http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
二 川部酒麻呂
常時の松浦郡は、今の東・西松浦郡と長崎縣下の南・北両松浦郡との故地であって室町幕府(足利時代)の頃上、下松浦の両郡となつた(後また一郡となり明治十三年東西南北の四郡に分る)酒麻呂は松浦郡の何れの人なるか明かならざれど、続日本紀に録するものによれば、奈良朝最後の君である第四十九代光仁天皇宝亀六年四月(紀元一四三五)酒麻呂外従五位下に叙せられた(在官者ではないものに授くる位階には外の字を冠す、但し五位以下であって郡司以下の資格者に賜う、又国司が現任にあらざるものに唯其の名称のみを授くるものを員外の国司といふ)。彼は松浦郡の佳人なるが、先きに第四十六代孝謙天皇勝寶四年、遣唐使藤原清河、副使大伴古麿、留学生吉備真備等入唐の時、其の第四船の舵手となりて渡唐し、帰国の途、ある日海上順風に帆を孕みて快走して居たが、如何なる機會にや船尾火を失し、火炎濛々として忽ち艫部を掩ひて容易に鎮火すべきやうもなき様であれば、人々遑遽してなすべき策もなかつたが、酒麻呂少しも擾がず、火焔身邊に及びて手を焼き糜爛すと雖も、舵を把りて船の顛覆せんとするを支へしが、火漸く鎮消して、船体の安きを得せしめ、乗員の危難を免かれしむることが出来た、人々其の沈勇を賞讃して厚き感謝を彼に呈した。帰朝の後、功績を賞表せられ、且つ松浦郡の員外主帳に補任せられた。一船員たりし彼も亦偉なりと云ふべきものである。
三 呉越船柏(カシハ)島(神集島)に来る
第六十一代朱雀天皇天慶八年(紀元一六〇五)太宰府より呉越船、肥前松浦郡柏島に来航の旨を奏聞した。
太政官の外記日記に其の状を録せるものに、七月二十六日太宰府より書を飛して、大唐呉越船松浦郡柏島に到る、船一隻にして穀三千石乗員一百人を載するの大船にして、今月四日彼の船、帆を張り南海より俄かに走せ来りたれば、我が士卒これを警戒し船十三艘を以て追ひしに、彼の船肥最埼(ヒノミサキ)港鳴浦に入港す、翌五日吏をして船を臨検せしに、彼は例により入港を許可せんことを請ひ、外人応対の司官に通達せんことを以てした、言ふところ一の疑惑なければ、彼の提示する書を添へて復命す云々と。
按ずるに、第六十二代村上天皇天暦元年(天慶八年より二年後)左大臣藤原実頼が呉越王に報ずるの一通、同七年右大臣藤原師輔が呉越王に贈答するの書一通、各々本朝文粋に出でゝ居るが、其の書私交の体裁であって図書の例でない。翻て當時の支那の状況を察すれば、丁度五代の頃後晋の出帝(我天慶八年は彼の開運二年)であって、乱麻の如く政権争奪戦の激甚なる頃であれば、彼の船の来る勿説公船にあらずして、私船が交易のために来るものと見ゆ、されば藤原実頼等の私書の次第をも察せられるのである。
外記日記の肥最埼港鳴浦と云へるは、神集島の對岸は湊にして、古傳の和珥ノ浦であって一小港をなして居る、されば恐らく港鳴浦は港なる浦にして、今の湊浦にてはあらざるにや。
また萬葉集に、天平八年(紀元一三九六)六月、使を新羅国に遣はす、柏島に泊すともす。以てこの地が外国交通往来の一要地たりしことを益々明証するのである。
四 源 知
第六十八代後一條天皇寛仁三年(紀元一六七九)刀伊の賊が入寇せしことは、朝野群載、靖方溯源などに見えて居て、此の年三月二十七日異賊船五十余艘對馬に寇し島民を劫略せしが、島守遠晴遁れて太宰府に走った。賊は直ちに壹岐を襲ふたが、島守藤原理忠防戦して死し、島民また奪略惨害の災に逢ひしが、獨、講師常学脱して大宰府に到り其の状況を報告した、時に四月七日なり。同日賊徒転じて筑前ノ国恰士郡を襲ひ、志摩早良両都を経て到るところ人物を害ひ居宅を焼き払った。賊船は、長さ八九尋乃至十二尋、一船の輯三四十を備へ、乗員二三十人より五六十人に及ぶ。其の陸上に刹倒する時は、先づ二三十人刀を振り翳して、奔騰し次に弓矢を帯び楯を負ひたるもの七八十人余、かやうにして相次ぎ到るもの一二十隊、山に登り野を駆け、牛馬を斬り犬猫を屠り、叟媼兒童を殺戮し、男女の壮齢なるもの四五百人は*(テヘンに禽)虜として船に載せ、また所々の米穀を奮ひしものに至りては其の数を知らざる程である。時に藤原隆家太宰權帥たり、其の身は弓矢の家り出ならざれども、巧に戦略運らし部署を定め防戦能く力めたが、文屋忠光・多治久明等善く戦ひて賊徒を殺獲すること数十人。同八日賊は能右島を取り博多湾に刹倒した、降家急に九州の兵を徴し、前少監大蔵朝臣種材・藤原朝臣明範・散位平朝臣為賢・平朝臣為忠・前少監藤原助高・傔仗大蔵光弘・藤原友近等をして警固所を守備せしめ、一方事の次第を京師に奏上した。同九日朝賊船襲来して警固所を焼かんとす、我軍力戦奮闘して之を卻退す、この間矢に中るもの十余人、賊遂に再び能古島に據りしが、舵を転じて筥崎宮を焼かんとせしに、府兵射てこれを潰走せしめた。其の後二日間風浪烈しく揚りて戈を交ふることを得ず、賊転じて十一日未明志摩郡船越津を攻撃し、十二日酉ノ刻(午後六時)上陸したるを検非違使弘延これを撃つ、賊の矢に中り仆るるもの三十余人、少貳平朝臣致行、前少監種材、大監藤原朝臣致孝、散位為賢、同為忠等士卒を増援し、船三十除艘を以て追撃したるに、賊外海に遁れ出づ。
同十三日賊徒肥前国松浦郡に至り、村落を攻略す、前肥前介源知は郡内の兵士を率ゐて防戦大に力めしが、賊兵傷を蒙り仆るゝもの数十名、僅かに逃れて船に入りしもの一人、賊は我軍の威武に恐れて勝つべからざるを知りて遁れ帰る。
致行等は博多ノ津に居て、戦艦を増して一時に発せんとするに、種材奮っていへるに、若し船を造るを待ちて発せば賊は空しく逃れ去るべし、我れ功臣の後を以て如何でか坐視するに忍びんや、齢既に七旬を過ぎたれども単身賊に當らんと、兵を勒して纜を解く、衆皆これに従ふ。この時賊は既に遠く外海に逃げ去って居た。十七日太宰府外警を驛奏す、十八日府に勅符を賜ひ、要害を堅め賊に備へしめ、神佛に祈祷し境域を守るべきことを令した。又北陸、山陰、山陽、南海、四道の警備を巌にせしめられ。二十一日伊勢大廟以下十社に奉幣祈修を行はしめらる。二十五日府報京師に達し外寇鎮定を奏した。二十七日復勅を下して海防を巌にせしめらる。此の役、我が兵の戦死せしもの総て三百八十二人、捕虜となれるもの一千二百八十人、この内生還せしもの僅かに三百人、牛馬の掠奪せられしもの百九十九頭であった。
常時我が国は、其の賊が何の国のものなるやを知らなかつた、然るに捕虜の中に高覧人多し、仍て之につき探問せるに、初め高麗が刀伊の入寇を受けて彼に降りしもの、駆役せられて来侵せしものなりと、されど容易に信ぜられざりしが、後對馬の判官代長岑諸近捕へられて賊と共に彼の地に至り許されて帰還し、始めて賊の刀伊なることを知る。刀伊は女眞にして、今の黒龍江以南の露領沿海州より満洲に擴がり住せし民族であった。また俘虜の高麗に助けられしもの多く、九月高麗の使鄭子良なるもの、我が民の刀伊に*(テヘンニ禽)にせられしもの、男六十人女二百余人を護送し来つた。朝廷鄭子良に金三百両を賜ひ。厚く労らひて帰国せしむ。
第五章
豪族政治時代
(自紀元一六五〇年頃至紀元二二二五年)
第六十六代一條天皇の頃より、第百六代後陽成天皇に至る約六百年間のことであって、中央政府は恰も平安朝後半頃より、鎌倉室町時代を経て、織豊二氏が天下統一の業を成すの頃である。この期の始は地方豪族は国司の勢力圏外に超然として威權を振ひ、鎌倉以後は国司制度は全く有名無実に帰し、其の間後醍醐天皇の建武中興に、其の制を復したるも、幾何もなく世乱れて行はれず、南北朝の頃には重く其の制度廃絶して、実際に其の人なくして、吉野花盛、藤井花房、山邊高松をどの作名の官あるに過ぎなかった。されば鎌倉の始め源頼朝は、諸国に守護、荘園に地頭を置きて、地方政治の実権を掌握した。尤も守護地頭の起原は平安朝末に萠し、守護は治承四年(紀元一八四〇)に安達義定を遠江に、武田信義を駿河ノ守護に任じたるが如き。地頭は保延三年(紀元一七九七)間五年の勸進奉賀帳に、田原郷地頭代僧道印、高宮郷地餌代宗時などあれば、これより前既に地頭のありしこと明である。後平家勢を得るに及びて、荘園に地頭を置いた。これ等の守護地頭が国司に更りて、地方政務の実権者となるに至った。
今こゝに至れる所以の次第を述べやう。前章にも云へる如く、中央政府・地方官、中央と地方との聯絡機関など、既に堕落腐敗廃絶によりて、国司政治は紊乱衰頽に向った。則ち藤原氏専横の頃より、朝廷の威令行はれず、天喜三年(紀元一七一五)には左少将の雑色で、禁闕に入り白匁を閃かして御座所に迫ったものもあった。或は刑法弛緩して、當時興福寺の僧静範は、成務天皇の御陵と廃きて寶物を竊みて凶悪を遂げたのに對し、僅かに流罪に虚し、三年の後には赦に遭ひたる如き、司法の濫戻甚しきものと云はねばならぬ。かくて朝官は遊佚に流れ、詩歌管絃の遊びはいふまでもなく、彼等貴族の遊戯には、歌合・謎合・扇合・絵合・貝合・香合・花合・菊合・前栽合・果ては男女相會して、艶書合・懸想文合なと淫猥遊惰言語の外である。或は暴飲の弊風行はれて、関白藤原道隆は、大将藤原朝光藤原済時を酒友として乱飲酔倒其の度を失ふにあらざれば止まず、左街門督藤原誠信は大酔して動きも得ず嘔吐して、名高さ亘勢弘高が楽府の屏風を汚すなどし、されば其の下司諸院の人々自然に其の風習に浸染して、群飲の風盛にして人々の新任するものあれば、焼尾荒鎮と称して其の人を責めて飲を求め、乱酔度なきが如き其の弊風枚挙に遑がない。或は売官の弊、荘園なる免租田の増加、或は地方官の好悪腐敗など、内外政治の弛緩廃頽其の極に達した。
かやうに中央政府の頽廃したのは、頓て諸国住人豪族の起原を開くやうになった。則ち朝廷の官職は藤原氏一族其の顕要の地を占め、他族姓の要職に就くを妨ぐれば、源平諸氏は地方官として国々に赴き、任満るも都に還らず、其の勢望の地方に高きを利して貨殖を謀り家門の繁栄を企て、次第に荘園など多く領有するに至り、小作人たる奴僕も多く、庶子分家自ら一団をなして、常に弓馬の調錬を行ひて部落を鎮護し、事あれば隊をなし陣を組み、其の庶子分家を家ノ子といひ、小作人たる奴僕を郎黨といひて、武門武士の基を作った。源満仲の如きは郎黨四五百人を有し、源宛・平良文等も五六百人の属下を有したといふ。かやうにして地方豪族は次第に勢力を拡張して、先には天慶乱(紀元一六〇〇叛す)を起して、平将門は関東に藤原純友は四国に擾乱を捲き起し、後には(紀元一六八八)平忠常は下総に謀叛したる如き、皆地方豪族の跋扈跳梁たるに過ぎないのである。或は南都北嶺の僧徒の強訴姦暴戻甚しきも、朝廷は如何ともすること能はず、如斯内外素乱弛緩の世態であれば、いかでか天下の治平統一を保維することが出来やうか。
鎌倉幕府以来武人政府が出現したが、地方武人は益々得意の時代とはなり、この際有名無実の国司の存するものがあっても、何の価値もない。殊に我松浦地方のやうな僻遠の地にありては、武人の勢力は強盛にして、暦仁二年肥前守家連などの名東鑑に見ることなきにあらざれど、朝官たる国守は何等の権威もなく、松浦黨なる豪族の割據跳梁に委ねる外なかったのである。
松浦黨なるものは、遠く平安朝の中頃に起って居るやうである。正暦元年(紀元一六五〇)渡邊綱源頼光に属して、松浦郡に下り筒井ノ館に住したる頃からのやうであるけれども、亦綱が孫久が久安三年(紀元一八〇七)下向したるに始まったやうにも考へらるゝが、兎も角源氏の一族其の子孫繁延して郡内各地に占拠し、今の東西南北の四松浦郡内に亘りて旗本郎黨を有して勢威を振った。元来黨といへるは小豪族の集団である。彼等松浦黨は地の理を利して、度々高麗半島沿岸に、通商また侵寇を企てたので事は東鑑や海東諸国記(朝鮮の由叔舟の作)などに散見して居る。
余は、かゝる時代の松浦地方の政治状態を総称して、豪族政治時代の名称を附したのである、或適當の所見を欠くの誹りもあるであらうけれども、史実の実際はこの名称を附することを拒むことは出来ぬのである。
一 松浦黨と韓半島
今は東鑑及び海東諸国記などに散見するものを、そのまゝ直訳的に摘録して、一般の状況を窺はんと思ふ。
高麗侵略
後堀河天皇嘉禄二年(紀元一八八六)十月十七日、鎮西の凶徒等(松浦黨と號す)数十隻の兵船を構へ、彼の国の別島に至り合戦をなし、民家を滅し資財を掠取するや、彼の国を挙りて震駭した(明月記)。
鏡社の社人高麗を侵掠す
同天皇の寛喜四年(紀元一八九二)即ち貞永元年と改元せし年にして、恰も北條泰時が鎌倉執権時代の頃で、其の年閏九月十七日鏡社の社人、高覧に渡り夜討を企て、数多の珍寶を盗掠して帰朝せしに、守護人其の仔細を尋問し、彼の犯科人等を拘禁せんとした、然るに預所にては、守護が沙汰を行ふべき理なきを以て拒んだが、遂に當路の命により、預所にて抑留すべきものでない、直ちに守護所に召し渡し、乗船竝に掠奪物の処理を行ふやうに、隠岐左衛門入道に仰せらる云々(東鑑)。
以下海東諸国記の文を抄出す。
松浦は海賊の居所
肥前州に上下の松浦郡あり、海賊の據るところにして、前朝の未(高麗の末)に我が邊に寇する松浦黨は、壹岐對島の人と共に相率ゐて到るもの多し、また五島あり、日本人の中国(支那)に行くものゝ風を待つの地である云々。
源盛、丁丑年使を遣はし来朝す、其の書に肥前州上松浦丹彼大守源盛と称す、依りて其の書を受け、約するに歳に一船を遣すべきを以てした。
小貳殿管下に源徳あり、丙子ノ年使を遣はし来った、其の書に肥前州上松浦神田能登守源徳と称す、神田の地は谷をなす、城南(鬼子岳城なるべし)を去ること三里余である、約するに歳に一船を遣はすべきを以てした。
源吉、乙丑ノ歳始めて使を遣して来朝す、書に肥前州下松浦山城大守源吉とす、即ち図書を受け、毎歳船一隻の通商を約す。
波多島(鬼塚村字畑島)
源的、乙亥年使を遣はし来朝す、書に肥前ノ州上松浦郡波多島源約と称せり、相約して毎歳一二船を通ずべきを以てす、小貳殿管下で波多島に居る、人丁十余に過ぎず云々。源泰、戊子ノ年来朝す、其の書にいへるは、肥前ノ州上松浦波多下野守源泰と、宗貞国の請により接待す、其の居波多にあり麾下の兵を有すと。
呼子(呼子村字呼子)
肥前州源義、乙酉ノ年使を遣はして来朝す、書に呼子壹岐守源義と称す、歳に一二船を遣はすべきを約す、小貳殿管下で呼子に居る、麾下の兵を有し、呼子殿と称す。同書壹岐の條に小千郷は呼子の代官源貫之を主どる、歳に一船を航する旨を約束す、其の書に上松浦呼子壹岐ノ州代官牧山帯刀歯実と称す。庚寅ノ年源実の子正、使を遣はして本朝す、書中に去歳六月父官軍の先鋒となり敵陣に死せり、臣家業を継ぐ、乃ち父の例によりて館待す云々。
鴨 打(カマチ)
源永は、丙子年使聘して来朝す、其の書に肥前ノ州上松浦鴫打源永と称す、乃ち図書を受け、約するに歳船一二隻を遣はすべきことを以てす、小貳殿管下で鴨打に居る、麾下の兵あり鴫打殿と称す云々。
寶泉寺(名護屋村字名護屋)
源祐位は、丁丑ノ年使を遣はし来朝す、其の書に肥前ノ州上松浦那護野寶泉寺源祐位と称す、約するに歳々一船を遣はすべきを以てす、僧侶寶泉寺に居るとあり。寶泉寺は今同村の龍泉寺か、されど何等の証跡あるにあらず。
佐志(佐志村字佐志)
源次郎は、己丑ノ年使を遣はして来朝す、其の書に肥前ノ州上松浦佐志源次郎と称す、乃ち図書を受け、毎歳船一隻を通ずべきことを約す。小貳殿管下にして、武芸に長じ麾下の兵を有し、佐志殿と称す。また図書に志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留を分治す云々。加愁ノ郷は佐志の代官之を主どる。
志佐(長崎県下)
源義は、乙亥ノ年来朝す、其の齎せる書に、肥前ノ州下松浦壹岐太守志佐源義と称す、約して年に船一二隻を航すべきことを以てす、小貳殿管下で武芸に長じ麾下の兵あり、志佐殿と称す。
那古野(ナゴヤ)(名護屋村字名護屋)
藤原頼永は、丙戊ノ年壽藺書契を遣はして来朝す、書に肥前ノ州上松浦郡那久野藤原頼永と称す、壽藺書契礼物を受け、国王に傳ふること上に見ゆ、山城ノ州細川勝氏那久野に居ると。那久野は那古那また邪古屋などゝも書き、後名護屋また名古屋の文字を使用するに至った。
三栗野(ミクリヤ)(長崎県下)
源満は、丁丑年遣来朝す、書にいへるは、肥前ノ州下松浦三栗野太守源満と、約するに歳に一船を通ぜんと、小貳殿管下に属し麾下の兵あり、三栗野に居る云々。
鹽津留(打上村字鹽鶴)
壹岐島の條に、古仇音夫(コクプノ)郷なる源経は、志佐・佐志・呼子・鴫打・鹽津留を領治す、己丑年其の図書を受く、即ち約して歳船一二隻を以てす、書中に上松浦都鹽津留助次郎源経と称せり。
松林院(打上村字鹽鶴)
源重実は、丁丑ノ年相約して、毎義一船を遣はすべきことを以てす、其書中に、上松浦鹽津留松林院源重賢と称す。
大島(長崎県下)
源貞は、丁亥ノ年使を遣はし、観音の現像を賀した、其の書に肥前ノ州下松浦大島太守源朝臣貞と称す、大島に居り麾下の兵あり。
多久(小城郡内多久村か)
源宗傳は、戊子ノ年使を遣はして来朝す。書に肥前ノ州上松浦多久豊前守源宗傳と称す、宗貞国の請を以て接待す、多久に居り麾下の兵を有す。
平戸島(長崎県下)
源義は、丙子ノ年始めて使を遣はし来朝す、其の書に肥前ノ州平戸寓鎮肥前大守源義と称す、乃ち図書を受け、歳に一船を遣はすべきことを約す、少弼弘弟麾下の兵あり、平戸に居る。源豊久は辛卯ノ年使を遣はし来朝す、其の書に平戸寓鎮肥前大守源豊久と称す、先父義松己丑の春逝去す、又義松が受くるところの図書を送りて新に図書を受けんと請ふ、依て之を送り終りたりと。
五 島(長崎県下)
肥前ノ州源貞は、丁亥ノ年使を遣はし来りて観音現像を賀した、其の書に五島大守源貞と称す、五島源勝が管下に居る微者なりと。
悼(イタベ)ノ大島(長崎県下)
肥前ノ州源貞茂は、己丑ノ年使を遣はして来朝す、其の書に五島悼大島ノ大守源朝臣貞茂と称す、宗貞国の請によりて之を接待す、五島源勝が管下に居る微者なりと。
玉ノ浦(長崎県下)
肥前ノ州源茂は、丁亥ノ年使を遣はして来り、雨花舎利を賀す、書に五島玉ノ浦守源朝臣茂と称す、五島源勝が管下に居る微者なり。
日鳥(長崎県下)
肥前ノ州藤原盛は、己丑ノ年使を遣はし来朝す、其の書に五島日島大守藤原朝臣と称す、宗貞国の請により之を接待す、五島源勝が管下に居る微者なり。
宇久島(長崎県下)
肥前ノ州源勝は、乙亥ノ年使を遣はし来朝す、其の書に五島宇久ノ守源勝と称す、乃ち図書を受け、歳に一二船を遣はすべきを約す、丁丑年に我が漂流民を送還したれば特に一船を加へしむ、宇久島に居り、五島を総治し麾下の兵あり。
かやうに我が松浦黨所属の豪族は、大小強弱の別なく盛に韓半島に往来した。高麗の季世には海賊として、所謂倭寇の一部として彼の地を侵掠撹乱したることは、一々記傳の存するものはなけれど、恭愍王のとき(紀元二〇一二より二〇三四頃)には、全羅道沿岸数十里の地、一時人煙を絶つに至りしといへば、倭寇猖獗の状をも察せられ、松浦黨の輩も其の間に活躍せしことは想像するに難からざることである。彼の書海東諸図記によれば、李氏の朝鮮時代に入りては(紀元二〇五二より)、大小の松浦諸豪は、或は對島守宗氏の仲介により、或は直接彼の土に渡航し、彼の許諾を待て、年々の通商船を一二艘の限定によりて渡航せしめ、各々貿易の利を収めたること、上下両松浦郡に亘りて盛に行はれしこと、前記概説によりて知ることが出来る。さうして海東諸国記が千遍一律の筆法によりて、他に曲折紆余に乏しき記体は、大方無事平穏の交通であったことを、徴証するものと見ねばならぬ。
二、本期間の史談
(イ) 源為朝の傳説
○御都築(ミツキ)ノ関 (北波多村字志気)
鎮西八郎為朝志気村に居城し、九州二島を鎮す、此処に御都築関といへる古跡がある。もと天智天皇筑紫に幸し給ふ時の関所となり、其の後八郎為朝の居城の時も、此処に関を設けしところとで、下馬ノ大原・厩ノ元・矢竹ノ林といふ所あり、皆為朝の舊跡なりと(松浦記集成)
殆んど取るに足らぬ妄説である、或は為朝部下郎黨の遺跡か、但しは松浦黨の一方の主領たる幕下の古跡か、或は披多氏直属地たる要害に施設せられたる遺跡であらう。為朝の居城址とか云ふ如きは全くの傳説であって、世に名高き人の事績とか遺跡とかいふことは、往々牽強附會の説到るところに盛に行はるゝものである。
○為朝の碑(湊村字湊)
湊村祇園社の境内に為朝の稗がある。抑々この鎮西八郎為朝は、保安元年鳥羽天皇の御字、西国鎮守として下国ありし時、家ノ子(臣下)鎌田次郎(一に平治)といふものを此処の押へとして置かれしに、為朝巡行して彼杵(長崎県下)に暫く居住を定め、常に狩猟を楽みとなしたるが、或時黒髪山(杵島郡)の池沼に大蛇棲みて、さまざまの危害をなしければ、此の山に登りて終夜待ち居たるに、頃は天治元年甲辰八月十八日霧雨降り下りて咫尺を分たざるに、池水躍跳して水底より閃々たる光りを射ちたれば、為朝弓に矢をつがひ八幡大菩薩一矢に退治させ給へと、よつぴやうと放つ其の矢あやまたず、手ごたへしたるが、暫時にして霧雨霽れ渡り、池中を凝視すれば大蛇は眉間を射られて仆れて居た。此の鎮西八郎と銘打ちたる矢の根、伊萬里の民家に秘蔵の寶物として今に傳はる。其の後、後白河天皇の御宇保元丙子ノ年、崇徳院御謀叛の時、為義の勸めにより八郎御味方に走せ参じ、軍破れて為義、息致等誅せられ、八郎は伊豆大島に流され、二條天皇の永萬元乙酉ノ年三月鬼ケ島を押領す、この鬼ケ島は八丈島ともいひ、また別島ともいひて子孫其の処に残れり。黒髪山の悪蛇退治の故を以て為朝の碑を立つ、湊浦は鎌田老衰して庵室を結び、この石碑を建て為朝の菩提を弔ひし所である。為朝は伊豆の大島にて、高倉天皇の勅命によりて嘉應二年四月自害し果てられたりと(松浦記集成)
また佐志村宇唐房にも、為朝の塔と傳ふるものがある。
今は保元物語の文を抄出して参照に供しやう。
新院は齊院の御所より、北殿へ遷らせ給ふ、左府は車にて参り給ふ。白河殿より北、河原より東、春日の末に在りければ、北殿とぞ申しける、南の大炊御門表に、東西に門二つあり、東の門をば、平馬助忠正承って父子五人並に多田蔵人太夫頼憲、都合二百余騎にて固めたり。西の門をば六條判官為義承って、父子六人して固めたり、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。これこそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に附いて、多分は内裏へ参りけり。爰に鎮西八郎為朝は、「われは親にも連れまじ、兄にも具すまじ、功各不覚も紛れぬ様に、只一人、いかにも強からむ方へさし向け給へ、たとひ千騎もあれ萬騎もあれ、一方は射払はむずるなり」とぞ申しける、依って西河原表の門をぞ固めける。北の春日表の門をば、左街門大夫家弘承って、子供具して固めたり、その勢百五十騎とぞ聞えし。抑も為朝一人にして、殊更大事の門を固めたること、武勇天下に許されし故なり。件の男、器量人に越え、心飽くまで剛にして、大力の強弓、矢つぎ早の手利(テキヽ)なり、弓手の肘、馬手に四寸延びて、矢束を引くこと世に越えたり、幼少より不敵にして、兄にも所を置かず、傍若無人なりしかば身に添へて、都に置きなば悪しかりなむとて、父不孝して、十三の歳より鎮西の方へ追ひ下すに、豊後の国に居住し、尾張權守家遠をめのととし、肥後の国阿曾平四郎忠景が子、三郎忠国が壻になって、君よりも給はらぬ、九国の総追捕使と號して、筑紫を随へむとしければ、菊地、原田を始めとして、所々に城を構へて立て籠れば、その儀ならば、いで落して見せむとて、未だ勢も附かざるに、忠国ばかりを案内者として、十三の歳の三月の末より、十五の歳の十月まで、大事の軍をすること二十余度、城を落すこと数十箇所なり、城を攻むる謀、敵を伐つ術、人に勝れて三年が内に、九国を皆攻め落してみづから総追捕使に押し成って、悪行多かりけるにや、香椎宮の神人等、都に上り訴へ申す間、いにし久壽元年十一月二十六日(紀元一八一四)、徳大寺中納言公能卿を上郷として、外記に仰せて、宣旨を下さる。
源為朝、久住宰府、忽諸朝憲、咸背綸言、梟悪頻聞狼藉最甚、早可令禁進其身、依宣旨執達如件。
然れども、為朝猶参洛せざりければ、同じき二年四月三日、父為義を解官せられて、前検非違使になされけり。為朝これを聞きて、親の科に當り給ふらむこそ浅ましけれ、その儀ならば、われこそいかなる罪科にも行はれんずれとて、急ぎ上りければ、国人共も上洛すべき由申しけれども、大勢にて罷り上らむこと、上聞穏便ならずとて、形の如くにつき従ふ兵ばかり召し具しけり。傳子の箭前払(ヤサキバラヒ)の須藤九郎家李、その兄隙間数の悪七別當、手取の與次、同じき與三郎、三町礫の紀平次太夫、大矢の新三郎、越矢の源太、松浦二郎、佐中次、吉田兵衛、打手の紀八、高間三郎、同じき四郎を始めとして、二十八騎をぞ具したりける。依って去年より在京したりしを、父、不孝を赦して今度の御大事に召し具しけるなり。
為朝九州に下り僅に三年にして、諸城を攻掠し、自ら総追捕使として九州に猛威を恣まゝにし、香椎の神人の訴訟となり、己の罪科によりて父為義の解官となるや、郎黨二十八騎を引き具して上洛した。其の中には松浦黨たる松浦二郎も加はつて居る。されば為朝の威令は勿論松浦地方にも行はれたること明であって、従って其の遺跡が所々に存在するも自然の理ではあるが、湊村なる為朝の碑は不審の点が多い、そは為朝が久壽二年(紀元一八一五)上洛せし時は齢十八歳であって嘉應三年(紀元一八三〇)伊豆大島に最後を遂げし時は年齢三十三と云って居る、然るに保安元年(紀元一七八〇)九州に下向したものとすれば、為朝はまだ出生前十七年に當るわけで、これ疑問の一つである。また鎌田次郎は為朝の兄義朝の郎黨として保元の乱に武功があり、為朝の家の子たる鎌田と同名異人であるが、これまた不審の一つである。記してこれが辨をなす。
以下為朝が保元の乱に干與せしことより後の略傳を記さう。抑も俣元の乱(紀元一八一六)は、表面の原因は崇徳上皇と後白河天皇との争であって、上皇方には藤原頼長・源為義・同為朝・平忠正等味方し、天皇方には頼長の兄藤原忠通・源義朝・平清盛等馳せ参じた。さて左大臣頼長は為朝を召して謀を諮ふ、為朝對へて戦ひは夜戦に若くものはない、臣願くば今夜高松殿を襲はんと、頼長用ひず。然るに義朝、清盛等夜襲をなす、為朝怒りて臣既に先きに之を予言す、今果してこの事ありと、上皇遽に為朝を進めて蔵人と為し之を奨励せんとせしに、為朝云へるに、敵兵来り迫るよろしく方略を決すべき時である、何ぞ除目叙官の如き悠々たるべき時ならんや、吾は鎮西八郎にて足るとて、遂に進みて大に戦ひ数人を殪す。義朝大呼しいへらく、我は宣旨の使である、且つ汝が兄である、汝我に向って矢を放たば天譴遁れ難からん、よろしく降を請ふべしと。為朝いへるに、兄に向ひて矢を放つと父に抗して戦ふと天譴何れが重きぞ、義朝語に窮した。かくて両軍交々戦ふ、為朝は一矢も過つことなく弦に応じて敵を仆す。為朝首藤家季にいへるに、敵兵甚だ衆し若し吾軍矢竭き短兵相接せんには、一以て百に當るも亦敵しがたい、我れ一箭を発し軍将を威嚇せんと、家季對へて、甚だよろし誤って傷くること勿れと、為朝乃ち矢を放てば、鏃義朝の*(務金カブト)を斫りて寶荘厳院の門楔に達した、義朝馬を進めていへるに、汝もと射を善くす今何ぞ精ならざると、為朝對へて家兄を憚りて敢てせざるのみ、請ふ中つるところを命ぜよとて、矢を注ぎ将に発せんとして事頗る急なりければ、深巣清国進みて義朝の馬前を遮る、為朝之を射て斃し、両軍入乱れて格闘する間に.義朝風に乗じて火を縦つ、恰も為朝の考ふるところを行ふたのである、上皇方の軍遂に敗滅した。為義滑僧となり出で降らんと、為朝これを不可とし、新院(崇徳上皇)は主上の兄である、左府(頼長)は又関白(忠通)の弟である、縦令家兄父を救はんと欲するも、朝廷は到底之を赦すことを為さんや、寧ろ関東に赴きて三浦・畠山・小山田等の族を説き、其の兵馬を藉りて関東を管領するに如かずや、官軍よし肉迫急なりとも、為朝力戦拒守せん若し事失敗に終りたりとて未だ後れたるにあらずと力説しけれども、為義従はず遂に義朝のために弑せられた。
為朝逸走して近江の輪田に匿くれ、筑紫に奔り復讎を謀らんと企てしも、終に源重貞のために*(テヘンニ禽)へられて京師に遂られた。帝この雄将を北陣にて観る。廷議斬に処せんとせしも、其の非常の壮士なるを以て、死一等を減じて臂筋を断ちて伊豆の大島に流罪に処した。これより臂力稍々減ずといっても、射力は舊に倍加した。自ら謂ふ、我が祖は清和天皇より出でて八幡太郎の胤裔である、苟も祖先の偉業を失墜してはならぬ、この地こそ、朝廷より我に賜ふところであると云って、自ら大島、三宅、八女、三宅、澳の五島を領し、島民を愛撫し、舊臣稍々来り属し勢日に熾んとなり、こゝに十年を過ごした。偶々海上に白鷺の飛べる方向を見て島あるを知り、海に航すること一昼夜にして一島に達した、傳へて鬼ケ島といふ、為朝土人を服して島の名を改めて葦島といった。大島に帰りて後勢威益々加はつたが、嘉應二年伊豆ノ介工藤茂光京師に至りて其の状を奏上した、朝廷依って茂光をして兵五百を率ゐて為朝を討たしめた。戦艦大島に近きしに、為朝従士に謂へるは、我れ若しれんと欲せば敵縦令数萬なりとても恐るゝことはない、されど顧ふに吾嘗て筑紫にありて武威を輝し、西海の将士皆服せざるものはない、また保元の乱には東国の将士亦、目前に我射芸を見ざるものはない、また今は流竄に遭ふといっても、島守たるの恩典に浴して居る、縦令今官軍を郤退するとも、違勅の罪は免るゝことは出来ぬ、徒に多く人民を殺して何の益があらう、吾が志は終に決定す、汝等は悉く離散して各々生を全うせよとて、乃ち弓を取りで濱邊に出でて大箭を放ちて一艦に中でゝ艦腹を貫く、艦船為に沈没す。官軍大に懼れて躊躇した。為朝家に帰りて桂に靠り腹を刳きて最後を遂げた、時に年三十三、加藤景廉其の首を斬り、京都に送りて梟に附した。為朝の到るところの諸島今に祠を建て之を祭って居る。子義実は上西門院判官代となり、次子実信は上西門院蔵人となり、三子為頼は大島に生れ島ノ冠者と称したが、為朝自刃するとき先づ之を刺殺した、四子為家は大島二郎と称し、年五歳であったが、母に抱れて以て遁るゝことを得たといふ(大日本史)
(□)関ノ清治 (玉島村の人)
弘安八年(紀元一九四五)後宇多天皇の御字、松浦郡梅豆羅(メヅラ)ケ里に関ノ清治といふ長があった、恰士郡(今の糸島郡)二重嶽領の濱窺治郎といふものと水魚の交りをなし、折々相會して歓楽を分つて居たが、或時清治云ひけるには、我れ給田の外に何時の頃よりのことゝは明かをらざれど、百貫の隠田がある。依って度々興をやり快を取る、決して他言すること勿れと、治郎これを聴くより直ちに他人に漏洩す。然るにこの由また清治が知るところとなった、はやりをの若者のことなれば、憎き治郎が振舞かなとて即時に彼が私宅に押し寄せ、治郎に刃傷を加ふ、村中のものども騒ぎ立ちて清治を捕縛せんとしたるに、瞬く間に七人を斬り伏す。村中のもの集ひ来りて漸くにして取り押へて領主に訴へ、二重嶽よりは梅豆羅の領主に引き渡したれば、これを牢獄に投ず。然るに強力の清治は破獄逐天し、全く跡を闇まし行衛更に分明せず。依って官廳にては清治の妻子を捕へ、其の妻に合図の太鼓を打せて其の子に苛責を加へ清治が行衛を問ひ糺せるに、妻は我が子の苦悶の態を見るに堪へかね、又子を助けんとて夫の行衛を語らんには、忽ち夫の命は危うければ。余りの事に心狂乱して、歌を謡ひ太鼓の拍子をとりで、我は太宰府にゆかりあれば、夫は此処に忍びつらん、あはれ召し還し親子三人一処に置き給へとて、物狂ひして終に悶死す。其の子も亦この悲惨の状にやる方なき憤悶のうちに、自ら舌を噛んで亡せ果てね。清治この事を聴き知り、急ぎ自首し罪科を懺悔しで死を請へるに、領主よりの沙汰に、汝の罪科遁るべくもあらねど、妻子の節義ある優しき行ひは汝の死を償ふに足る、また他領に對して罪科処断につきての非難もあるまじければ、これより直ちに二人のために塚を立て、出家の身となり跡懇に追善供養をなすべしとありければ、彼は感涙に咽びしかども、心の煩悩止みがたく終に自害し果てぬ。三人のものどもを葬りし所に、一株の松生ひ出でて、其の葉三ツづつ鎖りて芽出でければ、此処を三ツ葉の松塚といひ、また関ノ清治とも云ふ(松浦記集成)
(ハ) 阿蘇大宮司惟直
東松浦郡と小城郡の境に天山と云へる県内第一の高山ありて、頂上に惟直の墓がある。建武三年(紀元一九九六)足利尊氏、官軍の将新田義貞と戦ひ敗れて九州に走り、筑前国多々良濱にて、九州の官軍である肥後国菊地氏及び阿蘇大宮司惟直と兵を交へしが、菊池阿蘇等の軍利なく、惟直は松浦郡天川山のうち小杵(ヲツキ)山で自害し、遺言して故郷阿蘇山を見るところに葬むれと、因で此処に埋葬す。石塔は基礎共に高さ四尺一寸の五輪の塔であって、塔の何れの部分にも何等の文字も記標もなく。唯一基の塔は寂然として往時を喞つものゝやうに見えて居る。
天山は、天川山麓より絶頂まで二十六町あり、天川山庄司の宅より二十八町あり、この邊五ケ村を五ケ山といふ、天川山は一村の名である。
小杵山は天川山の内にあり、東西八十間南北百三十間の雑水山で、麓より絶頂まで七丁、荊棘(バイラ)山ともいふ、惟直自殺の場所は、天川山の人家より二十六町を距る。
通石(トウイシ)山は、天川山のうちにあり、麓より絶頂まで六町の草野で、天川山庄司の宅より一里を隔つ、絶頂より少しく下りて大石がある。高さ数丈周囲五丈八尺、こり石に通りぬけたる穴あり、内に通石権現の祠を祀る。山の半腹に五人塚といふ古墳がある。惟直の臣を葬るところと傳へて居る、其の自害の場所は小杵山にて、五人塚より同山までは五町余のところである。塚の絶頂に大なる平地がある、合戦の場所といふ、嘉永年間に鑓、鏃などを同地より掘り出せりといふことである(松浦記集成)
野史には、建武三年二月、阿蘇惟国の長子惟道・二男惟成、足利尊氏と多々良濱に戦ふて戦没した、三男惟澄二兄の尸を懐きて矢部城に帰った。初め元弘三年(紀元一九九三)惟澄・惟直と金剛山の官軍に参加せんと欲し、備後の鞆に至るに、令旨を賜ふに會し国に帰り、鞍岡の戦に創を被った、筑前の有智山、肥後の唐河の戦に力戦して遂に南郷城を抜く。延元三年惟澄僅かに五十余人を率ゐて、砥用、小池、甲佐、堅志田を陥れ、豊田の荘に入り、遂に土寇を郤退した、少貳頼尚は饗庭小太郎入道等を従へて来り襲ひ、山碕原で戦った、四月、一色少輔入道と大塚に戦ひ、一色右馬ノ助入道等を獲殺した、六月、矢部山を攻め越前守頼顕の兵を逐ひ、数百人を斃した。次で南郷城に入りて、坂梨太郎入道宗嘉及び其の子雅長等を獲殺す。七月、津守城を陥れ傷を被ること三、三條少将を援け、一色水垂入道と守富の荘に戦ひて利なく、惟澄これに代りで戦ひ、士卒多く傷を蒙る。菊池武重と倶に合志城を攻む。三年十月、少貳頼尚兵数千を率ゐ甲佐城を攻む、惟澄三十余騎を率ゐて城外に戦ふた。又南郷城を陥れ生虜数口を得た。仁木義長と数処に接戦し、城を小国郷玖珠・日田に構へしに、国人来り攻むるに遭ひ、拒戦して首を獲ること数百級に達した。興国元年冬、小島の戦に白石治部法橋之に斃る。尋で市下八郎入道道恵、惟時の一族数十人と反して南郷城に據る。惟澄赴きこれを攻む、豊後、肥後の国人の後援があった、惟澄転戦して創を被る、弟雁賢も亦負傷した、士卒多く死傷す、終に其の城を抜く、道恵等六十余人を獲た。三年六月、肥後の隈牟田及び守富荘の地頭職を以て、惟国に與へ、雁直等の戦死の功を賞した。
秀廣夢想の記。阿蘇の荘大明神一圓、御寄進の綸旨以下の正文のこと、建武三年三月、惟直の先大宮司との多々良濱の御合戦に打ち負け、肥前国小城郡天山といふところにて腹斬り給ふとき、かの御もんには、錦の袋に入りながら、深き谷にありけるを、同郡ふるうちといふところの百姓、之を見つけて所の地頭の女圧に奉りたるよし、承ると雖も、実証なきうへ、吾がため當用にあらざればまかり過ぐるところに、同三年七月十三日寅の刻に、夢想に曰く、彼の綸旨は末代の神の御寶なり、阿蘇に寄與し申すべしと云々、然りと雖も、たゞ申うと存ずるところに、同五年六月二日夜夢想さきの如し、依って事既に領土に及ぶ間、同五日阿蘇へ飛脚をもて、申し入れおはんぬ。こゝに同十七日夜半ばかり、重ねて夢の告げありて曰く、僧二人比丘尼二人、をとこ二人来りて、かの御文書を請ふべきよし申すところに、又十二三ばかりなる童子笹の葉を持ち来りて、仰せらるゝやうに、何れの人にも叶ふべからず、此をさゝへよ、汝をこの二三年、肥前国小城郡に置きたるは、彼の文書にそへたるなり、汝知らずや、合戦の時うち死にして、既に三ケ日までありしを、我こそ助けたらしが、大明神の御ためには、玉黄金といふとも、此に過ぎたる寶はあるべからず、かくいふ我れこそ大明神よとて、笹の葉をうちふり、地の上をしだいしだいに上らせ給ふて天に上り給ふと見て夢は覚めにき。
右條に詐り申さば、日本六十余州の大小神祇ことに、阿蘇十二宮大明神の御罰を、阿蘇秀廣が八萬四千の毛のあなごとに、まかり蒙ふるべく候、仍て起誓文の状如件。
建武五年六月十八日 藤原 秀廣 判
右によりて考ふれば、惟直がこと、野史に至って簡略に記傳して、今の巌木村字天川のことなどは見ることなきも、天山頂上の墓碑、小杵山邊にて武器の発見、また地理上敗残の将士が天川など云へる山険僻邑の地に一時遁亡して策を講ぜんとするなどあり勝ちのことであって、かつ秀廣夢想記は漠然たるものなれど、亦捨つべからざる趣きありて、惟直が舊跡たるは疑ふの余地なきものであらう。
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