東松浦郡史 ④

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

  其四 陣ノ山の戦 (久里村字壱岐佐)

 延元元年(紀元一九九六)足利尊氏九州に敗走せしとき、筑前国宗像大宮司氏俊眞先に附随し、尊氏を城門に請じ、九州の諸士に檄を飛ばしけるに、鬼子嶽城主松浦源三郎繁惟へらく、天地覆載の間大君の地にあらずと云ふことなし、人として天恩を知らずんば畜類とことなることなしとて、意大に決し、一戦して利を得ずんば城を枕に討ち死にすべしと、味方すべき気色をも見せざりければ、一統の中より下松浦勢追々馳せ集り尊氏に降服す。また人ありて尊氏に告げけるに、松浦繁は菊地に力を合せ内通のよし、小身といへども松浦黨の長である、これを降服せしめずんば、必ず後の悔あらんと、尊氏これを容れて原田山城守をして味方に附随せんことを説かしむれども、更に肯ずべき景色見えざれば尊氏大に怒りて、誰かある彼を踏み潰して諸士への見せしめにせんものと、尊氏の甥満輔進み出で願くば我を向はしめよと、尊氏悦んでこれを諾す。直ちに軍勢を進めて大川端なる伊岐佐村に陣を張る、鬼子嶽はもとより思ひ儲けしことなれば、手配を定めて出で向ひ、最初矢合せとして、後両軍飛び交ひ入り乱れて奮戦し、日既に暮れ落ちたれば、双方陣を引きたり。翌朝未明より押寄せんと、夜の明くるを待ちければ、松浦黨の内より和議を提唱し、味方に参ぜんとてまうし出でたれば、尊氏大に悦び迎へたり。これより波多氏は北朝方となる。其の一日の戦に双方の戦死七十五人、其の陣跡を陣ノ山といふ、また其の山麓の田原を軍場といふ、今に其の地名として存して居る(松浦記集成)

  其五 獅子ケ城(厳木村字岩屋)

 當城はもと治承より文治の間(大約七百年前)、松浦丹後少将源披公初めて此処に築き居城となす、其の後裔平戸に移りて後は古城となった。少将の墳墓は城北浪瀬(厳木村内)にあり。又元亀天正の間(約三百五十年前)郡の日張城(川西にあり)の主鶴田因幡守は、鬼子岳城波多家の別家たりしが、佐賀城主龍造寺の強勢を恐れ、波多氏の東口の警固大事なりと、鶴田の家弟越前守前、強勇なるが故に、是を以て獅子ケ城を再興して、越前守に勢を附して守備せしむ。其の子上総介賢の時に至り、即ち天正の始めつ頃龍造寺と交戦して敗れて降服せり。(松浦記集成) 肥陽軍記には、龍造寺に降りしは鶴田越前守とす、松浦記集成には其の子上総介なりとす、何れか眞なるや明ならざれど、或は父子同時に降りて其の一方の名を記せしものにや。

    城 廓

 本丸(三百坪、山ノ口より大手迄九町、御番所より本丸迄十八町)

 二ノ丸(百八十坪、大手より本丸迄二町、往還の通より御番所迄三町)

 三ノ丸(九百坪、山ノ口より本丸迄十一町)

  其六 波多家没落の次第

 太閤秀吉、肥前名護屋城下向の折、博多津にて九州の諸侯伯何れも出で迎へをなせしに、波多三河守遅参につき、太閤其の次第を下問ありしに、鍋島加賀守體よく波多三河儀は自分旗下の者なれば、かく自分御目見えまうす上は、仔細あるにあらずとて申し上げけるに、其の節は其の儘に捨て置かれしが、頓て三河守到着して早速御機嫌を伺へるに、何の御意もなく手持ち無沙汰に退出した。

 其の後名護屋城に於て、浅野弾正少弼・石田治部少輔などをたよりて、首尾を繕ひけれども、終に単独接見のこともなく、朝鮮役帰国の上可然御沙汰あるべき旨仰せ渡されたり。これ全く太閤が名護屋隣国の大小名改易の上、名護屋城を寺澤志摩守へ給はり、朝鮮警固の任に當らしめ、没収地を悉く宛て行はるべきの思召である。この寺澤志摩守事幼名を仲治郎といひし時より、御側近く召仕はれ、其の器量執權をも勤めかねまじき者と思召しての事である。斯くて三河守鎮(後に親と改む)は、旗本一統に朝鮮進発の手配を命じて、先陣小西攝津守・加藤主計守に続て船を出さんとて、また旗本有浦大和守・値賀伊勢守を當地案内のため名護屋城に残留せしめ、其の身は二千騎にで朝鮮へ出発す。松浦刑部法印・大村新八郎・五島若狭守下松浦黨三族の家は別旗に備へたり。松浦黨渡海、一番に三河守朝鮮国順天山まで攻め入り、此処彼処にて敵を多く討ち取り、味方も過半討ち死にして、朝鮮に於ての勲功は十分にして、帰陣の後は御感状にも預るべきと、一統勇み進みて働きける。

 さて名護屋城には秀吉公在陣の徒然に、さまざまの御慰み別て茶の湯を好ませられ、古物珍器等思び思ひに献上す。又曾呂利新左衛門といふもの、頓智にして浮世噺狂歌など上手なれば、夜話の御伽に召置かれ、或時茶器に用ゆべき異物を求めて参るべきよし仰を蒙りて、所々見廻り才覚し、筑後国久留米に出でければ、軽口物まねの上手山三郎といふ者、難波より来りて、女房諸共種々の戯れを興じけるを見て、名護屋に帰り、秀吉公に言上しければ、御城に召さるべきよしにて、彼のもの名護屋御陣営へ来り、一日右戯興を御催しありけるに、在陣の大小名貴賊小者に至るまで、見物を免させ給ひ、廣野も狭しと方百間に惣桟鋪を懸けぬ、奴僕の族は皆芝原に竝み居て見物す。この時太閤は波多参河守が妻女、路次近うして煩労も薄ければ、呼び寄せ見せばやと宣ひて、直ちに使を立て給ふ、されども夫鎮出陣の留主にて候へば、御免蒙りたき由申上げけるに、太閤思召すやう、婦人の身として出陣の留主故と断り申條、如何で女の城を守る事あらんやと、押して御使を下されければ、今は是非をく名護屋の御陣に罷り出でぬ。この参河守の妻女は龍造寺隆信の女にて、容色類なく美女の聞えありければ、太閤かゝる遊興に事寄せ、御覧ありたきの余りと聞えし。既に一日山三郎が興じける芸によって、御機嫌斜ならず、其の夜は御酒宴を催ふされ、御廣間の大庭にて山三郎に興を催させ給ひ、山三郎夫婦のものの名護屋の町に、當分滞留すべきやう御沙汰ありける、其の後も折々御慰みに召し出されしなり。

 かくて参河守妻女は御暇を請ひけれども、御尋ねの趣きこれありとて、差し控へ居るべき様仰せ出されければ、旗本家臣の女房ども腰元はしたに至るまで、その夜も名護屋の御陣に滞りける。はや翌朝になりけれども、御尋ねの沙汰なければ、其のよしを伺ひ又御暇を願ひければ、太閤仰せ出されけるは、三河守こと陰謀の聞えこれあるに依て、其の事を責め問はんがためなり、一身の謀を以て諸士を戦はしめ、其の虚に乗じて九国を呑まんと工む由、其の聞えあるに依て申し開くまで、城中に留め置くことなり、分明に申しひらきせし上、居城に差し戻し遣はすべきと、思ひ寄らざる難題を蒙り、波多の妻女は申し上ぐる詞もなく留まるところ、夫鎮の身の上にかゝる大事、御前をすべり既に覚悟を究めしかど、かゝる難渋の御問ひ申し開く事能はずして、自害せしときこえては、死しての上夫君鎮に如何様の疑ひやかゝらんと、懐剣を納め心を取り直し、御側生駒主殿介を以て又々帰宅を願ひ出でけるに、御座ノ間の御次に召し出され、御尋ねの筋もあるべき様子も見えけるが、鎮の妻以前の懐剣其まゝに懐中し居けるが、御次の敷居に落しければ、太閤見咎め給ひ、参河が妻今懐中より落したる品不審なり、これへ持ち参れとのたまひしかば、是非なく御前へ出しける、秀吉公御覧じて、女の懐剣をたしなむは其の席其の所に寄るべし、太閤が前をも憚らず懐剣を持ちし事甚だ不審なり、尋問の事は重ねて沙汰に及ぶべし、先づ居城に立ち帰り三河守着岸まで慎み居る様御憤り大方ならず、これ波多家災ひのもととぞなりぬ。

 かくて文禄三年朝鮮出勢の人数追々帰帆し、萬歳を唱ふる中に、哀むべし波多三河守鎮は順天山まで攻め入り、其の働き抜群にして敵多く討ち取り、味方も過半討ち死にし、手柄十分なりしかども、兎角に太閤憎ませられ、黒田甲斐守を召し出され、仰せ付けられけるは、波多三河守事隠謀の聞えあると雖も、其の事糺すに及ばず、彼が罪科挙げて算へがたし、殊更鍋島加賀守旗下として、大名の備へを出し諸侯に肩を竝ぶる條、屹度軍法にも行ふべきのところ、是れ又其の沙汰に及ばず、名護屋へ船を繋ぐことを禁じ、領地一圓を没収し、参州公家康に預くべきよし上意ありければ、黒田承て海上に出で迎ひ、即ち上意の趣を申し渡し、徳川家御預けになりしなり。其の後常州筑後山の麓に配流仰せ付けられ、無念なから供の侍には横田右衛門佐其の外に下部二人、主従四人にて常陸へぞ趣きける。

 偖て鬼子獄には獅子城主鶴田越前守、日在城主鶴田因幡守、黒川城主黒川左源太夫を始め、一族旗下の家臣には、佐里村江里ノ館江里長門守、法行城主久我玄蕃允、稗田ノ館に中村安芸守、重橋本城に川添監物等を始めとして、各々登城して評議区々たり、旗下の中隈崎素人進み出て曰く、抑々當家は皇孫の裔にて、永続の末地下(ヂゲ)に下り、箕田武蔵守仕六孫王経基の副将にして、権亮平純素九州に乱入せし時討手に向ひ、多田満仲と謀を専にして黒崎に追ひ戻し、是を武功の始めとして、保元・平治・壽永の源平交戦より足利将軍家に至るまで家名を貶さず、今又朝鮮国の働き諸勢の群を抜きたり。然るに太閤秀吉匹夫より経上り、官禄心のまゝにして、大日本を鎮定し、朝鮮まで随へ、其の勢に乗じ罪なき舊家の諸侯を没収し、我意を肆にして人を罪すること甚だよろしからず、某思ふ、今名護屋の陣に切り入り八方に乱入し、潔く討死せんこと武家の當然なり、各々同心たらんには城地を明け渡さぬ中、夜討ちの用意すべきなりと、血眼になつて申しける。はやり男の若者ども、主君の恨みを散ずべきの寸志なきものあらず、旗下の家臣各々浪々の身となって、何の面目に長らへんや、潔く討ち死にして主君の家名を残し、後代に名を傳へんと、心を同くして評議一決し、既に退出せんとせしところに、田代日向守暫くとさし留め、各々欝憤はさる事ながら、今名護屋の陣に押し寄せ一統討ち死にせば、敵も多勢討ち取るべし、さりながら常州にまします、三河守殿させる罪もあらざれば、赦免も遠かるまじ、今名護屋に押し寄せ乱入せば、波多家再び興る事能はずして、配所の主君にはそのたゝり忽ちに及ぶべし。然る時は忠義却て不忠となり、末々のものに至るまで妻子を育む手段もなく、猶又謀斗の便りも盡くれば、先づ御台所並に孫三郎君を佐賀表へ送り奉り、一と先づ城を明け渡し、知るべ知るべに引き退き忍びやかに會合して、謀をめぐらし配所の主君を守り奉り、一勢に旗を挙げて、其の時こそ討ち死にして名を後代に残すべしと論じけるに、過半の意向之に決しけれども、中にも井手飛騨守向三郎・畑津内記を始めとして、旗本、家ノ子二つに別れ、井手飛騨守の言葉其の理さることながら、迚も今趣意を徹さず、かくして都に攻め上らん事思ひもよらず、さすれば評議一決すとも、奇謀を用ひずしては何のせんかあらんや、某が存ずる所は、御母子君を佐賀表へ遂り奉り、名護屋の陣に忍び入り、一時に放火して焼き払ひ火焔の中にて討ち死にすべし、さすれば上一人を恨むにあらず、讒者の奴ばらまでもともに共に怨を報ふべしと。衆議百出して決せざれば、黒川左源太夫・鶴田因幡守言ひけるは、面々存じ寄りを争ふては、評定に日を費すのみにて、迚も今一統に討ち死にすとも、鎮君の為めにもならず、又時節を待って旗を挙げんと、そこ此処に忍び居るとも、其の主たる人なくしては成就しがたし、一族旗本の中より誰ぞ忍びて常州へ赴き、鎮君を守護し来り、下松浦黨を頼んで何方へぞ忍び隠し、一族旗本家臣の面々暫く士民に落ちしと見せ、孫三郎君を守り立て、一歩の元より百里の本領に立ち戻り、波多家を再興せんはいかに、誰ぞ彼の地に赴かんとする人やあると、席中見渡しけるに、遙か末座より飯田彦四郎進み出で、某願くば彼の地に赴かんと云ひければ、江里長門守、飯田一人にては叶ふまじ、某も共に行かんと両人迎への役に定まり、諸士一統これを認承す。

 是に依て三河守の妻室・子息孫三郎と佐賀表へ送り、道中の警固として八並武蔵守、馬渡五郎八両人附き添へ、佐賀城下へぞ入りにける。この事名護屋の御陣に聞え太閤怒らせられ、三河守事既に罪科相究まり流罪たりといへども、其の跡未だ沙汰せざるに、猥りに城を離散すること、三河守近親のものども始め、言語道断の曲者どもなり、近々城地裁許まで作法能く相守り、若し我意を働くものこれあるに於ては、召し捕へて罪科に行ふべきよし、木下宮内少輔承り、鶴田越前・同因幡・黒川左源太夫に上意の趣き申し渡しければ、旗本の面々迚も此の城永続すべくもあらず、火を掛け離散すべきよし牒し合せしに、太閤の厳命に依って、旗本家臣等勝手次第何方へと立ち退き、渡世致すべきよし仰せ渡され、城は寺澤志摩守へ御預けに依て、早速請け取り、城代として今井縫殿ノ介・竝河小十郎両人に、物頭一騎、馬廻十騎、足軽百人をさし添へて、城中に入れ置けり。

 夫れより旗本家臣のものども、常州へ通じて主君三河守を守護し、旗を挙ぐべきと日在城の祈祷所建福寺を會合所と定め、折々集會し評議の上手筈を究め、三河守迎へとして江里長門守・飯田彦四郎薬売りとなり、立目可朴といふ醫師の家に傳へたる、丸散の薬を調合し、道々売り行きけるに、播州姫路にて雨頻りに降りければ、町家の軒に彳みて暫く見合せ居たりしに、一僕を伴ひたる侍其の前を通りけるに、下僕が蹴掛けたるにや、手頃の石一つ水滴りにはね入り泥を打ち散らし、侍の袴にかゝりければ、この侍立ち戻り江里長門守を睨み、己れ何地のものなるや、侍の袴に泥を蹴かけ一言の免租と旦一日はず、知らず顔にて立ち休ふ鰹不屈在り、討ち捨てくれんずと袴の裾あはせを取り仕掛けければ、長門は下につくばひ毛頭私存ぜざる儀にて候も、私あやまち仕候様御目に留り候はば、何分にも御免蒙り度きよし断りを云ひけれども、この侍一向聴き入れず、己が泥足にて蹴かけ此方より咎められ、今更御免あれよなどゝ人を侮りたる申條、了簡相ならずと究め附けゝれば、飯田彦四郎進み出で、此は御侍の御言葉とも覚えず、私同行のもの自分が身に麁粗なけれども、所詮面倒と存じ余人の科を引き請け、斯く断り申すことをも御聴き入れなく、御手討ちなさるとの思召是非に及ばず、同道の不肖に候まゝ私御相手に罷り成るべしと、脇差の柄に手を懸くれば、長門は彦四郎を押し留め。先づ暫く待たれよ、御覧の通りの乱心者に候故、何分御免下さるべしと只管断りを云ひければ、彦四郎赤面していかなれば某を乱心者にはせしぞ。是非相手にならん覚悟あるべしと言ひ寄るを、長門漸くなだめ御供衆も御聞きの通り、私一人の身にせまりたり、宜敷旦那へ御執り成し下さるべしと、さまざま詫びければ、この侍も彦四郎に辟易して、重ねて侍にかやうの無礼致すまじ、此の節は差し許すと云ひ捨て先に通りければ、彦四部歯噛みをなし憎き今の青侍ぶち据ゑて呉れんずものを、余りに長門殿の謙遜故側よりはがゆく存じて、某憤りたりといひければ、長門聴て左も思はるゝは尤もなり、さりながら彼等如き者何ぞ相手に取るに足らん、若し双方云ひ募り引かれぬ時宜に及ぶ時は、身命も果すべきが、元某どもが旅行といへば、鎮公の御迎として一族旗下多き中より、両人望み出でし事なれば、途中にて過ちある時は、一統の手筈も違い、配所の主君を救ひまゐらす事も叶はず、この役目を空しくなしなば、何の面目に生きて国元へ帰るべき、切腹して犬死にせば猶さら屍の上の恥辱なりと、無念を堪へて詫びたる心体如何あらんと思はるぞ、膽も臓腑も一時に絞るばかりに思ひしなり、只今の侍も貴殿の勇気にひしがれて早く逃げしは、三人ながらの仕合と打ち笑みければ、彦四郎も之を悟りて、堪忍は智の用と今こそ思ひ出でられたり、某も唯一旦の勇気にて是非の辨へ更になし、短才浅慮耻ぢ入りぬと話しけるうち、雨も止みければ配所へと心せかれて、急ぎ行く程に常州に着きにければ、君の在所を尋ぬるに、些末なる茅屋に主従四人哀れなるわび住居、見るもいぶせき有様にて、三河守は書籍を閲し、右衛門ノ佐は御側に付き居たり。両人の入来を右衛門ノ佐より三河守に取り次ぎければ、其の悦び大方ならず、厚く両人を労らひ、只管故郷のこと懐かしく、孫三郎を初めとして一族郎黨に至るまで、如何に過ぐすやらんとて朝暮忘るゝ間もなく、殊更船中より直ちに此の地に来りしことなれば、何事も心に任せざりきと細々と尋ね問はれける。長門彦四郎申しけるは我々両人参りし事、御一族を始めとして、御家中末々に至るまで、君を供奉して立ち帰り何方へか忍ばせ奉り、時節を見合せ旗を挙げ、波多家を再興せんものをとの念願に依て、両人御迎へのため参り候なり、然れどもこのまゝ配所を落ち給ひなば、太閤の疑ひもあるぺければ、尋ね探すは必定なり、如何してこの難を遁れ出づべきやと、評定一決せざりしに、長門いひけるは、一先づ都に飛脚を立て、三河事病歿せし由を訴へ、筑波山の麓に石碑を立て置き、君を供奉して九州に下るべしと、其の用意を営み、慶長二年四月(紀元二二五七)に、其の趣きを伏見の御城に訴へしに、太閤同年八月十六日に薨じ給ひしかば、常陸国には何の御調べの沙汰もなく、御聞き届けのまゝなりけるが、かくて帰国の用意をなし、主従六人同年霜月上旬常州を出で立たれしも、烈しき嵐に菅笠を傾け、凌ぎかたなき其の有様、附き随ふ者どもまで心を痛め、或は薬をすゝめ、或は酒店に立ち寄りて温酒の手當てなどして、其の日其の日の寒苦を避け、或は長途に足を傷め、艱難苦労の程はかりがたく、松浦黨の長者に列する一人も、時運とは言ひながら哀れなる有様いふも中々愚なる事どもなり。漸く臘月下旬古郷の松浦へ着きけれど、居城は寺澤氏の預りとなり、一族旗下も散り散りに住居も未だ定まらねば、忍び隠るゝ所もなし、されども一族の其中に、鶴田太郎左衛門尉といふ者あり、波多家累代の臣といへども、格別の仔細あって、松浦残黨の押への役なれば、太郎左衛門も遠慮して某が館に永く忍び給ふては却て御為に成り難し、某が寸忠も心置かれて自由ならず、これ全く私の歓楽の私慾にあらず、波多家再興の便りにもと、面白からぬ厳命を蒙り、此処に住せしなり、大浦播磨守が隠宅こそ屈竟の閑所なり、これへ忍びましませと、其の旨大浦播磨守が方に使をはせしに、播磨大に悦び人の出入を差し留めて、その隠宅に忍び参らせしに、又此も寺澤領主より吟味強く、松浦残黨の者ども一々其の身分の渡世、委敷書き付け差し出すべしと、若し隠し置き叛謀を企つるに於ては、其の者は勿論一類縁者に至るまで、残らず罪科に行ふべきよし五奉行よりの沙汰ある條、其の心得にて一々改め、他国へ離散致すとも残らず申し出づべしと、三人組の吟味役諸方へ巡視しけるにより、隠れ忍ばんやうなく、それより下松浦の御厨に遁れ、御厨四郎治郎の宅に忍び居ける。

 偖て佐賀にては内室始め孫三郎、常州より鎮公落ち延び給ひし事風の便りにも知らせられざる事なれば、遠きあづまに如何おはすらんと、日々案じ暮しけるが、何時となく孫三郎病に臥し、夢となく現となく居城に帰りて父君に逢ひ奉らんとばかりいひ、外に何事もいふことなく終に玉の緒絶えければ、母儀の歎きやるかたなく、自ら故に夫君三河守殿も太閤の非道に落され、遠国に流され、栄花の夢も一時に亡び、寒暑の凌ぎも如何ばかり不自由におはすらんと、歎きに歎きいやまして、嫡子孫三郎も死しければ、何を頼みに永らへんと、積る事ども書き残し、三十二歳の暁を待たず自害して果てられたり。内室操節正しく愛隣の情深く、殊更容色類ひなき美貌にてありしが、一族旗下は言ふに及ばず、聞く人哀を催し袖を絞らぬはなかりけり、謚して、常室妙安大姉と、則ち佐賀城下に葬り、一宇を建て妙安寺と號し、其の土地を妙安寺小路といへり。

 三河守鎮君は常州より逃れ帰り所々に忍び居けるが、一族等も逸散し、内室及び孫三郎もはかなく戚りぬれば、何を頼みともあらざれども、一族旗下の義心を思び、臣下の忠節を捨て難く、日を送り居けるが、三河守こと常州より松浦に忍び来るとの説、鶴田太郎左衛門尉に吟味を遂げ申し出づべきよし、寺澤より申し付け候へば、御大事に候と御厨ノ館へ杵島權太郎より告げ来れば、三河守も斯くまで武運盡きぬれば、ながらへて何かせん自殺し果てぬべし、人に知らしむることなく我が遺骸を隠し葬るべしと、覚悟を極めて語り出でられしに、この御詞を開くよりも、是はいひ甲斐なき御諚かな、御一族を始めとし旗下末々に至るまで、一度旗を飜し何れの城にか籠城して、運を自然に任せ潔く討ち死にし、波多家の武勇の名を後世に残すべしと、よりよりに會合して誓ひ置き候へば、先づ黒髪山か又は松浦杵島の間要害を見立て、一族旗下の諸士一同に楯籠り、敵對の色を顕はし怨を散ずべし、来る〇〇十日は伊萬里の大法寺に會合せんと、廻文を出し置き候と物語れば、三河守居直つて甲斐なき我を守り立て、我が名を揚げんとて一統の者死を極めしこと、忠義の心底頼もしく、斯くまで一決せし事を如何で粗略に思ふべき、されば討手を引き受けて、敵味方の目を驚かし、屍は戦場にさらすとも、怨霊凝って目ざす大敵讒者の奴原、根葉を枯し呉れんと、自ら檄文を認められたれば、一族郎黨末々まで大法寺に集合しける。三河守も忍びて彼の地に赴きけるに、途中俄かに病を発し一歩も動き難き悩に、如何はせんと従士もあきれ果てゝ居ける所に、三河守ふと心附きてこの伊萬里には、我が居城にありし時側近く召使ひし女あり、其心ざま貞烈にして丈夫にも劣らぬ気象あり、元此処の山伏の子たるものなりしが、後其の地の金剛坊に入嫁せり、稚き頃よりの恩誼は忘るゝことあるまじ、この坊に立ち寄りて服薬し、暫く病を養ふべしと、同坊に立ち越えしに、この女房既に夫に先だたれて、四歳になる男子一人ありけるを養育し、唯二人住みけるが、もと三河守の恩誼を蒙りければ没落をふかく悲しみ哀れはかなき家計を立て、波多家再興せんものをと、謀れる人はなきにやと女ながらも口惜しく、如何して我大恩を露ばかりも報じ奉らばやと思へる折なれば、さまざまに病苦を労りて能く介抱しけれども、次第に気分勝れさせず、會同滲會もならざれば、又御厨へぞ帰らせける。この女の由緒を尋ぬるに、波多三河守或時黒髪山に詣ふでし時、伊萬里附近の路傍に少し森の木立ちありけるに、其の陰に嬰兒の泣き音聞えければ、三河守深く怪しみ人をして見せしむるに、嬰兒を小袖に包み、錦の守り袋とまた錦の袋に入りたる守り刀を添へて、薮社の軒下に置かれたり、其の邊には一つの人影だにもあらざれば、三河守之を拾ひ上げられ金剛坊に預け、月々に扶持米を遣し置かれ、八歳に成りし時、鬼子嶽城中に召し出され、金剛坊の山伏を父親として成長しけるに、心たけく艶にやさしく操正しく、十三歳の頃より若局を勤めて、才智芸能人に勝れ、奥方の鐘愛一方ならず、何方へか嫁せしめんと思召されけれども、相應しきものもなく過ぐさせられしに、三河守不意に配流となりて常陸に赴かせければ、居城は寺澤氏の預りとなり、一族家臣浪々の身となり、奥方・嫡子も佐賀表へ引き越され、今は若局も力なくして金剛坊に還りければ、歎きの中の幸ひ、同坊に子なき故養子を求めて是に娶せ一子を儲け、其の後養子の坊も病に罹りて身まかりぬれば、その兒に坊跡を嗣がせ母子幕しけるに、後に至りて其の女の素生分明して、実は西肥前の領主西郷左衛門太夫が妾腹の出にて、懐胎四ケ月に當れるとき、西郷左衛門太夫は龍造寺隆信に、はかなくも討ち亡され、西郷一圓は龍造寺の所領となり、彳む所もあらざれば、其の妾妻も流転して、いかに運盡きぬるとも出生の女を下民の家に育てんも口惜しとて、三河守の通行を計り、道筋に捨て置きたり、この時三河守思ひけるに、その兒の身邊の装ひ常人ならざる体、よも比の邊の士民にてはあるまじ、必定西郷が由縁にもあらんかと、心付きながら知らぬ顔にて、山伏に預けられしなり。斯くて三河守御厨に引き返し、一族旗下も打ち寄って種々介抱を盡せしかど、其の甲斐もなく逝かせ給ひければ、世を憚らせらるゝ御身なれば、葬儀もいと哀れの中の憐れなる様にて、下松浦の志佐に埋葬して、はかなき跡を残されたり。されども舊領の諸寺諸山の浮屠家忍びやかに法養を修し、諡を大翁了徹大居士と號して、猶因縁深き寺々は思ひ思ひに、位牌を安置し永く忌年を弔ひける。別て清涼山浄泰寺(唐津町にあり)は永禄元年春、将軍足利義輝公の代に當つて波多家の公役に惰って上京の砌、今の本尊阿弥陀佛を横川(伊賀)の邊より申し受け、松浦郡神田村山口へ一宇を建て清涼山と號し、仏餉料田地の寄附ありし精舎となりたれば一入の法養をなす(この寺は寺澤氏の時唐津町に移せり)(松浦記集成)  

 野史には、波多三河守信時は唐津城主たり、征明の役起るに及び、信時軍に従ひ韓土に渡れり、然るに陣中怯懦情の振舞ひありたれば、文禄二年五月(紀元二二五三)太閤、福島直高をして信時を譴めしめて曰く、嘗て汝をして鍋島直茂の部下に属せしめしに、獨り熊川(釜山と馬山浦との間)に駐りて、直茂と與に倶に兵を出さゞるは、怯*(リッシンベンニ匡)の甚しきものなり、邪古野は汝の封域なりと雖も、孤こゝに行営を築けり、然るに汝進んで戦ふの意なきは、以て時機を狙ふの意なるべし、眞に悪みても余りあるものである、其の獰悪の甚しき之を轢するも亦之を裂くといへども、猶威を霽すに足らず。嘗て弧西征の日、発して以て庶人となさんとせしに、直茂為に懇請すること切なりし故に、特に其の邑を全うせしめ、且つ其の封域の遐遠なるを憐みて、故らに帝都の経営及び東征の軍勢を悉く赦免したるに、却て恩恵を忘れ軍令に違背す、其の罪當に死にあたるべし、さりながら特に憐憫を加へ、死一等を降して、其の封邑を奪ひて放逐に処すと。慶長二年再征の役興るや、信時前恥を雪がんと欲し、死を決して小西行長の一隊中に隷す、韓将李舜臣と碧渡亭下に戦ふや、舜臣銃を十二艘に載せ、潮流に乗じて来り襲ふ、我兵不意を食ひて虜となるものあり、且つ逆流に會して進退便ならず、舜臣機を見て急に火銃を縦つ、我軍遂に潰乱して、信時戦死し船中七十五人のもの悉く殲滅せり。

 松浦記集成の三河守鎮(親)は、野史の信時と同一人なるべし。集成記には三河常州に配流せられし後に、舊臣等密に松浦に迎へ、終に御厨に天年を全うせるやう録して居る。野史には朝鮮再征役に従ひて戦死すと云って居る。また文禄三年三河守が配流の時は、太閤は既に伏見城にありけるに、波多の舊臣等が名護屋に討ち入りて、主君の怨恨を報ぜんとするは、稍首肯し難さ点である、また太閤は慶長三戊戌の年薨ぜるに、三河守が常州に死せしと詐称して都に注進せし年を、同酉の年となすは年代に相違がある。されど野史の記事をも確かなりとは断言し難かるべし。よし三河守が再征役に戦死すと仮定せば、松浦記集成所収の文にも、何等これを秘するの必要はない、否寧ろ武士の面目本領なれば、最後の武者振りを特等大書すべきこそ至當である、何を好んで憐憫極まる臨終をどを記するの要があらう。かやうに考へ来れば、松浦記集成所収の文も、波多家の舊臣有縁の輩の手に成りたるものにて、全く虚構の記傳ともいひ難き節がある、恐らく野史にいへる、再征役に三河守戦死云々は誤傳なるべし、されど大要に於て、三河守が太閤の意に触れて逆境に置かれしは争ふべからざる事実であらう。然るに其他に、三河守がことを録する史料徴證に供するもの乏しきは遺憾である。

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