http://yahantei.blogspot.com/2006/02/blog-post.html 【山頭火散策(その一~その十三)】より
「つれづれ文庫」の「種田山山頭火」(下記アドレス)のものを抜粋しながら、山頭火の自由律俳句というものを散策してみたい。
(その一)
鉢の子
大正十四年二月、いよいよ出家得度して肥後の田舎なる味取観昔堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。
松はみな枝垂れて南無観世音 松風に明け暮れの鐘撞いて
ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。
分け入つても分け入つても青い山 しとどに濡れてこれは道しるべの石
炎天をいただいて乞ひ歩く 放哉居士の作に和して
鴉啼いてわたしも一人 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)
生死の中の雪ふりしきる
山頭火が亡くなる年(昭和十五年)に刊行された、一代句集『草木塔』の冒頭の章「鉢の子」の冒頭の八句である。「分け入つても分け入つても青い山」、山頭火の代表作でもある。このリズムは「分け入つても(六)分け入つても(六)青い山(五)」の十七音字の破調のようにも思われる。季語はないけれども、「青い山」は、禅林句集などに出てくる、「青山自青山、白雲自白雲」など古来からよく使われている用語で、季語的な働きをしているとも解せられる。「鴉啼いてわたしも一人」は、その「放哉居士の作に和して」の前書きのとおり、放哉の「咳をしても一人」・「鴉がだまって飛んで行った」などが念頭にあろうか。いわゆる、放哉の句の「本句取り」の句、そして、放哉への挨拶句ということになろう。こういうところを見ていくと、山頭火の自由律俳句というのは、それほど、有季・定型の、いわゆる、俳諧が本来有していたものと、全く異質の世界のものではなく、その延長線上のものであるということを実感する。
(その二)
其中一人
雨ふるふるさとははだしであるく くりやまで月かげの一人で
かるかやへかるかやのゆれてゐる うつりきてお彼岸花の花ざかり
朝焼雨ふる大根まかう
『草木塔』第二章の「其中一人」の冒頭の五句である。この五句のみを見ただけでも、山頭火の自由律俳句というのは、一目瞭然で実に平明な句作りというのが理解できる。およそ、語釈を必要とするものもなく、とりたてて、これらの句の散文的な鑑賞文はかえって煩わしいものとなってこよう。と同時に、漢字の表現よりも平仮名の表現が多く、それがまた、山頭火俳句の特色ともいえるであろう。これらのことについて、「対談 今、なぜ山頭火か」(村上護・石寒太)で、「彼(註・山頭火)は美しい日本語、美しい日本の心というか、そういうものを常に持っていました。ですから、社会的な身なりは、乞食という形で生きながら、心そのものは非常に高貴で、そういう高貴なものを映し出す言葉というのは、鏡みたいなものですね。美しい日本語を使うということに対しては、大変に勉強もしてますし、意識的に使っています」(石寒太編『保存版 山頭火』所収の村上護)と、ここに、山頭火の俳句の大きな特徴を見出すことができそうである。そして、山頭火・放哉の師にあたる「層雲」主宰の荻原井泉水は、言語学者で、国語学者の金田一京助、英語学者の市川三喜らと東大の同窓で、その井泉水の影響を大きく受けているということが指摘できそうである(石寒太編・前掲書)。
(その三)
行乞途上
朝露しつとり行きたい方へ行く ほととぎすあすはあの山こえて行かう
笠をぬぎしみじみとぬれ 家を持たない秋がふかうなるばかり
行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあてもなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲しがつてゐた寝床はめぐまれた。
昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、そこに移り住むことが出来たのである。
蔓珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであつた。今日は酒が好きな程度に於て水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかも知れない。
「鉢の子」には酒のやうな句(その醇不醇は別として)が多かつた。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句がチヤンポンになつてゐる。これからは水のやうな句が多いやうにと念じてゐる。淡如水――それが私の境涯でなければならないから。
(昭和八年十月十五日、其中庵にて、山頭火)
『草木塔』第三章の「行乞途上」の「あとがき」とその前の三句である。
「歌人の西行は自分の内面を見つめる意志的な積極性をもって漂泊の旅をした。松尾芭蕉も求道者ではあるが、その旅は弟子を連れての紀行であり、周到に計画された漂泊であったといえる。小林一茶は山頭火と同じようにメモ魔であることは共通しているにしても、江戸と信濃柏原に居所を持った定住型の漂泊者であって放浪の輩ではなかった。故郷に後ろ髪を引かれる思いを心に宿しながら、その白い微光の痛みを感じつつ歩いた山頭火は、旅先のすべてをその薄日の中に見て、世を捨てて求道者たらんとする自分と相克をつづけていた」(石寒太編・前掲書所収「行乞の果てに見た真実(金子兜太稿)」)。
この金子兜太の山頭火観が、これらの掲出句とその「あとがき」を見ると、つくづくと実感する。
(その四)
山行水行
山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆふべもよろし
炎天かくすところなく水のながれくる 旅から旅へ 飯田にて病む 二句
まこと山国の、山ばかりなる月の あすはかへらうさくらちるちつてくる
山行水行はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウとも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することであり、歩くことが行ずることに外ならないからである。
昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさらに選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ あるけば草の実すわれば草の実
この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残すことにする。
私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひたいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまようてゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくにして、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出したのである。
在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものから逃れようとするのではない。
『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。
(昭和九年の秋、其中庵にて、頭火)
『草木塔』第四章の「山行水行」の一句並びに第五章「旅から旅」の「あとがき」とその前の前書きのある二句である。この山頭火の「うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである」の指摘は、詩人の、俳人の、望まれるその姿勢と心掛けを見事に言い当てている。それと同時に、かって、「尾崎放哉探索」で記した、平畑静塔の「俳句の曲譜は定型そのものにあり、俳人は歌手に過ぎない」(『俳人格説』所収「定型不実論」)が思い起こされてくる。
(その五)
雑草風景
病中 五句
死んでしまへば雑草雨ふる 死をまへに涼しい風 風鈴の鳴るさへ死のしのびよる
おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら 傷が癒えゆく秋めいた風となつて吹く
秋風の水音の石をみがく 萩が径へまでたまたま人の来る 月へ萱の穂の伸びやう
旅はゆふかげの電信棒のつくつくぼうし つきあたれば秋めく海でたたへてゐる
題して『雑草風景』といふ、それは其中庵風景であり、そしてまた山頭火風景である。
風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。
私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである。
或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私であるが、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であることに間違ひはない。
此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年しか老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧困を恥ぢ入るばかりである。(昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ、山頭火)
『草木塔』第六章の「雑草風景」の「あとがき」とその前の十句である。この「あとがき」の「風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに」とは、山頭火の作句上の基本的な姿勢であろう。このこととあわせ、次の山頭火の言葉は、山頭火その人を知るというよりも、詩歌に携わる者の共通言語のようなものに思われる。
「私は最早印象だけでは・・・単に印象を印象として表白することだけでは満足することが出来ないやうになりました。印象に即して印象の奥を探り、そこに秘められた或る物を暗示しななければならないと信じててゐます。そしてそこから象徴詩として俳句が生まれると信じてゐます」(「草上句評の中で」)。
(その六)
柿の葉
自戒
一つあれば事足る鍋の米をとぐ
柿の葉はうつくしい、若葉も青葉も――ことに落葉はうつくしい。濡れてかがやく柿の落葉に見入るとき、私は造化の妙にうたれるのである。
あるけば草の実すわれば草の実 あるけばかつこういそげばかつこう
そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨てがたいものがある。昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚きつつ心ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始めてその姿さへ観たのであつた。
やつぱり一人がよろしい雑草 やつぱり一人はさみしい枯草
自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。かうした私の心境は解つてもらへると信じてゐる。
(昭和丁丑の夏、其中庵にて 山頭火)
『草木塔』第七章の「柿の葉」の「あとがき」とその前の句である。山頭火が所属していた「層雲」の第一信条が、「一草一木の真実を観取すべし」とのことである(伊藤寛吾著『山頭火を語る』)。この「層雲」主宰の荻原井泉水の、この作句信条を身を挺して実践した人、その人こそ、種田山頭火ということになろう。そして、山頭火は俳人の多くがそうしたように、常に、推敲に推敲を重ねる俳人でもあった。(「推敲」というよりも、山頭火自身、「改作」という言葉を使っており、そのメモ書きのような類型句の多さからすると、山頭火自身の言葉の「改作」いうニュアンスがより妥当なのかもしれない。)
(その七)
銃後
街頭所見
日ざかりの千人針の一針づつ 戦死者の家
ひつそりとして八ツ手花咲く 遺骨を迎ふ
しぐれつつしづかにも六百五十柱 遺骨を迎へて
いさましくもかなしくも白い函 遺骨を抱いて帰郷する父親
ぽろぽろしたたる汗がましろな函に ほまれの家
音は並んで日の丸はたたく 歓送
これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗 戦傷兵士
足は手は支那に残してふたたび日本に
『草木塔』第八章「銃後」の前書きのある八句である。
大正デモクラシーが席巻していた当時、新興俳句・新興川柳の波が押し寄せていた。かし、これらの波は、昭和十五年に前後して、「新興俳句弾圧事件」・「新興川柳弾圧事件」によって、沈黙を余儀なくされた。それは実に、いわゆる大東亜戦争が始まる直前のことであった。山頭火らの自由律俳句というのは、明治末期から大正初期にかけての、河東碧梧桐らの新傾向俳句を母胎としており、無季俳句の志向とあわせ、自由律俳句の進展というのは必然的な流れの一つでもあった。掲出の山頭火の自由律俳句にも、新興俳句・新興川柳の多くがそうであったように、反戦的な響きを有している。掲出の「戦傷兵士」との前書きのある「足は手は支那に残してふたたび日本に」には、新興川柳弾圧事件により、二十九歳の若さで散った、反戦川柳人の鶴彬の「手と足ともいだ丸太にしてかへし」と同じ視点のものであろう。そして、山頭火のこうした一面については、全く等閑視されており、やはり山頭火の全体像を知るうえでは、これらの視点での今後の掘り下げが必要となってこよう。
(その八)
孤寒
母の四十七回忌 うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
旅心 妹の家 たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて
孤寒といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在であり得ない。(孤高といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニムに過ぎない。)
私の祖母はずゐぶん長生したが、長生したがためにかへつて没落転々の憂目を見た。祖母はいつも『業やれ業やれ』と呟いてゐた。私もこのごろになつて、句作するとき(恥かしいことには酒を飲むときも同様に)『業だな業だな』と考へるやうになつた。
祖母の業やれは悲しいあきらめであつたが、私の業だなは寂しい白覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽してゐる。
凩の日の丸二つ二人も出してゐる 音は並んで日の丸はたたく
二句とも同一の事変現象をうたつた作であるが(季は違つてゐたが)、前句は眼から心への、後句は耳から心への印象表現として、どちらも残しておきたい。
しみじみ食べる飯ばかりの飯である 草にすわり飯ばかりの飯
やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深いものがある。(昭和十三年十月、其中庵にて、山頭火)
『草木塔』第八章「孤寒」と第九章「旅心」の母と妹への山頭火の句とその「あとがき」である。そもそも山頭火のこの『草木塔』は、山頭火が十歳のときに、自らの命を絶った母への、その鎮魂のための句集であった。この句集の扉に、「若うして死をいそぎたまへる / 母上の霊前に / 本書を供へまつる」と記されている。山頭火の一生は、乞食の姿で、乞食になりきり、母が亡くなった古里の古い井戸に想いを馳せ、その古里を、そして、血縁の妹さんの家の辺りを放浪する日々でもあった。弟さんも自らの命を絶った。その弟さんが亡くなったときに、この「あとがき」に「業(ごう)やれ、業やれ」が口癖であった祖母も亡くなっている。山頭火の、この句集『草木塔』は、山頭火を廻る、これら山頭火の血縁の方々への鎮魂の句集と位置づけられるのであろう。この『草木塔』は私家版の折本句集七冊を集成したものであった。そして、この句集が刊行されたのは、昭和十五年四月二十八日、そして、その年の十月に、その五十八年の生涯を閉じている。まさに、山頭火の、この五十八年の生涯は、この一代句集『草木塔』の一冊を刊行するための、そのための生涯であったともいえるであろう。
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