https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946558917&owner_id=7184021&org_id=1946587285 【山頭火の日記(昭和11年5月2日~)】
五月二日 曇。
いよいよ東京をあとに、新宿から電車で八王子へ。多摩少年院に三洞君を訪ねる。夜は三洞居で丘の会句会。今日、久しぶりに豊次君に会つて話した、あの頃の事はいつもなつかしい、それにしてもお互に変つたものである。武蔵野は好きだ、丘、流、草、ことに栃の若葉と春の竜胆とはよかつた。ゆつくり寝せて貰つた。
どこかに月あかりの木の芽匂ふなり
旅もなぐさまないこころ持ちあるく
【甲信越へ】
この日の日記に、「いよいよ東京をあとに、新宿から電車で八王子へ」とあり、山頭火はいよいよ信州を経由して東北へと向かいます。
五月八日(続)
高原、山国らしく、かるさん姿のよろしさ。たうとう行き暮れてしまつた、泊めてくれるところがない、ままよ今までの贅沢を償ふ意味でも野宿しよう、といふ覚悟で、とぼとぼ峠を登つて行くと、ルンペン君に出逢つた、彼も宿がなくて困つてゐるといふ、よく見ると、伊豆で同宿したことのある顔だ、それではいつしよに泊らうといふので、峠の中腹で百姓家――そこには三軒しかない家の一軒――に無理矢理に頼んで泊めて貰つた。二人の有金持物を合して米一升金五十銭、それだけ全部をあげる。旅烏はのんきであるがみじめでもある。そしてこの家の乱雑はどうだ、きたない子供、無智なおかみさん、みじめな食物、自分の生活がもつたいない、恥づかしいとつくづく思つたことである。夜ふけて雨、どうやら雪もまじつてゐるらしい、何しろ八ヶ岳の麓だから。いつまでも睡れなかつた。
【野辺山高原】
山頭火は、誌上で知り合うなどした俳友を旅先で一人また一人と訪ね、ひょう然と現れます。東北への旅の途中、まずは長野県岩村田の関口江畔(こうはん)宅へ。東京から国鉄中央線で甲府へ、佐久甲州街道を歩いて清里で一泊、5月9日野辺山高原をタクシーに拾われたり歩いたりして横断し、さらに小海線を使って岩村田の関口江畔宅に向かいます。待ちかねていた江畔は、子息の父草(ふそう)ともども懇ろにもてなします。父子いずれも井泉水に師事する俳人です。
五月十七日 雨、曇、そして晴。
稔郎君、粋花君来訪。終日閑談、悪筆を揮ふ、いつものやうに。甲州路。
信濃路
あるけばかつこういそげばかつこう
(無相庵)
のんびり尿するそこら草の芽だらけ
浅間をまへにおべんたうは青草の
風かをるしなの国の水のよろしさは
歩々生死、一歩一歩が生であり死である、生死を超越しなければならない。転身一路、自己の自己となり、自然の自然でなければならない。自然即自己、自己即自然。
自問自答
ゆうぜんとして生きてゆけるか
しようようとして死ねるか
どうぢや、どうぢや
山に聴け、水が語るだらう
生の執着があるやうに、死の誘惑もある。生きたいといふ欲求に死にたいといふ希望が代ることもあらう。
【あるけばかつこういそげばかつこう】
この日の日記に、「あるけばかつこういそげばかつこう」の句があります。佐久在住の俳友・関口江畔と閼迦流(あかる)山に遊んでの作です。山頭火が、信州を佐久平から善光寺平へと旅したのは5月の中・下旬でした。途中、八ケ岳山麓辺りで詠んだのが、この句でした。人の気配がしない道をただ歩いていると、そこにかっこうの声が。山頭火は急に不安になって急ぎ足になります。それを追いかけるように、かっこうの声が響きわたっています。かっこうの声に、おののいている山頭火の姿が浮かんできます。山頭火の句集『草木塔』に、次のようにあります。
「 あるけば草の実すわれば草の実
あるけばかつこういそげばかつこう
そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨てがたいものがある。昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚きつつ心ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始めてその姿さへ観たのであつた。」
五月十八日 日本晴。
今日も無相庵江畔居滞在。朝から郭公がさかんに啼く。江畔老といつしよに閼迦流山へ遊ぶ、尻からげ、地下足袋、帽子なしの杖ついて、弥次さん喜多さん、とてもほがらかである。長野種馬所の青草に足を投げ出して休む、右は落葉松林、左は赤松林、前は青々と茂る草のむかうに残雪の八ヶ岳蓼科の連峰、よい眺望である。(中略) 一里あまり歩いて、香坂明泉寺。自然石のよい石碑が立つてゐる、曰く
南朝忠臣香坂高宗
お山へ登る、老樹うつさうとして小鳥がしきりに囀づる。頂上十二丁目、大正十二年八月摂政宮殿下御登臨之処といふ記念碑が建てられてある、眺望がよろしい、白馬連山が地平を白く劃つてゐる。木蔭の若草に寝そべつて、握飯を食べる、一壜を携へて来ることは忘れてゐない、ほろほろ酔ふてうたた寝する、まことに大平楽である。一杯の水も仏の涙かな――といふ風の閼迦流山くづしがむき出してある、放浪詩人三石勝五郎さんの作。
ぶらぶら歩いて戻つたのは四時頃であつた。電報が二通来てゐた、比古君から、澄太さんからである、どちらも有難い通知だつた。ここで私はまた我がまま気ままな性癖を発揮して、汽車で小諸へ向つた、明後日また引返してくるつもりで。私の滞在もずゐぶん長くなつた、桑が芽ぶいて伸びた。……
今日の収穫
あるけばかつこういそげばかつこう
落葉松は晴れ切つてかつこう
若葉したたるながれで旅のふんどしを
お山へのぼる花をむしつてはたべ
岩に腰かけ樹にもたれ何をおもふや
いただきの木のてつぺんで鳥はうたふ
おべんたうをひらくどこから散つてくる花びら
雲かげもない木の芽のしづか
寝ころびたいスロープで寝ころぶ若草
落葉松落葉まどろめばふるさとの夢
落葉松落葉墓が二つ三つ
懐古園三句
浅間は千曲はゆうべはそぞろ寒い風
ゆふ風さわがしくわたしも旅人
その石垣の草の青さも(牧水をおもふ)
浅間をむかうに深い水を汲みあげる
ぞんぶんに水のんで去る藤の花
風かをる信濃の国の水のよろしさ
虱がとりつくせない旅から旅
浅間へ脚を投げだして虱をとる
まんなかに池がある昼の蛙なく(岩村田遊廓)
浅間したしいあしたでゆふべで
ゆつくりいくにち桑が芽ぶいて若葉した
(此の二句父草居にて)
江畔老に
けさはおわかれの、あるだけのお酒をいただく
草萌ゆる道が分れる角で別れる
逢へば別れるよしきりのおしやべり
さえづりかはして知らない鳥が知らない木に
水はあふれるままにあふれてうららか
自戒一則――貪る勿れ、疑ふ勿れ、欺く勿れ、佞る勿れ、いつもおだやかにつつましくあれ。
【浅間したしいあしたでゆふべで】
この日の日記に、「浅間したしいあしたでゆふべで」の句があります。山頭火は、5月14日御代田駅におり立ち、雄大な浅間山を眺めながら小諸に向かいました。山頭火の浅間の句は10句ありますが、浅間への親しみや、蕎麦、畑といった今でも変わらない風景を詠んだこの句と、「浅間をまへにまいにち畑打つてふてふ」「こんなに蕎麦がうまい浅間のふもとにゐる」の2句(合わせて浅間三句)の山頭火直筆の句碑が、御代田町大字馬瀬口の「エコールみよた」にあります。
五月廿一日 快晴。
いよいよ出立だ、朝早くから郭公がしきりに啼く。八時、岩村田の街はづれまで江畔老が見送つて下さる、ありがたう。さよなら、さよなら、ほんたうに関口一家は親切な温和な方々ばかりであつた、羨ましい家庭であつた。御代田駅まで歩く、一里半、沓掛まで汽車、それから歩けるだけ歩いた。長倉山の頂上、見晴台の見晴らしはすばらしかつた、山また山である、浅間は近く明るく、白馬は遠く白く眺めて来たが、ここでは高い山低い山、鋭い山丸い山が層々として重なつてゐる、軽井沢の一望も近代的風光たるを失はない。別荘散在、赤いのや青いのや、日本風なのや西洋流なのや。かつこう、うぐひす、からまつ、みづおと、そしてほととぎすがをりをり啼く、千ヶ滝の水もおいしかつた。行人稀で、時々自働車。峯の茶屋で昼飯、ここを中心にして自働車専用道路がある、私設の有料である。ここからすぐ国界県界、道は何だか荒涼たる六里ヶ原を横ぎる。浅間村牧場、北軽井沢駅。白樺が多い、歯朶の芽が興を引く、所有建札が眼に障る。養狐場が所々にある、銀狐を生育さすのである、狐の食料は人間よりも贅沢で月二十円位はかかるさうな、そして一ヶ年の後には毒殺されて毛皮は数百金に売れるといふ、資金を要する商売であるが、なかなか儲かるさうな。吾妻駅から電車で草津へ、五里七十四銭は高いやうであるが、登り登るのだから成程と思ふ、駅で巡査さん駅長さんと雑談する、共に好人物だつた。殺風景な山や家がつづいてゐたが、嬬恋三原あたりの眺めはよかつた。浅間高原の空気を満喫した。高く来て肌寒い。六時頃やつと草津着、やうやく富山館といふ宿をたづねあてた、泊銭七十銭、湯銭十二銭。同宿は病遍路、おとなしい老人、草津といふところは何となくうるさい、街も湯もきたならしい、よいとこでもなささうだ、お湯の中にはどんな花が咲くか解つたものぢやない! 熱い湯にはいつて二三杯ひつかけて、ライスカレーを食べて(これが宿の夕食だ、変な宿だ)ぐつすり寝た。夢は何?…………
【峰ノ茶屋】
この日の日記に、「峯の茶屋で昼飯」とあります。山頭火は、中軽井沢から浅間山の中腹、峰ノ茶屋を越して草津温泉へと向かいます。
五月廿五日 行程四里(上り三里、下り一里)。
からりと晴れてまさに日本晴、身心あらたに出立する、万座温泉まで四里には近いのだが、七時半から三時までかかつた、ずゐぶん難かしい山路だつた。草津の街を出はづれると落葉松林、それから落葉松山、そして灌木と熊笹、頂上近くなれば硫黄粘土と岩石ばかり。白根山は噴煙をふきあげてゐる、荒凉として人生の寂寥を感じた。涙のない人生、茫漠たる自然。
【万座温泉】
山頭火は草津温泉に4泊し、この日、残雪に足を取られながら万座温泉に向かっています。
五月廿五日 (続)
まことにしづかな道だつた、かつこうもうぐひすもほうじろもよく啼いてくれたが、雪のあるところはすべるし、解けたところはぬかつてゐるし、はふたりころんだり、かなり苦しんだ。残雪をたべたり、見渡したり、雪解の水音を聴いたり、ぢつと考へこんだり。山、山、山、うつくしい山、好きな山、歩き慣れない雪の山路には弱つたが、江畔おくるところの杖で大いに助かつた、ありがたしありがたし。草津から二里あまり登つて芳ヶ平、ヒユツテーがある、スキーの盛んなことだらうなどと思ひつつ歩いた。白根山の頂上は何ともいへないさびしさだつた、噴烟、岩石(枯木、熊笹は頂上近くまであつたが)、残雪、太陽! 落葉松の老木は尊いすがたである。やうやく一里あまり下ると、ぷんと谷底から湯の匂ひ、温泉宿らしい屋根が見える、着いたのは三時だつた、何と手間取つたことだらう、それだけ愉快だつた。とりつきの宿――日進館といふ、私にはよすぎる宿に泊る、一泊二飯で一円。(後略)
――(山をうたふ)――
春の鳥とんできてとんでいつた(白根越へ)
ひとりで越える残雪をたべては
山ふところ咲いてゐる花は白くて
杖よどちらへゆかう芽ぶく山山
墓が一つここでも誰か死んでゐる
山路しめやかな馬糞をふむ
残雪ひかる足あとをたどる
山路たまたまゆきあへばしたしい挨拶
春の山のそこここけむりいただきから吐く
いただきの木はみんな枯れてゐる風
残雪の誰かの足あとが道しるべ
――(山をうたふ)――
山は火を噴くとどろきの残雪に立つ
すべつて杖もいつしよにころんで
残雪をふんできてあふれる湯の中
とつぷり暮れて音たてて水
万座温泉
水音がねむらせないおもひでがそれからそれへ
更けてもうもうとわきあがるもののしじま
万座峠
霧の底にて啼くは筒鳥
山路なつかしくバツトのカラも
ふきのとうも咲いてほほけて断崖
ごろりと岩が道のまんなかに
あんなところに家がある子供がゐる犬がほえる
内山へ
霧雨しくしく濡れるもよろしく
けふは街へ下る山は雨
八重ざくらうつくしく南無観世音菩薩像
かつこう啼いて霽れさうなみどりしづくする
こんやの寝床はある若葉あかるい雨
このみちがをなごやへ霽れさうもないぬかるみ
こころおちつかない麦の穂のそよぐや
つめたい雨が牡丹に、牡丹くづれる
ころびやすうなつたからだがころんだままでしみじみ
明けるとかつこう家ちかくかつこう
すぐそこでしたしや信濃路のかつこう
崖から夢のよな石楠花で
ゆふべ啼きしきる郭公を見た
観てゐる山へ落ちかゝる陽を見る
これが胡桃といふ花若葉くもる空
ちよいちよい富士がのぞいてまつしろ
つかれもなやみもあつい湯にずんぶり
【すぐそこでしたしや信濃路のかつこう】
この日の日記に、「すぐそこでしたしや信濃路のかつこう」の句があります。この句と「八重桜うつくし南無観世音菩薩像」の句が並んだ句碑が、善光寺の本堂右手にあります。
【霧の底にて啼くは筒鳥】
また、「霧の底にて啼くは筒鳥」の句もあります。長野県高山村山田温泉の薬師堂横に、この句碑があります。
【つかれもなやみもあつい湯にずんぶり】
さらに、「つかれもなやみもあつい湯にずんぶり」の句もあります。長野県高山村山田温泉の大湯前に、この句碑があります。
五月廿六日 曇、后雨。
未明起きてすぐ湯にはいる、朝湯の快さは何ともいへない。さすがに高原、肌寒い、霧雨が降つてゐる、もことしてあたりが暗い。今朝はしゆくぜん身心の新たなるを覚えた、私はやうやくまた一転化の機縁が熟してきたことを感じる。七時出発、長野へ向ふ、身も心も軽い、霧雨しつとり、濡れよとままだ。万座川の水声、たちのぼる湯けむり、残雪のかがやき、笹山うぐひすのうた、巨木のすがた、小草のそよぎ、――ゆつたり歩く。万座峠(山田峠ともいふ県界)の頂上まで半里、それから山田温泉まで下り三里。雪も残つてをり、破損したところもあるけれど、しづかなよい道、らくな道、好きな道であつた。(中略) 虎杖橋附近の眺望はよかつた、松川谿谷美の一景。七味橋、それを渡つたところに湯宿一軒、七味温泉と呼んでゐる。さらにまた五色温泉がある、ここも宿屋一軒、めづらしいのは河原湯(野天風呂)である、だんだん里近くなる。雑木山のうつくしさよ、青葉若葉の青さ、せぐりおちる谷水の白さ、山つつじの赤さ。道は広くてよいけれど、山崩れがあつて道普請が初まつてゐる。ほどなく山田温泉に着いた、まさに十二時、薬師堂があつて吉野桜が美しい。山田温泉場はこぢんまりとして、きれいに掃き清められてゐる、そこがかへつて物足らないやうにも感じられる。高井橋といふ吊橋も立派なものである。(中略) 須坂まで三里、さらに西風間まで三里、バスも電車も都合よくないので歩く。晴れそうであつたが降つて来た、小雨だから濡れるままに濡れる。妙高、黒姫、戸穏の山々が好きな姿を見せたり消したりする。千曲川を渡る、村上橋は堂々たるものである、もう長野は遠くない。(後略)
(信濃から越後へ)
ここから越後路のまんなかに犬が寝てゐる(関川にて)
ゆれてゐるかげは何の若葉をふむ
飲んで食べて寝そべれば蛙の合唱(迂生居即事)
首だけある仏さまを春ふかき灯に( 〃 )
ガラス戸へだてて月夜の花が白い( 〃 )
めづらしく棕梠が咲いてゐて少年の夢(追憶)
砂丘のをんなはをなごやのをんなで佐渡は見えない(日本海岸)
柏原にて
ぐるりとまはつてきてこぼれ菜の花(土蔵)
若葉かぶさる折からの蛙なく(墓所)
孫のよな子を抱いて雪も消えた庭に(銀汀に)
砂丘が砂丘に咲いてゐる草の名は知らない
とかく言葉が通じにくい旅路になつた
くもりおもたい空が海が憂欝(日本海)
みんなかへる家はあるゆうべのゆきき
なんにもない海へ煙ぼうぼうとして(日本海)
砂山青白く誰もゐない
【画家池田遥邨の山頭火シリーズ】
山頭火は、この日に信越国境を越えています。山頭火に心動かされ、絵画に残した画家がいます。日本画壇を代表する一人・池田遥邨(いけだようそん、1895~1988)です。遥邨はその晩年、山頭火の句境の絵画表現に手がけ、詩画一体の「山頭火シリーズ」に挑みました。そこには生涯を漂白の旅人として、各地を放浪した山頭火の姿があります。自然を愛し、旅に憧れ、若い頃に三度にわたって東海道五十三次を旅した遥邨は、山頭火の句の中から、好きな句を何枚も書き出して画室に張り、「これらを描き終えるまでには125歳まで長生きしなければ」と語っていたそうです。その中で、最も惹かれる作品があります。それには山頭火の姿はなく、緑が生い茂る野原に、笠と法衣だけが置き忘れたかのように描かれ、「行き暮れてなんとここらの水のうまさは」の句が。ただひたすら孤独に歩きつづけた山頭火が、両手にすくった水にのどを潤し、しみじみ「いのち」を愛おしんだようすが想像できます。
【山田温泉】
この日の日記に、「万座峠(山田峠ともいふ県界)の頂上まで半里、それから山田温泉まで下り三里」とあります。この日、万座温泉から万座峠を越え、霧雨の中を山田温泉、須坂へと下ります。村山橋を渡り、当時の大豆島村西風間の風間北光(ほっこう)宅に落ち着きました。今日は、約40㎞を1日で歩き通したことになります。北光23歳、やはり『層雲』の若き後輩で、半世紀近く後の昭和59年、雑誌『信濃路』に「山頭火と、五日間・・・」と題する一文を寄せています。この一文には、次のように記されています。
〝「徒歩禅」と称した通り山頭火にとって、歩くことこそ修行だった。ひたすら歩き続けることが生きることにつながった。それは同時に、自らの死に場所を求めることでもあった。〟
【日本海】
この日の日記に、「なんにもない海へ煙ぼうぼうとして」の句があります。また山頭火の句に、「こころむなしくあらなみのよせてはかえし」があります。海が目の前に広がっています。海より山を好む山頭火が、ここではめずらしく海を凝視していて動きません。
【砂丘のをんなはをなごやのをんなで佐渡は見えない】
さらに、「砂丘のをんなはをなごやのをんなで佐渡は見えない」の句もあります。また山頭火の句に、「砂丘にうずくまりけふも佐渡は見えない」があります。芭蕉の句に「荒波や佐渡によこたふ天の川」がありますが、日本海に展開される雄大なイメージを描いているのに対して、この句はなんと小さく惨めなことでしょう。山頭火はそのまま砂丘にうずくまり、いつまでも海に見入ろうとします。日本海側の厳しい気候の中を歩きつづけた疲労と、海の彼方に見えるはずの佐渡がみえないという失望感、そしておそらく荒れている海に洗われている砂浜に縮みこんで途方に暮れている自分の小ささ無力さ情けなさ、山頭火にとって佐渡とは、自分が本当は得られてなければいけない悟りの境地の比喩なのではないでしょうか。あるべきもの、求めているべきものも見えなくなっている自らの自堕落さに対して、絶望している悲壮感に満ちた句です。
0コメント