佐渡レポート

https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/sado_kikaku/mai-report01.html 【買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポートvol.1】より

 中国出身、佐渡在住の買若梅(マイ・ロアメイ)さんによる佐渡レポートを掲載しています。

 第1回目のテーマは「佐 渡」です。

 あの年の冬、私は大きな荷物を持って、研修旅行に出かけるつもりで家を出発しました。まさか、そのまま故郷の寧夏銀川を離れることになるとは思いませんでした。いつの間にか長い旅が始まり、目的地の佐渡島に向かっていました。当時、わたしは佐渡島については「流人の島」というほかは、ほとんど何も知りませんでした。新潟から船に乗り、二時間あまりかかって佐渡に着きました。生まれてはじめての海を見たり、初めての船の旅は、目にとまるものが何もかも新鮮でした。

 佐渡に着くと私は、あっけにとられてしまいました。佐渡というところは、なんてまあ、へんぴなところなんだろう!もしかしたら、前世、わたしは何か間違いをやったために、今世、島流しにされるのかなあ?そんな自問自答をしていました。

 実は、ふるさとに帰るのも一つの選択肢ではありましたが、どういうわけか、私は逆の道を選んでしまいました。佐渡との縁は何だろうと思うと不思議な感じで、この答えをずっと探していました。それから10年が過ぎた今、答えはまだ分からないけれど、佐渡に対する印象は変わってきました。当初の辺鄙なさびしいところという感じは消えて、中国の詩人、陶渊明の作品の「世外桃源郷」の世界にいるという印象でした。

 佐渡は日本海で一番大きい島です。昔、天地がまだかたまってないころ、男の神様と女の神様が長い矛を持って下界の泥をかきまわし、天空の橋の上から下界に落とし、潮水が飛び散って八つの大きな島ができたという日本建国の神話が「日本書紀」という本に書かれています。佐渡が島もその時にできたという話です。

 佐渡の面積は855平方キロメートル、海岸線の長さは277キロメートルで、大海に一匹の蝶が羽を広げた形をしています。人口は7万人、農業が中心の島である。島の北側には大佐渡山脈があり最高峰の金北山(1172m)がたなびき、南側には小佐渡山脈が走り、中央部には国仲平野が座っている。米の産地でもある。佐渡のコシヒカリはとても有名である。

 佐渡には世界的に有名な「佐渡金山」という金銀山があります。1601年に発見されてから1989年に閉山となるまでの約400年掘り続けられた、世界最長寿の金銀山です。生涯総産出高は、金約78トン、銀約2,330トン、金山は日本の歴史に輝かしいページを残しています。佐渡は昔、時の政治権力者によって犠牲となった貴族や文化人、宗教家が流されたところです。そのため、当時の「都の文化」が直接伝えられたことから、佐渡の文化的レベルはとても高い。金山の下町を歩いてみると昔の街並みや、独特のつくりの民家跡や石垣があり、この町は昔、どんなにか賑やかだったものだろうと眼に浮かんでくる。時代はどんなに変わっても、歴史の跡は永遠に大地に残る。佐渡の歴史のページをめくると、これまでの歴史上に名前の残る有名な政治家、思想家、芸術家、画家、作家などが数多くこの島から誕生しています。

 佐渡の四季は、まるで一幅の絵のようだ。春は桜です。あちらこちらに淡いピンク色の花が咲き、花びらが頬や肩に舞い落ちる中に立つと、何もかも忘れてしまいそうです。夏は海。真っ青な海の美しいこと、気に入った海水浴場を簡単に見つけることができるし、キャンプ場でリラックスすることができる。秋は紅葉です。遠くの山並みや道路の傍らの木々が紅葉し、紅一色に囲まれる。その中に銀杏の葉が、黄色に色づく様子はとても素晴らしい。冬は時々、吹雪になり、四方八方、一面真っ白に染まる。松の枝を雪が覆ったときなども、本当に見事です。

 佐渡はまた「アジアの宝石」と呼ばれる朱鷺の生息地でもある。他にも島の人々は、素朴な人情で、独特の民間芸術・郷土芸能を持っている。この地に伝わる数多くの伝説は私にとって、とても興味深いものです。みなさん、これからこのページを通じて、私と一緒に佐渡を歩いて見ませんか。私がずっと探していた佐渡との縁は、なんだろうという答えが見つかるかもしれません。きっと、あなたも佐渡を好きになることでしょう。

日本語翻訳:雑賀 三郎


https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/sado_kikaku/mai-report08.html 【買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポートvol.8】より

中国出身、佐渡在住の買若梅(マイ・ロアメイ)さんによる佐渡レポートを掲載しています。

第8回目のテーマは「流人の島-佐渡」です。

真野御陵

 佐渡が島は、ごくありふれた離れ島の一つに過ぎないが、歴史的な面から言えば、流刑地の一つであったことから「流人の島」と呼ばれます。

 日本の古代の律令制は、中国の唐朝の制度を手本として作られたから、刑罰もまた同様です。死・流(る)・徒(ず)・杖(じょう)・笞(ち)で、これらを「五刑」といい、流刑は、死刑に次ぐ重い刑です。古代日本の律令制度の流刑は、京都が拠点で、そこからの距離で「遠流」・「中流」・「近流」の地が決められました。

 佐渡は、京都からの距離も遠い、日本海の孤島です。そこで神亀元年(724年)に正式に「遠流(おんる)」の地の一つとなりました。これらの制度は歴史上長い間続き、皇族貴族と武士の権力争いの中で、政治的に犠牲になった貴族をはじめ、名高い人々が佐渡に流されました。宗教家の日蓮上人、能楽師の世阿弥、順徳天皇はことに有名です。順徳天皇が佐渡に流されたのは25歳のときでした。

 順徳天皇は後鳥羽天皇の第三王子で、生来賢く明朗な性格で、幼少のころから学問を好み、詩歌を学び、後鳥羽上皇からことのほか深い愛情を受けて育ちました。

 父親の考えによって1210年、長兄の土御門天皇(83代)のあと14歳で皇位を継承しました。年少ではあったものの政治に強い関心を持ち、鎌倉幕府から政治権力を朝廷に取り戻そうとした父親(後鳥羽天皇)の計画に参画しました。

 佐渡市両津地区の大川というところに一つの伝説があります。ある日、粗末な身なりのお坊さんがこの地にやってきました。彼は、土地の老人に「海上の岩に行ってみたい」と頼みました。そこで、老人は小舟を出して岩に連れて行きました。

 岩に到着し、舟から降りようとしたとき、お坊さんはうっかりして、刀を海に落としてしまいました。彼は、たいへん落胆して「ああ、なんてことだ。大切にして身につけていた刀を海に落としてしまった。沈んだ刀もきっと、この鞘に帰りたいと思っていることだろう!」と天に向って歌を詠んだといいます。

 すると突然、海水が渦を巻き海底から竜王が現れ、刀を拾い上げてくれたそうです。お坊さんは帰るとき、お礼にその刀を老人にあげました。後でこのお坊さんが順徳上皇だと分かった老人は、その刀を家宝にしたそうです。

 順徳上皇は過ぎ去った都のことを忘れるようにしました。しかし、天皇だったころのことが思い出され、都を恋しく思う気持ちが湧き上がります。そこで彼は一人になると、いつも御所の庭に咲く小菊の花を見て自らを慰めました。かわいい小菊の花を見て、都のことを忘れるようにしました。「あずまぎく」(ヤグルマギク)の名前が「都忘れ」となったのはこのことに由来するといわれます。

 また、ある年の中秋、二見というところの池のほとりでお月見をすることになりました。しかし、その日は雲が多く、とうとう(池に映る)お月見ができませんでした。都のことが思い出されて順徳上皇は、そのときの情景を「ああ、月よ。おまえも見る面影がないほど変わってしまったのか。都を思う悲しい涙をたくさん袖に流し、衣服も古ぼけてしまい、私も変わってしまったよ。」と歌に詠んだそうです。その後、島の人々はこの池を「月見ずの池」と呼ぶようになりました。

御所桜

 順徳上皇には、二人の女の子と一人の男の子がいました。しかし、子供の母親のことは不詳です。佐渡市金井地区の尾花崎というところにこのような言い伝えがあります。この地に「はな」という大変美しい女性がいました。順徳上皇は度々彼女のもとを訪ねたので、後に、人々は「花塚」という記念碑を立てたそうです。

 順徳上皇は、佐渡へ流刑の身となっても、都へ帰るという夢を持ち続けました。しかし、日々刻々と時は過ぎ、その夢はとうとう実現しませんでした。父や長兄の死後、自分の息子に皇位を継がせる要求を出しましたが拒絶されます。すべての希望を失い、1246年の秋、絶食により46歳で自害しました。火葬の後、上皇の遺骨は京都へ送られました。

 順徳上皇の佐渡の生活は22年です。しかし、この間の正確な記録は残されていないそうです。ただいくつかの伝説や順徳上皇の生活の足跡から推測されたものが伝えられているのだそうです。とはいえ、順徳上皇が佐渡で生活したことは歴史上の事実です。順徳上皇は「佐渡院」とも「順徳院」とも呼ばれ、「順徳院歌集」があります。その中の一首が、日本では有名なカルタの「百人一首」にも入っています。

 数百年過ぎ去った今日、わたしは順徳上皇の足跡をたどってみようと思い立ち、最初に松ヶ崎港に行きました。当時、佐渡に流された人の多くはここから上陸しました。無論、今では港の周囲はよく整備され、とてもきれいですが、往時はそうではなかったでしょう。海岸に打ち寄せる波が悲しい歴史を語っているように思われます。港の背後の山は、屏風のように切り立っています。順徳上皇はじめ、当時の多くの流人は、どのような思いで上陸したのでしょうか。

 私は松ヶ崎港のあと、海岸沿いに小木というところへ向いました。小木には、ある寺院の庭に順徳上皇のお手植えの桜の木があると聞いていたからです。今は早いけど、季節になると毎年、とても美しい桜の花が咲くそうです。小木は佐渡の最南端です。

 私は小木の次に真野へ向いました。真野には順徳上皇が火葬された「真野御陵」があります。陵墓の周囲は四角に囲われ、背の高い樹木が生い茂っていました。当時の人々は、ここで一代の皇帝が一生を終わったことを知っていたのでしょうか。私が訪ねたときは、強い風の日でした。木々の間を吹き抜ける風たちが昔の悲しい話を会話しているようにさえ感じられます。

 最後に金井地区にある「黒木御所」に行きました。ここは順徳上皇がかつて住んだ所といわれます。御所の背後には金北山がそびえています。時代がどんなに変わろうと風景は変わりません。金北山こそ順徳上皇がどのように過ごしたかを知っていることでしょう。

 佐渡は自然豊かな美しい島です。しかし、流人たちにとっては「この世の地獄」の存在だったことでしょう。とはいえ、都の時のように贅沢ではなくても、島の中では自由に生活し、島人とともに過ごすことができたのでしょうか。

 流人たちは「都の文化」を佐渡に伝え、いろいろな文化を残しました。数多くの伝説や史跡が残されていることは、佐渡の人々が彼らを忘れないというしるしです。佐渡の人々が彼らを忘れないと同じように、彼らもまた佐渡を忘れないことでしょう。

日本語翻訳: 雑賀三郎

参考資料: 「佐渡の順徳院と日蓮」山本修之助、「佐渡流人史」郷土出版社、「大川のむかしの話」

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