東松浦郡史 ㉓

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

六、加茂神社 七山村字瀧川小字谷

 祭神 加茂別雷命 加茂次郎義賢

 由緒

 加茂次郎義賢朝臣は、肥前守上松浦入道直傳と號し、清和天皇の流れを汲める八幡太郎義家の弟美濃守加茂二郎義綱五代の孫にして安元二年宣旨を請ひて、筑紫肥前国上松浦に下向し、瀧川庄に館を構へて居住す。上松浦郷の山内の領主たりしが、歿後土人産土神に勸請せりと云ふ。

 往古は、瀧川村・仁部材・木浦村。藤川柑・白木村・馬川村・荒川相の七村に亘れる廟社なりしと。後世に至りて瀧川一村の産土神となり、明治十二年八月村社に列せり。子孫連綿として今尚七山村玉島村に居住せり。

七、鏡大明神 今の鏡村鏡神社

一宮、神功皇后

 社殿、鏡山の麓に在り、神功皇后鏡を納め祭ると云ふ。或曰、一宮神功皇后到當国登松浦山祷天神地祗、以鏡納于此、故立祠為鏡宮、天平十年始祭之云々、祭日九月九日。

二宮、太宰少貳廣嗣

 後奈良院の御宇、大明神と勅號ありたり。

右、一二之宮司。社僧 米六石境領主より賜る 宮師坊

           同五石宛同断 御燈坊

            社司 同二石五斗宛同断 多治見紀伊守

           同断 坂本出雲

  日記

 桓武天皇ノ御宇、鏡大明神社殿内裏より御造営あり、後奈良院の御宇改めて勅額を下し給ふ。社領松浦郡草野庄を附けらる、高二萬五千石也、九月九日の祭日に毎年市立つ、諸侯より一州二疋の馬を献ぜらる。社の境内八丁四方なり、方一里の間下乗なり、境々の印の所を八丁塚と云ふ。宮殿・七堂。大迦藍・惣廻廊・釈伽堂、毘沙門堂・不動愛染両明王其外末社数多し、鐘楼門・山門・二王門・一三の華表・御供殿、普請方諸役三百廿人、大宮司草野陸奥守源鎮光、復姓して後藤原となる、草野宗瓔迄二十八代の元祖なり、往古は社僧領一萬石、大宮司領一萬石、下社官十八人大宮司より扶持す。其後草野威勢強くして一圓に所領となり、社僧法印・政所坊。宮路坊・御燈坊・御供坊・轉法院を始めとして草野家よりの賄となる。草野氏は鏡宮並に無怨寺宮の大宮司なり、戦国の役に戦敗して、今は僅に社僧二坊、社司二人とならぬ。

  社記曰

 鏡大明神者、人皇十五代神功皇后息長足姫尊也、往昔三韓征伐出御之砌於鏡山、皇后捧寶鏡、自祈誓天神地祇、而安置寶鏡于當山、依之以来號鏡山、而後奉齋今之本社也、故奉號鏡大明神、一奉称松浦明神是也、松浦郡宗廟之神社、而国史等詳明其神徳、今又不有暇枚擧、故略記之耳。

  二ノ宮記事

 松浦鏡二宮、祭神者、式家始祖参議式部卿正三位宇合之長子、太宰少貳従五位下藤原廣継朝臣神霊也、朝臣有故違天聴、為官兵終敗績、而自辭世矣。後蒙天皇之赦使、基霊魂鎮座於茲地、于時吉備大臣承勅而来、奉齋祭朝臣于鏡廟二宮也、猶由緒委子續日本紀及諸記事焉、故今又不贅於此矣、後奈良院天文二年、奉勅、奉称大明神、則並祭於鏡廟宮、而尊號松浦二宮大明神是也矣。

 同別縁起

 鏡大明神一之宮

 當社者、神功皇后御鏡を納め給ひし宮殿なり、皇后の御父は息長宿彌と称し奉る、其の姫は息長足姪と申奉りし姫宮にてわたらせ給ふ、開化皇帝の御曾孫仲哀天皇の御后にて、八幡大神の御母后なり、筑前国香椎宮に鎮座します、庚辰九年二月六日に、仲哀天皇香椎にて崩じ給ひしより、武内宿彌と議談ましまして、皇后則ち長門国豊浦の宮におくり祭り奉り給ひぬ、同三月八日皇后大臣武内宿彌と、新羅を討ち随へ給はんことを計らせ給ひ、筑後国山門縣より、肥前国玉島に行かせ給ふと、日本紀に出てたり。

 抑神功皇后は先に天皇の神の教によらず。早く崩ぜさせ給ひしことを深く歎かせ給ひ、今は唯神の教に従ひて、賊の国を求めんと思召し、群臣百寮に命じて、罪をはらひ過を改めて、更に齋宮を小山田村に造らせらる、是香椎村に隣れるところ山田の里に、往古より神功皇后を祭れる跡とて残れり、其の横へ廣大にして、今猶小社存す、其の社内にあまさかるむかつ姫命健布津神・事代主命・表筒男・中筒男・底筒男の大神をも祭れり、九月九日と十一月六日祭禮にて、其外三月朔日より七日まで、祠官等宮籠して、天下泰平異賊降伏の御祈祷を申奉る、其邊を聖母屋敷といふ、是則ち齋宮の故跡なり。九月九日の祭日は、肥前国松浦にて御鏡を納め給ひ、天神地祗に祈誓をなし給ふ日なり、今其の鏡大明神の霊地なり、比の時天神地祗奇瑞を顯はし給ひ、異国降伏のしるしを得させ給ふにより、末世の今までも、九月九日の祭禮怠ることなし、其後筑前国山田村に此の祭禮を移せり。又三月朔日より同七日まで、山田村に祠官宮籠しけるは、神功皇后の七ケ日を撰び給ひ 齋宮にいりこもらせ給ひ、御自ら祭主となり給ふ、武内宿彌に命じて琴を弾ぜしめ、中臣の烏賊津の使を召て番神とし給ひ。同年三月二十日層増岐野に至り、羽白熊鷲を討せ給ひ、此の山門縣より、肥前国松浦潟に至り給ふと、諸記に出でたり、今も筑後より直に松浦へ行く道あり、筑前国田島七隈の北を通りて、姪の濱の南に出で、山戸村の北を過ぎて、生ノ松原に出づる、太閤秀吉公も此の道皇后の吉例に任せて、糟屋郡の内を通り給ひしなり、其の時の茶店の跡とて今も残れり、是皆皇后の御跡を尋ね給ひし道筋なり。

 此處より皇后同四月三日に、肥前国松浦郡玉島川に来り給ひ、こがねの釣を御自ら曲げさせられ裳の糸をぬきて釣糸とし、進食の飯粒を餌として、此の川に投じ、三韓征伐の吉兆を試み給ふに、細鱗魚を得給ふによりて、此の川の鮎金色にして唇余所の鮎に異なり、日本第一鮎の名産となれり此の川水清潔なれば、垢離し給ひて天に向はせられ三韓征伐の祈願を籠め給ふ、其の時此の峰に寶を上げ給ひ、天を拜し給ふに、寶瓊より光を放ち西の方へ輝きしより、此處を瓊島と名付け給ふ、其の流れの裾を玉島の小川といへり、今神功皇后の宮殿の所にて進食し給ふ、爰におゐて皇后みづから針を曲げさせられ、川中の石の上に上らせられ、釣糸を投げ給ひて細鱗魚を得給ひ、めづらものと宣ふ、故に其處をめづらの里と名付く、後に訛りて松浦の郡といへり、一郡の發る所のもとなり。この玉島の野は、恰土郡と松浦郡との境より半里許り南なり、玉島川其の前に流れ、一筋は平原村より出づる小川なり、又七山より流るゝ一筋は川水ふとし、淵上村に落ちて両川一筋になりて海へ入るなり、小川の邊に玉島社あり、神功皇后を祭れる宮なり、川中に釣し給ひし所あるなり、其の始は淵なりしが洪水に砂石埋れて浅くなりぬ、其處に方三尺ばかりなる石あり、是れなん皇后給ふ石なりしと云へり、共に埋れり、又土井侯唐津城主たりし時、御立石といふ御札の立ちしなり、右の石を紫臺石といへり、山上憶良の歌萬葉集第五巻に出でたり。時に皇后此の川水清潔なればとて、御ぐしをすまさせられ、天に向て宣はく、朕神祗の教を請ひ、皇祖の霊を蒙り、滄海を渉りてみづから西を征せんと思ふ、是を以て今髪を水中に濯ぐ若し験あらば、此の髪自ら分れてひらけと宣ひて、河水に浸して濯ぎ給ふに、御ぐしおのづから左右に別れぬ、其まゞ干させられ、御髪を左右に結び別けさせられ、同四月四日今の鏡山の麓に出でさせられて、則假宮を建てさせらる、群臣に宣ひけるは、それ軍を發し衆を動すは、国の大事なり、国のために安危成敗必爰にあり、今征伐のことを以て群臣にさづけんに、もし事ならずば罪群臣にあらん、是甚いたまし、故に朕婦女にして又不肖なりといへども、暫く男貌をかりて強て謀を發し、上は神祇の霊護を蒙り、下は群臣の助功に依て、兵を調へ波浪を渉り、船を發し賊の国を平らげん事を求む、若し事成らば群臣ともに功有らん、又事成らずんば朕ひとり罪あらん、それ是れ共に謀へと宣ひしに、群臣皆申さく、皇后天下の為にはかりまし、国家を安くせさせ給ふ所なりとて、頓て詔を承る、秋九月九日勅令を下し、御姿を移し給ひし御鏡を納給ひ、天神地祇に祷り給ふ所、今の鏡大明神の霊地なり。暫く此處にましまし、諸国に詔命を下し船を集め兵練を成し給ふに、軍つとひかたし、皇后宣く是必神の御心ならんとて、則ち濱邊にわたらせ給ひ潮をむすぼせられ、天に向ひ祷り給ふ、其の跡今唐津大明神の霊地なり、此の事唐津宮の記に委し。

 皇后それより手配を定め給ひ、賊の国をさして征せんと、道すがら悦び指さし給ふ所を指(サシ)村と名付けぬ、方今佐志の二字とはなりぬ、皇后は住吉大明神の顕れ給ふ島ありければ、此の島へ渡らせ給ひ、皇后自ら斧鉞を持ちて三軍に令し給ひ、金鼓節なく旌旗乱れなば兵則ち調はじ、財を貪り欲を含み、私を懐き内顧せば、必敵のために淨囚と成らんと、軍神を祭り、宴を催し給ひ、かはらけを流されし所を土器崎とは申すなり。則ち惣軍勢を揃へさせ給ひ、和珥ノ津より御船に召れしなり和珥ノ津は今の湊浦の濱なり、此處を往古はみあへのわに津といひし由、此時諸軍勢首途の鬨の聲を揚げしに、玄海すさまじく鳴動せしより、響灘とはいへり、それより壹岐島へ渡り給ひて、新羅国も程近しと聞し召され、此處異賊に勝つもとと宣ひしにより、勝本と號けゝり、又御船を進めさせられ、對州に着岸在せられ、下縣郡豆酸(ツツ)村の南の出岬に着せられ、批處へ假宮を建て暫くおはしけるに、御船中よりして、少し御産の御催し在らせければ、陸に上らせられ、産期の延んことをいのらせ給ふ、其處り石、今も對州府中の西の山下に在り、此の石地上に出づること六尺、又地中に在ること至て探し、方一尺三寸にして、柱の立てるが如し、既にして荒岬をさし招き、軍の先鋒其敵少きとも侮ることなかれ、敵多くとも屈することなかれ、奸暴をば赦すことなかれ、戦勝者は賞せん、背き走らん者は罪せんと宣ひて、既にして又神教に宣はく、和魂(ニギタマ)は皇后の玉體にしたがひて守護せん、荒魂は先鋒として軍船を導んと、虚空に響けるを聞きなせり、皇后則ち天神の教を請ひて拜禮し給ひ、依て依網吾彦男垂(ヨサミノマビコヲタリ)を以て神主として、祭らせしめ給ふ、此の神は則ち住吉大明神なり、荒魂は陽霊、和魂は陰霊、和は玉體を守護し、荒は先鋒として破るの意なり、此時皇后應神天皇を胎ませ給ひ、御腹大にして御鎧の脇合はざりしかば、武内宿彌御鎧の草摺を切りて、御脇腹に當て申されたり、夫れより鎧の脇楯は始まれり、又皇后の御宇に、多羅樹の眞弓、蟇目の鏑矢を持給ふ、弓をみたらしと云ふこと是より始まれり。皇后此島にて三韓征伐の評議ましませし所を評定石と號く、此島に三日三夜天を拜し給ひてまどろませ給ふ、御夢中に諸神顕れたまひ、岩が先(ハナ)に弓を張り給ふと見給ひければ、その夜弦音夥く響きぬ、此時諸軍勢其の岩ばなに弓をあてはりぬ、三韓の方へ弦音を響かせられし所を弓石と號け、末世の今までも一たび天下に変ある時は此の石缺ると云ひ傳ふ。此島に香椎・住吉・諏訪の三神を祭れり、往古より年に二夜の通夜今に懈らず、其夜は何とやら物騒敷く、暁に至り静りぬ、此處に軍神を集て、豊ノ明りをたまふ故に、神集島と號す。

 時に吾瓮の海士人烏磨と云ふ者をして西の海に出して国有りやと見せしめ給ふに、晴曇を考へて帰り来り、西に国見えずと訴ふ、吾瓮は今の湊浦なり、又名草の海士人へ見せ給ふに、西北の方に山あり、帯雲横たはる疑ふらくは国有らんと申上しかは、則ち吉日を撰びて、出陣の日を定め給ふとかや、此の名草は今の名護屋なり、既に首途の酒宴をなし、和魂を請ふて御船の鎮として、十月三日賊の国に赴かせ給ふ、此の時まづ満珠を海に入れ給ひしかば、潮遠く新羅国中に及べり、新羅王驚き恐れて其の罪を謝せしかば、又乾珠を入れて新羅を救はせ給ふ。釋日本紀には新羅王、宮庭に満つと見えたり、三韓を随へ帰朝の時も、和珥ノ津より上らせらるゝに、神集島を見渡し給ひ、天神地祇を拜して士卒に至るまで、各勝軍を相賀せよと宣ひしにより、其處を相賀(アフカ)と號けたり。又賊の国を征せんと、彼方をさし給ひし吉兆なればとて、此處へ御鋒を納め給ひ、これ則ち佐志八幡大神なり、夫よりぬれたる衣を干し給ひし山を衣千山と號け、其の山を下らせられ諸神を祭り給ひし濱邊に出でさせられ、御自ら御秡し給ひしところ、今唐津大明神の霊地なり、委くは其所々の記に出でたり、仍て略之。

  鏡大明神二ノ宮

 當社は、藤原廣嗣公の神霊を崇敬し奉りしなり、天平四壬辛年太宰少貳に任じ給ひ、筑紫にくだり給ひぬ、此の君は藤原宇信の御子にして、博識に有らせ給ふにより、諸人是を猜みまゐらせ、吉備大臣・玄昉僧正等讒言して、今廣嗣九州四国の軍勢を催して、都に攻め上るよし注進頻りなりと奏聞す、此の故に大伴古麿をして實否を正さしめ給ふ、是れもとより吉備・玄昉に合體してありけ

れば、さまざまの悪評を奏聞す。皇帝此の上は朝敵退治せずんばあるべからずと、伊勢太神宮に奉幣使を立て、諸所の関所を堅めさせ、官軍の用意をぞなさしめ給ふ、又婆羅門僧正に朝敵退治の調伏を命じ給ふ、玄昉僧正これを承つて修行す。則ち天平十二庚申年按察使鎮守府将軍大野東人を大将軍として、下道眞備等筑前国遠珂郡板櫃川にて、一戦し給ひけれども、官軍追々勢重く、廣嗣公敗軍し給ひ、肥前国松浦郡長野の原にて、又烈しく防戦し給ひけれども、勝利を得給はず、龍馬に鞭を當てひとつの峯を飛び越え、山道をつたはられ假屋浦に出で姶ふ、官軍御跡を慕ひ奉れども、更に其の御行衛を知らず。爰に廣嗣公の忠臣に中部多といふ者、長野の原に踏み留り、廣嗣公の御烏帽子を戴き、手痛く戦ふて深手を負ひ、太刀の切先をくはへて討死にす、其首咽の内より吹き切って空に飛び上り、赤き鏡と化して官軍を殺すこと夥し、其の霊日夜に飛行して、見るもの多く死せり、此の故に官軍進むこと能はず軍を引きしなり。廣嗣公侫人の讒言によって、一旦朝敵の汚名をとり給ひけれども、終に肥前国の鎮守と尊崇し奉ること、暁の雲の顕るるが如く、奈良の僧正玄肪等勅命を蒙り、調伏すと聞し召れて止むことを得給はず、反逆の気起り給ひ、伯父君房前公いさめ給ふと雖も、早露顯して天聴に達しければ、一卜先づ三韓に到りて、討手を防がんと思し召れしに、忠臣の中部が霊立ちふさがりて、落しまゐらせしに依て、安々と落延び給ひぬ。

 又御持病に御脳痛ましますにより、此處に假屋を建て漁夫ども介抱し奉り、御脳痛ゆゑに物音を禁じて、静に労り奉りしなり、三日を経て御快くならせられ、それより漁夫どもに御暇を給はり、龍馬を率きよせ乗り給ひ、島傳ひに渡り給はんとて、海に乗り入れ給ふに、龍馬一歩も進まず、比の時龍馬の平首を落して.是を挟み、浮木に跨り海上にうかみ給ひぬ、舎人なるもの龍馬の骸を埋み、其處に自殺す、漁夫どもは廣嗣公を招き奉りけれども、風波荒くして沖へ出で給ひ、程なく茅原ケ浦に着き給ひぬ、此の浦のものども集りて、焼火にあて滲らせり、後年是を焼火の翁とて末社の一に列せり、然るに廣嗣公租不例にしてなやませ給ふにより、介抱し奉りけれども、終に天平九丁丑年十月十五日薨じ給ひぬ、其の夜其處のものに御告夢ありけるは、此處に金胎両部の地をしつらひ、我廟としたらんには、末世永く守護神と成るべしとなり、各夢覚めて不思議に思ひ、則ち其處に葬り奉り御廟とせり。

 かゝるところに再び官軍数千騎を引率して、此處に来りぬ、ところの者ども委しく其の趣を演説しければ、其の陣を引き拂ひて都へ登り、上表しければ、帝叡慮を安んじ給ひぬ、後此處に一宇を建立して茅原寺と號す。其の時この大村を茅原ケ浦といへり、今の大村田原は入江にて大船も着きしとかや、さて其神霊八寸四方圓の鏡と現じたまひ、松浦山の峯より輝を放ち、皇居をなやましめ給ひぬと世に謂へり、夫れゆゑ貴僧高僧に仰せて、御祈祷ありけれども、更に其の験しなかりしなり。

 爰に又元明天皇の御宇和銅二己酉年、筑紫の観世音寺建立あり。玄昉僧正の不義顯はれで、此の筑紫に配流せられ、或時此の寺にて玄昉説法教化の折りから、俄に空かき曇り震動雷電して、高座の上にて即座に頭抜け失せたり、これ全く讒言を構へて調伏をなしたる罪、天誅なるべしと、太宰府にても専ら沙汰しけるとかや、其の頭は南都東大寺の庭に落ちたりとぞ、王城にては博士に占はせ給ふに、まさしく讒者の舌頭に依りて征伐を差し向け給ひけるを、霊魂怨敵をなすと奏しければ、則ち吉備大臣を勅使として九州へ下し給ふ、筑前国博多へ着し、此處より三拜一歩して来りけるに、尊霊神馬に跨り、歴然と顯はれ給ひければ、吉備大臣往宣なりと云ひけれども、少もひるみ給はず、白柄の長刀を携へ立ち向ひ給ふ、其の時吉備大臣往古一字の師たることを問答されしに、一字たりとも師弟の禮は黙止しがたしと、勅宣を請ひ給ふ、其の時松浦の宗廟鏡大明神と號すと、勅書を渡し三拜して去りぬ、誠に和光同塵の大慈悲世擧りて尊崇し奉りぬ。

 其の後桓武天皇の御宇鏡大明神の御社、内裏より御造営、中古又後奈良院の御宇改めて勅額を下し給ふ。社領松浦郡草野を附けられ、高二萬五千石なり、祭禮九月九日、其外小祭は毎月行はる、祭の度毎に市立つ、九月九日には日本国中、毎年一州二疋の馬を引き来りしとぞ。御社境内八町四方にして、方一里下馬下乗なり、境々の印の所を八町塚といふ。宮殿・七堂・大伽藍・惣廻廊・釋迦堂・毘沙門堂・不動愛染両明王・末社数々なり。鐘楼門・山門・二王門・一二三の華表・御供殿、普請方諸役三百廿人、大宮司草野陸奥守源鎮光復姓して後藤原となり、草野宗瓔まで二十八代の祖先なり。往古社僧領壹萬石、大宮司領壹萬石、下社官十八人、大宮司より分け宛つ、其の後草野威勢強くして、領所廣く一圓に領所と成り、社僧法印・政所坊・宮路坊・御供坊・轉法院を初めとして、草野よりの賄と成りて、領所の内を分け與ふ。草野氏は鏡宮竝に無怨寺宮の大宮司なり、是に依て増長せりとかや、今は社僧ニケ寺宮司二人なり、唐津城主侯より合力米として、宮司坊へ現米五石、御燈坊へ現米四石、社宮へ現米二石五斗宛、毎年破下之也。

  松浦古事記に出づるところ左の如し。

一、鏡大明神

 一宮  神功皇后

 一宮  太宰正二位藤原敦諸公

         神主  草野宗瓔

            下社家十家、都て田数百廿町。

一、人皇五十代桓武天皇御宇延暦三甲子年御寄進有之也。

一、日本国諸大名より馬市有之(但九月一ケ月中なり)。

一、従今上皇帝御武運長久、御祈念御勅命有之也。

一、紺紙金泥法華経七十巻、同金剛経拾不願六十巻、右何れも唐本也、好政公よう御寄進有之也(好政公は波多伊勢守也)。

一、御供米三百石、従波多氏御寄進也、神主草野京瓔大村鬼ケ城主二萬五千石。

一、御社七堂大伽藍(東金堂本尊毘沙門天。西金堂本尊薬師如来)。

一、彌勒堂、十一間四面但茅葺也、神楽堂・法華経堂・同断。

一、宮師坊・御燈坊、古二ケ寺内にあり。

一、諸寺院、百二十三ヶ所 天台宗。

安永寺、上野坊、安国寺、松前坊、長永寺、駿河坊、安慶寺、津軽坊、妙音寺、上総坊、瀧清坊、下野坊、安膳寺、肥前坊、清香坊、安藤坊、永蓮寺、彦根坊、蓮昌坊、白河坊、松大泉寺、石見坊、圓命寺、常陸坊、海金坊、大隅坊、相林寺、美作坊、相迎寺、越前坊、昌蓮寺、伊賀坊、金剛院、土佐坊、助法院、讃岐坊、昌秀院、備後坊、南西院、大澄坊、眞光院、豊前坊、法昌坊、筑後坊、東方院、肥後坊、西連寺、伊豆坊、永道寺、播摩坊、相命寺、阿波坊、龍光寺、佐渡坊、迎蓮寺、伊豫坊、源龍寺、越後男、松岡寺、大和坊、金清坊、伊勢坊、了圓寺、長房坊、覚林寺、武蔵坊、昌命坊、若狭坊、湯永寺、信濃坊、秀用寺、金剛坊、妙昌寺、加賀坊、妙眞寺、西入寺、度陽寺、参河坊、大昌寺、眞得坊、迎覚寺、淡路坊、正西寺、美濃坊、大覚寺、出羽坊、天得寺、西蓮寺、香清寺、近江坊、法林寺、迎月坊、秀妙寺、越中坊、寶昌寺、千林坊、昌山寺、覚入坊、林濃寺、慶眞坊、得昌寺、眞入坊、妙楽寺、法慶坊、金剛寺、入法坊、長床坊、長久院、昌林寺、室山寺、長松院、林政院、西月院、光清院、南光坊、源服院、東光院、明政院、林松院、寶蔵院、天得院、正得院、月心院、實相院、圓林院、迎泉院、林員院、松昌院、得林院、寶泉院、圓光院、米松軒、光月院、龍白院、大政院、秀昌院、久光院、圓覚院、来迎院、妙音院、観音院、大寶院、金蔵院、法尊院、永久院、世薬院、法迎院、寶徳院、月光院、妙法院、昌尊院。

 右者法頭坊、田教十町、光三千石、六石宛現米也。

  同二之堂別記

 河海抄云、廣嗣叛於西府、於是勅大野東人為大将軍、率官兵討之、時廣嗣不利、自抜刀斬首、飛升空蹶移官軍、其霊化為赤鏡見者多死、今肥前国松浦郡鏡明神是也。

 天文年中後奈良院より大明神之號を下し給ふこと也、社頭の額に有之其宣旨曰、

 宗源 宣旨、

 鏡尊廟宮 肥前国松浦郡

 宜授大明神號者

 右依

 今上皇帝 聖勅 神宣 御表之神璽如件。

 天文十二年六月廿七日神部任波宿彌奉神祇官領長上卜部朝臣

 八、天山宮  厳木村字廣瀬

 祭神 安御中主尊、稚産霊(ワカムスビ)尊、倉稲魂(タライナダマ)尊

  天山嶽之麓小域郡二社、松浦郡一社在嶽之良 祭日十一月二日

  記事曰

 抑人王四十一代持統天皇御宇、来舶于鎮西、對馬将擴異国風俗焉、因茲参議藤原安弘、蒙勅命退治之、于時天皇賞其功、賜晴気里焉、民人慕安弘之徳来集、住于天山之下、於是祠天御中主尊於天山之嶺、為庶民擁護、祈五穀禮饒有歳、然後、文武天皇大寶元年辛丑歳十一月十五日、廣瀬本山、岩蔵上、由是安弘又勤請天御中主尊、於是三所以曰天山宮、在其巓號上官、其下號下宮云々。

   本社棟札曰

 永禄三年庚申十一月二十三日

     當地頭   波多大方

             同 藤童丸

             鶴田兵庫介源前

 祭器

唐銅十二大 同百二十小

右、大の方十器の銘に曰く、

 上松捕廣瀬天山宮 寶徳元年十一月 日  道源置之

右大の方二器の銘に日く、

 鶴田上総介源賢 天正十六年戊子六月吉日

右小なる方百二十器は無銘

 鳥居の銘に曰く、

天正十六年戊子吉旦 願主鶴田上総介源賢

 末社

 八幡宮 黒尾大明神

吉田殿配下 杜司三元十八神道宮原土佐正藤原親信 小城本山社司の説。

松浦郡廣瀬村天山宮と小城郡本山天山宮は其起原同じ。

天御中主命、宇賀(ウガ)ノ魂(ミタマ)ノ命(ミコト)、稚産魂命(ワカムスビノミコト)。

 此の三神を天山宮と称し奉るなり、文武天皇大寶二年小城郡本山と松浦郡廣瀬と右二ヶ所に奉祀するものなり。

 俗に辨財天と称するは非なり、天山嶽に辨財天を祠れる社あり、故に誤て之を唱ふるものなり。

 黒尾大明神

 右は末社なり、参誌正三位民部内大臣藤原安弘これにして、天山宮の社司の祖なり、即ち房前公の諱なり、是れ藤原姓の祖とする神なり、天平神護元乙巳年勅宣を蒙り、安弘公を以て黒尾大明神と為すなり。

九、熊野權現 厳木村字牧瀬

 祭神 速玉三男、泉津奉事之男(ヨモツコトサカノヲ)、伊弉冉(イザナミ)尊

   祭日 十一月八日

 比の社は往昔、この地邊の山野修験者の行場なりし時、安置せし社といひ傳ふ、今に牧瀬地方の産神と称して祭り奉る、この邊に山伏岳(玉女平とも云)、金剛山(金剛平とも云)金烏山(鳥羽山とも云)、萬象山・作禮岳等皆行場と云ふ、其の外五ケ山・七山にかけ平原村河上山熊野權現社に至て、其の遺跡といひ傳ふ、河上山は役ノ小角の二代の後なる義學修験の勸請と云ふ、宮記にあり。

 一〇、大山積大明神 一に三島大明神と彌す

                    厳木村字浦河内

 祭神 大山祇(オホヤマヅミ)命

  祭日 十一月十五日

  社殿上棟記

 維此神殿、上棟下宇再建既成矣、伏惟、鎮産于豫州越智郡三島・攝州島上郡之島・豆州加茂郡三島以上三州、而称三島大明神者是也。伊豆神社者、古昔、崇峻天皇庚戌年開社祀。攝津神社亦鎮座于州之三島江、有由来曰、伊豫神社者、仁明天皇之朝、初祀之、嘗太宰大貳佐理卿、自鎮西帰京師、到于豫州越智郡、書神門之扁、其文曰、日本総鎮守大山積大明神、是乃、所以仰神徳拜尊称者也、所謂保某社稷、和其民人、始原是也。謹考、勸請其神霊於此地、以開社祀之基元、雖未分明、然有村落、則必本社稷、蓋此地之由来也。閲松浦黨之家系、正暦庚寅、源五渡邊綱、属于将軍源頼光、初来居於西肥松浦、所謂松黨之創業是也、至于其筒波多親侯、文禄甲午之世変、星霜六百有五年、以傳其采地矣、社邊之地名、曰山加美、而人家田圃、亦若干在于此中、則有由来久焉。按崇祠之基源、當在于其以前矣、是乃有村落、則本社稷故也、同乙未、寺澤志州侯、移封于松浦、爾後二百三十七年、前後星霜都至于八百四十有二年也、崇祀其以前、則不可考焉、侯治此邑、検耕地、定貢税、此事乃在于元和丙辰、田圓之簿籍、土俗之口碑、以山加美為地號者、是亦足知當時社祠之基原矣、夫自寶永丁亥之再建以来、纔一百十有五年、而社殿破損、故得卜兆之吉、復以欲経営之、蓋此地、閲三十三年来、村民殖益、凡至于八十口、私顧是偏、所以神明之降福地、豈不仰平、亦不敬乎、于時天保二年辛卯四月二十有一日、神殿成焉、同九月神楽殿亦成焉、匠工*(倨-古+子子子)功、忽奏上棟祝詞矣、恭惟、農夫誠心、常希下民之蕃息、仰請神慮、伏額多福、以之記之。社司宮原土佐正親信、謹讀祝、村中産子謹承事、匠工篠原新蔵、嗣子新吾、助工井上萬吾・井上甚吾、小工篠原分右衛門・井上良四郎、石垣加茂茂平・篠原米作・加茂重助・岸川彌三郎等助之、以全成矣。

          村正  秀島義剛謹述之

          嗣子  同 義道扶助之

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