山頭火の日記  ㊵

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946587285&owner_id=7184021&org_id=1946614438 【山頭火の日記(昭和11年5月31日~)】より

五月三十一日 雨。

夢のやうに雨を聞いたが、やつぱり降つてゐる、昨日ここまで来てゐたことは(宿屋で断られて汽車に乗つたのだつたが)ほんたうによかつた、宿で降りこめられて旅費と時間とを浪費することは私のやうなものには堪へがたい。早く眼は覚めたけれど家人の迷惑を考へて、床の中でぼんやりしてゐる。二階の別室に閉ぢ籠つて身辺整理。信濃川産の生鮭はおいしかつた、生れて初めて知つた鮭の味である。若葉にふりそそぐ雨の音はよい、隣は図書館、裏は武徳殿、あたりはしづかである。虹果君来訪、おもしろい人である。銀汀君と仕事の合間には話す、なつかしい人だ、よきパパであるらしい。長岡散歩、入浴、一番風呂で気持がよかつた。夕方から句会場――おとなりの仕出屋――へ出かける、会者五六人、遠慮なく話し合ひ腹一杯飲み食ひする、例によつて悪筆の乱筆を揮ふ、十二時近くなつて散会、酔ふて戻つてすぐ寝る、酒よりも水、水。

   (越後をうたふ)

 くもつてさむく旅のゆふべのあまりしづかな

 湯あがりの、つつじまつかに咲いて

 春がいそがしく狂人がわめく人だかり(北国所見)

 図書館はいつもひつそりと松の花

 若葉して銅像のすがたも(互尊文庫)

   追加数句

 桑畑の若葉のむかうから白馬連峰

 煙突にちかづいて今日の太陽

 戸隠に小鳥の里あり、うれしいではないか。一茶翁遺蹟めぐり。

【図書館はいつもひつそりと松の花】

この日の日記に、「図書館はいつもひつそりと松の花」の句があります。山頭火は5月30日、長岡で写真館を営む小林銀汀宅を訪ねて3泊しています。この句は俳友・小林銀汀宅の2階より、若葉ふりそそぐ隣接の互尊文庫を眺めて作った句です。この時、山頭火は写真を撮ってもらい、これが貴重な遺影になっています。長岡市殿町2丁目の柿川・追廻橋横に、この句の山頭火句碑があります。

【湯あがりの、つつじまつかに咲いて】

また、「湯あがりの、つつじまつかに咲いて」の句もあります。宮城県大崎市鳴子温泉の鳴子公園に、この句と「あてもない袂草こんなにたまり」の句碑があります。袂草(たもとぐさ)とは、袂ぐそ、たもとの底にたまるごみのことです。

六月二日 曇、雨。

出立、銀汀、稲青の二君に長生橋まで送られて、さよなら、さよなら。良寛和尚の遺蹟めぐり。

   良寛墓、良寛堂。

 あらなみをまへになじんでゐた仏。

    (国上山中)

 青葉分け行く良寛さまも行かしたろ

出雲崎泊。

【青葉分け行く良寛さまも行かしたろ】

この日の日記に、「青葉分け行く良寛さまも行かしたろ」の句があります。山頭火は、無位の人である良寛さんに敬慕していました。また、「岩のよろしさも良寛様のおもいで」の句があり、倉敷市玉島の円通寺公園にこの句碑があります。

六月十三日

鶴岡へ、秋兎死居。

【秋兎死うたふ】

この日の日記に、「鶴岡へ、秋兎死(あきとし)居」とあります。鶴岡市湯田川のホテルみやごに、「みちのくはガザさいて秋兎死うたふ」「朝蝉夕蝉なぜあなたは来ない」の句碑があります。

【鶴岡での山頭火】

山頭火の日記によると、6月13日に鶴岡に着きます。和田光利氏の山頭火資料『みちのくに出現した山頭火』に、次のように記されています。

〝私(和田光利)が山形県庄内に在住中、其は昭和十一年の五月頃、私に来た郵便物の一束のなかに、山翁(山頭火)のハガキが一枚まじっていた。彼は四国(山口?)の産であるし、とても逢う機会はあるまいと思ったので、その葉書を掴んで、ときめく胸を抑えて家内に示した。・・・ハガキには秋風の吹く頃訪問すると・・・(中略)昭和十一年の七月と記憶する(六月の誤りか?)が・・・と云えば北国の果も青葉若葉の盛り、窓を開け放って爽やかな風を部屋に入れていると、門から玄関迄五、六間あったが、両側から蔽い冠さる新樹を分けて、網代笠、墨染めの法体がぬっとり出現した。時季は早いが私は瞬間直感的に山頭火来たな──と思った。(後略)〟

和田光利氏は、一家を挙げて山頭火を歓待しました。山頭火は幾日か滞在し市内をぶらぶらして毎日銭湯に出掛け、「庄内は人情の美しい所だ」と繰り返し語っています。

六月十六日――廿二日

酒、女、むちやくちやだつた。秋君よ、驚いてはいけない、すまなかつた、かういふ人間として、許してくれたまへ。湯田川温泉行。

【湯田川温泉】

この日の日記に、「酒、女、むちやくちやだつた。秋君よ、驚いてはいけない、すまなかつた」とあります。和田光利氏はある一日、鶴岡近郊の湯田川温泉に連れて行くと、山頭火は大層気に入り、翌々日、彼は行乞してくるといって出たまま四、五日も戻らず、和田光利氏は事故に遭ったのではないかと心配していると、突然、湯田川温泉の旅館から「種田さんと云うご仁が和田さんを待っています」と電話がありました。行方不明になった山頭火は、湯田川温泉の旅館で荷物も預け、旅館のユカタを着て豪遊していたのです。その前、鶴岡の一流料亭新茶屋でも同じようなことを引き起こしたことがありました。和田光利氏は次のように書いています。

〝後日私は湯田川温泉に支払いに行き、荷物も受取って来た。其後市内の料理屋から、山翁(山頭火)が沈没しているとの電話があったので、又、迎えに出掛けた。しかし私としてはすこしもうとむ気持ちにはならなかった。ともあれ二科亭や湯田川の借財は金銭に縁の無い私は相当頭をいためた。・・・だが、山翁も大分自責を感じたらしく、後々日或る部分を大阪から送金してよこした。半月すると「仙台の同人海藤抱壺を訪問したし、心配をおかけして済まなかった。帰途は必ず鶴岡に寄って御詫びします」と云うハガキ一枚 ~ 私は今でも疑問が解けない。ユカタ一枚着たきりで、どうして太平洋岸の仙台に辿り着く事が出来たのか ─ 鶴岡から仙台迄は、しかるべき同人もいない筈だ。私は山翁の夢を幾度見たか知れない。其から半月余経過すると、木の葉の様に秋風が運んで来た一葉の葉書 ~ 「ただ今越前の永平寺で坐禅を組んでおります。鶴岡の事は慚愧に堪えません。記念に御詫びのしるしとして、網代笠と愛用した杖を差上げます。法衣と手廻りの品だけ送って下さい。鶴岡に寄って御礼申上げる筈だったのですが、とうとう叶はなくなりました」という意味が書いてあった。〟

山頭火はよほど鶴岡が気に入ったようで、仙台からの帰りにもう一度和田光利宅に寄っています。

六月廿三日 曇。

梅雨らしく降る。私は遂に自己を失つた、さうらうとしてどこへ行く。――抱壺君にだけは是非逢ひたい、幸にして澄太君の温情が仙台までの切符を買つてくれた、十時半の汽車に乗る。青い山、青い野、私は慰まない、ああこの憂欝、この苦脳、――くづれゆく身心。六時すぎて仙台着、抱壺君としんみり話す、予期したよりも元気がよいのがうれしい、どちらが果して病人か! 歩々生死、刻々去来。あたたかな家庭に落ちついて、病みながらも平安を楽しみつつある抱壺君、生きてゐられるかぎり生きてゐたまへ。

【仙台の自由俳人・海藤抱壺】

この日の日記に、「六時すぎて仙台着、抱壺君としんみり話す、予期したよりも元気がよいのがうれしい」とあり、山頭火は仙台の自由俳人・海藤抱壺の病気見舞いをしています。仙台市青葉区の光禅寺に、抱壺の病気見舞った句「逢へばしみじみ黙つてゐてもかつこうよ」と、後年、抱壺の霊前に供えた句「抱壷逝けるかよ水仙のしほるるごとく」の句碑があります。

六月廿六日 雨。

早い朝湯にはいつてから日和山の展望をたのしむ、美しい港風景である、芭蕉句碑もあつた。十時出発、汽車で平泉へ、沿道の眺望はよかつた、旭山……一関。……平泉。――毛越寺旧蹟、まことに滅びるものは美しい! 中尊寺、金色堂。あまりに現代色が光つてゐる! 何だか不快を感じて、平泉を後に匆々汽車に乗つた。九時仙台着、やうやく青衣子居を探しあてて厄介になる。青衣子君の苦脳と平静とは尊くも悲しい、省みて私は私を恥ぢた。

【芭蕉を意識した句】

山頭火のみちのくへの旅も、平泉が北限になります。このころの句に、「ここまでを来し水飲んで去る」の句があります。芭蕉『奥の細道』を意識した句です。

【日和山】

この日の日記に、「早い朝湯にはいつてから日和山の展望をたのしむ」とあります。山頭火は、日和山の展望から美しい港の風景をたのしんだようで、石巻市日和が丘の日和山公園に、「水底の雲もみちのくの空のさみだれ あふたりわかれたりさみだる」の句碑があります。

七月四日 晴。

どうやら梅雨空も晴れるらしく、私も何となく開けてきた。野宿のつかれ、無一文のはかなさ。……二里は田圃道、二里は山道、やうやくにして永平寺門前に着いた。事情を話して参籠――といつてもあたりまへの宿泊――させていただく。永平寺も俗化してゐるけれど、他の本山に比べるとまだまだよい方である。山がよろしい、水がよろしい、伽藍がよろしい、僧侶の起居がよろしい。しづかで、おごそかで、ありがたい。久しぶりに安眠。

【永平寺】

この日の日記に、「やうやくにして永平寺門前に着いた」とあります。山頭火は昭和10年末から、山陽道、東海道、東北道を歩き平泉まで行き、鶴岡から北陸道を南下して福井へ到着しました。永平寺に来る前、山頭火は「良寛」を慕い国上山の五号庵へ、さらに奥の細道の旅跡平泉で「芭蕉」を想う旅をしていました。山形の鶴岡からは遥かに遠い越前福井の永平寺へ向かうわけですが、法衣を脱ぎ笠をも捨ててしまった今は、ただの乞食はできるとしても、如法な托鉢はできないので、俳友和田光利氏が鶴岡から福井までの列車の乗車券は買ってくれたのです。山頭火が永平寺へやって来たのは昭和11年7月4日。京福鉄道永平寺線は当時すでに開通していましたが、永平寺まで山頭火は歩いて来たようです。大山澄太からの山頭火談によれば、

「あの時わしは旅に疲れ、暑さにあてられ、路銀もなく、その上、笠も衣もわけがあって、鶴岡の俳友和田光利君に与えてしまったので、着物一枚のしりからげで参詣、まったくの乞食であった。しかし(永平寺の)係りの人に、自分は熊本報恩寺住職望月義庵の弟子で、種田耕畝(こうほ)と申します。俳句を作りながら、行乞の旅をしているものです。旅に疲れて一銭のお金もないものですが、しばらく泊めて下さいませんでしょうか、と頼んだところ、善良そうな和尚は、よろしいと答えて七日間、気持ちよく食べさせて下さった。寺内の樣子もわかったので、三日目からは法堂に出頭し、勤行もさせて貰った。そして師からきいていた永平半杓のあの水の御教の手水をも拝んだ。ほんとうに有難いことであった。」といいます。

山頭火は永平寺で参籠を許され、7月7日まで4日間滞在しました。またも山頭火談。

「澄太君、僕のような横着な破戒僧が、あの時福井から大本山へ歩いて参り、受付の色の白い和尚さん(あとで調べると笛岡自照師)の御好意で、ゆるゆる参籠させていただき、自分としては永年の念願を達したせいか、これらの句は、君には解ってもらえると思うが、山頭火耕畝の面目が一応表現出来たと思っているがね。」

【永平寺での山頭火】

山頭火は出家得度の後、曹洞宗瑞泉寺内の味取観音堂の堂守となって、1年2ヶ月後、大正15年4月14日、「あわただしい春、それよりもあわただしく私は味取をひきあげました、本山(永平寺)で本式の修行するつもりであります。出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝いをします」と友人の木村緑平に葉書を送っています。山頭火は曹洞門下の禅僧耕畝(こうほ)として、それからの行乞行脚の中、いつかは本山永平寺へ行きたいとの想いはずっと胸底に持ち続けていました。

永平寺には、「てふてふひらひらいらかをこえた」と「水音のたえずして御仏とあり」の句碑があります。ほかに、永平寺では詠んでいませんが、「生死の中の雪ふりしきる」の句碑もあります。「生死の中に仏あれば生死なし」は、まことに古仏のことば通り、出家後「生死の中の雪ふりしきる」と歎いた山頭火はここで「御仏とあり」、つまり生死の中に実在する御仏を、永平寺で観取(かんしゅ)できた句なのです。大山澄太著『俳人山頭火の生涯』には、次のように記されています。

〝平泉から彼は再び光利(和田あきとし・秋兎死)の純情に心をひかれ、鶴岡へ舞い戻ったのである。それはよかったのであるが、光利居をねじろにして、市内を五、六日行乞したのである。人情のこまやかな庄内地方では、どの家も山頭火に米銭を惜しまなかった。それがわるかったのである。ふところに自信の出来た山頭火は、ついに大脱線をした。とある一流の料亭に登って、出家以前の山頭火となって、二、三日飲めや歌えで遊び興じてしまった。果然支払いが出来ぬ。そこで馬をつけられて光利居に帰って来た。それでも光利は山頭火のために惜しみなく払ってくれた。酒のとりこから醒めた山頭火は、もうじっとしていられない、その懺悔のしるしとして、破戒の罪として、彼は断然、僧形を止めてただの人間山頭火に還俗したのである。彼は笠と衣を脱いで光利に与え、頭陀袋は、焼いて捨ててしまった。〟

さらに山頭火は7月8日付けで、木村緑平に次の絵ハガキを送っています。

「七月八日、山生 おたよりまことにありがたう。

    永平寺参籠五日間

  水音のたえずして御仏とあり

 さびしいのか、かなしいのか、あはれあはれ。」

七月十九日 晴。

未明散歩。山鳩、水声、人語。鶴岡――仙台。

   秋兎死君に

 これがおわかれのガザの花か

 秋兎死うたうてガザ咲いておくのほそみち

 あふたりわかれたりさみだるる

 はてしなくさみだるる空がみちのく

   平泉

 ここまで来しを水飲んで去る

 水音とほくちかくおのれをあゆます

 水底の雲もみちのくの空のさみだれ

 こころむなしくあらうみのよせてはかへす

 あてもない旅の袂草こんなにたまり

 みんなかへる家はあるゆふべのゆきき

 さみだるる旅もをはりの足を洗ふ

 梅雨空の荒海の憂欝

 その手の下にいのちさみしい虫として

   永平寺

 てふてふひらひらいらかをこえた

 水音のたえずして御仏とあり

 山のしづかさへしづかなる雨

 法堂あけはなつあけはなたれてゐる

 何もかも夢のよな合歓の花さいて

 わかれて砂丘の足あとをふむ

 島が島に天の川たかく船が船に

 ゆう凪の蟹もそれぞれ穴を持つ

 今日の足音いちはやく橋をわたりくる

   竹原 生野島

 萩とすすきとあをあをとして十分

 すずしく風は萩の若葉をそよがせてそして

 そよかぜの草の葉からてふてふうまれて出た

   無坪兄に

 手が顔が遠ざかる白い点となつて

 旅もをはりのここの涼しい籐椅子

 死にそこなうて山は青くて

   螻子君に

 朝風すずしくおもふことなくかぼちやの花

 朝の海のゆうゆうとして出船の船

 ヱンヂンは正しくまはりつつ、朝

 ほんにはだかはすずしいひとり

【みんなかへる家はあるゆふべのゆきき】

この日の日記に、「みんなかへる家はあるゆふべのゆきき」の句があります。山頭火は、生来の遊び好きですから雑踏やネオン街には胸が躍って欲望を抑えられないことが多かったのでしょう。ああ、煩悩の捨てきれぬ山頭火、久しぶりに贅沢をして、さて外に出てみれば、もはや夜は更けて、家路につく人の群れに山頭火は飲み込まれます。しかしながら、山頭火には戻る家はなく帰りを待つ家族はとうに自ら捨て去っています。酔いもとうに醒めて苦い思いをしながら眠れぬ夜を過ごし、朝、きっぱりとした気持ちでわらじをはいた山頭火も、さすがに夕べともなると心が傷んだのでしょう。人々の家路を急ぐ姿を見るにつけ、帰る家のない自分を改めて思ったのでしょう。

【水音とほくちかくおのれをあゆます】

また、「水音とほくちかくおのれをあゆます」の句もあります。宮城県岩沼市下野郷の沼田健一氏宅に、この句と「みちのくにてみちのくの土のあたたかく」「とほく白波の見えて松のまがりやう」の句碑があります。

【水底の雲もみちのくの空のさみだれ】

次に、「水底の雲もみちのくの空のさみだれ」の句もあります。山頭火が石巻の佐藤露江を訪ねたときに詠んだのが「水底の雲もみちのくの空のさみだれ あふたりわかれたりさみだる」の句で、石巻市日和が丘の日和山公園に、この句碑があります。

【てふてふひらひらいらかをこえた】

さらに、「てふてふひらひらいらかをこえた」の有名な句もあります。永平寺境内に、この句碑があります。人間界から疎外されたといっていい立場に生きた山頭火にとって、小さな蝶の姿にも、その時々の見過ごせぬものに誘われずにはいられなかったのでしょう。てふてふはまさに山頭火その人なのであり、いらかをこえたとは、ある煩悩を超えて仏の道に近付いたということと思われます。ひらひらというのが山頭火らしいところで、あちこち寄り道しながら風に飛ばされそうになりながら、やっとのこと超えたのです。この句については、大山澄太著「山頭火と修証義」の中で山頭火談として、次のように記されています。

「あのいらかは大法堂のいらかなのだ。僕が手前の軒下に坐っていると、蝶が二つ飛んでいた、それがなんと、次第に小さく小さくなって、高く舞い上がり、とうとう法堂を越え去った。その時、はっと出来たのだった。一つの飛躍を感じたよ」

【水音のたえずして御仏とあり】

続いて、「水音のたえずして御仏とあり」の句もあります。永平寺境内に、この句碑があります。山頭火は自己をとりまく静寂な自然の中に坐し、自然と一体となり、伝わってくる水音に仏の声を聞く思いにかられていったのでしょう。山頭火の旅は単なる漂泊放浪の旅ではなく、ひたすらに歩きつづけることによって、自然と一体化してゆく「歩行禅」そのものです。山頭火は道元に学び、芭蕉や良寛を慕っていたといいます。ここに、山頭火の内なる世界を解く秘密の鍵があると思われます。

【法堂あけはなつあけはなたれてゐる】

さらに、「法堂あけはなつあけはなたれてゐる」の句もあります。朝早い勤行の尾末に参加させていただいての作。この句については、大山澄太著「山頭火と修証義」の中で山頭火談として、次のように記されています。

「最後の法堂の句の方がわしにはなつかしい、大雄峰殿での朝早い勤行は実に荘厳だった。わしは雲水さんのうしろの隅の方に坐っていた、お勤めがすむとさっと、雲水さんが障子を開け放つ、すると夜明けの全山の緑が流れこむ、あれは何とも言えなかったが、わしは今までの心のこだわりから放たれて、すかっとしたよ。」

【永平寺 三句】

  てふてふひらひらいらかをこえた

  水音のたえずして御仏とあり

  法堂あけはなつあけはなたれてゐる

山頭火は、「右(上)の第二句は、自分としては生死をこえた心境を、蝶に托したつもりだった」と大山澄太に語っています。また、「澄太君、永平寺のあの三句は、僕としては心にこたえるものがあった。悟りの作だなどというのではないが、黄色のてふてふがね、二つ、弱い羽根でひらひらしていたが、わしが坐って観ている間に、とうとうあの大本堂の屋根を越えたよ。その時、わしははっと感得した。この気持はあんたには解って貰えると想う」とも語っています。

【山頭火の随筆】

山頭火の随筆に、次の『水』があります。

「禅門 ─ 洞家には『永平半杓の水』といふ遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかへして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを誡められたのである。さういふ話は現代にもある、建長寺のある和尚は、手水をそのまま捨ててしまつた侍者を叱りつけられたといふことである。使つた水を捨てるにしても、それをなおざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる、 ─ 水を使へるだけ使ふ、いひかへれば、水を活かせるだけ活かすといふのが禅門の心づかいである。物に不自由してから初めてその物の尊さを知る、といふことは情ないけれど、凡夫としては詮方もない事実である。海上生活をしたことのある人は水を粗末にしないやうになる。水のうまさ、ありがたさはなかなか解り難いものである。

  へうへうとして水を味ふ

こんな時代は身心共に過ぎてしまつた。その時代にはまだ水を観念的に取扱ふてゐたから、そして水を味ふよりも自分に溺れてゐたから。

  腹いつぱい水飲んで来てから寝る

放浪のさびしさあきらめである。それは水のやうな流転であつた。

  岩かげまさしく水が湧いてゐる

そこにはまさしく水が湧いてゐた、その水のうまさありがたさは何物にも代へがたいものであつた。私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠ひたい。」

【死にそこなうて山は青くて】

また、「死にそこなうて山は青くて」の句もあります。山頭火は広島県大崎上島町生野島に2度訪れており、この句は昭和10年生野島に訪ねたときに詠んでいます。生野島東野地区の正光坊に、この句や「暖かく草の枯れているなり」「うごいてみのむしだつたよ」「こんなにうまい水があふれてゐる」「ほろほろ酔うて木の葉ふる」の句碑や山頭火の心を継ぐ版画家の作品があります。

七月廿二日

憂欝たへがたし、気が狂はないのが不思議だ。夜行で皈庵。大阪――広島

 たれもかへる家はあるゆうべのゆきき

 更けると凉しい月がビルのあいだから

   遊戯場

 やるせなさが毬をぶつつけてゐる

   或る食堂

 食べることのしんじつみんな食べてゐる

【其中庵に帰庵】

東北から其中庵に帰庵したのは7月22日、約七か月半の長旅でした。


https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946614438&owner_id=7184021&org_id=1946644743 【山頭火の日記(昭和11年7月22日~、其中日記九)】より

『其中日記』(九)

 昭和十一年(句稿別冊)

七月二十二日 曇、晴、混沌として。

広島の酔を乗せて、朝の五時前に小郡へ着いた。恥知らずめ! 不良老人め! お土産の酒三升は重かつたが、酒だから苦にはならなかつた、よろよろして帰庵した。八ヶ月ぶりだつた、草だらけ、埃だらけ、黴だらけだつた、その中にころげこんで、睡りつづけた。

【其中日記(九)】

『其中日記』(九)には、昭和11年7月22日から昭和11年12月31日までの日記が収載されています。

八月廿九日 曇、雨となる。

早起して、そして。……雨もわるくないな、しみじみおちつける、屋根漏はわびしいけれど、盥の音はさびしいが。まつたく秋だ、浴衣一枚では肌寒くなつた。仏さまへ蚊とり線香! 緑平老よ、あなたのたよりはほんたうにうれしかつた。酒三合三十銭、雑魚八尾十銭。ゆふぜんとして飲みだしたが、ぼうぜんとして出かけた、そしてざつぜんとして戻つた。……

   自戒三則

 一、腹を立てないこと。

 一、物を粗末にしないこと。

 一、後悔しないこと。

    いひかへると、物事にこだはらないこと。

【自戒三則】

この日の日記に、「自戒三則」として、「一、腹を立てないこと。」「一、物を粗末にしないこと。」「一、後悔しないこと。いひかへると、物事にこだはらないこと」があります。

十月二日 曇――雨。

自己省察、身辺整理、清濁明暗、沈欝。油買ひに行く(酒買ひにあらず)、路傍のコスモスが美しかつた、秋も日に日に深うなる。……よくならうとすればするほどわるくなる、といふよりも、わるくなればなるほどよくならうとする、……真実なる矛盾である。……しばらく畑仕事をしたら、草の実がくつついた。今夜も不眠、やたらに読書した。風が出て月は見えなかつた。

   ウソとホントウ

ウソらしいウソはよい、ウソらしいホントウもよい。

ホントウらしいウソはよくない。

私はホントウらしいホントウをいひたい。

【風の明暗をたどる】

山頭火はこのころに、「風の明暗をたどる」の句があります。山頭火は風の明暗をたどりつつ、しだいにそれが、一つの方向へ向って吹いていることを感じます。それが一歩一歩、正確に、死の淵への道をたどっていることを知ります。

十月五日 曇。

沈欝たへがたし、昨夜の今朝だからいたしかたなし。その日のその日のその日がやつてきた! やつてきた! 茫々漠々、空々寂々、死か狂か、死にそこないの、この心を誰が知る! 夕方、酒が持ち来された、ほどなく樹明君来訪、しんみり飲んで別れた、よかつたよかつた。やすらかな眠をめぐまれた。

   (五日)

 かさりこそりと虫だつたか

【かさりこそりと虫だつたか】

この日の日記に、「かさりこそりと虫だつたか」の句があります。また、山頭火の句に「かさりこそり音させて鳴かない虫がきた」があります。其中庵での約6年間、安逸な生活の中で、山頭火は自己の停滞を感ずるようになてきました。そんな時、まず虫がきてくれたことに、すなおに、まるで友人を見出したかのように喜んだことでしょう。

十月八日 晴――曇。

朝寒、火鉢がこひしくなつた、朝月もつめたさうだ、まともに朝日があたたかく、百舌鳥の声が澄んできた。自己省察、その一つとして、――こんどの旅は下らないものであつたが、よい句は出来なかつたけれど、句境の打開はあると思ふ、生れて出たからには、生きてゐるかぎりは、私も私としての仕事をしなければならない、よい句、ほんたうの句、山頭火の句を作り出さなければならないと思ふ、私は近来、創作的昂奮を感じてゐる、私にもまだこれだけの芸術的情熱があるとは私自身も知らなかつた、――私は幸にして辛うじて、春の泥沼から秋の山裾へ這ひあがることができたのである。シロがやつてきてうろうろしてゐる、彼もまた不幸な犬だ、鈍にして怯なること私に似てゐる。午後、ともすれば滅入りこむ気分をひきたてて、秋晴三里の郊外を歩いて山口へ出かける、椹野川風景も悪くない、葦がよい、花も葉も、――いろいろ買物をして、湯田で一浴して帰つた、机上のノートに書き残して置いやうに、間違なく暮れる前に! 帰ると直ぐ水を汲む、米を磨ぐ、お菜を煮る、いやはや独り者は忙しいことだ。ゆつくりと晩飯、おいしいな、ちよいと一杯ほしいな。留守中誰も来なかつたらしい。ほんたうに好い季節だ、もつたいないほどの秋日和だ。意識が冴えて剃刀のやうだ、そして睡れない、この矛盾が私を苦悩せしめる、ホンモノでないからだ。古雑誌を読む、芥川龍之介の自殺について小穴隆一が書いてゐる、考へさせられる問題だ、古くして新らしい問題だ、それは人間そのものの問題だ。今日の幸福は千人風呂にはいつて、そして一杯ひつかけたことであつた、うれしくもあり、さびしくもあつた。

   今日の買物――(中略)

やつぱり酒がいちばん高い、酒を飲まないと苦労はないのだけれど、しかし、たのしみもないわけだ。

自己の単純化。何よりも簡素な生活。

今日の太陽!

自画像

 句集の題名として悪くないと思ふ、平凡なだけ嫌味はない、私の句集にはふさわしいであらう。

秋の山、秋の雲、秋の風、秋の水、秋の草――秋の姿が表現する秋の心。

 松茸よ。

 秋を吸ふ、食べる、飲む。

 秋を味ふ、秋の心に融ける。

   (八日)

 晴れきつて大根二葉のよろこび

 柿の葉のちる萩のこぼるること

 秋晴の馬を叱りつ耕しつ

 蕗の古葉のいちはやくやぶれた

 月夜ゆつくり尿する

 播かれて種子の土におちつく

 風が枯葉を私もねむれない

   (山口吟行)

 細い手の触れては機械ようまはる(工場)

 秋草のうへでをなごで昼寝で

 秋風の馬がうまさうに食べてゐる

 とんぼうとまるや秋暑い土

 みのむしぶらりとさがつたところ秋の風

 お父さんお母さん秋が晴れました(ピクニツク)

【こんどの旅】

この日の日記に、「こんどの旅は・・・句境の打開はあると思ふ、生れて出たからには、生きてゐるかぎりは、私も私としての仕事をしなければならない、よい句、ほんたうの句、山頭火の句を作り出さなければならないと思ふ、・・・私は幸にして辛うじて、春の泥沼から秋の山裾へ這ひあがることができたのである」とあります。「こんどの旅」とは、山頭火が精神的な停滞を抜け出すため、昭和10年12月6日から翌11年7月22日までの約8ヶ月に及ぶ、良寛や西行、一茶、芭蕉の跡を辿る東上の大旅行のことをいいます。

十月九日 晴。

身心やうやくにして本来の面目にたちかへつたらしい、おちつけたことは何よりうれしい。午前、鉄道便で小さい荷物がきた、黙壺君からの贈物であつた、福屋の佃煮、おかげで御飯をおいしくいただくことができる、ありがたし。秋をたたへよ、秋をうたへよ、秋風日記を書き初める。痔がよくない、昨日歩いたからだらう、痛むほどではないけれど、気持が悪い。昼飯は久しぶりにうまい味噌汁。何といふしづかさ、純愛の手紙といふのを読む、彼の純な心情にうたれる。午後は畑仕事、蕪、大根、新菊などと播くものが多い。夕方出かけて一杯ひつかける。夕餉するとて涙ぽろぽろ、何の涙だらう。何となく寝苦しかつた、おちついてはゐるけれど。――ぐうたら、のんべい、やくざ。……

   (九日)

 うれしいことでもありさうな朝日がここまで

 はたしてうれしいことがあつたよこうろぎよ

 飛行機はるかに通りすぎるこほろぎ

 つめたくあはただしくてふてふ

 ひつそりとおだやかな味噌汁煮える

 百舌鳥もこほろぎも今日の幸福

 水をわたる誰にともなくさようなら

 月の澄みやうは熟柿落ちようとして

 酔ひざめの風のかなしく吹きぬける(改作)

【水をわたる誰にともなくさようなら】

この日の日記に、「水をわたる誰にともなくさようなら」の句があります。別に山頭火の句に、「うしろから月のかげする水をわたる」があります。

十月十二日 曇。

日中は晴れたり曇つたり、夜に入つてしぐれる音か、落葉する音か、いづれ雨は近いだらうが、それがむしろ望ましいが、なかなかかたい天候である。落ちついて、さうだ落ちついて、ひとりで、そしてひとりで、よろしいな。枇杷の枯枝をかたづける、この一木がことしの冬の焚付を保證してくれる、ありがたい。ゐのこつち草――ぬすと草の実のねばりつよさよ。午後は近郊散策、私の好きな石蕗が咲いてゐた、龍膽はたづねあてなかつた、野も山もところどころ紅葉してゐる、百姓は田畝でいそがしく、たいがい留守であつた。山の木、野の草を活ける、楽しみはここにもある。自転屋の主人Jさん、つづいて酒屋の主人Mさんがやつてきて四方山話。今日でサケナシデーが三日つづく、飲みたいのをぐつと抑へて、――つらいね!今日はじめて熟柿を食べる(歯のない私は熟柿しか食べられない)、何といふ甘さ、それは太陽そのものの味であらう。今夜も寝苦しかつた。……

   (昭和十一年十月十二日午前十時記す)

――所詮、私は私の道に精進するより外はないのである、たとへ、その道は常道でなくとも、また、難道であつても、何であつても、私は私の道を行かざるを得ないのである。句作道、――この道は私の行くべき、行き得る、行かないではゐられない、唯一無二の道である。それは険しい道だ、或は寂しい道だ、だが、私は敢然として悠然として、その道に精進する。句作が私の一切となつた、私は一切を句作にぶちこむ。私は我儘である、私は幸福である、私は貧乏である、私は自由である、私は孤独である、私は純真である。私は飛躍した、溝を飛び越した、空も地もひろびろとして、すべてが美しい。よろこびか、かなしみか、よろこびともいへようし、かなしみともいへよう、しかし、私はそれ以上のものを感じる。――

苦しみがなければ喜びもない、――これが人生の相場である、そして苦しみと喜びとの度合は正比例する、苦しみがはげしければはげしいほど、喜びもつよいのである。苦しんで喜ぶか、はげしく苦しんでつよく喜ぶか、苦しまず喜ばず、無味に安んずるか、どちらでもよろしい(後者は実際がなかなか許さない)。苦悩悲喜を超越したところが禅門の悟だ、煩悩具足の我々であるけれど、その煩悩に囚へられないやうになるのが仏道修行である。現象と表象。事象(自然人生)を現象として実験し分析し研究するのは科学者、それを綜合的に表象として表現するのが芸術家だ、芸術は人を離れて、即ち作者を没しては意味をなさない。

   柿の葉

私の句集をかう名づけてもよからうではないか、柿の実でもない、柿の木でもない、柿の葉である。私の好きな葉である。柿膓、柿の帶といふやうな書名は知つてゐるが。私の句集には柿の葉がふさはしい。我が心柿の葉に似たり。

   梅干の味

私は梅干の味を知つてゐる。孤独が、貧乏が、病苦が梅干を味はせる。梅干がどんなにうまいものであるか、ありがたいものであるか。病苦に悩んで、貧乏に苦しんで、そして孤独に徹する時、梅干を全身全心で十分に味ふことが出来る。

【句作道】

この日の日記に、「――所詮、私は私の道に精進するより外はないのである、たとへ、その道は常道でなくとも、また、難道であつても、何であつても、私は私の道を行かざるを得ないのである。句作道、――この道は私の行くべき、行き得る、行かないではゐられない、唯一無二の道である。それは険しい道だ、或は寂しい道だ、だが、私は敢然として悠然として、その道に精進する。句作が私の一切となつた、私は一切を句作にぶちこむ。」とあります。

十二月三十一日 曇。

雨、あたたかな、おだやかな。昭和十一年もいよいよ今日かぎりだ。飲みすぎ食べすぎ。大晦日だから身のまはり家のまはりを少しばかり片づける。郵便が来ない。街へ、湯屋へ出かける。松、梅、竹、裏白、譲葉、……門松らしいものをこしらへて飾る。夕方、樹明君来庵、例年の如く餅を頂戴する、有合の下物で飲む、――かうして、ここで、年を送り年を迎へる、めでたしめでたし。暮れてから湯田へ、千人湯に浸つてから一杯二杯三杯。……掛取にも見離された節季!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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