う灯下厚きに夫の掌あり 〃
という夫への信頼感がある。
174
菜殻火のかなたに海あり旅路にあり
菜殻火のかなたに海あり旅路にあり 皆『む』S23~35
妻の眼差し。母の眼差し。主婦の日常。そして一個の人間としての自覚や向上心。そういうものをひっくるめて、自分は旅路にある、そしてその旅路の果てには憧れの海がある、というような快い確信の流れに乗っているというような雰囲気を持っている句である。ゆったりとした大きな時の流れを作者と共に楽しみたい。
175
父母に歌子が持ち込みし夜の青葉
父母に歌子が持ち込みし夜の青葉 皆『む』S23~35
この『むしかりの花』の序文に兜太が「・・・翌年生れた長男が真土(まつち)。私が昼寝をしているあいだに、わたしの父と皆子で相談して決めてしまった名前で・・・」と書いている。また、皆子は始めから土への志向性があったというような事も書いている。自分の子の名前を〈真土〉と名付けるという自然志向。自分の子へ自分の憧れを投影していたのかもしれない。「子が持ち込みし夜の青葉」と書かれたこの句を読むと、そんな気がするのである。
176
カオスコスモス
私事になるが、ちなみに私の長男の名前は〈カオス〉である。私はもっと常識的な他の名前を考えていたのであるが、妻は頑としてこの名前を付けた。妻が言うには、カオスというのは宇宙のあるいは存在の根源的な状態あるいは知恵を表すのだというようなことを言っていた。そう言えば、私の妻にはその辺りのところを見ている眼差しがある気がする。ちなみに次男の名前は〈コスモス〉である。この名前は〈カオス〉からの流れで当然の名前という気がするが、当人達は名前に対してかなりの抵抗感もあるようである。これらの名前を鼓舞するように妻は次のような文を板に彫り付けて我が家の居間に掛けている。070621
私事になるが、ちなみに私の長男の名前は〈カオス〉である。私はもっと常識的な他の名前を考えていたのであるが、妻は頑としてこの名前を付けた。妻が言うには、カオスというのは宇宙のあるいは存在の根源的な状態あるいは知恵を表すのだというようなことを言っていた。そう言えば、私の妻にはその辺りのところを見ている眼差しがある気がする。ちなみに次男の名前は〈コスモス〉である。この名前は〈カオス〉からの流れで当然の名前という気がするが、当人達は名前に対してかなりの抵抗感もあるようである。これらの名前を鼓舞するように妻は次のような文を板に彫り付けて我が家の居間に掛けている。
万有に浸透し根底から成立せしめている chas
その成果なる森羅万象 Cosmos
Chaos 万有の詩なるかな
Cosmos 万有の舞踏なるかな
177
みのり
昨日の続きでもう少し私の子供の名前のことを。第三子で長女の名前は〈みのり〉であるが、これは私が考えた名前である。もちろん一般的に〈実り〉という意味がある。そして〈御法〉という意味もある。そして音を分解すれば、〈m+inori〉となる。つまり〈無+祈り〉となる。この世の実体は無であるという覚醒と、祈りを持って生きるというつまり愛を兼ね備えた生き方を願って付けた名前である。〈無+祈り=御法=実り〉とう図式が私の中にはある。
私は赤ん坊を観察してきたわけでもないからこれは推測に過ぎないのであるが、この〈m〉という音は人間が生れて最初に発する言葉(音と言った方が良いかもしれないが、泣き声ではない)なのではないかということである。また私は言語学者ではないから詳しくは知らないが、知っている範囲でも、母親の愛称として欧米ではママと言い、中国ではマーマと言い、インドではマーと言うらしい。これは赤ん坊が最初に発する〈m〉という音を母親が自分のことを呼んだと受け取ったからではないだろうか。また日本では御飯のことをマンマという。これは赤ん坊が発した音を日本ではお乳すなわち食べ物を欲しがっていると受け取ったからではないか。ちなみに赤ん坊が発する子音の二番目はp音やb音ではないかと勝手に考えている。パパ(父親)、パパ(日本のある地方の方言でうんちのこと)、アバ(父親)、ババ(祖母)、ババ(うんち)等々、これらの言葉を集めたらかなりあるのではないか。
またヒンズーの代表的で究極的な真言としてオームという言葉がある。AUMと書くが、この中に含まれる子音はmである。
つまりこの〈む〉という言葉は音の面から言っても根源的な音なのではないかということである。
そして結局私は何が言いたいかというと、子供の名前を付けた時、私はかなり手前勝手にいろいろ考えたということである。親馬鹿という言葉もある。
178
少女のごと風邪ひき易し野ばらの日日
少女のごと風邪ひき易し野ばらの日日 皆『む』S23~35
後年の『花恋』における「右腎なく左腎激痛も薔薇なり」を思う。薔薇、棘がある、そして美しい。この薔薇の象徴性は大きい。この象徴性を理解した上で、この薔薇を抱くことが出来れば、やって来る殆どの苦難は乗り越えられるのではなかろうか。そして金子皆子さんはそれが出来た人なのではないだろうか。それを身をもって、句をもって示した人なのではないだろうか。
掲出句でも同じようにこの薔薇の象徴性が活きている。そしてまだ穏やかである。穏やかでみずみずしく若くそして美しい。
179
野ばらくぐる群蜂淋しき傍観者
野ばらくぐる群蜂淋しき傍観者 皆『む』S23~35
この野ばらの句も若い抒情に満ちたみずみずしい句である。「野ばらくぐる群蜂」という表現に見られる自然の髄を見ているような感受性、そして自分は「淋しき傍観者」であるという憧れの裏返しの感情。青春のエキスが沁み出ているような詩性がある。
青春とは憧れ恋いこがれる気持ちである。何に。それは何にでもかまわない。青春を失わなければ、それは次々にやって来る。『花恋』あたりの句を垣間見れば、皆子さんはそういう意味で青春を生き切った人だとも言えそうである。
180
氷塊と少年に虹意志あれよ
氷塊と少年に虹意志あれよ 皆『む』S23~35
この句もまた青春性の高い佳句である。昨日の句が抒情を感じたのに対してこの句には造形ということを感じる。氷塊・少年・虹・意志という言葉が無駄なく緊密に結びついて一つの結晶化された風景を感じる。勝手な連想であるが、どこかピカソの青の時代からキュービズムへの移行期のすがすがしい意志というようなものさえ連想する。つまりそのような絵画性を感じるのであるが、何回も読んでいると透明感のある上質な彫刻のような雰囲気さえ感じられてくる。
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