山頭火の日記 ㊼

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946877010&owner_id=7184021&org_id=1947260428 【山頭火の日記(昭和14年5月2日~)】より

五月二(ママ)日 曇、夕立、晴、満島泊。

朝早く起きて散歩、山も水も人も快い。七時出立、まことによい宿だつた、昨日の宿にひきかへて安くもあつた、何となく気持がよろしい。行けるところまで歩くつもりで、水窪川(みさくぼがわ、天龍の支流の一つ)にそうて行く、河鹿がしきりに鳴く、右側の山には山吹、馬酔木、もちつつじの花が或は黄ろく、或は白く赤く咲きつづいてゐる、行き逢う山をとめもきよらかである、――今日の道この道はよいなあと思ひ思ひつつ歩いて行く。――山急にして水はみな瀧、欝蒼として声あり、――とでも形容したい。山の水で顔を洗ひ辨当行李を洗ふ、むろん、腹いつぱい飲んで。水を堰き流木を整理してゐる、“や”と呼ぶさうな、路傍の石仏を昔から在つたままにコンクリートの壁をわざわざ拵らへて祀つてある、うれしい心づかひである、私も立ちどまつて心経一巻諷誦する。風物がしだいに信州らしくなる、屋根にたくさん石をのせてある、訛が解りにくい。ぼたん、藤、つつじの花がうつくしい。十二時近く水窪町へ着く、さびしい街だ、ここで酒屋の若主人から、これからは難路であることを教へられ、逆に電鉄のある方――天龍本流へ戻ることにした、やかまし食堂といふ家で、大豆腐一丁(何と大きな豆腐であつたよ)、酒一本、飯一碗を詰めこんだ、そしてむつかしい、あぶない峠を登りはじめた、間もなく雨が降りだした、やうやく登りつくして、いそいで下る途中で雷雨にたたかれた、白神(しらなみ)駅に辿りついた時は五時を過ぎてゐた(二里あまりに五時間を費したのだ)、駅といつても駅員はゐない、粗末な小屋があるばかりである、それでも乗る人はあつて数人あつまつた、椎茸買出商人、出稼人、山住神社参詣人、等々で、みんな親しく賑やかに話し合ふ、私は言葉がよく通じないことを残念に思うた、発電所に落雷したとかで停電、電車がおくれて、最も近くて宿屋がある駅といふ満島へ下車して、T屋に落ちついた時は七時半、山峡は早くもとつぷり暮れてゐた、途中は苦しかつたけれど、風景は申分なかつた、殊に峠を下りつつ、天龍を見はるかす山のすがたは何ともいへなかつた、絶景絶叫だつた。山ぐみ、苺ばら、どちらもさみしいつつましい花だな。この宿は可もなく不可もなし、あたりまへといふところ、料理は塩辛いが夜具は悪くない。今夜も昨夜のやうに、給仕してくれるのに閉口した(断つても聞いてくれないのである)。どうも関東地方は一般に、酒が高くて、しかも悪い、夏はビールにした方が安全であらう。一風呂浴びて一杯ひつかける気持はまさに千両万両! 障子をあけたら、山が月が、瀬音が、――良い月夜になつた。なぜだか、労れてゐるのに寝苦しかつた。今日の話題(旅のエピソードいろいろ) 小娘がどうしてもヅロースを穿かしてくれとせびる。木樵の老人が鉈を拾うたら解るやうに置いていつてくれといふ。山住様を脊負つてるから雷も恐くないといふ。雷獣を捕へて煮て食べた話。白神長者の家。地名の読み方の珍らしさ、大嵐(おほぞれ)など。電車では天龍川は味へない、トンネルばかりだから。抜ける前の歯の悩ましさよ。

 朝の水のおもむろに筏ながれくる

 山の上まで家があつて畑があつて青々

 岩が落ちてきさうな山吹のちる

 朝風河鹿ほんによろしいな

 水があふるる山のをとめのうつくしさ

 郵便やさん藤の花を持ちあるく

 山がせまる谷がちぢまつてまつさを

 旅人の身ぬちしみとほる水なり

 水をひいてこんなところにも一軒屋

 足もと蕨が生えてゐてのびやかな

 歩いてまいにちいたどりが伸び伸びて

 屋根に石置いて春のうれしく

 伐つては流す木を水に水に木を

 曇りてしづかな河鹿しきり鳴く

 いちにち木を伐り木を挽きひとり

 けふも一つのよい事をしてあげて歩く

    (杣人に斧を拾うてあげた)

 いただきちかい若葉となり雨となり

 ちよいと雨をよけたのが葉桜のかげ

 山を越えると天龍見えてくると

 のぼりつくして一本松晴れてきた

 はじめて人に逢ふ山のしぐれて

 山蟻山のしづけさを這うてくる

 立ち枯れの樹の大きくて山ざくら花

 山の高さへわきあがる雲で

 若葉がくれの瀬音はまさしく天龍川

 こそこそ逃げるもかなしからずや山のとかげは

 峯をへだててたまたま啼くは筒鳥か

 山はしづけく鳥もうたへば人もうたふ

 山また山の、声が涸れたよ

 山ふかくして白い花

 夕立晴れて夕焼けて雲が湧いて

 天龍はすつかり暮れて山の灯ちんがり

 山が月が水音をちこち

【飯田】

山頭火は、飯田に2回来遊しています。初めの来遊は、昭和9年4月14日に清内路峠を越えて上清内路村に一泊、15日に飯田に入りました。その日、今宮風越館(現在は丸山公民館)での歓迎句会に臨みましたが、句会の席で発熱、肺炎と診断され緊急入院、危うく一命を取り留め、28日に桜町駅から電車で山口県に帰りました。2回目の来遊は、昭和14年5月2日に静岡県水窪町から長野県に入り、翌日電車で伊那をめざし天竜峡で途中下車しています。5日に権兵衛峠を越えて木曽路へ出ました。山頭火の句碑は、飯田市今宮公園・清内路村七七平に各1基(自筆)、清内路村平瀬橋に4基(2基自筆)の6基が建てられています。

 飲みたい水が音たててゐた (清内路村平瀬橋)

 山ふかく蕗(ふき)のたうなら咲いてゐる (清内路村七七平、自筆)

 山しづかなれば笠ぬいでゆく (飯田市今宮公園、大山澄太筆)

 山なみ遠く信濃の国の山羊がなく (清内路村平瀬橋)

 山ふかく白い花 (清内路村平瀬橋)

【水があふるる山のをとめのうつくしさ】

前日(5月2日)の日記に、「西渡の印象として――こぢんまりとまとまつてゐる。料理屋、仕立屋、床屋、食料品店、宿屋が多い。物価は割合に安い、商人も一手だ。若い女の肌が白く美しい。宿の扁額に曰く“故郷難忘”」とあり、西渡に泊まっています。この日の日記に、「水があふるる山のをとめのうつくしさ」の句があります。大井橋のたもとに、この句碑があります。

五月三日 晴、うららかな日であつた、若水居。

私も鶯も早起き、そこらを散歩する。今朝はなかなか肌寒い、どの家にもまだ火燵があけてある、だんだらの家並、さすがに山の町らしい、お休所と書いた店が多い(平岡には限らないけれど)。男は法被を、女はモンペを穿いてゐる。上りたり下つたりするうちに、神代榎(天然記念物)の大木を見つけた。今日は足が痛い、衰へたりな山頭火、旅をつづけてゐると、さらに老を感じる。九時の電車で、いよいよ伊那へ。トンネル、トンネル、トンネル、天龍川がちらりちらり。十時、天龍峡駅下車、姑射橋附近の眺望がすぐれてゐる、枝垂桜、朴の若葉がよかつた、遠く連峯には雪がかがやいてゐる。何となく憂欝、コツプ酒をひつかけてごまかす外なかつた。十二時の電車で私は伊那へ運ばれていつた、電車はこころよく走る。――赤石連山の壮観、家々の五月幟、時に満員、乗客の漫談(二十六人の徴兵検査で二十五人合格したとか)、車掌が声高く“高遠原”、このあたりは高原らしい蕭条たるものがあつた。飯田を通過する時は感慨無量であつた、私は胸の中で、飯田よ飯田よ、蛙堂老よ蛙堂老よ、と感謝の合掌を捧げるばかりだつた。伊那地方に入ると、天龍川は平凡化する、天龍が天龍の天龍たるところを失うてしまうのである、天龍は天龍峡の下流となつて、山が迫り谷が蹙つてその本質を発揮すると思ふ、もとり伊那の天龍はそれとしての味もあらうが。一時、伊那町着、あちらで訊ね、こちらで訊ねて、やうやく若水居をたづねあてた、荷物――といふほどのものでもない――だけは預けて置いて、女学校に若水君を訪ねる、初対面だが初対面らしくもなく。伯先桜、天然記念物、樹齢二百年位、堂々たる大木。駒ヶ岳の偉容(東駒、西駒、南駒)。女学校々庭には、桜(山桜)、山吹が咲きみだれてゐた。白樺、満天星の若芽もなつかしかつた。同道してバスで井月の墓に参詣した(記事は前の頁に)、それから歩いたり乗つたりして高遠城址を観た、月が月蔵山から昇つた(満月に近い、ほんたうに信濃の月だつた)、アメの魚がおいしかつた。葉桜の水たまりでは蛙がしんみり鳴き、料理屋では名残の花見客がドンチヤン騒いでゐた、私たちも酔ふた、酔歩まんさんとして、自動車に揺られて戻つた、戻るなり前後不覚でぐつすりと睡つたのである、ありがたしありがたし。今日初めて斑鳩(いかる)といふ鳥を聴いた、ほがらかな声音である。このあたりではまだ桑の芽も固い、夜風もひえびえとしてゐる。炬燵で話したり食べたりするのは楽しい。山国のよろしさ、ほんに山国のよろしさに触れる。

   “いろいろ”

 私の旅とお産――

  淡々居、阿弥坊居、折嶺居、そして若水居。無縁塚。木曽では、麺類魚類は高いが酒類は割

  合に安い、よい酒ではないけれど飲めない酒ではない。都会の娘は一眼二眼見たときは美し

  いと思ふが、よく見ていると、醜さがだんだん見えてくる、田舎の女はその反対である。中年

  都会女には嫌な人間が多い。

   天龍川を前に

 向ふ岸へは日がさしてうそ寒い二三軒

 屋根に石を、春もまだまだ寒い

   平岡の神代榎

 なんと大きな木の芽ぶかうともしない

 遠山の雪うららかに晴れきつた

 桑の若葉のその中の家と墓と

 うらうら残つたのがちる

 おぢいさんも戦闘帽でハイキング

 裏門、訪ね来て山羊に鳴かれる

   高遠

 なるほど信濃の月が出てゐる

 飲んでもうたうても蛙鳴く

 さくらはすつかり葉桜となりて月夜

 旅の月夜のふくろう啼くか

 水音の月がのぼれば葉桜の花びら

 ポストはそこに旅の月夜で

   五月三日の月蝕

 旅の月夜のだんだん虧(か)げてくる

   アメの魚

 みすずかる信濃の水のすがたとも

   井月の墓前にて

 お墓したしくお酒をそそぐ

 お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました

 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね

 供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝

   “井月の墓”

伊那町から東へ(高遠への途中)一里余、美篶(みすず)村六道原、漬大根の産地、墓域は一畝位、檜の垣、二俣松一本立つ(入口に)、野木瓜、椋鳥?

┌ツツジ

├ヒノキ苗

└散松葉

 墓碑、(自然石)“降るとまで人には見せて花曇り”

 (井月にふさはしい)

 墓石、“塩翁斎柳家井月居士”俗名塩原清助

 位牌、“塩翁院柳家井月居士”

 夕日をまともに、明るく清く。

 駒ヶ嶽、仙丈ヶ岳。

 新しい盛土、石がのせてあつた。

 モンペ姿の少女。

 班鳩のうた。

  “苧環をくりかけてあり梅の宿”

  “何処やらに鶴の声きく霞かな”

  “駒ヶ嶽に日和さだめて稲の花”

 井月の偽筆! 彼は地下で微苦笑してゐることだろう!

 ┌塩原本家 軸、屏風、短冊

 └塩原新家 愛瓢

 ぶらぶらぬけさうな歯をつけて旅をつづける

 わが旅のつづくほどにお産のつづき

【ポストはそこに旅の月夜で】

この日の日記に、「ポストはそこに旅の月夜で」の句があります。山口市小郡下郷の小郡総合支所前に、この句碑があります。

【井上井月の墓参】

井上井月に影響を受けた一人に、山頭火が挙げられます。山頭火日記の「昭和5年8月2日」の項に、次のようにあります。

「八月二日 樹明兄が借して下さつた『井月全集』を読む、よい本だつた、今までに読んでゐなければならない本だった、井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい。」

山頭火は井上井月の句を繰り返し読み、思慕の情を持つようになります。昭和9年3月、52歳の山頭火は井月の墓参を決意し、山口から伊那谷に向けて東上します。しかし、清内路峠付近は雪が深く、4月に信州飯田市に入ったところで肺炎を発症し、2週間緊急入院することとなり墓参を諦めます。その4年後、昭和14年3月31日、再び山口県湯田「風来居」を出立し、5月3日、列車で天竜峡駅に着きます。姑射橋(こやきょう)から天竜峡を見た後、伊那谷に向かい、俳人であり伊那高女教諭だった前田若水の家に立ち寄り、若水の案内を得てようやく井月の墓参を果たします。

また日記の中に、「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と書きつけている通り、山頭火は井月の作品と生き方に影響を受けたと考えられ、蕉門の乞食僧俳人であった八十村路通などと合わせて、そこに放浪俳人の系譜を見ることもできます。井月の墓は田んぼの中の杉の木のそばにあり、墓石は丸い自然石です。「お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました」と懐しげに、満足げに山頭火はつくっていましたが、井月の墓参りは宿願だったのです。山頭火が「漂泊詩人の三つの型」として、その名をあげている先輩の最後の、そして、もっとも自分に近いタイプと思っていたのが井月でしたから、これで満足だったにちがいありません。この日の日記に、「なるほど信濃の月が出てゐる」の句などがあります。

【井上井月】

安政5年(1858)頃、井月はふらりと伊那にあらわれました。定住することを嫌い、俳諧に志のある人の家に2泊3泊、あるときは野宿をしながら伊那の各地を歩き、明治20年に66歳で没するまで漂泊をつづけました。乞食井月と呼ばれ約1700句を残し、その生き方は山頭火に大きな影響を与えたといわれています。芥川龍之介は、「井月の書は神業にも近い」と賞賛しています。数ある井月の句の中から次の4句。

 旅人の我も数なり花ざかり

 菜の花に遠く見ゆるや山の雪

 闇(くら)き夜も花の明りや西の旅

 除け合うて二人ぬれけり露の道

五月六日 曇――雨、福島町。

よい水がこんこんあふれてゐる、この家のよさの一つ、朝酒、それは花見酒でもあつた、裏から桜の花片がしきりに散りこんでくる。ゆつくりする、火燵といふものはなつかしい。八時を過ぎてから出発する、木曽旧道をたどる、道はくづれたまま、通る人はない、茫々たる道である、歩いてゐるうちに、人生のやりきれないものを感じる!老樹のかげに水が流れてゐる、飲むによく休むによい、ここに幾とせ幾たりの旅人が立ち寄つたであらうか! 木曽はよいとこ、水のゆたかさ、きよさ、うまさ。木曽山中の野糞は近来の傑作! 鳥居峠、古戦場、御野立所、遊園地、句碑二つ。

 雲雀よりうへにやすらふ山路かな(ばせを翁)

 木曽の栃うき世の人の土産かな(凡兆隠人)

今日の道が此旅の第一だと思ふ。十一時、藪原に入つた、一杯元気で福島へ急ぐ、途上、下げ髪モンペ姿の少女を見たとき、薙刀の一本をあげたいと思つた。道は木曽川に沿うて下る、昔風の旅姿の中年女に逢うた、自分も髷物映画中の一人であるやうな気がした。自動車の通らないのが何よりだ(わがまゝな私を許していただきたい)、福島町に入るまではバスもタクシーもトラツクも往来しなかつた。岩上で一人、岩魚か山魚を釣つてゐる、うらやましい。山吹橋巴ヶ渕、清冽閑寂。沿道は山吹、連翹、李の花がめざましかつた、河鹿も鳴いてゐた。水神、二十三夜菩薩の石塔はおもしろい。あちらこちらにさうずがことんことん。清流あり、腰巻を洗ふ。駒ヶ岳の全貌はすばらしかつた。木曽河原の大石小石しろじろとしぐれる。夕方福島着、一わたり歩いて、S屋といふ商人宿に泊つた。名物お六櫛、買うたところであげる人がない。今晩は酒よりも蕎麦を味いたかつたが果さなかつた、残念ながら、――酒飲はつらい! 宿のおかみさんが気をきかしすぎて、よい方の丹前を貸してくれたけれど、赤いので外出してきまりが悪かつた、さういへば部屋もここの最上室だ! 終夜水声。……

 草ぼうぼうとしてこのみちのつづくなり

 たたずめば水音のはてもなし

 誰も通らない道とて鴉啼く

 ぼうぼうとして今日の陽は照る

 みちはくづれたままとぼとぼあるく

 みちばたの石に腰かけ南無虚空蔵如来

 誰も通らない草萌ゆる

 水音のとほくちかくなりて道は

 誰も通らない山みちの電信棒

 道がわからない石仏に首なし

 山のふかさを小鳥それぞれのうたを

 このみちいくねんの栃若葉

 けふもいちにち山また山のさくらちる

 水を飲んでは水をながめて木曽は花ざかり

 山をふかめてあの声は筒鳥か

 木曽は南へ水もわたしも南へ行く

 山路ふかうして汽車の音の高うして

 山や川や家や橋がある

 芽ぶいて雑木はうつくしいトンネル山

 さくらちるやびつこで重荷を負うてくる

 春風の水音の何を織るのか

 春風の長い橋を架けかへてゐる

 分け入るやまいにちふんどし洗ふ

 花ぐもり道とへばつんぼだつたか

 流れて水が街にあふるるや春

   上田、明治大帝御野立所

 お姿たふとくも大杉そそり立つ

 木曽はいま芽ぶくさかりのしぐれして

 母子それぞれ薪を負うて山から戻る

 たまたま詣でて木曽は花まつり

【権兵衛峠】

山頭火は、5月3日に伊那にある井上井月の墓に参り、4日は伊那で過ごし、5日に伊那を出発し、権兵衛峠を越えて木曾谷に入りその夜は奈良井に泊っています。日記にあるように、山頭火は権兵衛峠を越えるのにかなり苦労したようです。また、伊那市の伊奈橋の南側には、「あの水この水の天竜となる水音」の句碑があります。

【福島の興禅寺】

山頭火は権兵衛峠を越えて奈良井に泊り、その後、福島、上松を経て名古屋へ向かいました。山頭火は、福島の興禅寺にある木曽義仲の墓に参ったようで、興禅寺境内に次の山頭火句碑が二つあります。

 たまたま詣でて木曽は花まつり (しだれ桜の木の下の句碑)

 さくらちりをへたるところ旭将軍の墓 (木曽義仲墓所前の句碑)

五月十三日 雨――曇――晴、詩外楼居。

こころよくねむれた朝のこころよさ。朝酒! もつたいなかつたけれど。――詩君の好意で新東亜建設博覧会見物に出かけることにして、九時の電車で三宮へ、一時まで場内をぶらついた、くたびれるためにはいつたやうなものだけれど、武漢攻略パノラマ、武勲室、満洲開拓村光景は身にしみて観てまはつた。何となく身心が重苦しい。三時、戻つて入浴して、書いたり考へたり、しづかに暮らした。

 けふは霽れさうな雲が切れると煤煙

 ここに旅の一夜がまた明けて雀のおしやべり

 晴れるとどこかで街の河鹿

 出水のあとのくづれたままの芽ぶいてゐる

   博覧会場にて

 眼とづれば涙ながるる人々戦ふ

 春雨に濡れてラクダは動かない

【風来居に帰る】

山頭火は、5月16日に湯田温泉の「風来居」に帰ってきました。緑平あてのハガキでは、次のように書いています。

「やうやく帰つきました、帰ってきたところで別事ありません。それで、何となく落ち着けますが、フシギフシギ、なるたけ早くここから或る場所へ転じます。」

文面にある「或る場所」とは定かではありませんが、おそらく四国松山のことで、そこを死に場所にしたいと考え始めているようです。


https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947260428&owner_id=7184021&org_id=1947280740 【山頭火の日記(昭和14年5月19日~、其中日記十五)】より

『其中日記』(十五)

五月十九日 晴。

さらりと朝湯によごれを流して。――自分のうちのしたしさ、そしてむさくるしさ、わびしさ。日本晴、めつきり夏めいた。今日はアルコールなし!

【其中日記(十五)】

『其中日記』(十五)には、昭和14年5月19日から昭和14年9月26日までの日記が収載されています。

【風来庵】

昭和13年11月頃、山頭火は其中庵を去り、山口県湯田温泉にある仮住居を「風来庵」と名付けて移り住んでいます。山頭火の日記はしばらく空白が続き、「風来庵日記」としてこの日から始まります。風来庵は、にぎやかな街中の片隅にあり、若い詩人仲間と飲み、語り、浮かれる毎日でした。さらに昭和14年1月、第六句集『孤寒』を刊行しています。

【中原中也生家】

風来庵の近くには、中原中也の生家がありました。中原中也は明治40年4月29日、湯田温泉で医院を開業していた中原謙助・フクの長男としてこの地で生まれましたが、わずか30歳で短い生涯を閉じました。中原中也の句。

   「帰郷」

 これが私の古里だ

 さやかに風も吹いてゐる

 ああおまへは何をして来たのだと

 吹き来る風が私にいふ

中也の弟・呉郎も、このころ詩を作っており、山頭火と親しくしています。山頭火も中原家にはよく出かけ、断りもなく上がり込み、裸で昼寝しているほどの親密さだったといいます。

【錦川通り】

湯田温泉の錦川通りやホテル常盤の庭に、「ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯」の句碑があります。山頭火は、小郡の其中庵に住んでからは、12㎞の道を歩いて湯田温泉に通っています。その後、昭和13年には湯田前町竜泉寺の上隣に移り住んでおり、小郡・湯田の時代に湯田温泉のことを多く詠んでいます。

【高田公園】

湯田温泉の高田公園に、「ほろほろ酔うて木の葉ふる」の句碑があります。

五月廿九日――六月九日

この間ブランク、それは渾沌とでもいふより外はなかつた。

 “自省録”

 “秋葉小路の人人”

       (身辺雑記風に)

   旧作二首

 一杯の茶のあたたかさ身にしみて

 こころすなほに子を抱いて寝る

   噫、忘き弟よ

 今はただ死ぬるばかりと手をあはせ

 山のみどりに見入りたりけむ

【四国へ】

山頭火が、四国へ渡ろうと考え出したのは、昭和14年6月ごろからでした。その理由の一つは、遍路となって、四国八十八ヶ所の霊場を巡拝したかったからです。そしてもう一つの理由は、体調の思わしくない自分の死に場所を探すためでした。

七月廿日 晴。

四時起床、入浴、洗濯。……今日は土用入、鰻が食べたいな。自省自責の念たへがたし、何だか燃えるものが私のうちそとにひろがりつつあるやうだ。図書館まで散歩、山口は今日から祇園祭。白木槿を途上で見つけた、清楚そのもののやうな。昼はやあさんに奢つて貰つて呉郎さんとビールの飲み直し。夜は祇園祭に出かけて白鷺の舞を観た。

 あるときは死なむとおもひ

 あるときは生きむとねがひ

 還暦となりぬ

 “酒を飲む者は閑をあるじとし”

 “ひとり住むほど面白きはなし”

               (芭蕉の言葉)

【還暦となりぬ】

この日の日記に、「あるときは死なむとおもひ あるときは生きむとねがひ 還暦となりぬ」とあります。

八月十日 晴。

空々寂々。――おはぐろとんぼがたくさんお寺の生垣をくぐりぬけてくる、草の葉にとまつて、しづかにしづかに翅をひろげたりたたんだりする、――ここは一坪にも足らない空地であるが、悪童の出入を禁じ雑草の茂るままにしてある、私の花園だ、そしてとんぼやてふてふの極楽である。古新聞を売つて、やうやく二十銭捻出した、それはすぐナデシコとなりトウフとなつた。豆腐は昔風なのがよい、絹漉は嫌ひだ、ことにヤツコで食べるときには。どうにも堪へきれなくなつて酒造会社から五合借りてちびちび飲んでしまつた、うまかつた(弱虫め、卑怯者め!)。酔うた、酔うて悠然として雲を眺めてゐた、善哉善哉、そして唄つた。――

 何をくよくよ川端柳

 米山さんから雲が出た……

呉郎さんを訪ねる、上り込んで本を読んでゐたが、誰も出て来ないので帰る、途中、Hさんから少し借りる、酔中厚顔とでもいはうか。白米一升四十銭、ささげ豆一束二銭、茹鮹一本十二銭。夕方から呉郎さん兄弟といつしよに山口へ出かける、M店でやあさんもいつしよになり、それからカフヱーRからTへ飲みまはつた、そしてここで私は失敬して一人帰つて来た、ずゐぶん酔うてゐた。今日はほんたうに飲みすぎた、カフヱーへはいつたのもよくなかつた、まことに過ぎたるは及ばざるに如かず、自制力に乏しい自分を罵りつつ寝た。……草叢の中で、もうこうろぎがうつくしいしらべをうたうてゐた。水、水、水、水ほどうまいものはないと思ふ。

 自分で自分に腹が立つうちはまだ見込があると思ふ

 ヤイトウ(乞食)の思出

 母よ恋し

【とんぼやてふてふの極楽である】

この日の日記に、「とんぼやてふてふの極楽である」とあります。別の句に「まいにちはだかでてふてふやとんぼや」があります。また、山頭火は死の5日前の日記に、「とんぼが、はかなく飛んできて身のまはりを飛びまはる、とべる間はとべ、やがてとべなくなるだらう」と書いています。ひとときをしきりに飛び回り、やがて消えるとんぼの姿は、死への仕度をまことに急ぐよりほかなかった山頭火の姿でもありました。

八月十二日 晴。

身心沈静。ぢつとしてゐると、何となくいらいらしてくるので、そこらを散歩する、雑草ののびのびとそよぐ姿を眺めると、なごやかな気持になる。……呉郎さん、約の如く来てくれた(持つて来てくれた!)、ありがたう、ありがたう。――午後、九州へ出発した。

【雑草】

この日の日記に、「雑草ののびのびとそよぐ姿を眺めると、なごやかな気持になる」とあります。山頭火の句に、「生きて雑草のやすけさにをる」があります。これは山頭火59年の生涯の到達点を示す句です。あるいは、山頭火が長い苦悩の歩みの、その終焉を間近にひかえて、どこに「安心立命」を得たかを示す句です。

九月十三日

今日も臥床、読書をせめてもの慰藉として。夜、樹明君来訪、停留所まで送る、酒をよばれた、いそがしい酒であつたけれどうれしい顔だつた。

 われあさましく ┌昨日今日 ┐

 酒をたべつつ  │生死の中の│

 われを罵る   └一句なり ┘

【われあさましく 酒をたべつつ われを罵る】

この日の日記に、「われあさましく 酒をたべつつ われを罵る」の句があります。別のの句に、「酒をたべてゐる山は枯れてゐる」があります。酒に生かされているような山頭火にとって、夕べの一杯は我々の晩酌以上に充実した大事なひとときです。口に入れるものがなくてひもじい思いをすることも多いけれど、今夜はこうして落ち着いて杯を傾けられる時間が持てました。そのことをたまらなく嬉しく感じながら、ひとりぼっちの宴がひっそりと始まります。山頭火にとって、十分多くはない酒をゆっくりあおってはかみしめるように味わいつつのど越しを楽しみます。それはまさしく「のんでゐる」のではなく「たべてゐる」のであり、放浪坊主の山頭火のささやかな感謝の想いです。破れかけた障子の向こうには、冬枯れの山がか弱い夕日に照らされています。青い山が好きな山頭火にとって、まさに芯から淋しい季節です。

九月廿六日 晴。

昨夜の今朝、時雨だよ、一浴一杯。山口まで散歩、方々に寄つて暇乞する。よい月夜だつた。

【風来居を去る】

山頭火はこの日、湯田温泉の風来居を捨てて旅立ちます。旅立ちにあたって、次の二句があります。

 鴉とんでゆく水をわたらう

 柳ちるもとの乞食になつて歩く

四国での旅は40余日でした。特に徳島、高知には頼れる知人もなく、しばしば野宿しています。そして、次の句があります。

 泊めてくれないおりからの月のゆく手に

 暮れても宿がない百舌鳥がなく

 まどろめばふるさとの夢の、葦の葉ずれ

 月夜あかるい舟がありその中にねる

 わが手わが足われにあたたかく寝る

すでに、からだの不調(狭心症的症状とアル中では)をしばしば訴えていた山頭火の最後の行乞は、そう長く続くものではありませんでした。四国各地を巡った旅も、わずか2ヶ月で終止符を打ち、松山の一草庵に生涯最後のいこいを求めることになります。

【また旅人になる あたらしいタオルいちまい】

 また旅人になる あたらしいタオルいちまい

山頭火は晩年、山口県柳井市「むろやの園」の裏門の前にあった書店「藤田文友堂」を再三訪れています。昭和14年9月27日、藤田文友宅に一泊し、翌朝新しいタオル一枚と弁当をもらって旅立つ時に詠んだのだこの句です。商家博物館「むろやの園」の奥庭には、山頭火直筆のこの句碑があります。

【高浜港】

山頭火は、昭和14年10月1日に広島県宇品から船に乗り、やがて松山市の高浜港に着きます。この時に詠んだのが、「ひよいと四国へ晴れきつてゐる」「秋晴れひよいと四国へ渡つて来た」の句です。伊予鉄高浜駅近くの県道沿いに、この句碑があります。山頭火は日本国中を放浪する身でしたが、同年12月15日、松山城北の御幸寺山麓に「一草庵」を得て、ようやく安住の地を得ます。翌15年10月11日、この安住の地で生涯を閉じます。享年59歳でした。

【伊予西条】

山頭火は四国遍路の途中、昭和14年10月13日に伊予西条の武丈公園に立ち寄り休息しました。その時、加茂川の清流をすくって味わい、「加茂川をうたう」として「はっきり見えて水底の秋」の句を詠んでいます。武丈公園に、この句碑があります。

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