http://www3.ic-net.or.jp/~shida-n/b_tokita/b_tokita_1_1.html 【3 最上川の氾濫と治水】より
(1) 氾濫による最上川河道のうつり変わり
山形県の母なる川、最上川は、毎秒200立方メートルの水を日本海に注ぎ、これまで多くの沿岸住民にその豊かな恵みを与えてきた。しかし日本三急流の一つに数えあげられている最上川は、古来から豪雨のたびごとに氾濫を繰り返す暴れ川であった。
したがってその沿岸地域においては、一夜にして田畑や家屋を流されたりすることがしばしばあった。すなわち最上川は、その周辺住民の生活に、つねに直接大きな関わりを持ってきた。たとえば田川郡遊摺部地区が最上川洪水による災害から免れるため、嘉永五年(1852)一村あげて川北飽海郡の現在地に移転したことは、その典型的な事例にあたる。また大宮の場合、古くは村の位置が最上川左岸は下流に向かって左側)田川郡にあったが、慶安三年(1650)の新川開削によって右岸飽海郡に位置するようになった事例もある。最上川河口右岸に立地する亀ケ崎地区は、その自然の恵みを受けると同時に、つねに洪水の危険にさらされてきた。記録によると、江戸時代の最上川は、ほぼ7年に一度の割合で洪水が発生していた。
最上川洪水との苦しい闘いの足跡を書き留めて置くことは、流域に住むわたくしたちのだいじな務めの一つであり、最上川河口付近における現在の流路の大部分が、掘削工事や締切工事によって形成された、人工河川、であることも、これまた後世に伝えておかなければならないことである。
ところで「最上川」という河川名は、出羽国最上郡を流れる川、という意味に由来しているといわれる。江戸時代までは、左沢より上流を「松川」と云い、左沢~清川間は「最上川」、清川~酒田間は「酒田川」と称していた。「最上川」という呼称に統一されたのは、明治九年(1876)の山形県成立後からである。
さて、最上川下流における河道(河身) 流路の変遷は、どのようであったろうか。
まず、江戸時代安倍親任が書いた『 筆濃餘理』 には、「むかし最上川は、四ッ興野前、五丁野、仁助谷地、鷺谷地から東禅寺裏、大田(多)、、古荒、泉、吉田、西野、東野、田村を経て、小湊(現在は古湊)に落ちたる一筋の流路有り」と、記されており、さらにこの村々 は天正時代(1573~1592)以来の最上川跡に、新しく開墾もた新田地に立地した村々である」と述べている。
安倍親任説によると、かつての最上川は、現在の酒田第三中学校付近にあったとされている東禅寺城東側を北西方向に向かって流れ、四ッ興野付近を通って古新井田川と合流し、豊川筋から古湊へ流れ落ちていたということになる。しかし、この事実を証明する古記録はきわめて少ない。ちなみに四ッ興野付近から古湊にかけての国道七号沿線には、谷地や荒瀬と名のつく標高わずか2~3メートルの低湿地帯が続いている。
吉田東伍が編集した『 大日本地名辞書』 (明治四十年発行)には、「元来、最上川の河道は幾多の変更をなして、ついに今日の銚子口に落ちるに至った。その初めは鵜渡川原の東をめぐり、酒田の北を流れ、小湊で海に流れ落ちていた。しかし、中古の大洪水によって酒田の中央を貫通するようになり、酒田を川南と川北に分離するようになった。向か坂田(袖浦地区)という名称も、このことから生じたのではないか」と、記されている。
ところで最上川が酒田の北方のみならず、宮野浦南方を銚子口にしていたことを示す絵図が、酒田海洋センターに所蔵されている。この絵図は「酒田港概図」といわれるもので、明治二十六年(1892)内務省の役人が酒田港を視察した際に、資料として作成されたものである。この絵図は文明年間(1469~1487)ころ、最上川が宮野浦と飯森山の間を流れていたことを示している。最上川・ 赤川・京田川(藤島川)の合流水は洪水の際にドッと袖浦地区(向う酒田)に押し寄せ、氾濫によって最上川左岸に停泊していた船舶や、市中沿岸に被害を与えることがしばしばあった。向う酒田(袖浦地区)から当酒田(現在の右岸一帯)へ移転した原因の一つに、このような最上川と赤川との合流水膨張による氾濫があげられる。
「泉流寺縁起」には「明応(1492~1501)の頃、大川筋自然この地に向かい、海船着場となれり」とあり、室町時代中期ころから最上川の銚子口が固定するようになり、いわゆる袖浦地区にあった向う田から、当酒田への移転気運が高まるのである。この明応元年(1492)を起点にすると、ちょうど平成四年(1992)が向う酒田から当酒田への移転五百年目に当たるので、「酒田開港五百年」と銘うったイべントが開催された。
(2) 近世中期までの最上川洪水と、第一次・第二次新川(あらかわ)開削
第一次新川開削
第一次新川開削記録に残されている最上川洪水の最初は、文正年間(1466~1467)の「白鬚水洪水」である。白鬚とは琵琶湖畔高畠町字鵜川にある白鬚神社のことであろうか。
御神体は白鬚老人である。「白鬚水洪水」では水位が平水より六メートル高くなり、耕地五三町歩を流失し、三八町歩が河身に変じた。
この白績水洪水によって東禅寺城が破壊されたため、文明十年ころ(1478)、遊佐太郎繁元が禅寺城を現在の酒田東高校のところに移転したと伝えられている。
この洪水では七日間水が引かなかったといわれており、洪水後に東禅寺沼ができたとも考えられる。近世は江戸時代に入ってからの慶安元年(1648)5月15日の大洪水によって新井田蔵が浸水し、濡れ米三千俵を出した。このため庄内藩は慶安三年(1650)本格的な治水エ事に着手し、落野目~大宮間の鼻崎を掘削、三ヵ年かかってようやく「新川」が竣功した。慶安三年ころからの開さく治水工事によって「新川」が登場し、これまでの流路が「古川」として遺るようになった。
この新川掘削によって、これまで川南に位置していた田川郡大宮は飽海郡川北に位置するようになり、新川が大宮の南側を流れるようになった。庄内藩による大規模なこの慶安新川開削工事を、最上川河口治水史上の「第一次新川開削沼水工事」と命名しよう。
第二次新川開削
第二次新川開削このあと庄内藩は、郡代高力忠兵衛を中心にして、新堀から日本海に直行する、長さ3,000メートルの「第二次新川開削治水工事」を計画し、寛文十年(1670)これに着手、延宝二年(1674)に完成した。これが「広野谷地掘切」といわれるものであり、近代における木橋旧両羽橋付近から、現在の両羽橋下流八番沈床付近までが真っすぐになった。
この「広野谷地掘切」工事が完成してから五年後の延宝七年(1679)に、新川の「川ざらい」(浚渫)がおこなわれた。この時は一日平均1,600人が動員され、13日間かかって川ざらいを終了した。「大泉紀年」は、このときのことを次のように記している。「最上川の急流、漸く御城に遠ざかり、百数十年の今に至って追手の南の土地大いに開け、有毛の地夥し(おびただし)」
この中の「南の土地大いに開け・・」とは、鵜渡川原の内川原と的場が耕地化されたことを意味している。
天和(てんな)二年(1682年)の大洪水
(3) 天保(てんぽう)四年(1833年)の大洪水
(4) 明治十二年(1879年)の大洪水
明治十二年(1879)6月から7月にかけての霖雨によって、最上川が7月4日より10日まで、未曾有の大氾濫を起こした。水かさは平常より6メートルオーバーした。
四ツ興野の堤防が破れ、水は田村から能登興野方面に流れた。この洪水による流失家屋は439戸、落橋875カ所。実生小路橋や新井田川橋も落橋した。河身の破壊、両岸の欠損甚しく、口港の酒田港は埋まってしまった。
鵜渡川原村の記録には、次のように書いてある。
「明治十二年七月、、暗霧膝騰、森雨数十日、加うるに大風あり、水面平水より高きこと二丈二尺(約7メートル)、(怒涛両岸に溢れ、堤防を破壊すること三カ所、本村(鵜渡川原村)全く水面と相成る。就中本村にて大破壊を来したる所洛東禅寺沼付近、ことごとく皆破壊し、およそ120間、(約200メートル)に及び田畑浸水し、故に畑地一八町五反歩余を埋没、また該沼(東禅寺沼)は、いっそう積面と相成りて今存在せり。かつ荒畑は、今も原形に復せず。実に未曾有の洪水にして、人畜はかろうじて生命を免れたり」
そして、その復旧治水工事については、
「字権吉沼上、及び字東禅寺沼の二箇所と字初瀬堤防の三箇所、各々120間(約200メートルソ以上大破壊している。(中略)明治二十二年(1889〉 より堤防に二尺(約六○ センチ)土盛工事を施し、明治二十六年完成の予定である」と、記している。
明治二十二年、新関弥惣吉は鵜渡川原村長就任と同時に堤塘取締規則を設け、明治二十三年より五カ年計画で2346間(4,200メートル)の盛土工事をして洪水から免れる対策を立てた。明治十二年の大洪水のあと、字草刈谷地・字竹藪・字中瀬(現両羽町・若原町・若竹町・堤町)が追々開発されていった。)当時は観音寺(正法会館のところ)の東側と丸の橋への旧本道との間に、「観(音)山濠」があった、東禅寺沼の東側、字仁助谷地の南から鷺谷地・扇谷地にかけては、、萱場(「ヨシ谷地)が広がっていた。鵜渡川原村の東南方面の字草刈谷地には細長い沼地があり、その周囲はヨシ(葦)谷地で、萱場となっていた。
当時、最上川は大きな三つの流路を示していた。
(1)現在の両羽橋下流の七番沈床の付根付近から、字竹戴(現若竹町)の所を流れる最上川。これは山居近くで二つに分かれ、中に島をつくった。これが中島で(現・山居町二丁目)である。中島の西対岸にも洲ができた。そこが小中島(現入船町)である。
(2)中瀬島と下瀬島の間を流れる最上川。
(3)下瀬島と宮の浦の間を流れる最上川。
鵜渡川原村の松原南から山居に至る堤塘の管理については、前述のとおり町村制施行後の明治二十三年(1890)、「山形県飽海郡鵜渡川原村堤塘取締規則」として同村会が議決した。
4 酒田港との分離をめざして最上川河口改修工事始まる
(1) 最上川改修工事と洪水予防策
(2) 予想水害反別と水防規程
(3) 酒田港を最上川河口から分離
「最上川下流の主な洪水と治水年表」
(4) 山居谷地締切り
山居谷各地の締切りは、寛政八年(1796)に始まった。
文政十一年(1828)に嚇翻潮を締切り、蕊貸ど山居堤防の修繕が、行われた。この工事の普請掛は本間光暉であった。船場町が繁昌したころには、最上川の本流は鵜渡川原村の西川原(現在の千石町)から最上川左岸へ遠のいていった。蛇行・分流が激しかったために、この上川原締切工事となったのである。この工事から21年後の嘉永元年(1848)に、山居から鵜渡川原を囲むような大堤防工事が始まったのである。
山居には、明治六年(1873)、初めて七軒の家が建てられた。なお、山居倉庫は明治二十六年(1893)の創設である。最上川新川開削によって、古川跡は埋めつくされ、田畑に変貌していった。かつて四ツ興野・大町・亀ケ崎東側を流れていた古川跡両側の古堤防は、終戦前(昭和20年)までその一部が残っていた。
最上川新川完成前に古川敷であったことを示す地名・内川原は、現在東両羽町や亀ケ崎六~七丁目になっている。
(5)下瀬の開発
山居嶋は最上川右岸と陸続きになり、耕地として開拓されていった。明治十五年(1882)ころ、最上川河口寄り河川敷に位置する下瀬は、1~2メートルの砂泥が堆積し、草木生い繁る原野になっていた。
当時、飽海郡中平田村字土崎の小松挑治が、六カ村の代表として下瀬開墾計画を立てていた。その後、明治十八年(1885)になって、鵜渡川原村の横山作兵衛が下瀬作業場見張りとして移住してきた。鵜渡川原村からは、多数の開墾耕作者が下瀬に入っていた。同二十年(1887)ころには15町歩ほど開拓され、そこには西平田村字遊摺部菅井吉次郎所有の土地が多かった。
明治三十年(1897)には西平田村字遊摺部より斎藤七右衛門が、同三十三年には東田川郡八栄里村吉田より兼古三治郎が、また、酒田町より小川兵蔵・後藤倉蔵が下瀬に移住し、耕作に当たった。
明治三十五年(1902)には酒田町船場町の田村善太郎が、地主菅井吉次郎よりこの地を買取り、土地権利は田村善太郎のものになった。耕作者として鵜渡川原村並びに西田川郡宮の浦の者が入り、開墾畑地は20余町歩に増加していった。
明治37年(1904)には鵜渡川原村より兵藤三吉が移住してきたが、横山作兵衛は家事都合により帰村し、酒田町の小川兵蔵・後藤倉蔵も酒田に帰った。
明治四十年(1907)には斎藤七右衛門が鵜渡川原村に帰った。この年、東田川郡広野より加藤辰之助が移住、耕作に当たった。同四十三年には中野久左衛門・鈴木三之助が東田川郡栄村字杉の浦から移住してきた。翌四十四年(1911)には東田川郡新堀村板戸より堀清九郎が移住してきた。
大正元年(1912)には酒田町より本間藤助が、同三年には東田川郡新堀村落野目より山木馬之助が、同四年には鵜渡川原村より佐藤金作が移住してきた。また、同六年(1917)には東田川郡新堀村落野目より山木興作が、翌七年には鵜渡川原村中瀬より斎藤」畠太郎が移住してきた。
大正五年ころは、下瀬の地主田村善太郎が酒田町伊藤四郎右衛門に畑地20余町歩を売渡し、残り15町歩を支配していた。
大正八年(1919)における下瀬開墾畑地は35町歩、原野は70町歩で、耕作者70名の出身地は鵜渡川原村・袖浦村・宮の浦などであった。このころ、下瀬に居住していたのは兼古三次郎・兵藤三吉・加藤辰之助・佐藤末治・本間藤助・山木馬之助・山木興作・斎藤富太郎らであり、そのほか田村善太郎の出張所、および同氏経営の牛乳店などがあった。居住者は1~6町歩内外を耕作し、漁業・養蚕などを副業とし生計を立てていた。
下瀬の農産物の主なものは大豆・小豆・大麦のほか、野菜類であった。また、養蚕用桑樹も植えており、大きな収入源であった。
明治三十五年(1902)ころの下瀬の地主は田村善太郎、大正五年(1916)ころは伊藤四郎右衛門であった。
大正八年(1919)、内務省による最上川改修工事のため、工事区域に入る下瀬の土地全部を国が買収することになった。買収の目的は下瀬の位置が、ちょうど最上川本流掘割工事の場所と重なったためであった。このため、これまで開発してきた100町歩余りの耕地・原野が皆無になることになった。
(6) 中瀬への移転
大正5~6年ころからようやく農作業が軌道に乗りはじめて裕福になった下瀬の住民は、ついに中瀬に移転することになり、大正十年(1921)7月、それを完了した。その記念碑が堤町稲荷神社境内にある。移転者は、兵藤三吉・加藤辰之助・佐藤末吉・山木馬之助・斎藤富太郎・兼古三左衛門・本間藤助・山木興作の8名であった(『 城下町亀ケ崎』『 漁業組合のあゆみ』 )。
また、旧最上川河川敷の外川原は現在の両羽町に、西川原は千石町に、それぞれ変貌していった。
最上川河口に発達した中州「山居嶋」は、北岸との間の埋め立てにより完全に陸地化し、その周辺地域を含めて、中島・小中島・栗林瀬・若竹町・中瀬・下瀬となり、さらに入船町・山居町・堤町などの町名に変わっていった。山居嶋の「嶋」という用字も、やがて「島」の字に変わった。
これらの各町は、江戸時代中後期からの最上川締切り工事によって陸地化してできた地域であり、田畑に開拓されたあと、さらに住宅地に開発・変貌してきた地帯である。
現在の最上川堤防のうち、初瀬堤防(県立日本海病院南方)は大正八年(1919)から工事が始まり、同十三年(1924)それが完成し、大宮堤防につながった。この年から酒田港に注ぐ小牧排水が、現在のように流れた。若原会館から下流の中瀬堤防は、やや遅れて昭和七年(1932)に完成した。
(7) 山居嶋の開発
最上川河口のデルタ・三角州の一部が「山居嶋」として古絵図に登場するのは、明暦二年(1656)からである。「嶋」は島の本字であり、鳥がよりどころとして休む海中、あるいは川中の山という意味を持つ。このサンキョを漢字で綴ると、山居・散居・三居などと書くことができる。それぞれの意味するところは、「山の中に住むこと、やまずまい、山中の住居」「集落を作らず、互いに散らばって住むこと」「散りうせることJ などであり、「三居」の場合は『 大漢和辞典』 によると、「流刑の三等の居」とある。
いろいろと説はあるが、サンキョとは「家族増加の場合に、その家族の一部が分離(分家あるいは隠居)して移転居住したところ、あるいはそれにともなって開発されたところ」という意味をもっている。酒田の山居嶋の場合も「分家あるいは隠居した人が開発した嶋」というところであろうか。「山居嶋」という呼称が登場する最古の公式文書は、 元和八年(1622)酒井家入部に際して作成された(「御知行目録」からである。これには「大町ノ内、山居嶋」として、、石高九石五斗七升弐合」(4斗俵で24俵)と書いてあり、この頃すでに作物を栽培し、収穫を上げていたことを示している。
山居嶋を描いた古絵図には「畑地」と記してあることなどから、恐らく大豆類が植えられていたと考えられる。この島で陸稲栽培が行われていたかどうかについては、知る由がない。山居嶋の石高はその後減少傾向にあり、寛永元年(1624)には四石二斗余りとなり、正保三年(1646)には二石一斗余りとなっている。
古絵図に描かれている山居嶋は広大であり、酒田市街地面積の四分の一くらいを占めている。しかし、実際の広さがどのくらいであったかは不明である。ちなみに明暦二年(1656)の絵図によってその面積を概算すると、大小の島々を合わせて、おおよそ30町歩以上になる。この面積は、酒田町組大庄屋栗林新(信)右衛門が山居嶋に17町7反余歩を所有していたと「飽海郡誌」に記されていることからも、納得できる数字である。
なお、山居の栗林瀬という地名は、大庄屋栗林氏にちなむ地名であることがわかる。江戸後期に作成された数多くの「最上川締切り工事絵図」には、山居嶋の中にポツンと一軒屋が描かれており、住宅あるいは作業小屋が建っていたことを示している。開発当初、嶋への交通手段として小舟が用いられていたと思われる。
最上川の古川締め切り工事が完成する寛政二年(1790)代になると、山居嶋と鵜渡川原の一部が陸続きになり、その後急速に開発の手が加わっていく。
(8)最上川・赤川・日向川は、ともに人工河口
朝日・月山山系を水源とする赤川は、かつてその河口を最上川下流左岸、飯森山の北東に求めていた。
しかし、最上川・赤川・京田川(藤島川)の合流水は、洪水時にどっと袖浦地区(向う酒田)に押し寄せ、氾濫によって最上川左岸に停泊していた船舶を流出したり、市中に被害を与えることがしばしばあった。向う酒田(袖浦地区)から当酒田へ移転した原因の一つに、このような最上川と赤川との合流水による氾濫があげられる。当酒田へ移転してからも、慶長年間(1596~1615)以降、人力による赤川流路の変更や築堤などが、しばしば試みられてきた。
赤川新川開削による流路の変更は、幾多の苦難を乗り越えて、大正十年最上川氾濫水の逆流を防ぐことでもあった。(1921)10月、最上川改修付帯工事として黒森山を掘削し、庄内砂丘を横切って、赤川を日本海に放流する工事を起工した。そして昭和11年(1927)7月、赤川新川が完成し、通水をはじめた。
現在、何ごともなかったように静かに日本海に注ぐ赤川新川は、実は人工河口なのである。もちろん、最上川下流域も、人工による流路の変更を行った人工河口である。この赤川新川完成後も、旧赤川は最上川とつながっていた。
旧赤川が完全に締め切られたのは、昭和18年(1952)のことである。赤川河床は、田畑や住宅地として利用されている。今でも往時の赤川流路跡をところどころに忍ぶことができる。
鳥海山系を水源とする日向川(にっこうがわ)は、酒田市興休(おこしやすみ)東部で荒瀬川と合流し、六ツ新田を経て日本海に注いでいる。実はこの日向川河口も人工河口である。
かつての日向川は、六ッ新田・上市神・藤塚・田村を経て南流し、さらに西転して小湊から日本海へと注ぐ流路をとっていた。
現在の旧国道七号線藤塚~下市神間の道路西側一帯が、旧日向川の河身であった。
ここでも、当時の日向川流路のおもかげをしのぶことができる。
日向川、荒瀬川が合流して発生する大洪水は、巨岩巨石を容赦なく押し流し、さらに砂泥を運んで被害を増幅させた。このため、遊佐郷住民による日向川新川掘切工事の請願が、庄内藩へたびたび出されてきた。
ついにその許可が藩から出され、安政5年(1858)1月から通算20万人の人夫を動員して、海抜30メートルの海岸砂丘を切り崩し、長さ2,500メートル、深さ2メートル、川幅200メートルの人工河川を6年の歳月をついやして文久二年(1862)4月に完成した。
(『 酒田湊繁盛史』コミュニティ新聞)
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