東松浦郡史 ㉔

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

一一、田島神社  呼子村字加部島

社格 国幣中社

祭神 陽神二座 大山祇命 稚武雄命

    陰神三座 円心姫命 多喜津姫命 市杵島姫命

延暦式に肥前国四社、大社一小社三、両以當社為大社。

御朱印社領高百石壁島に於て賜はる、豊臣太閤より賜はるものなり。御朱印状には姫島神職平野亀之丞とあり、吉田家裁許状には平野内蔵之允とあり。

  縁起

 當社は三神合社にておはします、第一田心姫尊、第二端津姫尊、第三市杵島姫尊。當社は則ち第一田心姫尊の神社にして中尊に立ち給ひぬ、左、端津姫尊、右、市杵島姫尊なり。

 筑前国大島神社は、左、田心姫尊、中、端津姫尊、右、市杵島姫尊の神社なり。また澳津島の神社は、左、田心姫尊、中、市杵島姫尊、右、端津姫尊り神社にして、この三社にておはします。

 松浦郡の神社は皆この末社にして此の社往昔肥前国第一の大社なり、延喜式神名帳等に委し、日本紀第一神代巻に、素盞鳴尊、伊弉諾・伊弉冉尊の御心に叶ひ給はず、根の国に赴き給ひし時、高天ケ原にまうでて姉の尊の天照大神にまみえ給ひて後、ひたふるにまかりなんと望み給ひしに、伊弉諾尊ゆるさせ給ひしかば、則ち天に登り給ひしに、天照大神は素盞鳴尊の国を奪ひ給はんことを疑はせ給ひければ、則ち素盞鳴尊このよしさることなりと宣ひ、我れ初めより黒心なし、ひたふるに根の国にまからんとす、もし姉の尊にまみえずんば我れいかんぞ敢て帰らん、この故に雲霧を隔て遠きより参りぬ、思はざりき姉の尊いかり給はんことをと宣ふ時に、天照大神のたまはく、将に何を以てか赤心をあかさん、對てのたまはく共に誓はん、其誓約の中にものを生ぜん、将にもし女ならば濁心ありとおぽせ、男ならば清心ありとおぼせ、爰におゐて伊弉諾・伊弉冉尊の二神、最愛し給ひて天上をしろしめし給ふ時、御もとどりに結び付け給ひし、八阪瓊のみすまるといふ玉を、素盞鳴尊に傳へ給ひしを、天照大神請ひ給ひて喰ひくだき吹き給ふに、御息の中より生ひ出でさせ給ひし御神を、天の眞名井に振り濯ぎ給ふに、先づ田心姫尊を生み給ふ、是肥前国松浦郡田島大明神、姫神島に鎮座ましますなり、其後星霜遙に隔りて天平十戊寅年夏、大伴古麿に詔命を下させられ、田島大明神とおくり給ふ、時に人皇四十六代聖武天皇の御代なり、神代より三座島々に鎮座ましますこと、異戎鎮守の御社なり、此の時よりべつの宮と云ふ、又この島をかべしまと號すこと、文禄の頃太閤秀吉公この島塀を立てたるが如しとて、壁島と名付け給ふ、今は加部の二字を用ふ。

 唐土玄宗皇帝の時に當って、聖武帝吉備大臣をして遣唐使を立て給ふ、帰朝の折から空一面にかき曇り眞の闇と成りけるに、船路遙に光を顯はしさながら旭の輝くにことならず、則ち附船を寄せしめ見せしに、女神とおぼしくて、天の岩船にめして、天冠をいたゝき給ふて、其の光り白昼の如しとなり、是田島宮なるべしと、吉備公九拜して神霊を尊崇し、帰朝の砌其の由奏聞ありければ、則ち大伴古麿に詔を下し給ひ、田島大明神と贈勅ありしなり。此の島を姫神島と號して毎年夏越の御秡怠ることなし。また孝謙天皇天平勝寶八年、禁中寝殿の長押に天下泰平の四字自ら生ず、此の田島大明神の寶殿に一つの蜘蛛出で、国士安全の四字を顯はす、又駿河国浅間大明神の境内の桑に三寸の蠶出て、背に皇帝命百歳と云ふ五文字をなす、何れも奏聞ありければ、年號を天平勝寶と改めらる。其の後仁明帝の勅命によって承和元年甲寅年、小野篁入唐の時船中安全のため、奉幣を捧け祈願を籠められしに、夢中にこの大明神顯はれ給ひ、船中安全にして渡唐すといへども、唐土に於て一つの大難あり、其の賢才なる事を憎みて害せんとす、其難遁るること能はず、今一年を経て入唐すべしと詫宣ありければ、篁もこの事かねて覚束なく思はれし故に、虚病して松浦の沖より帰られしに、皇帝逆鱗あらせられ、罪科死刑にも行はるべきところ、博學多才の人なるが故に、其の事を赦され、隠岐国に流罪せらる、其の年その難何れ遁れがたしといへども、其の害を避けられしこと、この田島大明神の加護によってなり。それより暦数遙に隔たり、天慶四辛丑年平純友謀叛せしによって、六孫王経基・多田満仲・橘遠保等討手の宣旨を蒙りて、純友・純素を亡ぼし、九州平定して後三十六年にして貞元二丁丑年八月十五日、多田満仲剃髪して法名満慶と號す、同年源頼光肥前守に任じ、肥前国に下れり、此の時に満慶の命によって、九州肥前国大小の神祇に寄附奉納等あり、この田島大明神にも、天元三庚辰年鳥居一基を奉らる、寛政の今まで八百有余年に及べり、此の鳥居一旦崩れすたり、其の後に建てけるにや、年號はいまだ天元三年と鮮かに見えけれども、波多氏之を修造すとあり、往昔頼光の銘なかりしにや、又苔むして其の銘分らざりしにや。波多の元祖渡邊源太夫判官久は、久壽元甲戊年卒す、其の先祖は武州箕田に住す、其の以前に波多氏の名あることを聞かず、天元より久壽まで年暦百七十余歳隔てり、さあれば多田満仲の命は仍て、頼光の寄附を本説とすべし、現在田島宮の鳥居に天元の年號歴然たり。

 又太閤秀吉公名護屋御在陣の時、此島に鹿狩りを催し狩り捕りたる鹿を、社壇の前に寄せられしに、群集の臣下神明の咎もいかがなれば、外へ運び出すべしといひけれども、秀吉公少も恐れ給はず、何條のことあらんやと寛然として居給ふところに、忽ち風波起りて集りたる鹿残らず吹き流され、穢土を清めければ、則ち宮司に仰せて、神慮清(スズ)しめの神楽を奏し給ふ、其の後祈祷祈念懈り給はず、奉納寄附等ありしなり。既に朝鮮渡海の先陣小西攝津守・加藤主計頭軍勢出船の折から、敵国降伏の祈祷をなさしめ給ふ、御社の後森の中に大石あり、此の前に壇を築き注連を引きて、宮司丹誠して祈りければ、百騎の精兵弓箭を帯して朝鮮の方に向ひ矢を放ち、鯨波を上げければ、大石中より竪に割れたり、其の石破れたるまゝにて、今に宮殿の後ろに在り、秀吉公御感斜ならず、神明を仰ぎ給ひ、軍勢海陸無難敵国降伏の祈願を籠め給ひぬ、其の後一艘の船を献じ、朝鮮の苗梅奈良の八重櫻の苗を社内に植ゑさせ給ふ、今に其の樹残れり。

 松浦郡の神社は皆末社にて有りし由、境内の末社に佐用姫の神社あり、縁起別にあるなり。太閤秀吉公往古神功皇后の御祈願籠めさせられし例に仍て、田島大明神を尊崇有りしなり、又大伴狭手彦の因縁あるを以て、朝鮮征伐の砌より高百石山林相違なかるべきの御朱印を附せられ、今尚代々の将軍家これを賜ふ、宮司従五位下任官昇殿を赦させ給ふ、夏越秡の祭禮御旅所(オタビショ)宮崎にあるなり。

 跡たれし下津岩根をそのままにおしまの神のこゝろとも見よ。

  同末社 佐用姫神社

    祭神 佐用姫

    望夫石を祭る

 欽明天皇朝、高麗有叛、遣大伴狭手彦征之、其妻佐用姫惜余情追慕之、到松浦山振衣巾招船哀歎終死去、名其山曰巾振山、於此社内號望夫石祭其霊也、松浦山一名鏡山、従姫振衣巾曰振巾山、又曰領巾振山、共訓比禮不留山。

 由来

 かけまくもかしこき佐用姫神社と申奉るは、大伴の狭手彦の嬪にして、人皇二十八代宣化天皇二年冬十月壬辰、新羅任那を侵す、天皇大伴金村に詔して、其の子盤・狭手彦をして任那を授けしむ、是の時磐は筑紫に留まりて、其の国政を執り以て三韓に備へ、狭手彦往き任那を鎮す。時に佐用姫御あとをしたひ、此の姫島てふまで来り給ひ、御船をさしまねぎたまへども、御船はおい風に帆をあげて眞空を飛ぶ鳥のごとゆき給へば、佐用姫かにかたに別れを惜みかなしみ、御袖もて御貌にあてうち伏し給ひ、御姿のままに石となり給ひき、佐用姫神石これなり。後豊太閤三韓を攻め討ち給ひし時、名護屋御在陣のせつ、敵国降伏のためおりおり詣で給ひ、百石の御朱印を附け給ふ、御當家、東照宮の命の稜威により、二百とせあまりの今に至るまで、常磐堅磐御朱印を下し給ふ。

 別記

 宣化天皇四己未年、大伴狭手彦勅命を蒙り新羅国におもむきぬ、狭手彦の妃松浦郡篠原長者の娘佐用姫つくづく思ひけるは、今新羅国と任那国と戦の折柄なれば、若し遠き別れにもならんやと一入名残をおしみ、狭手彦に言ひけるは、新羅国に妾も供し給へ行くすえ覚束なし、心爰にあらずとてひたすら願ひけれども、遣唐使の勅命を蒙りし事なれば、其事思ひもよらずとて許されず、暫しのかたみとて鏡一面・小太刀一振・軸物一巻を渡して、すぐに唐土ケ浦より船を出さんと赴きしに、佐用姫心乱れて跡を慕ひ、しばしの形見を持ながら九里川を渡りしに、誤て鏡を水底に落しぬ、夫より領巾麾山の絶頂に登り聲をかけてまねげども、はや追風に誘はれ沖に出ぬ、此の時木の根茅の根に取り着きて漸く登りしに依て、鏡山の茅其道一筋下へなびくなり、今の世まで其のしるしあること奇特といふべきことぞかし、もはや船影も幽に成ければ、夫より船影の近き方といそがれしに、一つの島を見當り、かしこへ行かんと狭手彦の名を呼びて慕はれしにより、今の呼子を呼名の浦といふなり、すでに海士の釣船に打ち乗りて姫神島に渡りぬ、この島の小高き所に傳ひ登られしにより、傳登嶽(テントウダケ)と書きまた田島嶽と名づく、其處よりはるかに唐土の雲路ともおぼしく、一面に見渡すに船影も見えざれば、絶頂に伏し轉び歎き悲み、其の姿終に石と化す、是を松浦の望夫石といへり。其の後曇惠・道深といふ両僧、狭手彦帰朝の時一所に来朝しけれども、物部大連等日本に佛法を廣むるにより、神の崇りありと奏して、佛像を難波の堀江に沈め、寺を焼き失ふにより、蘇我稲目の指図に依て、この松浦より唐土に帰る時、両僧川上の里に観世音を彫刻し、また傳登嶽に登りて追善をなし、卒都婆を建て帰りぬ、其の佛法弘まりて一宇を建立す、天台宗傳登山惠深寺と號す、其の後この寺絶したるを再建して今龍雲寺と號す、是れ佐用姫の菩提寺なりと云ふ。往古人皇四十五代聖武天皇神亀四年、玉津島大明神々祇官に詫してのたまふ、肥の西に篠原長者の娘佐用姫といふ貞女あり、夫なるものゝ入唐をかなしみ死す、其姿忽ち霊石となれり、萬代の亀鑑ともなるべし、今詔を申し下し是を神祇に祭らしむべしとなり、武智麿この御告を得て佐用姫の神社と崇む、この時田島大明神の末社となし奉りぬ、其の以前は傳登山の峯に在せしなり、佐用姫神の社僧たりし今の龍雲寺寂滅の穢れを忌めり、さるに依て此の寺衰微して、又立ち難く見えけるにより、波多相模守固の代に當りて、加部島・加唐・馬渡三島を残らずこの寺の檀家に附けられ、此の時神職より奉幣して社僧はなれたり。

 其の後太閤秀吉公名護屋御在陣の時、御尋ね在って、この望夫石を見給ひ、かゝる舊跡を其の儘にして置きがたし、社を建つべしとのたまひけるより、小社を建立す。其の以前はたゞ其の御姿石に注連を張り、其の祭祀怠ることなし。武智麿の告文惠心寺に持ち傳へ、これこの寺の大什寶なりしに、いつの頃より紛失しけるにや、又はちぎれ朽ちたるにや、今はこれなし、此の武智麿は藤原不比等の子なり、不比等太政大臣正一位に昇進し、薨去の後文忠公と謚り給ひぬ、この事太閤秀吉尋ねたまひしに、龍雲寺にても神職にても申傳へし計りにて、いつの頃紛失せしとも知れざるよし申ける、類ひなき舊跡ゆゑ、佐用姫社領として百石御寄附御朱印、寛文四甲辰年寺社領御朱印御改め、宣化四年より寛政十二年まで一千二百四十五年になるなり、狭手彦は大伴金村の子なり。

一二、佐志八幡宮 佐志村宇佐志

               

祭神 譽田別(ホムダワケ)尊、足仲彦(タラシナカヒコ)尊、息長足姫(オキナガタラシヒメ)尊

相殿祭神

   天御中主尊、国常立尊、日本武尊 大鷦鷯(オホサゝギ)尊

   呉料神(ゴレウシン・鎌倉權五郎之霊を後世祭れるもの)、

   七十五神(神號不明)

縁起

 當社者、人皇七十三代堀河院御宇康和三年辛已年、源義家卿之家臣鎌倉權五郎景政、依有祈願事、石清水八幡宮奉鎮此地、于時十一月十九日也。其後領主波多氏社加修理、神田寄附在、人皇九十八代後圓融院御宇(南朝之後亀山)應安五壬子年、足利義満卿之家臣衛門佐源朝臣頼泰、九州為退治松浦郡、下着之時、當社被捧願書、社殿加修理神領寄附在、至爰神威益赫然。

 波多三河守、文禄之間朝鮮之役不利、坐事貶常州、波多氏亡、先此天正之末、豊臣秀吉公朝鮮為征伐、當国名護屋出陣之砌、借名神領悉被召放。慶長間寺澤廣高侯、知此地略戸封、僅免粢料。年暦治乱之間、興廃数換、寛永之始、社殿火炎回禄、神記悉皆焼亡、慶安四辛卯年、領主大久保忠職候、及遷此地、奉書而探神跡、神主曲以事聞、*(搖-テヘン+系)此信敬滋深、選日而詣本社、見宮殿荒廃、嘆息不止、謂左右曰、夫治国以武、守国以丈、我国神威之境、以敬神為守文、矧當社八幡宮、武家之宗廟、不可以弗厳之、遂發興復之志、重而修當社之神廟、祈天下太平、求武運長久、而後松平侯・土井侯・水野侯・小笠原侯領主代々、為祈願所。

  別記

 祭神 仲哀天皇、神功皇后、應神天皇

 一説に此所神功皇后三韓凱陣之時、鋒を納め給ふといふ。

          社司  宮崎主税

          下司  宮崎但馬

              同 越後

 末社 鎌倉御霊ノ宮

    鎌倉權五郎景政之霊也。

     松浦黨佐志将監建立云

         佐志将監墓所此處在

 佐志村八幡宮は、人皇七十二代堀河院の御宇康和三壬已年、源義家公の家臣鎌倉權五郎景政九州退治下向の節、石清水八幡宮を此處に勸講有之、十一月十九日に奉安置、其後人皇百代後圓融院應安五年二月六日、源義満公の家臣右橋門佐源頼泰、九州退治として松浦郡へ下向の節、夢想の事ありて、願書を神前へ捧げ、社の修理を加へ、神田若干を寄附せらる、其後松浦黨より信仰彌々厚くして、社の修理神田等数多寄附これあり。然るところ天正の末豊臣秀吉公神田を残らず取り上げらる。文禄三年波多三州公の世変誠に薄運の至りにて、其の後寺澤分神徳を尊敬し給ひ、社の修理を継ぎ、米一石五斗御供米寄附これあり、鳥居御建立等これあり、其の後正保四丁亥年、寺澤兵庫頭公御逝去御家没収となり、翌五年戊子御料と成り、東都より御上使御下向、萬事御調の上、當社の修理御供米等御定め下され、其の後慶安二己丑年、大久保加賀守侯御封内に相成り、當社の神跡を御探り、深く御信仰これある旨申傳へらるゝに至れり。

 一三、龍體神社 佐志村字龍體

 祭神 大綿津美神

 由緒

 當社は正保元年六月、唐津沖に異船来りしとき、城主寺澤兵庫頭、福岡城主と心を合せ、之を打ち沈め、海底に沈みたる品物を引揚ぐるとき、揚げ残りの大砲梵鐘、手を盡すと雖も、揚ぐること能はず、依て所々の神職に命じて、容易く引き揚げんことを祈らしむ。 此時佐志八幡宮の神職宮崎丹後、海濱に出で祈願すること良々久し、終に眠に就く、夢中に女神来りて曰く、残る品物は海中に留め置くなり、必ず取ること勿れと、忽ち夢覚む、丹後この旨を城主に言上す、城主之を疑ひ、龍神の姿を現すべしと、丹後再び海濱に出て、龍神の出現を祈る、此の時朱龍波間より来り、海邊の石上に息ひ、又元の波間に没す、城主も天主臺より之を見て、奇異の思ひをなすに、佐志より注進ありて、即ち大砲引き上げの儀相止みたり。彼丹後の案内にて、岡島七郎右衛門・並河九郎兵衛彼の體を現しゝ石上に至り見れば、龍鱗三枚あり、丹後之を持ち来り、小祠を建て之を祭り、則ち龍體神社と尊崇す、龍體を現しゝ處を今に龍體と號す、鱗石尚今に在り、時に正保元年申八月十七日なりと傳へたり。今は佐志八幡宮境内に移せり。

  一四、八坂神社 湊村大字湊

              

 祭神 素盞鳴尊、大己貴(オホナムチ)ノ命、少彦名(スクナヒコナ)ノ命

    事代主命、稲田姫命

 湊浦は古昔鰐ノ浦といひ、神功皇后三韓御征伐の時軍船を数多碇繋せられしより、湊の称をなすと傳ふ。本社殿堂の創立年代不明なるも、神殿前の小さき石の鳥居に延暦三と模糊たる文字を見れば、大方は平安朝初めの創建にかゝるものなるべし。祭祀は毎年四たび行ひて、陰暦正月十五日を春季祭と称し、又灰振り祭ともいひ、神輿渡御の前に産子(ウブコ)のものども老若男女の別なく木灰を打ち振る儀あり。これ神功皇后の柏木を焚き、其の灰を振り神を祭らせ給ひし古例に傚ふものなりと云へり。

六月十五日は祇園祭と称し毎年引山二本を奉納す。六月十九日は例祭と称し神輿渡御の儀あり。秋季祭は十一月十五日に行ふ。

 天正八年岸嶽城主波多三河守の命により、當地領主八並常陸介に當社の修築を行はしめ、神領として字牟田。祇園田・神楽田とて三ヶ所部合百余石の寄附をなせり。波多氏滅亡後寺澤氏は右の神田を没収せり。境内に雨乞池といへる十二間に八間の古池あり。また鎮西八郎為朝の五輪の塔と傳ふるものあり、高九尺計りなり。明治六年村社に列せらる。天正以来の神殿廃頽して明治三十九年改築せり。

 十五、住吉神社  湊村大字神集島

祭神 底筒男命  中筒男命

   表筒男命  息長足姫命

   天ノ兒屋根命

 本社はもと弓張山に鎮座のところ、元禄七戊歳同島宮崎に遷座せり。本殿は神功皇后三韓征伐の時数日間御滞留あらせられ、諸神を神集めし給ひ、干珠満珠の二寶を納められし神社なりと傳ふ、この故を以て神集島と名つくと。明治六年村社に列す。

 當社の寶物たる干珠は直径三寸六分の自然石の球體にして、金色の光を放つ。満球は直径三寸三分の球體の自然石にて、青黒の色彩を帯ぶ。

 又御三體の木像あり、精巧を窮め極彩色を施したるものにて、縣内にては佐賀市の楠公社奉安の木像と併称せられて、他に類例を見ざる尊像と云ふ。

 序に云ふ、同島には常に変りたる古墳ありと、篤學の士佐藤林賀によりて傳へられたるが、大正十年十一月十八日文學博士白鳥庫吉之が踏査をなして、四千余年前の族長の古墳たるドルメンなることを確認せられて、學界の耳目を牽くに至った。此の種の發見は我郡内にては嚆矢とするところで、史上稀有の事柄である。聞く長崎縣下壹岐島には、大小のドルメン数百を發見せりと。往昔は厚葬の風ありしは我国のみならず、他国にも見るところであって、彼の埃及のピラミッド(ギゼーに聳てゐるものゝ中には、現在の高七十六間、傾斜面の長九十五間余、方形の基底の一邊の長約三町)なる埃及王の古墳(約五千年前)の如きは、ドルメソとは同種のものにあらざれど、古墳たるは同一であって、實に偉観を極めて居るものもあるやうだ。神集島のドルメン(石窟)は僅かに人を容るに足るが如きものなりと云ふ。

 一六、土器(カワラケ)神社

                湊村大字屋形石字土器崎

  祭神 神功皇后

 息長足姫命三韓征伐の時、戦勝を祈り土器に酒を注ぎ海神を祭り給ひし所といひて、後世小殿を建立し土器崎神社を奉祀す、社殿の附近に七ツ竃とて名高き玄武洞穴の奇勝あり。

 ◎ 佛 閣

一、瑞凰山近松寺 唐津西寺町

 當寺は臨済宗南禪寺派に属する小本寺なり、抑も本音は往古上松浦郡禪宗七刹の随一にして、後二條天皇乾元元年(紀元一九六二)の創立にかゝると云へり。茲に湖心禪師は。後奈良天皇の天文八年(紀元二一九九)の春大内殿の命を承け、正使として大明国に至り、明帝に拜謁す、十年冬帰朝せり、尋て幕府の台命によりて筑前聖福禪寺に住す、此に至て名聲海外に高し。時に岸嶽城主波多三河守、師の高徳を慕ひ、浦島山の地を擇び(今の舞鶴城址)近松の一宇を再建し、聘を厚くし辭を卑くして以て師を招待し之が開祖と為し、寺田若干を寄附す、然るに正親町天皇天正二年正月三日兵火に罹り、七堂伽藍鳥有に帰したるは惜むべきことなり。

 後陽成天皇慶長元年寺澤志摩守廣高公豊臣大閤の命を承け唐津を鎮し、異国防備のため長崎に判事たり。然れども外国通辭に乏しきを憂ふこと久し、時に湖心禪師の高弟耳峰禪師は道學兼備の人にして高名亦師に過ぐ、因て寺澤公専使を遣し外国の通辭たらんことを乞ふ、禪師之に答て曰く、近松禪寺は吾師湖心禪師再興の地なり、幸に今公の奉邑にあり、先に兵火に罹り久しく荒廃し終に一小宇のみ存せり、公若し興復の志あらば其の命に應ぜんと、公曰く比の擧は天下の公事たり何ぞ少財を悋んで名師を失せんや、宜しく師が意に順はんと、乃ち唐津に移り共に外事を議て大に勲功を効す。故に本寺を今の地に移し世々の菩提寺と称し、寺田百石並に山林を松浦郡新木場村の内を以て寄附せられ以て寺産に充つ。明正天皇寛永十年四月十一日を以て廣高公逝す、壽七十一歳。是より先き公京師に役す、数々紫野大徳寺春屋国師を見て我が宗意を参得す、特に休甫居士の號を受け頗る禪法に帰嚮す。嫡子堅高公継て立ち、正促四年十一月八日又本寺住持の隠居扶持高貳拾石を新木場村の内を以て黒印にて寄附せらる。公正保四年十一月十八日逝す嗣なし故を以て寺澤氏終に絶し、當寺も亦衰ふ 當時第四代遠室禪師深く衰廃を憂へ、柳営に到り其の由緒を懐て愛愍を将軍徳川家光公に乞ふ、公先師の勲功を感賞して慶安二年八月十七日直に御朱印を賜はり、松浦郡伊岐佐村の中百石を寄附せらる、竝に寺中竹木諸役を免除す、因て舊観に復するを待たり。仁孝天皇文政三年小笠原公封を唐津に移し、本寺を以て菩提寺となし、年禄百石を寄せらる。

 明治維新王政復古の際天下一般土地人民を奉還す、因て又伊岐佐村の百石を奉還し、継で小笠原公の百石を返附す、其の後明治四年より六年まで稟米として下し賜はり、同七年より十六年まで十年間遞減禄として御下賜ありたり。

 本寺の由来大略是の如し、然れば前陳の如く朱墨印の二百石を領し、且つ當寺の末派寺院の数往古は十七ケ寺のところ、百年以来二寺を廃し維新の際十五ケ寺のところ、明治三年に三寺を廃せられ、方今全く十二ケ寺の末寺を有し、本派に於ても有名なる小本寺たる顯然たり。

 境内書院前の庭園は曾呂利新左衛門の築きし、唐津城下の風景を寫せしと傳ふる築山なり。寺域の西方に寺沢志摩守廣高公堂の五輪の大墳墓、同兵庫頭堅高公の自然石墓標、小笠原佐渡守長和公等の墓所あり。また華厳の釋迦佛の石像大佛は、松平和泉守乗春公の建立なり。淨瑠璃界の鼻祖近松翁の墳墓あり、墓石の裏面に隠し銘として略傳を刻す。昔時は當時の八景等も存し、維新の際まで大佛殿等もありたれども、廃禄以来全く荒廃に帰せり。本来當寺は無檀家なるも、文政年間小笠原公移り来りし際に、該藩士は悉く本寺の檀家たらんと希望したるも、陽溟大和尚は性太だ淡泊にして之を謝絶す、されど祖先を以来本宗の信徒に限り、止むなく承諾帰檀を許せしもの五十余戸、外に庶民の檀家たるもの十戸に満たず。

 現存の建物中にて法皇殿(本堂)衆香国(庫裡)の二屋は、慶長三年正月の建立にかゝり、大門は名護屋城大手の門を豊公より下賜せられ、同三年其のまゝ當山に移したる名門なり。小笠原家御廟所諸堂は天保十二年十一月の建設なり。

 寶物

一、名剱長刀 一振(相模守藤原政常の作)

一、同駕兒刀 一刀(左近将監源祐信の作)

  右長刀は夜念佛と記録に記せり、寺澤志摩守所持當寺に寄附。

一、足利權大納言将軍義照公筆   二通

一、寺澤公父子の書翰       教通

 二、清凉山淨泰寺 唐津新町

 寺澤志摩守贋高、御父越中守殿菩提の為め建立せられたるものにして。天正十五年丁亥年(紀元二二四七)眞譽空阿上人の開基とす、淨土宗知恩院の末寺にして、三代将軍家光公より御朱印地高五十石を、佐志村字枝去木に賜はる。

 當寺本尊は、御長二尺九寸の阿彌陀如来なり、人皇六十五代花山院の御字、寛和三年の夏、惠心僧都其慈母安養尼公におくれ給ひて、孝養追善の為め、一夏九旬の際、一刀三禮して彫刻し奉れる霊像なり。威容魏々祥瑞多端にして、洛中の貴賤、洛外の緇素普く尊重し、現世の頼望結縁を祈るところなり。星霜漸く重りて人皇百七代正親町院の御宇、松浦郡領主波多三河守公役の序上京し、叡山四明の聖堺に詣て、横川の邊にて此の尊像を拜して曰く、我領知するところは日本の邊地にて、人心質朴ならず、邪悪不信の民攝化済度のため、猶我が子々孫々、国家安全の守護佛と崇め奉らんと願はれしに、其の事叶ひ、則ち本尊を守り奉りて本国に帰り、當郡の内神田村山口といふところに、山谷の清香坊在りて一宇を造営して、稲田数町寄附せられ、僧侶日夜の勤修怠ることなし。眞譽に奇異の説を申傳へしは、其の頃波多家の代官職に、池田帯刀といふ者あり、この地を守りしに、佛餉料田地良田なることを惜みて、麁田を替へて佛田としぬ、農民これを受けて作をなし、五月頃早苗を取るに、毎夜童手の足跡にて、右の替地を踏み荒すことあり、何者の仕業と云ふ事を知らず、或時射功を得たる侍五六輩を以て、夜陰に窺はしむるに、一人の小僧出で、彼の田の中に入る、右守衛の中より矢を放った、手答へして覚えけれども其の人なし、足跡をしたひ此の寺に来り、小僧同宿など尋ぬれども疑ふべきものなし、堂に登りて本尊を見れば、佛像の裾に泥土附きてあり、又左の脇に彼の失深く射込みて立ちければ、當番の侍是を見て膽をつぶし、罪科を懺悔して矢を脱き取りたり、今に其の失跡歴然たり、此の故に世俗呼び名して矢負如来、また泥土附き本尊とも云へり。又慶安二年五月當寺四世教譽上人住寺のとき、本堂に面の瓦一度に落ちて、遠近騒動することあり、本尊を尋ぬれば、西表の塀の上に遷座し給ふ、見聞の人毎に不思議の思ひをなせり。其後的誉上人の弟子に単歴と云ふ小僧あり、天性魯鈍にして睡眠ふかく、誦経の度毎に沈睡せり、或時勤経念称して眠りけるに、鼠色の衣を着たる老僧来りて、扉を聞き給ふに、時節の暑を堪ゆる様に覚えて、眼を開き彼の老僧を見て恐懼しければ、佛壇に登り給ふと見えて同様になり給ふ、夫より単歴眠らずして、聡明なり侍るこそ奇特の事共なり。又現在(転誉某)、元禄年中の頃春雨車軸のごとく降り、頻に本堂の拍手して人を呼ぶ音すなり、童僕答て出迎ふに人なし、天井より雨漏り強く篠のごとし、急ぎ本堂を脇の内に移し奉りけり、佛殿の上屋根板腐れて落つること、岸の崩るゝが如し、僧侶奇異の思ひをなし、右拍手の音は如来の御告諭なりと有りがたく覚えぬ。誠に末世に至りて泥木塑像の、かく不思議あることを名體不離にして、眞佛不離不即の謂れぞと、檀家他門の男女まで尊重し奉ること、生身の阿彌陀如来のごとし。然るに文禄中太閤秀吉高麗出陣のことあり、寺澤越中守子息志摩守廣高供奉の兵士たり、父越中守當国名護屋に止り守護の士たりしに、越中守この如来威徳を感

じ、御堂を名護屋に移し給へり(今名古屋村専称寺)年経て越中守卒しければ、子息志摩守家督し、両親の崇敬したまひし寺なればとて、亡骨を當寺へをさめ給ふ。

  越中守 巌淨院殿看譽淨泰禪定門

  夫 人 華璽院殿春譽慶圓大姉

 則ち淨泰居士の法名を以て寺院の號とせり、是に依て慶長元年七月寺領を改変して枝去木村にて五十五石、山林竹木まで永代寄附の寺となり侍るなり。然るに慶長四年に、志摩守當唐津の城主となり給ふによりて、此の地に寺を移し、本堂・方丈・庫裡等形のごとく造営し給ふ。爰に志摩守嫡男兵庫頭堅高正保四年早世したまひて継子なければ、代々の家断絶せり、内相迂流の習ひ誰か是を免れんや。

 當寺住僧教譽上人、寺院の衰廃せんことを悲しみ、武州江戸へ到り、時の寺社所安藤右京進殿・松平出雲守殿両所へ先訴し、五十五石の寺領分御朱印となし下され候様にと願ひ申し上げ、又當城の在番として、中川内膳正殿。水谷伊勢守殿へも相達し、御上使齋藤佐源太・津田平左衛門見分の上を以て、右の願相叶ひ、始めて大猷院殿(家光将軍)御朱印を給ひしなり、代々の将軍御代替りの節頂戴すること、今に変りなきなり。

 凡當寺創立は天正二亥年にて、今まで百三十九年なり、開山實蓮社眞譽上人より、百三十余年の星霜を経ると雖も、寺門衰変なく、師檀繁榮なること、當尊像不思議の高徳にして、末法萬年の燈び明かにして、利物偏僧の御利益誰か信ぜざらんや、中にも此の寺は波多廣直公、明君理世の跡を尋ね、庶民の安全を祈らん為めに、南都北嶺の伽藍を形どり、聖武桓武の帝徳に習ひて、此の地に造立し給ふ精舎なれば、国家安全四民豊饒にして、理世安穏後世菩提の道場なり。

  享保二酉年十月十日      當現住轉譽比岳岌山

                  謹而誌之

三、釜山海高徳寺  唐津中町

 淨土眞宗東本願寺の属寺にして、大閤朝鮮征伐の時彼の地に於て諸将士の葬事を勤むる故に、帰朝してかくは號するなり。當寺開山其の人は、始め織田家の臣奥村掃部之介、永享三年亥年世を辭し、本願寺六世教如聖人を師とす、其の師より一寸八分の黄金佛と、開山聖人の九十歳の像を寫し贈られしを、其の家に傳へ、其の孫小源太といふ者に至り、先掃部之介の例に傚ひ、本願寺十一世顯如聖人の弟子となり、天正十二未年松浦に来り、一宇を建立し、朝鮮に渡海し、彼の土にも帰依者多しとなり、同十三年酉七月帰朝す、其後大閣名護屋にて朝鮮のことども尋ねられて、渡海を許し、彼の地にて討死者の霊を弔ひしとなり、釜山海の號を大閤より賜り、其外拜領左の如し。

   五味の茶釜     金銀鐵錫銅の五品や交鋳。

   金砂の茶碗     古高麗焼なり。

   梅繪高麗焼茶碗   クワンニウなり。

   呂床の慶      大古物のよし。

   金屏風一双  檜に焼匁笹の画狩野元信寫縁り蜀紅の錦花桐の模様

   堆朱香盆   地に彫り模様彫り上げ唐馬

 本尊彌阿陀如来春日作り、本願寺内佛より移し来る。開山聖人自筆の書、聖人七寶の珠数、教如・蓮如の書、教加の袈裟、寝塔水蓮花座、苦行釋迦の画像了海の筆、太夫坊覚明経文掛物、其他公家方墨跡等軸物数多あり。

  同別記

 織田家の臣奥村掃部、永享三辛亥年世を辭して、本願寺六世教如上人を師とす、則ち僧となりて七世存如上人の時まで随ひぬ、親鸞上人九十歳にして遷化し給ふ、教如上人其の影像を寫して、是を掃部僧號玄了頂戴せり、今に此の開山上人の尊像高徳寺に傳ふ、或説に奥村掃部の子小源太、其の子小藤太といふもの、掃部より傳へたる一寸八分の金佛と、教如上人の画かれたる開山上人の九十歳の影像とを待ち傳へて、古主織田家に奉仕せんと、辛苦を凌ぎたるに、其の砌織田信長と合戦出来て、其の着到の人数にも加はりたく、暫く見合せ居たりしに、天正十年午六月二日、信長明智日向守光秀が為に自害、信忠は二條の御所にて自害し、今は織田家衰微して、故主の仇を報ずるものなし、暫く京の片邊に隠居しける、こり小藤太また剃髪して、顯如上人の弟子となる、天正辛未年僧と成る、此の時までは本願寺東西の差別なし、小藤太廻国して松浦に来り、此處に高徳寺の一宇を建立し、顯如上人より與へられたる、本願寺御肉佛の本尊を移し奉り、猶朝鮮国に渡海し、彼国にても帰依信心の人多し、同十三年酉七月帰朝せり、其後秀吉公の厳命に依て、夜話の御伽に召れ、朝鮮国の事ども委しく御尋ね有りて、さまざま申上げければ、御機嫌よく朝鮮渡海をゆるし給ひぬ、則ち一寸八分の黄金佛彌陀を守護して、彼地に再渡しけり、彼の地にて討死者の霊魂を引導し、太閤御機嫌よく、名護屋にて種々の拜領物ありたり。

 四、安樂寺 唐津呉服町

 京師本願寺譜代端坊は、太閤秀吉公御定めの名護屋六坊の中の随一なり。文禄元年秀吉公朝鮮征伐のとき、毛利駿河守之春三男、端坊順了と號す、名護屋御陣に於て、格別の御懇意なり、折々御伽に召されたり、其連中には端坊・龍源寺・龍泉寺。淨泰寺なり、名護屋端坊境内に六坊あり。

  善海坊 本勝寺  順海坊 安淨坊  龍泉坊 正国坊  了善坊 行因寺

  了休坊 傳明寺  端坊 安樂寺

 名護屋端坊に於て、本願寺教如上人、両度駕輿を入れられし其の格式にて、今に至るまで本山より使僧ありと雖も、上壇の翠簾、拜前の手摺欄干等其の儘にて、待ち請けあり、是れ普通の寺格にて、なり難き事となり。毛利家傳来の什物品にあり、一系図譯書等傳はりぬ、然るを法弟一保といふ僧、此の一系図を以て出奔し、長州に至り厚く用ひられければ、三年にして又出奔し、美濃国に至りしに、幸に小院ありて居住す、其の頃行脚の山伏この寺に雨伏しけるに、住僧出てゝ何れの修験者にて候やと尋ねければ、肥前国小城と答ふ、折ふし雨頻りにふり、暫く休息しけるに、住持の曰く、小城とあれば愚僧も同国なり、隣国唐津安樂寺を知れりや、院分知れりとて委く語りければ、此の一巻を持ちいで大切なる品に候へども、何卒遅滞なく唐津安樂寺へ、届け給はれと頼みけるにより、受け取り帰着の砌、安樂寺に送り届けぬ。抑々當寺本尊は御長二尺有五寸にして、行基菩薩の作佛にて、此の本尊其の始は、天川村禪宗西光寺の本尊なり、然るところ西光寺の住持へ、或時示現し給ふは、寧ろ此の山林に隠れんより、市井に出でゝ衆生済度をなすべしとなり、此の故に安樂寺に其の事を傳へ送りけるに、天川村の人皆擧りて言ひけるは、聞くならく御本尊は忝くも行基の作佛にて、西光寺傳来の本尊なり、佛示現し給ふと雖、いかでか他の寺に移すぺけんや、是非に之の如く西光寺に迎へ奉らんと、手段を窮め難なく迎へしに、さまざまの異変ありければ、又安樂寺へ送りしなり、此の時安樂寺より本山へ伺ひ、右の譯にて本尊を迎へたるに、其の以前御本山より下されし本尊に、また此の節右の譯にて迎へし本尊、如何仕るべきにやと伺ひけるに、御本山よりの本尊は本勝寺に送り、行基の作佛は安樂寺の本尊に備へ奉るべしと、指し図に依て本山の家老宮内卿法橋承り、安樂寺へ傳へければ、則ち本山より賜はりしは、本勝寺の本尊に供へ奉りしなり。名護屋の寺坊は後唐津に移る。

 五、養福寺 唐津 東寺町

 延享の頃養福寺諦譽上人といふ住持あり、或時學窓に書を讀みながら、ふらふらと眠りしに、夢に地蔵菩薩顯はれ曰く、是より西の方衣于山の麓に一つの岩窟あり、往昔此處に阿彌陀佛と共に立てり、今汝が寺に移らんことを願ふとなり、夢覚めて驚き思ふ、我信心せんと執着の迷ひなるべしと打ち捨て居たり、翌夜また替らず其の夢を見ければ、不思議に思ひ、直ちに衣于山の麓へと志して寺を出でぬ、丁田村蓮地の邊にて、鷹見根右衛門といふ人に逢ひぬ、根右衛門いひけるは、諦譽上人は何方へ赴き給ふぞと問ふ、上人答へけるは、我思ふ仔細ありて衣干山の麓に赴んとす、根右衛門申けるは、我も仔細ありて御寺に赴くなり、此所より御寺へ還り給へといふ、諦譽又いひけるは、愚僧不思議の夢を見たり、一夜ばかりならばさのみ信ずるにおよばねども、両夜まさしく同じ夢なれば、夢想の告げ疑ひなし、阿彌陀佛竝に地蔵尊二體、衣干山の麓の岩窟におはすよし、尋ね求めんと思ふなりと噺しければ、根右衛門手を拍ちて感心し、我も其事を告げんと思ひて、此處まで出浮きしなり、其仔細は我家に阿彌陀佛と地蔵菩薩と二體、往古より持ち傳へたり、この佛像夢中に告げ給ふやう、養福寺院内へ移すべしとなり、余り不思議に思ひ其事を話しまゐらせんと、今此處まで来れり、さらば右の佛像を贈りまゐらすべし、我家へ来り給へと誘ひて、則ち佛像を諦譽上人へ渡し養福寺に移しぬ、入佛供養等の事済みて 一両年経て京都の佛師に彩色を頼み、又其の像の作者を尋ねければ、地蔵菩薩は恵心僧都の作に紛れなきと定めぬ、今一佛は上品の阿彌陀佛なり、是も何れ佛作なるべし、何れの佛師の作といふことを知らず、かゝる佛像假初の彩色は仕がたしといふ、然れども押て頼みければ、後光蓮花座ばかり彩色をなし、其の儘にて下り給ふ、この故に未だ煤びたるまゝにして安置し奉りぬ。土井大炊頭及び其の大老職土井内蔵允といへる人信仰ありて、折々参詣せらるゝ帰依佛なり。

六、高城山法蓮寺  唐津東寺町

 開基は遠誠院日親聖人なり、歴代の内、住職波多三河守殿舎弟八幡坊日解聖人、其の頃石志村(今鬼塚村の内)高城山にあり。然るに大久保加賀守殿唐津城主たりし時、城下東寺町に移し、大久保家菩堤寺の内なり、三寶祖師、四菩薩、四天王、波多三河守殿御母公の寄附なり、其の後住持日悟聖人再興す、當本寺は房州小湊なる誕生寺なり。

 當寺本尊は、御長一尺二寸の観世音にして縁記を添ふ、施主土井大炊頭殿家中井上新右衛門、この観世音は武蔵より下総の間、火水の難等さまざまの奇特あり、彼の寺縁起に委し。この縁起竝に観世音尊像につき、武州にて明暦年中の大火の時奇妙のことあり、この故は焼け残りたる所の文字、或寺僧盗み奉らんとしけるに、其の夜しきりに眠りを催ふし、其のまゝに打ち臥し、夜明で目覚めけり、翌晩宵より盗み取り風呂敷に包み、寺を出奔せんと覚悟せしに、又其の夜不思議なるかな、其の風呂敷元の如くにして、尊像は佛檀に直り給ひぬ、この僧懺悔して寺を出でぬ。

 日親聖人法弟日儀作と、尊像の後に銘あり、又師命に依りて是を彫刻すとあり。近頃日誠聖人再興すと。

 この寺代々の聖人、紫袈裟紋白の免許あり、寺格最もよし。

 七、法雲山龍源寺 唐津東寺町

 應永三年癸卯年二月十四日、融能大和尚の開山にして、曹洞宗豊後国泉福寺の末寺なり。太閤秀吉公より御朱印三十石を賜はりしが、寺澤志摩守の時故ありて黒印となる、寺澤家没落後は、城主より合力米三十俵づゝ毎年賜はりたり。

 八、寶聚山功岳寺 玉島村字南山

 禪宗曹洞派、開基草野長門守永久、以其諡曰功岳寺、境内有墓所、

銘曰 勝運院殿前長州大守功岳淨勲大居士

 日本寛延四龍次辛未秋八月十一烏、正當當寺開基勝雲院殿前長州大守功岳淨勲大居士二百年之遠忌也。世號草野長門守藤原姓永久、肥前州上松浦郡草野庄領主也。當寺十五世住持僧法沙門高州叟預三年前、相謀草野郷大小之村吏、轉玉島山塔廟、移當寺東南隅矣、曰所以慮拂拭疎漏也、然草野郷民多先君家臣類葉也、故募教民家、喜捨淨財、而以充移墓修之資、其及忌筵設齋之助料也、斯時前後一七日、請諸山晴衆、而開甘露門、轉無上法輪、以追福先君冥社、忌筵聚會緇素凡三百有余人、遠近聴衆不知其員也、如在祭奠可謂勉矣余竊惟、草野家系年代深遠、時是戦国、惜乎始末不詳、故余撮諸国軍記、或*(小見)村老口碑、平生無閣、片言隻字所見聞逐一雑録焉、備後見、可與不可錯兼不錯、竝考則是幸也。我聞之昔年、天智天皇御宇曰雉年中、筑後国御井郡領主草野太郎常門者、智仁兼備勇士也、平日信聞圓通大師、以霊木刻彫尊容、且新建観興寺、而奏聞天智帝、為勅使右大辨種政卿参向云々、詳観興寺記録也。然常門末孫草野太郎永平時、當源平壽永乱、九国諸士多属平家、草野太郎属源家、以盡無二忠、依茲頼朝公厚賜恩禄云々、而附属筑後居城嫡子何某、而賜別地肥前上松浦郡、居止於此矣。于時永平故郷難忘、筑後草野在名悉移此地、異地同名此彼相符合者乎、爾来累代相續来、而草野入道圓種、元弘建武乱之時属宮方、芳野執行法印宗信曰、而今員諸国不変宮方、於筑紫、菊地・松浦・鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星云々、元弘三年八月二十九日入道圓種依軍功賜綸旨云々、草野太郎永平同種守・同貞永・同四郎入道圓種・同四郎武永・同永治・同長門守永久・同中務太輔鎮永・同鎮信・同鎮恒・又我聞之青木何某任鏡明神大宮司、因茲於福井村、庄田三十余町宛行者也、向後可為一族親也、鎮永書與青木何某云々、天文十三年為鏡尊宮勅使参向、地頭永久主此事云々。又松浦軍記云、波田鶴田両家者、草野之墓下也、然波多鎮者、草野永久甥也、中務太夫鎮永者原田劉雲軒了榮之三男也、永久養子之、而相續草野家、然原田家早逝、而無嫡子、亦養鎮永二男、令續原田家、永久居城南山、鎮永居城二重嶽、相續築松尾城、今云引地是也、見于筑前風土記、奥州會津保科家臣原田氏者、草野原田両家末孫也、筑前黒田家臣澤木氏者、原田之類族也、依有由緒以草野鎮永娘、嫁澤木姓、同家中松原氏室女亦鎮永娘也云々。草野家建立精舎四院、曰興聖寺済家也谷口村、曰畳石山天澤寺洞家也岡口村、曰玉島山千福寺洞家也、玉島寶聚山功岳寺洞家也南山村、典聖・天澤・千福三寺者、有為轉遷惟有名跡耳、寺者則無焉也、當寺者元、天文二十三年草野鎮永為慈父永久公、所造建蘭若也、因請一如和尚、為開祖住持、未幾歳嬰老病遷化焉、相次寺亦為兵火焼失矣、于時鎮永再建佛閣殿堂、請岡口村昌岩院貴菴和尚、菴固辭不赴、相共謀而粛請本師勝山和尚、称重興第一世、勝山以老主持不能、一歳謝而附属寺貴菴、退間華峯、貴菴重興第二世也、爾来法脈嫡々相承、而至於今流通無窮盡也。元禄年中當寺住持矩堂高欽代、當邑南北限上猫石下新橋、稲梁枯朽而不實者一分中数百茎計也、如此者十有三年、居民大慨而祈神社佛閣、雖使陰陽巫覡考占、而無其効也、茲或人占斯則高家人古塚埋在荒野無有識者、依此崇有此凶、高欽於玉島山、石刻地蔵菩薩尊像、而為草野家一類眷族、設施食法會、其年以来稲枯随而止云々、至今毎歳七月朔有施食會。金平日慮、開基塔廟本所不正而置懐不忘、然去庚申年六月十一日、余遇々有 津城行、帰路経歴玉島大道、至於此余意頻欲見玉島寺跡、即往窺視地形、荒廃土中埋有如塔様者、但謂(オモフ)唯心所為乎、帰寺謀村老等而七月十七日至彼地、穿石除土則大塔儼然而出矣、銘文不泯滅果而開基永久公之眞塔也、因茲訟於官、官命之而曰、寺僧勉勿怠拂拭也、八月十一日近郷庶民聚會彼地而更造建木浮屠、以伸供養、余謂此事實不可思議者也。

  寛延四年辛未秋八月十一日

               前総持當寺十五世傳法沙門高州叟謹記

 九、河上山殿原寺 玉島村字平原

 今は寺號と本尊のみ残りて小堂あり。

 縁起

 肥前国上松浦郡草野庄平原郷、根本観音者、松浦佐用姫之霊佛也、往古宣化欽明両朝之御宇、高麗新羅背於我、為征伐大伴金村大連之長子狭手彦被遣三韓、狭手彦到當国滞留之間、以佐用姫為最愛之妾。狭手彦發船之時佐用姫慕別離、登高山望其船、流涙振袖而招而詠歎、故其山號領巾振山、今鏡山是也、其後佐用姫到此處終死、其宅所有大椿、類族為姫追善、伐彼椿木、以立根木五尺刻観世音霊像、依之號根木観世音、建立一宇曰河上山殿原寺。當国北方之海邊有島名田島、今曰壁島、爰在田島大明神之社竝佐用姫之霊石、此神者則崇祭大伴狭手彦也云々、夫話佛之感應雖無勝劣、観音之霊験殊勝也、大慈大悲之秋月無不照所、三十三身之春花無不匂所、

一運歩之輩成就二世之願望、纔唱名者消滅當時之殃災、孰不仰此菩薩乎。

  寛永五戊辰年九月三日   敬書

 一○、天鼓山来雲寺 鏡村字宇木

曹洞宗の門派に属し、領主より合力米六石の附與あり。寺澤式部大夫の基其の境内にあり。

寺澤氏より寺領附與の書状左の如し。

 宇木村之内高五十石、全可有寺領也、仍如件、

  寛永十二年乙亥正月二日    兵庫頭堅高 書判

                  来 雲 寺

同家老の副状あり左の如し。

 常寺領之事、先年継目之時、志摩守書出、兵庫頭被留置、則兵庫頭書出取替進申候處、相違無御座候者也。

  正保五年戊子正月十五日

                 熊澤三郎右衛門

                 竝河太左衛門

                 澤木七郎兵衛

                 今井縫殿之介

                   来雲寺

右の通り寺領附與のところ、寺澤侯没落以後は右の合力米となる。

 一一、瑠璃光山醫王寺 久里村字黒岩

 今は改めて芙蓉山とす、曹洞宗の寺院にして、能登国総持寺の輪番所なり、領主より合力米六石の附與あり。

 寺内に北條氏房の墓あり、朝鮮役名護屋在陣のとき、此處に葬りしものか、また大友の塔とて大なる墓あり。此寺に名護屋在陣の時、諸侯の書寫にかゝる大般若経あり、其の姓名記あり。此り寺の山號は始め浦田山と名けたるよし、如何なる故か明かならず、浦田は人の姓を取りたるものか、開基に縁あるものか、末寺に廣瀬の福聚寺、畑津の寶泉寺其の外数多あり。

 一二、龍谷山瑞巌寺 北波多村字徳須惠

 波多参州公の菩提寺なりしが、今は僅かに一小堂宇を存するのみにして、煙滅廃残の状あはれなり、其の當時は禪宗に属する一大巨刹たりしこと、今も田圃の間に寺跡の名称を存する範囲に於て推知すること難からず、本尊の観世音は牧渓の作なりと傳ふ。

 一三、日生山心月寺 鬼塚村 字山本

 開山は仁岳大和尚にして、禪門なり、鬼子岳城主波多三河守親の前室、心月瑞圓大姉を埋葬したるところにして、為に一寺を建立し、本堂の床下本尊の下方に墓所を設く。

 元和二丙辰年寺澤志州侯、検地のことあり、乱世の砌にて郷方に記録の存するもの稀なり、検地の節心月寺住持を頼み、水帳を書きしなり、其のとき侯は同村庄屋方座敷に、住持を招きて諸事の尋ね物語りの上、寺附きの持地の分は、田畑地味の等級を下して、特典を與へて租額を減ぜられたり。

  什 物

 一、瑞圓大姉遺物の琵琶。

 一、夢中飛入の観世音。

 一、瑞圓大姉遺物の懐剱。

 一、同 操珠数。

 一、波多相模守の鎧。

 一、天竺傳来苦行の釋迦。

一四、普堕落山潮音寺 湊村字湊

 如意山潮音寺とも號す、本寺観世音は、安元乙未年小松内大臣重盛公の願望にて、難波ノ浦より送り奉られし霊像なりと、是れ則ち重盛公世の盛衰を観じて、同年六月三千両の金を育王ケ島に送られぬ、此の重盛は本朝の聖賢と賞せられし人なり。此の観世音の佛像この浦に着せし因縁を尋ぬるに、其の頃潮の鳴ること数日にして、金色の光に香気あり、所のものども評定区々なり、爰に萬吾・萬六とて兄弟の漁夫あり、出入兄弟共にし、釣り網を業として世を渡りしが、この兄弟生得律儀にして浦人には稀なるものどもなり、二人囲炉裏の前にて四方山の物語りの序に、弟萬六申しけるは、かく兄弟心を同うして漁事をなし世を渡りけれども、家貧しきこと外に竝ぶものなし、適々先祖を祭るといへども、漁事の価の残りを以て、漸く香花を捧るのみなり、願は渡世を替へ一生を送らんものをといひければ、兄萬吾いひけるは、生ある燐魚を殺生して世を渡ることを恐ること尤もなるべし、されども父母の業を継ぎ、兄弟も其の家産を受けて育ちたる身なれば、其の業を改むるは不孝とやいはん、いざ潮の来りければ網せんとて、兄弟打ち連れて出でにけり。然るにこの時潮の鳴音すさまじく、金色の光り香気等の顯はれしこと不思議なり、兎も角も網をおろし見ばやと、則ち網を下しけるに、魚は一つもかゝらずして、此の尊像は忝くも賤夫の網に罹り給ひければ、兄弟驚き船ばたに引き揚げ奉り、禮拜尊崇して直ちに賤が草家に移し奉りければ、近浦の漁夫遠近の親族奇異の思をなして、兄弟が家に群集して彼の霊像を拜しけり。衆皆兄弟に申しけるは、早く小堂を建立し、尊像を安置すべしと、されども兄弟家貧しく朝暮の糧さへも継ぎ難ければ、其の営み叶ふべきにあらざれば、深く是を嘆きながら是非なく、息穢の魚鱗とまじへ安置し奉り居けるを、近浦のもの打ち寄りて、小堂を建立し移し奉りぬ、其の後霊像夢中に示現し給ひ、此の穢土を淨地に復すべきに依て、三日の内に炎上の変あるべし用心覚悟すべしとなり、果して彼の堂も類焼せり、尊像は早く出し少しも損せざるこそ奇妙なり。

 又寛元四丙午年蘭渓といふ僧来朝し、此の沙門に随身したる惠教法師といふ僧、西海に行脚の時、普堕落山潮音寺といふ七字を壁面に書き付けて去りぬ、この蘭渓は後に大覚禪師と號して、鎌倉建長寺の開山なり、其の後この菴寺を改め、建長寺と称せんことを望みけれども、平氏の祈祷により送り奉りし尊像なれば、其のこと成就しがたくして止めり、又重盛公この尊像の内に金子百両宛を,御づし料として封じ込み置かれしなり、星霜遙かに隔り、應永四辛戌年洛湯に修復に遺せしに、佛師金子を抜き取りしとかや、この者狂乱して洛中洛外を狂ひ廻り、金銀を使ふこと土砂子の如く、或は堂の上にて御供を掴み喰ひ、経文を喰ひさき、何處のものどもも制し兼ねて、将軍義満公に達しければ、召し捕られ直ちに獄に下し置かれぬ、此の観世音は湊浦に再び下り着き給ひぬ。

 一五、醫王山東光寺 湊村字相賀

 薬師佛は、住古茅原浦 玉島村五反田のこなた淵ノ上村に建立しありし佛像なり、御長二尺にして、弘法大師の作なり、この寺済家宗醫王山東光寺と號す。今相賀浦に移せる故事を尋ぬるに、承安二辰年洪水にて淵上村崩れ落ちて薬師佛共に海中に入る、其の後所々尋ねけれども、更に其の尊像を得ず、三年を経て、四年申午海中に夜な夜な光りを見る、人々恐れて近づき寄ること能はず、ただ評判区々たるのみなり、或時墨衣の旅僧何れより来るとも知らず、この浦に止宿して、其の海中の光れる事を聞きていひけるは、正しく是れ佛作の霊佛海中にましますならん、斯るためし世に往々あることなり、必ず懼るまじとて、其の夜海濱に出でて讀経せられしに、いやましに光り其の邊に輝けり、自然と浪静に忽ち尊像顯れ給ふ、それより夜の明るを待ちて、浦人ども海中に飛び入りて尊像を捧げ上れり、則ち領主に訴へて、小堂を造りて安置し奉りしなり、其の由淵ノ上村より聞きつけ、尊像を迎へんと望みけれども、相賀浦より許さず。

 抑この本尊は弘法大師、延暦五丙寅年より頻に無上の法を求めんとて、入唐の志を記せし折しも、この尊像に祈誓し、何卒我に離塵の大善法を得させ給はゞ、帰帆の後一異を以て、七體の尊像を作り奉らんと、深く誓はれしとなり。大同元年帰朝して、阿字本不生の善法を得て、終に素懐を遂げ給へり、是に依って則ち帰朝の後作られし、其の七體の中の一佛なり、其の余の六體三州蓬莱寺・攝津有馬潟山・讃州北濱・因州鳥取・肥後法華嶽・筑州堅粕・今の恰士松浦両郡の境淵上に安置し奉りしなり。承安前後の頃は、鬼ケ城草野氏。鬼子岳波多氏・二重嶽原田氏縁者たりといへども、取り合ひ度々にて自然に穢士となりける故にや、この相賀浦に移り給ひしより、今に至るまで霊験あらたかにして、さまざまのこと擧げて数へがたし、猶また是も諸人に勤善懲悪のため書き載せ侍りぬ。

 文徳帝の御宇仁壽三癸酉年、住僧の盛厳和尚熱病にて、露命はかなく消えんと思ふ折ふし、薬師佛日衣の老翁と化し給ひて、悩み臥したる床の元に来り給ひ、奇妙の薬湯を與へ給ふと覚えて、和尚忽ち快くなれり、如何なる人とも知れざりければ、薬師尊の助にやあらんと思ひ拜し見れば、薬の入りたる茶碗を手に持ち居給ふと覚ゆ、誠に薬師佛の助けに疑ひなし、感涙深く拜謝し侍へりぬ、右の霊夢を感得せりと、古記に見えたり。

 天正十五年丁亥臘月上旬、盗人大鐘を盗み取りければ、諸方を尋ぬれども行衛知れず、同月上旬に至りて、相賀浦湊の間の北濱に怪敷き聲あり、皆人行きて見れば、鐘の龍頭に藻を纏ひ、浪間に浮沈して其の景色、相賀に帰らんとの音ある有様なり、是に依って寺内に取り寄せ侍りぬるとぞ。

 慶長元丙申年二月中旬、寺澤志摩守妙なる鐘なるよし聞こしめされ、唐津城に取り寄せ、時鐘としたまへば、忽ち菅留りければ、佛意に叶はざるやと、相賀に送り返しけるよし古記に見えたり。

 後光厳院帝の御宇、延文三戊戌年八月八日、大同元年丙戌年より五百五十年に當て開扉あり、其の後貞享四丁卯年二月八日より三月八日まで開帳ありと古記に出でたり、大同元年より享和元年酉まで凡千三百十三年に成るなり。

 一六、内田山淨聖寺 唐津村字神田

 内田山本尊は、御長一尺二寸の観世音菩薩なり、人皇五十九代宇多天皇仁和四戊申年、弘法ノ大師の御弟子眞然大僧都、仁和寺供養の導師たらん事の勅宣を蒙り、離塵の大善法を修し、南無大慈大悲念彼観音力と合掌し、我今仁和寺供養成就の後、尊像を造り奉り安置し奉らんと祈誓し、供養の後、その尊像を彫刻し内殿に納め、昼夜の勤経怠りなく、眞然僧都遷化の後、醍醐天皇の御宇昌泰三庚申年正月、融大臣の御子左大臣源光の住み給ふ、六條河原院の樹上に金色の光り顯はれしにより、信心結定して拜し給ふに、この尊像にて渡らせ給ふ則ち奉迎し奉り、松浦郡鬼子岳城主松浦波多治郎永より傳へて、神田五郎廣一宇を建立して、打田山淨聖寺と號す、神田の領主より代々の修理をなし、又寺領あり。

 然るに太閤秀吉朝鮮征伐の後、波多三河守改易して、上松浦一黨飛花落葉の有様にて、城跡は狐狸の栖となり、所々の神社佛閣其の名のみ残りて、草むらと成りぬ、本尊の在す所も定かならず、されども此の尊像は忝くも、仁和四年より今享和元辛酉年まで、八百九十八年の星霜を歴るの間、奇々妙々擧げて数へがたし、星轉り物変り堂塔破却して、漸く假の小堂に在すといへども、廣大慈悲の奇特滅せず、霊験あらたなること誌すに遑あらず。爰に文禄年中太閤秀吉

高麗出陣のため、當国名護屋の城廓を築き給ふ時、寺澤越中守の遺骸を淨聖寺に移す、依てこの寺堅固に永續し、内田山淨聖寺往古の門脇に、三界萬霊の塔あり、この碑面に内由山淨聖寺了源とあり、これ則ち當寺を守りし僧なるべし、この尊像の縁起ちぎれ朽ちたるを集めて文字を合せ、古鑑を琢磨して現世安穏のため、敬みて書記畢ぬ。

 維新後檀徒少くして維持すること能はず、終に廃寺となる。

 一七、曹源山惠日寺 鏡村字鏡

 惠日禪寺は郡内屈指の巨刹にして、末寺五寺を有し、其の開山宗祐寂門禪師は本朝曹洞宗開祖承陽大師七世の孫と称す。永和元年の創立にして、本尊金銅観世音菩薩は、欽明天皇の御宇大伴狭手彦高麗征伐のため松浦の地より船を出せしが、其の妻松浦佐用姫追慕の余り死したりければ、狭手彦彼の地にて之を聞き悲歎やる方なく、其の菩提を弔はんとて鋳なせる尊像なり、

もと赤木にありしものなれども、當寺創立の時移して安置せしものなり。

 殊に當寺には形質珍稀なる銅鐘一箇あり、大正二年国寶に指定せらる。鐘銘に太平六年丙寅九月阿清部(一字不明)北寺鍮鐘壹躯入重有百二十一斤棟梁僧淡白とあり。其の紋様龍頭某等の類を絶す。

 本寺は世代を重ぬること三十六葉の久しさと雖も、其の間の記録煙滅して以往を尋ぬる由なしと云へりとぞ。

 一八、瑞泉山東光寺 有浦村宇有浦下

 瑞泉山東光寺は、永享年間壹岐守日高入道宗任打上村字赤木に戦ひ、敗戦して有浦村に隠れ、大庄屋を務めたる時、邸地を割きて自身の所念佛なる薬師如来を本尊とし、小宇を建立して朝夕信仰怠りなかりしが、天正二十年前越州秀岳珠呑大居士の信仰厚く、前任元智記室禪師を請じて、赤木なる東光寺と云へる衰頽せる寺あるを、こゝに移して建立したるを當寺の起源となす。

 寺の本宮薬師如来は三尺余りの坐像にして、藤原家に属したるものならんかと云へり、實に八百八十余年前の作に係る古佛にして、大正二年八月二十七日国寶に指定さるゝや、當寺の名頓に世に知らるゝに至れり。

 また寺境の観音堂に安置せる六手観世音菩薩は、平重盛が父清盛の死後の冥福を修せんため、六臂観音像を彫ましめて海中に投ぜしものと傳ふ、後に假屋湾内佛崎に於て、漁夫松右衛門なるものゝ網にかゝりたるを、三代の松右衛門其の霊験に感じ當寺に寄進したるものなりと云ふ。観音の御丈五尺六寸の立像にして古色蒼然たる霊像なり。

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