斎藤実盛とは~木曽義仲もその死を悲しみ「武士の鑑」とされる武将

https://senjp.com/sanemori/  【斎藤実盛とは~木曽義仲もその死を悲しみ「武士の鑑」とされる武将】より

斎藤実盛(さいとう-さねもり)は、1111年に生まれた平安時代末期の武将です。

父は斎藤則盛(または斎藤実直・斎藤実遠)で、斎藤実直の養子になったものと推測されます。

出身は越前・丸岡城近くの長畝城(のうね)だったようですが、斎藤家の本拠地は、武蔵・長井庄であったことから、長井別当、斎藤別当実盛とも呼ばれます。

斎藤実盛は、源義朝の弟・源義賢に従っていたようですが、1155年に、源義朝の子・源義平(15歳)が畠山重能らと大蔵館を襲撃(大蔵の戦い)して、源義賢、秩父重隆を討ちます。

そして、畠山重能は源義賢の遺児・駒王丸(2歳)を探して殺害するよう命じられました。、

しかし、畠山重能は幼子を殺害するのは気の毒だとして、源義朝と源義平、そして源義賢にも仕えたことがある斎藤実盛に、駒王丸を逃がすように命じたのです。

斎藤実盛は、乳母の夫である信濃は木曽の中原兼遠を頼って、秘かに駒王丸を逃しました。

この駒王丸は、成長すると、木曾義仲(きそ-よしなか)と称し、治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦うことになります。

その後、斎藤実盛は源義朝に従って忠実な働きをしますが、源義朝が平治の乱で敗れて誅殺されたあとは、長井庄に戻りました。

そして、平家に仕えると、有力な東国武将として活躍します。

1180年に、源義朝の子・源頼朝が韮山にて挙兵した当初は、平維盛の後見役として源頼朝の追討に参加しました。

富士川の戦いにて、平家は水鳥の羽音を夜襲と勘違いして源頼朝に大敗を喫しますが、これは、斎藤実盛が東国武士は強いと、平維盛らに話をしたところ、平家の武将らが過剰な恐怖心を抱くようになり、水鳥が羽ばたく音を、敵襲だと勘違いしたと言う事になっています。

多くの関東武士が源頼朝に鞍替えする中、斎藤実盛は引き続き忠実に平維盛に従っており、1183年に、木曾義仲を追討するため北陸に出陣します。

5月11日、木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いにて、10万とも言われる平維盛らの北陸追討軍を破ります。

そして、木曽勢は敗走する平家を追撃し、6月1日、篠原の戦いとなりました。

この時、覚悟を決めていた斎藤実盛は「最後こそ若々しく戦いたい」と、老齢により白髪となっていた頭髪を黒く染めていたと言います。

そして、平維盛を逃がすため、一歩も引かずに奮戦し、ついに木曽義仲の部将・手塚光盛(手塚太郎光盛)によって討たれました。

首実検では、斎藤実盛と分からなかったのですが、染めていると樋口兼光から聞いた木曽義仲が、改めて首を近くの池で洗わせたところ、白髪の斎藤実盛と確認できたと言います。

幼いころの恩人を討ち取ってしまった木曽義仲は、涙を流したと伝わります。

この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期は「平家物語」巻第七に「実盛最期」として一章にて紹介されており「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評されています。

このように、大蔵合戦から28年後の篠原の戦いでの首実検の場にて、斎藤実盛と木曽義仲は悲劇的な無言の対面を果たしたのでした。

木曽義仲が奉納したと伝わる、斎藤実盛の兜(国の重要文化財)は、今でも小松市の多太神社にあるそうです。

一遍上人(遊行上人)が北陸を訪ねた際には、加賀の篠原で、白髪になっている斎藤実盛の亡霊に会い、供養したという話が、謡曲「実盛」となりました。

今でも、藤沢・遊行寺の歴代上人は、1度は必ずは実盛塚をお参りしたあと、舟で今江の上人河道を渡って、多太神社にて、兜の供養をすると言う決まりになっています。

斎藤実盛は「武士の鑑」として後世に伝えられ、奥の細道でこの地を訪れた松尾芭蕉も、実盛伝説をもとに「むざんやな甲の下のきりぎりす」の名句を詠んでいます。

与謝野晶子も「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきつる塚」との句を残しました。

さて、小松出張の際に、篠原古戦場実盛塚に寄ろうとしたのですが、駐車場が見つかりませんでした。

路上駐車するのも交通障害など、地元の皆様にご迷惑をお掛けしますので、入口だけ1枚撮影して断念した次第です。

今後、またチャンスがあれば、きちんとお参りしたいと存じております


https://rekan.jp/175/ 【木曽義仲(源義仲)とは わかりやすく2分で】 より

木曾義仲(きそ-よしなか)は、源義賢の次男として1154年に生まれました。

父の兄・源義朝(源頼朝の父)が京から下って関東の豪族を従えて勢力を付けると父・源義賢は1153年、北関東に入って上野国の多胡館に入りました。

そして、武蔵の最大勢力である大蔵館主・秩父重隆と秩父重弘の親子と結び、大蔵館を本拠として、秩父重隆の娘を妻にしています。

木曽義仲の母である小枝御前(さえごぜん)は、遊女だったなど諸説あり、正直よくわかりませんが、秩父重隆の娘である可能性も高く、1154年に現在の鎌形八幡神社にて生まれたとされます。

なお、木曽義仲は、源義賢の子ですので、正式な名前は、源義仲(みなもと-の-よしなか)と言います。

しかし、秩父重隆の兄・畠山重能は、弟が本家の家督を継いだことに不満を抱いており、鎌倉に入っていた源義朝・源義平の親子と結び、1155年8月、大蔵館を襲撃します。

この大蔵合戦にて、秩父重隆と源義賢は討死し、まだ2歳だった駒王丸(木曽義仲)は、畠山重能の計らいで逃がされ、斎藤実盛が駒王丸の乳母夫である信濃の中原兼遠のもとへ連れて行きました。

この駒王丸は木曽谷にて成長すると通称を木曾次郎と名乗り、治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦うことになります。

1180年、後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が、平家打倒を命じる令旨(りようじ)を発すると、木曽義仲は挙兵し、一度、多胡館に入ると信濃・依田城に籠ります。

そして、1181年、越後から討伐にきた城助職を横田河原の戦いで勝利し、北陸へと転進しました。

1183年には、平維盛ら10万の大軍を倶利伽羅峠の戦いで破り、篠原の戦いでも大勝すると、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠らを従えた木曽義仲軍は、沿道の勢力を加えて更に軍勢を増やし京を目指します。

今井兼平

そして、後白河法皇が京に戻された翌日に、木曽義仲も入京を果たし朝日将軍(旭将軍)とよばれると、改めて平家討伐を命じられました。

また、京都の警備も木曽義仲が担当しましたが、飢餓もあり京は荒れていて略奪も横行し、治安回復には失敗したため、後白河法皇が呼び出しています。

配下に勇武の部将はたくさんいましたが、政治に優れた者がいなかったのです。

信頼回復を狙った木曽義仲は、西国へと平家討伐に向かいますが、水島の戦いにて有力武将の矢田義清が討死するなど戦果が上がりませんでした。

そんな中、仲が悪かった源頼朝の弟・源義経が、鎌倉から数万の大軍を率いて京にのぼってきます。

後白河法皇は、源義経ら源頼朝の鎌倉勢を頼りにすることへ方針転換したため、追い詰められた木曽義仲は、後白河法皇捕らえて幽閉しています。

こうして、1184年、宇治川の戦いなどで源範頼・源義経と戦いますが、すでに人望を失っていた木曽義仲の軍勢は脱落者が多く僅かで敗戦となります。

木曽義仲は、北陸へ逃れようとしましたが、粟津の戦いにて数騎にまで討ち減らされ、最後は顔面に矢を受けて討死しました。享年31。

この時、恩田重巴を討ち取るなど巴御前の奮戦は有名で、のち尼となり、越中・福光城近くの友松に住んだと言います。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000